「千代ちゃん、次はこれを、あちらのお客様に運んでくれるかい」
「承知しましたわ」

 店長に微笑んだ後、2つ並んだコーヒーカップを慎重に運ぶ。右にあるのが、カフェ・オレ。左が何もいれていないブラックコーヒーだ。生クリームが入った小瓶と一緒に、指定された席へ進む。

 店長には、出勤するなりすぐに伝えた。婚約が決まったため、あと1か月で辞めさせてほしいと。
 昨日聞いたばかりの立花家との婚約は、千代が望んだものではなかった。ましてや自分の父親よりも年上の男に嫁ぐなど、受け入れがたいことだった。正直言うと、逃げ出してしまいたい。でもだからこそ、先に退路を断ってしまおうと思ったのだ。
 両親には、朝、立花家との婚約を受け入れると言った。婚約までの1か月は働かせてほしいということも同時に。
 コーヒーサロンでの噂話も、好気的な目もうんざりだった。本当はすぐにでも辞めてしまいたいくらいだけれど、容易に仕事を投げだす人間だと思われたくなかった。

 指定された席の前についた。そこにいるのは、立て襟の白いシャツに袴を着込んだ書生服の青年と、薄紅梅の艶やかな着物を上品に着込んだ女性がいた。女性は短く切った髪を毛先でカールさせ、大きなバレッタをしている。最近大流行している耳隠しと言われる女性の髪型だ。男性からは反発が多いと聞くが。

「お待たせいたしました、こちらはカフェ・オレでございます」

 耳隠しの女性が白い指を胸元に掲げ、小さく挙手をした。彼女の前にカフェ・オレを置く。次にブラックコーヒーを、書生服の青年の前に置いた。

「ありがとう」
「注文はお揃いかしら?」
「美しいね、どこのご令嬢かな」

 一瞬、動きが止まった。千代に言われているのか、耳隠しの女性に言っているのかわからなかったからだ。少し考えて、目の前の女性に令嬢か、なんて聞くわけがないと思い直す。もう既に知り合いなのだから、一緒にコーヒーサロンに来ているのだろう。

「どうして、そんなことをお聞きになるのかしら」

 千代は笑みを浮かべて答えた。

「顔に塗っているのは白粉だろう。庶民には到底手に入るものじゃない。どうして、こんなところに?」
「社会勉強ですわ」

 書生服の青年と目線を合わせて、両の口角を弓なりに上げた。幼い頃から何度も何度も練習したこの笑顔で、大抵のことは解決できる。青年は、目の前にあるコーヒーカップに口づけた。薄く、血色の良い唇。顔全体をよく見ると、非常に整った顔立ちをしていた。
 鋭い切れ長の目、平行に引かれた二重の線。周りに縁取るまつ毛は長く、整えられた眉で凛々しさが増す。男性的でハンサムというよりも、女性的な美しさ。それでも青年だとわかるのは、座っていてもわかる背の高さと、声の低さからだろう。

「社会勉強。素晴らしい事だね。今は女性も働く時代さ。でも、その白粉はよくないな」
「白粉、ですか?」
「その香りや色は男を誘惑させるけれど、コーヒーの香りが削がれるんだよ。それに、鬢付け油も使っているかい?」
「ええ、少し」
「じゃあ、そっちの香りの方が強いのかな。どっちにしろ、あまり好ましいとは、僕は思わないけれど」

 初めて言われたことに、少しだけたじろぐ。毎日つけるものだから、香りなど気にしたことがなかった。
 でも、確かにコーヒーは香りが良く、それを嗜む方も多いと聞く。まさか自分が、その香りを削いでいるとは思わなかった。
 耳隠しの女性を見る。彼女は、白粉をつけていなかった。でも、艶やかできれいな肌をしている。白粉をつけた時のような真っ白い肌ではないが、内側から染み出るみずみずしさと、血色の良さがある。着物や仕草からすると、彼女もどこかの令嬢だとは思うが……白粉のない肌、巷で流行の耳隠し。普通の令嬢ではないのかもしれない。

「失礼、いたしました」
「そうだ、君。名前は?」
「千代です」

 身なりと言動からして、彼も華族か成金だろう。伊角の名前はあえて伏せておいた。

「美しい名前だね。じゃあ、千代さん。今日はこれから用事があるかい?」
「……ここで働きますわ」
「よしきた!」

 青年は目を見開き、鼻をぷっくりと膨らませた。目の前の女性に目配せしたあと「店長!この子を借りるよ!」と大きな声で叫ぶ。仕事がある、という千代の声は届かない。思わず2、3歩後ろに下がるも、気にも留めていない様子だった。女性は目を伏せたまま、残ったカフェ・オレを口に含んだ。その顔は、少し呆れたようにも見える。
 女性が目線を上げる。ぱっちりと音がするくらい、視線が合った。彼女は両の口角を弓なりに上げて、目を細めてみせた。美しい、と思った。
 令嬢の美しさというのは、白い肌と黒く長い髪だ。そうやって教育されてきたし、千代もそれに美しさを感じる。彼女はそれとは少し違う。でも、美しいと思った。
 書生服の青年が、千代の左手首を掴む。

「さあ、行こう。店長の許可は取ったよ。僕はここの店長に貸しがあってね、少しの融通は利くのさ。大丈夫、心配しないで」
「あの、困ります。私、そろそろ婚約するので……男性と一緒にいるところを見られたら、どんな噂が立つか」
「大丈夫さ、なにも二人っきりじゃない。静子もいるじゃないか。それにね、僕も婚約が決まっている。だから、下手な真似はしないよ」

 青年は目をいっぱいに細めて微笑んだ。平行二重の大きな目が、糸のように一直線になる。どこかで見覚えがあるような笑顔だ。その朗らかな笑顔は千代の警戒心をゆるゆるとほどいていく。ふぅ、と小さく息を吐き出した千代の肩を、静子と呼ばれた耳隠しの女性が優しく押した。

「大丈夫ですわ。茂さまを信じなさって。悪いようにはいたしません」
「あぁ、そうだ申し遅れた。すまないね。僕は茂。そして彼女は静子。僕のパートナーだよ。仕事上のね」
「私生活には一切関わりがありませんわ」
「そんなに言い切らなくてもいいじゃないか」

 二人は顔を見合わせて笑って、千代を表に出そうと動き出す。茂は千代の左手を、静子は千代の両肩を。押したり引いたり動きながら、ついに外へと引っ張り出した。
 頃合いを見たように、目の前に四輪自動車が停まる。

「これは……?」
「うちの車さ、さあ、これで行くよ」
「車になんて、乗ったこと」
「結構楽しいですわよ。さあ、乗って」

 茂と静子の手によって、後部座席に放り込まれる。初めて乗った四輪自動車は、新しい革の匂いがした。
――何が、始まるのかしら。
 怖かった。それと同時に、浮足立つような期待があった。あと1か月で千代の人生は一度終わる。そして、何も変化がない生活になるだろう。人生最後の、誰かからの贈り物かもしれない。千代は脈打つ心臓を押さえ、両肩で大きく息を吸い込んだ。