結局待ちきれずに迎えに向かった。
 雷鳴壺に近づくとなにやら楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 (ひさし)に座る数人の女官の姿が見えたが、ひとめで希々を見つけた。
 後ろ姿であっても、明るい若葉色の唐衣を流れる黒く艶やかな髪は目立っていた。

「あ、朝霧さま」
 振り向いた希々は、なにやら頬を赤く染めている。

「なにをしていたのだ」
「はい。裳ができたので皆様に見てもらっていたのでございます」

 広げてあるのは、十二単のうち腰に付ける裳である。

「ほぉ」

 満開の桜が花びらを散らし、蝶が舞う。背景は伸びやかな曲水。
 おおらかで実に美しい絵だった。

「これは布を貼っているのか」
 希々が恥ずかしそうに「はい」とうなずく。

 これをひとりで仕上げたのか?
 いつの間に。


 儀礼的な挨拶を済ませて雷鳴壺を後にした。

 希々の評判は上がるばかりだ。
 女だけならよいが。

「どうかなさいましたか?」
「別にどうもしない」
 ただ無性に、不愉快の虫が胸の中で騒ぐだけ。

「朝霧さまにも、衣をお作りしましょうか?」

 振り向くと、希々はにっこりと目を細めた。

「邸で過ごすようの涼しげな単がいいな」
「はい。わかりました」

 希々……。
 胸の奥が苦しくなる。
 その笑顔は毒だな。ちょっとやそっとじゃない、猛毒だ。

 いつからだろう、この毒にやられたのは……。

「そろそろ宮中勤めはお終いにするか。女官も戻り始めたし」
 こんなことを言う自分が嫌になる。

「えー、せっかく皆様と仲よくなれましたのにー」

 膨らんだ頬をつつくと、希々は息を吹きながら笑う。

「あ、そういえば今夜は満月ですね」
「ああ。たまには三条で月見でもするか。天気もいいからよく見えるだろう」

 目を丸くした希々は破顔する。
「うわ、うれしい。梅女も末吉も喜びますよ」

 牛車をそのまま三条に向かわせた。

 日は明るく月見にはまだ早いが、ときにはのんびりとするのもいい。
 三条に着くと、久しぶり琵琶を弾いて夕闇を待った。

 聞きながら希々が裁縫をはじめた。
「へぇ、上手なもんだな」

 琵琶を置いて希々の手もとを覗く。
「ああもう、恥ずかしいから見たらいけませんよ」
「いいではないか」
 いくらかよくなってきたが、荒れた指先である。
 貴族の姫だというのに……。

「朝霧さま、女五宮さまはおやさしくてとても素敵な方でいらっしゃいますよ」

 ぎろりと睨むと、希々はくすっと笑う。
「またそんなお顔をして」

「それはそうと、まさか恋文などもらっていないだろうな」
「え? 私がですか?」
 うっすらだが希々は頬を染めた。
 視線もわかりやすいほど泳いでいる。

「誰にもらったのだ。見せてみろ」
「で、でも」
「ほら、早く」
 逃げようとする希々を押さえこんだ。

「きゃはは、やめてくださいよ」
 ついでだからと「こうしてやる」と、くすぐっているうちに、体をひねった希々の白いうなじが目に止まった。

「朝霧さま、くすぐったいです」

 希々……。
「妻を娶って欲しいのか?」
「――朝霧、さま?」

 じっと見つめ合った。

 まぶたを閉じ、高鳴る己の気持ちを沈めてから、ゆっくりと希々の体を離した。

「希々、恋文などだめだからな」

 もごもごと口ごもりながら希々は小さく言った。
「では、見てください」
 懐からぱらぱらと小さく結ばれた文を出す。

「こんなにもらったのか?」
 開けて見てみると――。

「全部、朝霧さまへの文です。たまにはお読みになってお返事を書いてあげてください」

 今まで彦丸に言って適当に処分させていた。
 見たくもないときつく言ってあるから、彦丸と希々が対応していたのだろう。

「私はひとつももらっていないです。くれる方なんて、いるはずないじゃないですか」
 それは吾が許さぬと、脅しているからだが。
 しょんぼりとする希々を前にすると、ちくりと心が痛む。

「まあ、まあそう言うな。恋文など欲しくはあるまい?」
「欲しいですっ」

 あはは。
「よいではないか、ずっと――」
 ずっと吾の側にいろと言おうとして、妙に心が疼いた。

 三条での月見は、使用人も含め皆が一緒になって楽しんだ。
 歌い踊り、飲んで食べて。
 やがて希々とふたりになった。

「朝霧さま、まだお休みにならないのですか?」

 希々は酒に弱いようだ。
 舐めるようにしか飲んでいないのに、頬は赤いし目はとろんとして眠そうだ。

「希々、夜盗に立ち向かおうなんて、二度としてはいけないぞ」
「え、でも。女官が衣を剥がされていたのですよ?」

「そういうときは、まず走って武官を呼びに行け」
「放っておくのですか?」

「夜盗の狙いはほとんどが女たちの持ち物や衣類だ。命まで狙ってはこない」
「じゃあ、私が狙われたらどうするのですか?」

「裳ぬけの空という言葉とおり、衣を残して逃げろ。吾のところへな」

 言いながら胸が苦しくなる。
 希々が襲われるなど、あってはならない。想像するのも嫌だ。

「朝霧さまが守ってくださるのですか?」
「ああ、この前も最初に駆けつけただろう?」

「はいっ、とっても素敵でした。あっという間にやっつけて」

 かわいいやつめ。
「だから、自分で戦おうとなんかするんじゃない」
「はい」

「ただし、灰袋はこれまで通り衣に忍ばせておけよ?」
「え? ダメなのではないのですか?」

「逃げるために必要なときは遠慮なく叩きつけろ」
 矛盾している怒りながら頬を膨らませる希々をおいでと呼んだ。

「なんですか?」
「いいから来い」
「嫌です」

 捕まえてふざけて。
 抱き寄せて。

「希々、結婚なんてだめだぞ。お前はずっと吾だけの女房だ」

「そんな」と言ったきり希々は胸の中でうつむく。

 湧き上がるこの気持ちはまだ、言葉にはできない。今はただ側にいてくれさえすれば、それだけで……。

 抱きしめながら、ふと思い出した。
 希々の父は誰なのだ。

 手がかりは、希々の母が持っていた石帯だ。
『あなたの父君のものよ』と渡された形見だという。

 石帯は束帯を着たときに身につけ装飾品としての価値も高い。
 ときに家宝として扱われる。
 飾りに使われる石などの飾りからある程度の身分が推測できるが、希々が持っていた形見の石帯には、最高峰ともいえる白玉(はくぎょく)が使われている。
 持ち主だとすれば、間違いなく身分は高い。

 念のため東宮にも見てもらうか……。
◆恋焦がれて◇


「末吉、足はどう?」
「大丈夫です。ここに来てから皆がよくしてくれるんで、体がなまってしまいそうですわ」

「あはは、それはよかった」
「足の痛みを和らげる薬草までもらって、本当にありがたいことで」

「姫さま、頭中将さまはとてもいい方ですね。私、姫さまと一緒にずっとここにいたいです」
「うん。そうね、私もよ」

 でも、続くはずはないと、心のどこかで声がする。
 ここは私の家ではないから……。

「それにしてもあの女、不思議なほど静かですね。この前買い物のついでに五条の屋敷の前を通りましたが、ひっそりとしていました。庭は荒れ放題で」

 末吉も「てっきり押し掛けてくると思ったが」と首を傾げる。
 うなずきながら「強く出られない、なにか理由があるんだわ」と梅女が言った。

「それでも、黙って大人しくしているはずかないですよ。気をつけましょう」
「そうじゃ。あの強欲どもが、あの家を乗っ取っただけで満足するはずがない」

 ふたりの話を聞きながら五条の我が家を思った。

「萩は無事かしら」
 母が大切にしていた萩。雑草を取り、手入れをしていたのは私たちだ。

「それが背の高い雑草のせいで、よく見えなかったんですよ」

 多くは望まない。
 三人で穏やかに過ごせるなら、このままで十分だ。

 というよりはむしろ、幸せ過ぎるくらいで不安で仕方ない。
 いっそ、叔母がなにかしてくれた方がホッとする、そう思うのは私は不幸に慣れてしまっているからなのか……。


 次の日、その不安が形となって現れた。
 用事あって出かけるという朝霧さまに送ってもらい三条の邸に戻ったとき、右大臣家の家司(いえつかさ)さまが私に会いに来たのである。

「あの……それはどういう」

「二度と一条の屋敷には来ないようにという右大臣さまからの命令である」

 あ、やっぱり……。
 右大臣家の家司が、わざわざ来るからにはいい話ではないと思った。
 だから驚きはしなかった。
 でも、悲しさは抑えられない。こみ上げる思いに喉が締めつけられる。

「ついては、身を隠してほしい」
「え?」

「空気がきれいな須磨あたりはどうだ? 田舎でのんびりしたいのであろう? これは今まで働いた分の俸禄じゃ」
 家司さまが床に置き、中身が見えるように差し出した袋からキラリと輝く砂金が見えた。

「これだけあれば、困らぬであろう」

 では、朝霧さまにはもう――。

「希々。そなたはよく働いてくれた。残念だが、わかってくれ」

「家司さま……」
 普段厳しい家司さまが、心苦しそうに眉尻を下げている。

「朝霧さまは藤原家にとって必要な方なのだ。そなたを辞めさせない限り朝霧さまは一条の屋敷から出て行かねばならない」
「えっ、朝霧さまが?」

「ああ。他にも男君はいらっしゃるのでな」

 確か朝霧さまには弟君がいると聞いた。
「まさか」

 家司さまは考えている通りだとばかりにうなずく。

「とりあえず嵯峨野に向かうといい。親しい住職に使いを出してあるから」

 がっくりと肩を落としていると、後ろから梅女が「ですが」と声をあげた。
「姫さまは真面目にお仕えしているだけですのに」

「わかっておる。希々が悪いわけではない。仕方がないのだ」

 さらになにか言いかけた梅女の肩に手をかけた。
「いいのよ梅女。仕方がないわ。誰が悪いわけでもないのよ」

 ただ、行くにしても今日というわけにはいかない。それだけは。
「家司さま、準備を整える間数日だけ待っていただけますか? 朝霧さまには秘密にしますから」

「ああ、わかったよ」

 そして、次の日。
 ちょうど髪を洗う予定の日だった。朝霧さまにも伝えてある。
 女の長い髪は完全に乾くのに数日かかるので、前もって洗う日は決めておくのだ。

 でも私は予定を変更して密かに宮中に向かった。

 雷鳴壺は朝霧さまと直接繋がりがないから、いなくなると話をしても大丈夫なはず。

 どうしても挨拶だけはしたかった。
 女五宮さまにも女官の方々にも、とてもよくしてもらったから、せめて。

 さっそく女官をつかまえた。
「少し用事ができて、しばらく来られなくなったのです。今日はご挨拶に」

「そうなのか? それは残念じゃ」

「お借りしていた冊子、ありがとうございました。それとこれは皆さんに」
「おお、これはまた見事な紐じゃな」

 裁縫で生活していた癖が抜けきらず、暇を見つけてはこつこつと作り貯めていたのだ。こんなふうに役に立つとは思わなかったけれど、せめてものお礼ができて良かった。

 名残惜しさを振り切って、早々に腰を上げた。
 今日中に旅の準備をして明日の夜明けとともに出掛けなければいけない。

「では」
「もう行くのか」

「はい。準備があるので」
「そうか。希々、すまぬが帰りがけに、これを清涼殿に届けてくれぬか」

 一瞬どきりとした。

 普段なら清涼殿には朝霧さまがいるかもしれない時間だ。
 かと言って、断るわけにもいかない。

「はい。わかりました」

 もし会ってしまったときは、忘れ物を取りに来たとでも言おうか。
 急ぎ足であれこれ考えながら清涼殿に行き、無事に届け物を渡した後だった。

「希々?」

 後ろから声がした。

 気のせい気のせいと自分に言い聞かせながら、さらに足を急がせる。

「希々ー、待って」

 今度は女性の声で、振り返ると女官が呼びながら裾を翻して走ってくる。

 あー、ど、どうしよう。

 さすがに無視はできず立ち止まった。

「辞めちゃうんですって?」
「あ、ええ……」

「これ、希々にあげるわ。好きだったでしょう、この冊子」
「いいんですか?」