◆下屋の姫◇
「きゃ」
すれ違いざまに、牛車の車輪から泥が跳ねた。
市女笠の垂れ布と衣にべったりと付いた泥を見て愕然とする。
「ああ、姫さままで」
隣の梅女を見れば、私以上に泥水を被っている。背中に背負った荷物が無事なのが幸いだけれど、ふたりとも一張羅を着てきたのに。
キッと牛車を睨んだが、牛飼いは素知らぬ素振りで通り過ぎようとする。
「ちょっと待ちなさいよ」と、すかさず前に躍り出た。
「ひ、姫君」
梅女は止めようとするが黙ってはいられない。
「見逃せないわ。ちゃんと謝ってもらわなきゃ」
牛飼いは少しも悪いと思っていないようだ。
「ボーッと歩いている方が悪いんだ。水たまりがあるのくらいわかっただろう」
もうひとりの牛飼いがバカにしたように笑う。
「ははっ。大丈夫だ。泥がよく似合っているさ」
「なんですって!」
いつの間にか人だかりができていて「負けるな、ねえちゃん」と声援が飛んできた。
「お詫びもできないなんて、どこの貴族よ」
お忍びなのか、牛車には家柄を示す紋がない。
そのまま行く手を塞いでいると、後ろから馬で付いてきていた従者が降りてきた。
「謝ってください」
従者はどうしたものかと悩んだらしい。
腕を組み、大きくため息をつく。
すると、「彦丸」と声がした。
「なにがあった」
牛車の物見窓が開いて、中の人の目もとが見えた。
彦丸とは従者の名前らしい。
慌てて「車輪が水たまりに……」と説明するが、どうやら彦丸は悪いとは思っているようで、口ごもっている。
中の主人が「もうし」と、声を張り上げた。
「どちらにお住まいか、送りましょう。乗ってください」
「え?」
驚いたのは私だけじゃない。
ギョッとしたように目を剥いた彦丸が「ですが」と反論しかけたところを、主人の声が「よい」遮った。
本気なの?
「さあ、どうぞ」
「いいえ結構です。謝ってさえいただければ腹の虫が治まりますし」
中からくすくすと楽しそうな笑い声がする。
「それでは中で謝ろう。彦丸、早く乗ってもらいなさい」
でも、こんなに泥がついた衣で入ったら牛車の中が汚れてしまう。さすがにそれは申し訳ないと思う。
彦丸もまじまじと私を見ては、眉間にしわを寄せるが、当然だ。
だが彼は主人の命には忠実らしく、乗り口に台を置いた。
「どうぞ」と、私を促してくる。
「さあ、お乗りください」
「はい……。では」
梅女も一緒にと誘ったけれど、使用人の身だからと固辞する。「私は邸までの案内をしますから」と言われれば致し方なく、牛車には私だけが乗った。
「失礼いたします」
一応頭を下げて中を見れば、公達がひとり座っていた。
「どうぞどうぞ」
市女笠を外し、扇の代わりにして口元を隠しながら入る。
あらためて公達を見ると、大層美しい人だった。
きりりとした眉に涼やかな目もと。ゆったりと構えた姿といい、なかなかの美丈夫ぶりである。
噂好きな京の人々が放っておくはずがない。名前を聞けばきっと有名人だろう。
いったい誰なのか。
「もうしわけない。見事に被りましたね」
まじまじと私の衣を見て公達は「あはは」と笑う。
笑い事ではないのに、失礼な人だ。
「酷い目に遭いました。私の一張羅ですのに」
「ほぉ」
そんな粗末な衣が? とでも思っているのだろう。
私と違って、彼は金糸で刺繍を施された眩いばかりの見事な狩衣を着ている。
「物は大切にする質なのです」と、ツンと横を向いた。
「そなた。どちらの姫君か?」
先に名乗れよと言いたいが、どうせ太刀打ちできない上流貴族だとわかるので、あえて聞くのをやめた。
「五条の萩におります。希々と申します」
公達は小さく頷いた。
「ほぉ……。五条の萩の」
我が家の庭には萩が多く植えてあるので人々に五条の萩屋敷と言われていた。
誰の娘と名乗れないにはわけがある。
母は佐伯式部の娘であるが、私の父の名はわからない。
父も貴族であったらしいので私も一応貴族ではあるはずだが最下級に違いなく、ついでにいえば五条の萩と呼ばれている理由も、築地塀があちこち崩れていて隙間から庭が見えるからである。
普通であれば通りから低木の萩が見えたりしない。どんなにたくさん植えてあっても、人の口にのぼりはしないのだ。
要するに侮蔑を込めての〝五条の萩〟である。
公達も内心、あの貧乏邸の姫かと後悔しているだろう。
今さら降りろと言っても遅いわよ。悪いのはこの牛車とバカにしたあなたの牛飼いなんだからと開き直った。
でも、彼は首を傾げただけだった。
「希々姫、今日はどちらにお出掛けであったのだ?」
「東市です」
「牛車も使わずにか?」
瞳に蔑んだ色がないところをみると、どうやらバカにしているわけではなく、ただ疑問に思っているらしい。
「我が家には、牛車がないからでございますよ?」
ほかにどんな理由があるのかむしろ聞きたいが、彼は「そうなのか」と納得したようだ。
「して、今日は何を買いに?」
「買いにではなく、売りに行ったのです」
「ほぉ、なにを売りに?」
興味津々とばかり身を乗り出して聞いてくる。
貧乏貴族の生態でも知りたいのだろうか。
「仕立てた衣を売り、油と叔母の衣とだんごを買いました。だんごは私のお腹の中です」
言うだけ言って眉間をひそめると、公達は顎を上げて「あはは」と笑う。
「すまぬすまぬ」と口では言うが、ちっともすまなそうじゃない。
本当に失礼な人である。
「内職とは大変だな」
「はい。働かねば食べていかれませんので」
うむ、と公達はうなずく。
「ところで、叔母とは?」
「母が三年前に亡くなりまして、今は叔母一家と暮らしております」
「ん? だがそなたの家なのだろう?」
「はい。ですが私が子どもだったので、心配して移り住んでくれたのです」
「そうか……」
なにを思うのか、公達は扇をぴたぴたと頬にあてながら考え込む。
ジッと見ていると、ふと顔を上げた。
「希々姫よ、うちで働かぬか?」
ん?
「実はちょうど女房を捜しているのだ」
女房とは女性の使用人だ。
上流貴族の家ともなると身の回りの世話をする女房は、既婚未婚を問わず身元のはっきりした貴族の女性がなる。
「私は頭中将、父は右大臣で屋敷は一条にある」
突然、公達は名乗った。
「えっ」と思わず声が漏れる。
宮中や貴族社会に縁遠い私でも知っている。
右大臣は左大臣と並び権力を二分する名門貴族だし、その家門の御曹司で頭中将といえば、今を時めく出世頭だ。
偉ぶるわけでもなく飄々としている様子からは、にわかに信じがたいけれど、身なりを見れば納得するしかない。
この人は本来なら話をする機会など一生ないはずの、超がつく大物である。
そんな人の女房?
「手当は弾むぞ? 宮中の上級女官並みに出してやろう」
うっ……。