起きると雨が降っていて、窓ガラスをパツパツと叩いている。
雨の影響か、部屋の空気がひんやりとしている。
「雨…か…」
起き上がる気力もなかったため、枕もとのスマホの時間を確認してからもう一度目を閉じる。
「かいくんっ、かいくんっ!見つけられるよっ!」
くうの声が頭の中に響く。
くうは目の前にいるが、姿がとてもぼんやりとしていてうまく見えない。
「見つけられるって、なにを!?」
くうがにっこりと笑って溶けるように消えてゆく。
「くう!くう!」
目を覚ました。
寝ていたわずかな時間の間に夢を見ていたようだ。
なんとなく窓の方へ目を向けると、さっきよりも雨は強くなっており、外に出る気なんて起きるはずもなかった。
今回見た夢はいつもより、声がはっきりとしていて、近くで言われているような感覚だった。
「なにを見つけられるんだろう…海…かな…」
この時のぼくは、雨で気分が落ちていたのもあり、くうに申し訳ないが海を探すのをあきらめかけていた。
喉の渇きを感じて、水を飲もうとリビングに降りていくと、母親がタンスの中の段ボール箱を整理していた。
「なんで急にそんな整理しはじめたの」
コップに水を注ぎながらなんとなく聞いた。
母は、段ボールの中をゴソゴソとあさりながら答えた。
「いやぁ、なんとなくねぇ」
「ふーん」
コップに注いだ水を一気に飲み干し、自室に戻ろうとしたとき、母が何かを見つけたのか声を出した。
「うわぁ、これなつかしいねぇ」
母は、一枚のDVDを手に持っていた。
「なにそれ」
ぼくの質問に、母はケースを軽くなでながら答えた。
「これは、たぶん七年前に、かいがよく遊んでもらってたそらちゃんと海に行った時の映像だね」
母にこういわれたとき、なんとなく返事したが、そらという名前を聞いた途端少し体がぞわっとするのを感じた。
「ふーん…そら…ちゃん…?」
「そうよ、そらちゃん。覚えてない?まぁ、七年も前のことじゃあ覚えてないかもね」
そらという名前には聞き覚えがあった。
最近夢でよく耳にするのだ。
「そらちゃんて…」
「うん?そらちゃんがどうしたの?」
母は不思議そうに聞き返す。
「そらちゃんて…どんな…」
そらという子の顔が見たかった。
顔を見れば、なにかぼくが忘れている重要なことを思い出せるようなそんな気がした。
「どんなっていわれてもねぇ…あっ、このビデオの中に顔写ってるんじゃないかな?」
母はそういうと、DVDをセットしてテレビの電源ボタンを押した。
ぼくは、もっていたコップを机におき、テレビに近づく。
ビデオが再生されると、初めに地面の砂浜がアップで映された。
一定のリズムで、波の音が聞こえる。
しばらくすると、母ともう一人の女性の声が聞こえてくる。
『これで、撮れてるかな?』
母の声だ。
『大野さん、これじゃ地面しか映ってないよ』
もう一人の女性が笑いながら言う。
ぼくはこの女性の声にも聞き覚えがあった。
それも、昔にではなく、最近に聞いた覚えが。
「この声…」
ぼくがボソッというと、母が少し驚いた様子で返した。
「かい、覚えてるの?」
「いや、覚えてるというか…聞き覚えがあるだけ」
「これは、そらちゃんのお母さんの声だよ」
そらの母親だと聞いて、最近この女性には会ってないことから、聞いた覚えがあるのはぼくの気のせいだろうと思うことにした。
テレビから声が聞こえる。
まだ砂浜が映ったままだ。
『かいー、あんまり遠く行っちゃだめよー。そらちゃんも、かいをよろしくねぇ』
言い終わってから、カメラが動いて前方にいる、ぼくとそらという子が映し出された。
ぼくはまだ小さく、少し前を歩くそらという子の後を追っていた。
母がテレビの画面を指さした。
「ほら、これがそらちゃんだよ。んー、あんまり顔がみえないねぇ」
ずっと後ろ姿が映されていて、顔は全く見えなかった。
角度のせいか、いまだに海がうまく映っていない。
母の声が流れる。
『ほんとに、かいとたくさん遊んでくれて、そらちゃんにはお礼しないとねぇ』
そらの母親の声が返す。
『いやいや、いいのよぉ、そらだってかいくんのこと弟みたいにかわいがってるんだから。あ、大野さんこれだとうまく海が映ってないね』
『あ、ほんとだ』
なかなかカメラの扱いがうまくいかないのか、二人で笑っている。
今ぼくの横に座っている母も、テレビを見ながらクスクスと笑っていた。
『よいしょ』
母親の声が流れたと同時に、カメラの角度が変わり、海の全貌が映し出された。
日の光を反射し、キラキラと美しく光る海が目に入った途端、ぼくは呼吸を止めた。
そこに映し出された海は、ぼくとくうが、ずっと探し求めていた写真に写っていた海に間違いなかった。
砂浜も。海の透明さも。美しく伸びる水平線も。
ぼくの探していた海そのものだった。
ぼくは少し震える足を進めながら、テレビに近づいた。
「ここだ…間違いない…この海だ…」
母が心配そうに顔を見てきた。
「かい?どうしたの?」
「ここ…この海…!ここ、どこ!?」
母はぼくの突然の声に驚いていた。
「え、どこって?」
「この海!どこの海!?」
母はぼくの聞きたいことを理解したのか、少し考えるそぶりをした。
「急にそんなこと聞かれてもねぇ…もう七年も前のことだから…」
母は、頭をすこしコンコンと叩いている。
すると、顔を上げて口を開いた。
「あっ、そうだ思い出したっ、神栖!」
神栖という地名にはぼくは聞き馴染みがなかったが、探していた海の場所が判明したことによる興奮で体が震えていた。
「神栖…神栖…!」
ぼくは急に立ちあがり、自室へ走った。
「え、かい?急にどうしたのよ!」
母の声はぼくの耳には届かなかった。
いち早く、海の確認をしたかった。
自室に戻り、すぐにPCを開き電源を入れる。
『神栖 海』と検索をかけるといくつかの画像が出てきた。
画像を見て、ぼくは震えた。
「ここだ…間違いない…!」
胸が驚くほど高鳴った。
外は相変わらず雨が降り続いているが、くうにいち早く伝えなければと思い、図書館に行く準備を始めた。
玄関に行くと、後ろから母の声がした。
「どこか行くの?」
「うん」
軽く返答だけして、ドアをあけた。
冷たい風が吹き込んできた。
雨粒も顔に掛かる。
傘立てからビニール傘を一本取り出し、ドアを閉めた。
雨の影響か、周りにあまり人は見られず車がいつもよりも多く感じた。
息を切らせながら、小走りで図書館へと向かっていく。
靴下は、すぐにびしょぬれになったが気にしないようにした。
図書館に到着したが、周辺にはやはりくうの姿はどこにもなかった。
「なんで…なんでこんな時に限って雨なんだ…」
今すぐに神栖の海に一人で向かうことも考えたが、やはりくうと二人でいかないと駄目だと思った。
図書館の窓にも目を向けたが、中にもくうの姿はない。
「くう…海…みつけたよ…」
雨空を見上げる。
今日雨の日だしくうに会うことは叶わないと思い、明日晴れることを願うことにした。
もと来た道を歩いていく。
雨は弱くなることはなく、どんどん強くなっている気がした。
家に着いた頃には、靴だけでなく、服まで少し濡れていた。
靴下を脱ぎ、そのままシャワーを浴びた。
ベットに寝転がりながら、スマホで神栖の海を眺める。
目的の海がわかっても、海に行けばぼくが何を思い出すのか。何を感じるかまでは分からなかった。
天気予報は見る気になれず、スマホを枕もとに置き部屋の電気を消した。
あした、くうに海のことを報告し、海へ行く。
そんな想像をしながら目を閉じた。
「頼むから…明日は晴れてくれよ…」
窓ガラスにはいまだに雨が打ち付けている。
目を開けたくなかった。
目を開けなくても、窓ガラスをたたく雨音ははっきりと聞こえていた。
それも、昨日よりも音は大きく、強い。
ゆっくりと目を開き、窓へ目をやるとやはり昨日よりも雨は強くなっており多くの雨粒が付いていた。
昨日やっと海の場所が判明したのに、くうに報告できるのはまた後日になる。
おでこに手を置き、溜息をついたとき、お腹がぐぅと鳴った。
そういえば、昨日はろくに食事もしないでいた。
お腹の音で自分の空腹を認識し、なにか少しでも食べようとリビングへと降りて行った。
リビングに行くと、母親がソファに座ってテレビを見ていた。
「あら、かいどうしたの」
首をこちらに向けながら言ってきた。
「いや、ちょっとお腹が空いたなって」
そういうと母は冷蔵庫を指さした。
「冷蔵庫の中に、ご飯がタッパーに入ってるからそれチンして食べな」
「うん」
冷蔵庫を開いて、青い蓋のタッパーを取り出した。
レンジに入れて、一分にセットする。
温まるのを座って待っていると、母が話しかけてきた。
「かい、昨日はどうしたの?神栖って言った途端急いで部屋に戻ったりして」
「あ、いや、別に何でもないよ」
「ふーん、そう」
レンジの終了の音が鳴る。
中からタッパーを取り出し、ご飯を茶碗に移した。
「いただきます」
ご飯を食べ始めると、母がまた声をかけてくる。
「あ、かい、今日青井さんの家に行くけどかいも一緒に行く?」
雨が降っていて、くうにも会えないし特に用事はなかったし、青井さんという名前にはピンとこなかったため、なんとなく断ることにした。
「いや、いいや。青井さんて知らない人だと思うし」
そういうと、母は手を「違う違う」というようにした。
「かい、青井さんはそらちゃんのお母さんのことだよ?ほら、昨日のビデオの」
「え」
そらという名前を聞いて箸をとめた。
「そら…ていう人のお母さん?」
「そうだよ、最近また会ったりしてるの」
色々と考えたが、今日青井さんの家へ行けば自分の中にある、そらという人物の正体がなにか分かると思った。
「じゃ、じゃあやっぱり行く」
「あら、じゃあご飯食べ終わったら準備してね」
「うん」
残りのご飯を口にかき込み、茶碗をシンクに置いた。
自室に戻ると着替えをした。
洗面台へ向かい、歯を磨く。
準備を終えると、母もすでに準備が済んでいたみたいだった。
「準備できたよ」
「はい、じゃあいこうか」
母は自分の傘を、ぼくは適当に昨日と同じビニール傘を手に取った。
「うわぁ、すごい雨だね」
「そうだね」
風も強く、雨は横殴りのような状態で降っていた。
ふと思ったが、母とこうして一緒に外出するのはいつぶりだろうか。
「青井さんの家ってどこら辺にあるの?」
少し飛ばされそうな傘を抑えながら、母に聞く」
「すぐ近くよ、もうすぐつくから」
しばらく歩くと、母が足を止めた。
「ほら、ついたよ」
そこは家から、図書館よりも少し近い場所にあった。
母が、扉に近づきインターホンを押す。
すぐに声がした。
「はーい」
「あ、青井さん、大野です」
「あぁ!大野さん、すぐ開けますね」
ガチャっと切れるとすぐに扉が開き、四十代くらいの女性が出てきた。
「いらっしゃい、あらかいくんも!ほら入って入って」
こっちこっちというふうに手招きしている。
「おじゃまします」
母と、一緒に中に入っていった。
玄関に入ると、なにか料理でもしていたのか良い臭いがした。
「ささ、あがってあがって」
廊下を通り、扉を開けリビングにはいる。
リビングは広々としていて、部屋の奥には大きな仏壇が置いてあり遺影がふたつおかれていたが、顔はあまり見えなかった。
「いまお茶出すから、くつろいでてっ」
青井さんはそう言ってコップを三つ用意した。
母と、椅子に並んで座った。
しばらくして、青井さんが湯気がたつ温かいお茶をぼくと母の前においてくれた。
「わざわざありがとうございます」
「ありがとうございます」
青井さんも自分の分のお茶をテーブルに置き、母の前の椅子に腰かけた。
「いやいや、こちらこそこんな雨の日にわざわざありがとねぇ」
「いえいえ、家からも大して遠くないから大丈夫ですよ」
「ならいいんだけどねぇ」
そういうと青井さんはぼくの方を見た。
「それにしてもかいくん久しぶりねぇ!何年ぶりかしら」
「あ、どうも…」
久しぶりに会ったようだが、ぼくはあまり覚えていなかったので少し声が小さくなってしまった。
「青井さんがかいと会うのは七年ぶりとかだと思いますよ」
横から母親が言う。
「あら、もうそんなに経つのねぇ。かいくんすっかり大きくなっちゃってねぇ」
ぼくの方へ優しく微笑みながら言った。
「まだまだ子供ですけどねっ」
母はぼくをからかうように笑った。
「もう十九なんだけど」
「そっかぁ、かいくんもう十九歳なんだねぇ」
この時、青井さんは少し悲しげな表情を浮かべたがぼくは特に反応しなかった。
この後は、母と青井さんが世間話にはなをさかせていた。
外を見ると、雨で天気が悪かったのも相まって暗くなってきているように見える。
「あ、青井さんそういえば」
母が、新しい話題を青井さんに持ち掛けた。
「どうしたの?」
「昨日、家の物置から神栖の海に行った時のビデオが出てきたんですよっ」
ずっとぼうっとしていたぼくも、母のこの言葉には反応して顔をあげた。
「神栖…なつかしいねぇ、あのときはかいくんも小さくてねぇ」
青井さんがふふっと笑った。
「かいなんて、ずっとそらちゃんにべったりでしたからねぇ」
母もくすくすと笑っている。
母と青井さんは笑い終えて、ふぅと一息ついた。
「かいくんが十九歳じゃあ、そらはかいくんに歳ぬかれちゃったねぇ…」
「…え…?」
それは青井さんにとっては何気ない発言だったのかもしれないが、ぼくにとっては驚愕の一言で、不意に声を出してしまった。
「え…ぼくがそらちゃんの歳を…ぬかしたって…どーゆー…」
ぼくがそういうと、青井さんはきょとんとしていた。
母の方をみると、すこし暗い顔でうつむいている。
青井さんは黙っていたが、ぼくと母の顔色をみるとなにかを察したのか、席を立ち横の部屋に入っていった。
「え…?」
ぼくはまったく状況が理解できてなかった。
母は何も言わない。
しばらくすると、青井さんがなにかを持って戻ってきて、席についた。
「かいくん、これ」
青井さんが差し出したのは写真たてだった。
なかには写真が一枚。
写真を見たとたん、ぼくは目を見開き頭は真っ白になった。
写真には、海を背景に映る幼いころの自分と、満面の笑みでにっこりと笑っている
くうの姿があった。
なにも理解できなかった。
なにも。
なんで。なんで。なんで。
「なんで…」
写真たてをもち、写真をみたまま立ちすくんでいるぼくを母と青井さんが不思議そうにみている。
「かいくん…どうしたの…?」
「なんで…なんで…なんでくうが…」
体の震えが止まらなかった。
「かい、どうしたの?」
このときに、不思議そうにしていた青井さんが目を見開いていた。
母は、いまだに不思議そうにぼくを見ている。
「くうは…?」
「かい?くうってだれ?」
母が聞く。
「くうは…この子は今どこに!?」
ぼくはあることを思い出し、写真たてをおいて、仏壇の前にいき写真をみた。
写真をみるまでは、そんなことはないと信じていた。
そんなわけはない。
まさか、そんなわけが…。
仏壇には、優しそうな男性の写真があり、その隣にもうひとつ遺影がある。
視界にいれるのがこわかった。
少しずつ目線をずらして遺影をみる。
そこにはいつもぼくに向けていた愛らしい笑顔のくうがいた。
「あ…あ…なんで…なんでぇ…」
涙がでてきた。
くうの声を思い出す。
『図書館の前で待ってるねっ』
ぼくは立ち上がり、玄関へ走り出した。
母はもちろん驚いている。
「え!?かいどこいくの!?かい!」
だけどもそんなことはどうだってよかった。
青井さんはなぜか冷静でいて、母を止めている。
「大野さん、大丈夫」
「青井さん…でも…」
青井さんは優しく笑う。
ぼくは青井さんの家を飛び出した。
雨はものすごい強さだったがそんなことは気にならなった。
図書館に向かって全力で走り出した。
くう…くう…。
まだ状況は理解できていなかった。
なぜくうが遺影に映っているのか。
そらという少女は、くうと同一人物ということなのか。
なにかの間違いじゃないのか。
不思議なくらい涙がでてきた。
雨でとっくに靴も服もびしょぬれだが、必死に走った。
いつもならわざわざ避けて通る水たまりも踏んで走った。
いつもなら図書館には歩いてもあっという間につくのに、今日はなぜか走っているのに遠く感じる。
もう一度くうに会わないといけないと直感的に感じた。
そこの角を曲がれば、図書館が。
「なんで雨なんだ…なんで…なんでだよ…」
大事な時に限って雨が降る。ぼくのことを邪魔するかのように。くうとの間に壁を作るみたいに。
図書館の前には誰もいなかった。
ハアハアと息を切らせながら立ちすくむ。
雨の日にくうがいないことは今までも同じだったが、今日は少し違う気がする。
もう、くうには会えないのではと心のどこかで思い始めていた。
ゆっくりと歩き出し図書館へと入っていく。
すれ違った人は全身ぐっしょりと濡れたぼくを見て嫌な顔をしていた。
中に入ると、数人から見られたが気にならない。
ぐっしょりと濡れたぼくをみて、いつもとは違う司書の方が近寄ってきた。
「あの…お客様…その状態ですと…」
ぼくはすいませんと小声でつぶやき、いつもの席に向かう。
あれをみればなにか分かるかもしれない。
司書の方はぼくについてきて、お客様…と言っている。
本棚へ目を向け、上から徐々に視点を落としていく。
お願いだ、あってくれ。と願いながら。
やはり"思い出の海"はどこにも見当たらなかった。
司書の人ならなにか分かるかもと思い、ぼくを心配そうに見ている司書の女性に尋ねてみた。
「すいません…」
突然ぼくが口を開いて司書の女性は驚いていた。
「は…はい…」
「ここに…ここの本棚に…"思い出の海"という写真集のようなものがあったと思うんですけど…いまどこにあるか分かりますか」
司書の女性は少し固まっていたが、慌てて返事をした。
「あ…はい!"思い出の海"という本ですね!ただいまお調べいたしますので少々お待ちください!」
司書はぺこりと一礼すると、急いでカウンターの方へ行った。
"思い出の海"を見ても何も分からないのかもしれないが、とにかく見たかった。
くうと出会ったきっかけの本だから。
しばらくすると司書は戻ってきた。
「お待たせしました…」
すこし顔がうつむいている。
「あの…"思い出の海"という本ですが…こちらの方でお調べしたところ、そのようなタイトルの書籍は…こちらの図書館では扱っておりませんでした…」
司書の言っていることが理解できなかった。
ここに無いわけがないのだ。
ぼくは間違いなくその本でくうと出会い、くうと海を探しに行った。
くうがみていた分と、ぼくの読んでいた分、二冊以上はあるはずなんだ。
「そんなわけない…"思い出の海"ってもう一度調べてください!あるはずです!」
司書は困り果てている。
「タイトルの間違えなどはございませんか…」
「間違っているはずは!…そんなわけ…」
もうなにも分からなくなってしまった。
ここにいても何も分からないと思い、諦めて出口にむかっていった。
司書はぐしょぬれのままのぼくを心配そうに見ている。
図書館をでても、雨は先ほどと変わらず降り続いている。
家の方へ、とぼとぼと歩き始める。
すれ違う人は、傘もささずうつむきながら歩くぼくを不思議そうに見つめながら通り過ぎていく。
青井さんの家の遺影にはそらという女性ではなくくうが写っていて、くうと出会うきっかけの"思い出の海"は存在していないと告げられ。
今までぼくがした、くうに関わることはすべてなんなのか。
夢か、妄想か。
「あぁ…どうなってるんだよ……」
涙が止まらなかった。
なにも信じられなくなりそうだった。
もうほんとうにくうには会えないのかもしれない。
それとも、そもそもぼくは初めからくうとあっていなかったのかもしれない。
今までのくうの言動が頭に蘇る。
『かいくんっ!』
『はやくはやくっ!』
『きみと水平線を歩けたらな…』
「くう…どこにいるんだよ…」
薄暗い空を見上げていった時に寒気と悪寒がしてきて、膝から崩れ落ちた。
「くう…くう…どこに…」
ぼくの大粒の涙は、すべて雨に紛れていく。
だんだんと意識が薄れていく。冷たい地面を皮膚に直に感じ体の震えが止まらなくなってくる。
「おい!なにしてんだ!大丈夫かよ!かい!」
だれだか分からなかったが、どこかで聞いた声だった。
「かい!かい!」
雨の降りしきる夜、くうと手を繋いで浜辺に立っていた。
しばらくすると、くうがスッと繋いでいた手を放していき、海に向かってゆっくりと歩いていく。
「くう!どこいくんだよ!くう!」
くうはぼくのことなど気に留めずどんどん海へ入っていく。
「え、ちょっと!くう!まってよ!くう!」
海に消えていくくうを追いかけてぼくも海へと入っていく。
くう!くう!くう!
くう!!
「あ…」
そこはぼくの部屋だった。
横には母が座っている。
窓の外をみると、昨日の悪天候が嘘かのように太陽が顔を出していた。
体は燃えるように熱く、頭痛もひどい。
「かい、起きたのね…」
おでこには水で濡らして絞ったタオルが乗せられている。
「え…お母さん…なんで…」
昨日、図書館から家に向かって歩いている途中からなにも覚えていなかった。
「昨日、かいが道で倒れてたとこを、中井君が見つけてここまで運んでくれたんだよ」
「え…中井君が…」
「そうよ、今度お礼しなさいね」
母は、ぼくの額のタオルをとり、新しいのを乗せる。
「かい、昨日どうしたの」
「昨日…図書館にいって…」
この時ふと、くうとの約束を思い出した。
『次の晴れた日にっ』
晴れた日には、図書館でくうがぼくを待っている。
「あ…くうが…待ってる…」
ずっしりと重い体を起こしベッドを出ようとする。
「かい、どうしたの」
「図書館に…いかないと…!」
母はぼくの肩を持ち、体をおさえる。
「なにいってるのよ、あなた今ひどい熱なんだよ?」
ぼくの体調はどうでもいい。
ただくうに会いに行きたかった。
「かい、今日はやめなさい」
「いかなきゃなんだよ…いかないと…」
だるい体に力を入いれて起き上がろうとすると、母の抑える力も少し強まる。
ぼくは必死に肩をつかむ母の手を振り払おうとする。
「だめなんだ…図書館にいかないと…約束が…!くうが待ってる…!」
「かい!だめ!」
「くうが…くうが待ってるんだ…!」
だんだんと涙が溢れ出てくる。
「お母さん…どいてよ…くうが…くうがぼくを待ってるんだよ…!」
しかし、母は力を弱めず、ぼくの顔をしっかりと見ている。
「お母さん…いかないとだめなんだよ…どいてよ…」
「だめよ」
「なんで…」
母はすこし黙ってから言った。
「かい。そのくうちゃんて子が私にはだれか分からないけど、あなたが今こんな状態で会いに行っても、その子はうれしくないと思うよ」
母はまじめな表情だった。
「でも…でも…」
母は表情を変えない。
「かい。しっかり休んで、ちゃんと体調直してからまた会ってあげなさい」
体の力が抜けた。
ぼくはベットにパタンと寝転んだ。
「お母さん…」
「どうしたの?」
現実を知るのはとてもとても怖かったが、このままの状態をほったらかしておくのが一番嫌だった。
「くうは…そらちゃんは…」
母はそう言われた途端に、あからさまに変化し暗い顔をした。
「ほんとに…ほんとにごめんね…かいには言ってなかったんだけど、そらちゃんは…そらちゃんは七年前に亡くなったの…」
認めたくなかったことは、現実だった。
名前が、そらではなく、くうと名乗っていた理由は定かではないが、くうはこの世にはいない。
体の力が抜けていくのを感じる。
「なんで…なんでそらちゃんは…」
ぼくの想像では、何らかの事故か、病気か。
それとも。
「そらちゃんは…。ん…」
母は、死因を伝えるのをためらっていた。
ぼくは静かに返答を待った。
「そらちゃんは…自分で…じ…自殺を…」
一瞬、言葉が出なかった。
あんなにも明るい姿をみせていたくうは、たくさん笑っていたくうは自分で命を絶ったのだ。
誰かの手によるものではなく、くうが自分で。自分自身で。
「そらちゃん…学校でいじめを受けていたみたい…」
ショックを通り越して、怒りを覚えた。
なぜ。なぜあのくうが、そらちゃんがいじめられなければならなかったのか。
しかし、それ以上にそらちゃんという、ぼくにとってかけがえのない存在を、七年もの間忘れていた自分自身を許せなかった。
「いじめられていた原因とかはお母さんには分からないんだけどね…」
目からあふれ出る涙を抑えるのは不可能だった。
「あぁぁぁ…なんで…なんで…なんでだよ…」
母も涙を流している。
「ごめんね…あの時のかいにはもうそらちゃんに一生会えないなんてこと…お母さんには言えなかった…ごめんね…」
目からぽたぽたと涙が落ちていく。
「ごめんね…ごめんね…」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ」
子供のように泣きじゃくった。
こんなにも泣いたのはいつぶりだろうか。
「ぼく…ずっと忘れてたんだ…そらちゃんのこと…。あんなにぼくをかわいがってくれてたのに…大事にしてくれてたのに…。ずっと忘れてた…」
母は目を抑えながら立った。
「ごめんね…私はでるね…これだけ置いておくね…」
そう言って母は何かを置いて、部屋をゆっくりと出ていった。
それからぼくはたくさん泣いた。
くうのことを、そらちゃんのことを思い浮かべながら。
たくさん泣いたあと、そのまま泣きつかれて寝てしまっていた。
ふぅ…といったん落ち着かせてから、母が机に置いていったものを確認した。
それは、まえに母が引っ張り出してきた、そらちゃんと神栖の海に行ったときのDVDだった。
軽く裏面に目を通してみてから、テレビにDVDをセットし、再生した。
最初には、波の音が聞こえたり、母と青井さんの会話がしたりと前と同じ様子がしばらく続く。
ぼくとそらちゃんの動きに意識を集中させる。
よく見ると、ぼくは少し楽しそうに体を揺らしながらそらちゃんの後を追っていく。
しばらく海に向かって二人で歩いていくと、そらちゃんの足がピタッと止まった。
それに合わせて、ぼくの足も止まる。
そらちゃんが止まった理由が理解できないのか、ぼくは不思議そうな顔でそらちゃんの顔を見上げているのがかろうじて分かった。
その状態がしばらく続いた。
ぼくに対して、そらちゃんがなにか言っているようにも見えたが、すこし遠くにいるため何を言っているかまでは分からなかった。
しかし、この状況にどこか覚えがあった。
どこかでこの状況をみたような。経験したような。
必死に頭の記憶を掘り下げる。
そのとき、とあることに酷似していることがわかった。
「夢だ…!」
それは夢でみたその時のままだった。
そらちゃんの立ち位置、ぼくの視点。
間違いがなかった。
これが夢で見た状況と同じ状況なら、このときそらちゃんはあることを言っているはず。
「きみと水平線を歩けたらな…」
鳥肌が止まらなった。
だんだんといろいろなことが繋がってきているような気がした。
しかし、なぜこの時そらちゃんが、まだ小さなぼくにこのようなことをいったのかはどれだけ考えても分からなかった。
「ここの海にいけばなにか分かるのか…?」
ぼくとそらちゃんの間で生まれた疑問も、ここの海にいけばすべてわかる気がした。
ぼくの忘れているはずの大事なことも、この海にいけば。
この時改めて、そらちゃんと二人でちゃんとこの海に行こうと心に決めた。
そらちゃんが図書館にいなくても。そらちゃんがこの世にいなくても。
このあとは、体調を少しでも良くしようと、しっかりと睡眠をとり回復に徹したところで明日を迎えることにした。
アラームがなる寸前で目を覚ました。
昨日の倦怠感はすっかりと無くなっており、熱も平熱まで下がってた。
カーテンを開くと、差し込む日差しがまぶしかった。
時間を確認すると、九時までにはまだ余裕がありそうだった。
リビングに降りてくと、母が声をかけてきた。
「あら、もう大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫」
「ならよかった」
歯磨きなどをすませ、自室に戻る。
家を出る前に、神栖の海までの経路を調べておく。
家を出る直前に、母に声をかけられた。
「気をつけて行ってらっしゃいね」
「うん、行ってきます」
ドアを開け、外にでると晴れの日に外出するのが久しぶりに感じた。
そらちゃんのことだけを考え、歩き出す。
もうしばらく会っていなかった。
最初はなんて声をかけようかな。
ぼくが昨日来なかったこと怒るかな。
色んなことを考えていたら図書館へはあっという間に到着した。
そらちゃんの姿は見当たらなかったが、まだ集合時間の九時にはなっていない。
すぐに九時になった。
結局そらちゃんは来なかった。
もしかしたら、遅れてくるかもしれないと思い図書館の中で本を読んで待つことにする。
いつものお気に入りの席に座る前に、ないと分かっていながらも"思い出の海"がないか探してしまう。
もちろんあるはずがなかった。
適当な本を手に取り、表紙を開く。
前までのように、時間を忘れて本をよんでいれば気づいた頃にはそらちゃんが来ているなんて妄想をしながら。
百ページ読んだら、周りを見渡してみる。
そらちゃんはいない。
二百ページ読んで、周りを見渡してみる。
そらちゃんはいない。
だんだんと周りに人が増えてくる。
時間は気にしていなくて見ていなかったが、ここにきてから一時間ほどが経ったような感覚だった。
まだ閉館までには時間はある。
本の中間くらいのページになっても、そらちゃんがくる様子は一切ない。
結局、そらちゃんがこないまま本を読み終えてしまった。
本を本棚へと戻し、新しい本を取り出しまた読み始める。
そんなことを繰り返しているうちに、周りの人がだんだんと減っていき、閉館時間が近づいているのだと分かった。
読んでいた本が終盤に近付いたころ、声をかけられた。
「お客様、閉館時間が近づいておりますので、よろしくお願いします」
時間を確認すると、閉館の数分前だった。
「はい…わかりました…」
司書は軽く頭を下げて戻っていった。
読んでいた本を閉じ、本棚へ戻す。
荷物をまとめて、出口へと向かった。
自動ドアが開くと、温かい風が体をなでる。
少し歩いたところで足を止め、空を見上げる。
「そらちゃん…どこにいるんだ…まだ伝えたいことがたくさんあるのに…」
ぼくの声は、大空に消えていく。
家に帰ると、ちょうど母と鉢合わせした
「あら、お帰りなさい」
「ただいま」
母はこれ以上はなにも言ってこなかった。
自室にもどり、荷物をおいた。
風呂などを済ませたら、すぐにベットに寝転がる。
短期間でいろいろなことがあり、複雑な気持ちを抱えたまま眠りにつく。
波の音が聞こえている。
目の前に、そらちゃんが立っていた。
「ただ…私のことを忘れてほしくなかったの…ずっとまってるよ」
目が覚めたのは午前の二時だった。
そらちゃんは、夢を通してぼくに何かを伝えているんだと、そう思った。
「そらちゃんが…待ってる…」
到底外に出る時間ではなかったが、なぜかそわそわして落ち着かなかった。
パジャマの上に軽く上着だけ羽織って外に出た。
親はもちろん寝静まっていた。
外は、夏の為寒くはなく涼しい程度だった。
のんびりと空を見上げながら歩く。
もうこの時間に外出している人はほとんどいないため、街は静まり返っていてたまに車が横を通るくらいだった。
いつもよりも少し時間をかけて図書館に到着した。
ぼくが無心でいたせいなのか、はじめは図書館の前に人影があるのに気づかなかった。
「あれ…だれかいる…」
暗くて顔はほとんど見えなかったが、女性というのは分かった。
もしかしたらそらちゃんなのかとも思ったが、すこし背丈が高く、髪も短めだったので違うだろう。
すこし様子をうかがっていると、向こう側もぼくのことに気づいたようだ。
気づいてから少し間を開け、こちらに近づいてきた。
顔が認識できるようになってから、向こうが頭を下げてきた。
ぼくもあわてて頭を下げる。
「いつも、ここにいらっしゃいましたよね」
その女性は、普段よく会う司書の女性だった。
「あ…はい…ぼくのこと認知してたんですね…」
女性はふふっと笑う。
「いつも決まった席に座ってましたから」
ぼくが固定の席を好んで利用していることが知られて少し恥ずかしく思った。
「今日はどうしたの?もちろんこの時間には図書館はあいてないわよ」
女性は冗談めかして言う。
「あぁ…少し落ち着かなくて、散歩です」
「散歩かぁ、なんかいいねぇ」
女性はにっこりと笑う。
「司書さんは…どうしてこんな時間に?」
司書といえど、この時間まで仕事をしているということはないだろう。
女性は、すこし間を開けてから空を見上げて言った。
「私、妹がいるの」
「妹さん…ですか」
「そう。ひとつ年下の妹でね、姉の私からみてもすごいかわいい子でね」
「なるほど」
女性は気づいたら少し寂しげな顔をしていた。
「自慢の妹だったんだけどね」
「妹だった…?」
「もう七年も前に突然亡くなっちゃってね」
息をのんだ。
「そう…だったんですか…」
「そうなの、妹が亡くなった日には私はもう就職しててね。東京にはいなかったの。」
ぼくはなかなか言葉が出てこなかった。
「その妹が、ここの図書館で本を読むのがすごい好きだったの。だからね、たまにこうやってここにきてあの子を思い出すんだ」
「そうだったんですね…」
ぼくは、少し重くなってしまった空気を変えようと、話をどうにか切り替えようとした。
「すみません…話変わるんですけど…司書さんは…いつから…何年前からここで?」
「いつからか…んー…六年くらいかな?」
「そんなに長く…」
「ほんとは違うところで関係ない仕事してたんだけどね、妹が亡くなってから、すぐに仕事辞めてこっちに戻ってきたの」
この時、女性が長くここで司書をしていると知りひとつ、ずっと気になっていることを聞くことにした。
「あの…ひとつ聞いてもいいですか?」
「ええ、もちろんよ」
「あの、ぼくここの図書館で一冊の本を探してて」
「あら、そーゆーことなら私は何でも知ってるわよっ、なんていうタイトルの本?」
もしかしたらこの人なら知ってるかもしれないとわずかに期待した。
「あの…写真集のような本なんですけど…」
「うん」
「"思い出の海"というタイトルの本を…」
ぼくがそう言った時だった、いままで微笑んでいた女性の表情があからさまに変わった。
目を見開いて、とても驚いているようだ。
「いま…なんて…」
ぼくはいまいち女性の考えていることが分からなかった。
「え…"思い出の海"っていうタイトルの…」
女性は、少し体が震えているようにも見えた。
「なんでそれを…」
少し黙ったかと思ったら、女性は驚くことを言った。
「もしかして…きみ…かい…くん…?」
なぜ彼女がぼくの名前を知っているのか全く理解ができなかった。
彼女のことは、図書館の司書として認識していたため、図書館以外での関りはないはずなんだ。
「え…なんで…ぼくの名前を…?」
「やっぱり…そうだったんだ…」
女性は少し涙を流した。
「ごめんね…急にこんなこと言われても困っちゃうよね…」
「あ…いえ…」
「私は、青井未来(あおいみく)っていうんだけど…青井空…そらの姉です」
全身の鳥肌がぞわっと反応した。
「え…そ…そらちゃんの…お姉さん…?」
本当に驚いた。
いままで、ただの司書だと思っていた女性はそらちゃんの姉だったのだ。
「え…じゃ…じゃあ、さっきの妹さんのことって…」
「うん…あれはそらのこと…」
しっかりと思い返すと、未来さんは『もう七年も前に突然亡くなっちゃってね』と言っていた。そらちゃんが亡くなったのも七年前だった。
「そっか…かいくんだったんだね…」
「ごめんなさい…全然気づかなくて…」
確かに、改めて顔を見てみるとどこかそらちゃんに似ているような気もする。
「ううん、私も気づけなかったからね。でも、本当にびっくりしたね、まさかこんなタイミングでかいくんとまた会えるなんてね」
「ほんとうですね…」
ぼくはそらちゃんのことを、ずっと忘れていたからあまりいい反応はできなかった。
「ごめんね、"思い出の海"のことだよね」
「はい…その本のおかげでそらちゃ…大事なものにまた出会えたので…」
「なるほどね…」
「だけど…ここの図書館にあったはずの"思い出の海"が見つからなくて…別の司書の方に聞いても、ここには無いと…」
「そうだったんだね…。うん…ここには無いはずだね」
未来さんは少し何かを考えているような素振りを見せている。
「ここにはってことは、他のところにはあるっていうことですか!?」
そう聞くと、未来さんは軽く首を横に振った。
「いや、かいくん、"思い出の海"はどこの図書館とか書店を探しても無いの」
未来さんの言っていることは理解できなかった。
言い方的に、"思い出の海"という本自体の存在は否定しないが、どこを探しても無いというのだ。
「それって…どーゆー…」
未来さんはぼくの目を少し見つめてから口を開いた。
「"思い出の海"はね、そらが自分で撮影した海の写真をまとめたアルバムみたいなものなの」
やっと、"思い出の海"の本当のことが分かった。
"思い出の海"は、売られてるような本ではなく、そらが作ったひとつしかないもの。
なぜ、ぼくがここの図書館で"思い出の海"を見つけられたのかは分からないが、間違いなく"思い出の海"はこの世に存在している。
もしかしたら、"思い出の海"がここからなくなったのには、そらの存在が関係しているのかもしれない。
いろいろと分からないことも多くあったが、"思い出の海"がこの世には存在している、その事実がぼくには最大の朗報だった。
「そんなに大事なものだったなんて…」
「あの子、海が本当に好きだったの。だから仲の良い友達と海に行くたびに写真を撮ってたの」
「それって…"思い出の海"はいまどこにあるか分かりますか!?」
答えはすぐに返ってきた。
「それなら実家にあるとおもうわ、お母さんならしってると思うよっ」
「そうですかっ!ありがとうございますっ!」
すごく大事なことを知れたと、心の中ですこし喜んだ。
にっこりと笑っていた未来さんは、時計をみた。
「あら、もうこんな時間だね」
もう時間は午前四時前になっていた。
「かいくんも、もう帰ろうか。お母さん心配させちゃだめだからねっ」
「はい、そうします。ありがとうございました」
そう言って頭を軽く下げたとき、未来さんは優しくお腹をさすっていた。
「いまね、五カ月なの」
ぼくがそらの話に集中しすぎていたからか、まったく気づかなかった。
「そうなんですね…おめでとうございます」
「ありがとうございます」
未来さんもにっこりとしながら頭を軽く下げる。
「生まれたら、ぜひ会いに来てねっ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ、また図書館でねっ」
そういうと、ゆっくりとぼくの家とは反対の方向へとあるいていった。
ぼくも、しばらく未来さんの背中を見送ってから家に帰った。
帰り道で、また青井さんの家にいって"思い出の海"を見せてもらおうと決めた。
リビングへ降りていくと、母に声をかけられる。
「かい、昨日は変な時間にどうしたの?」
母はぼくが外出していたことに気づいていたようだ。
「あ、いや、ただ散歩してただけ」
「ふーん、珍しい」
昨日のことはそれとなくごまかした。
なるべく深掘りはされないように、すぐに自室に戻る。
時計を確認すると、九時は近づいてた。
神栖の海への経路を調べた画面をスマホに保存して家を出た。
そらちゃんは図書館に来ないかもしれなくても、そらに伝えなければいけないことがたくさんあり、約束の場所に、約束の時間でそらちゃんを待つことしかぼくにはできなかった。そして、"思い出の海"が青井さんの家にあるかもしれないという事実。
このときのぼくは、色々なことが起こっていて、なにを自分はすべきなのかを明白にすることができなかった。
いつも通りの見慣れた道を通って図書館へと向かう。
「今日は未来さんいるのかな…」
そらちゃんというおぼろげな存在を求めているぼくにとって、そらちゃんの姉の未来さんという存在は本当に大きいものだった。
あっという間に図書館に到着し、未来さんと話していたところを眺め、昨日のことを思いだす。
『"思い出の海"はね、そらが自分で撮影した海の写真をまとめたアルバムみたいなものなの』
なぜ"思い出の海"がここの図書館にあったのかはいまだに分からない。
「そらちゃんはやっぱいないか…」
そらちゃんがどこにもいないことを確認した。
また中で本を読んで待ってようと、図書館の入り口に歩き始めたときだった。
「あら、かいくん?」
後ろから聞き覚えのある声で呼び止められた。
足を止め、声の方へ向くと青井さんの姿があった。
「青井…さん…」
「やっぱかいくんだったのねっ、今日は図書館に?」
「あ…はい」
「そうだったのねっ」
慌てて頭を下げたが、この時に前に家にお邪魔した時のことを思い出した。
「あ…青井さん…」
「どうしたの?」
「このまえは…その…突然すいませんでした…」
あの時は、そらちゃんのことしか頭になかった。
顔を上げてみると、青井さんはすごく優しく微笑んでいた。
「そんなこといいのよっ、気にしないでっ」
「はい…」
「それよりもね、かいくんに少し話したいことがあるの。このあとうちで少し時間大丈夫かしら?」
恐らくそらちゃんのことについてだろう思いながら、"思い出の海"のこともあるため、ここは承諾することにした。
「あ、はい…大丈夫です…」
「よかった」
青井さんはにっこりと笑う。
未来さんがいるかもしれないが、"思い出の海"を見れる機会と思い青井さんについていくことにする。
青井さんの家にはあっという間に到着した。
「さあ、あがって」
「はい、お邪魔します」
青井さんの家には前に来たばかりなのに、久しぶりに来たようなそんな感覚だった。
廊下を通り、リビングへと入った。
「いまお茶いれるからね、くつろいでね」
「ありがとうございます」
仏壇には、そらちゃんの遺影が置いてある。
すこし遺影を眺めてから、席についた。
「おまたせしました」
しばらくして青井さんがお茶をぼくの前に置いてくれた。
「ありがとうございます」
青井さんはぼくの目の前に席に座る。
「いきなりごめんねぇ、わざわざ家にまで来てもらっちゃって」
「いえ、ぼくももう一度お邪魔したいと思っていたんです」
「それならよかったっ、それでね、かいくんに話したい事なんだけど」
「はい」
「話したいことというか、聞きたい事なんだけどね」
青井さんはずっとやしい顔をしている。
「かいくん、最近、そらとあったのかな?」
「え…」
聞かれたことはぼくの想像とは違ったものだった。
そして、ぼくがそらちゃんと会ったことに気づいているということにとても驚いた。
「なんで…そのことを…」
青井さんは、少し黙ってからまた口を開いた。
「やっぱり、そうだったんだね。最初はそんなわけないって、そらはもういないんだからって自分に言いつけてたんだけどね、かいくんが」
「ぼくが…?」
「かいくんが、そらのことを「くう」って呼んでたのを聞いて、確信したの」
いまいち理解ができなかった。
なぜ、くうの名前で確信がついたのか。
でも、そらちゃんがくうと名乗っていたのは間違いがない。
「くう…ですか…」
「そう。くうっていう名前はね、かいくんが知ってるはずがない名前なの」
「ぼくが知っているはずがない…?」
「くうっていうのはね、「そら」の空っていう漢字を「くう」ていうように読み方を変えたあだ名みたいなものなんだけど」
ここで、はじめて「そら」と「くう」という名前の繋がりを知ることができた。
「だけどね、くうって呼んでたのは本当に仲が良かった一部の同級生だけだったの」
「一部の…」
「そう、だからあの時まだ小さかったかいくんが知っているはずがなかったの」
「そう…だったんですね…」
だんだんと、そらちゃんのことがわかっていく度に、そらちゃんとの思い出が浮かんでくる。
『ふふっ、わたしは…くうって呼んでっ』
あの時の一瞬の沈黙は、本名の「そら」というか迷っていたのではないかと勝手に思った。
「ぼくは…ぼくは図書館で本を読むのが好きで…あの日もいつもみたいに図書館に言ったんです…。そのときに出会ったのが…くう…そらちゃんなんです…」
青井さんはうんうんと静かにぼくの話を聞いている。
「あのときは…そらちゃんだったなんて…ほんとうに…」
「そらが、かいくんに会いに行ったのかな」
「ぼくに…あいにきてくれた…」
ぼくがそうつぶやいたとき、青井さんが突然立ち上がった。
「そうだ、ちょっと待っててね」
「あ、はい…」
そういうと青井さんは奥の部屋へと入っていった。
しばらくして青井さんが戻ってくると、手に何かを持っている。
「ごめんね、かいくんにこれを」
青井さんが僕の目の前に置いたものをみて声をだした。
「これって!」
「そうなの、昨日娘から連絡があってね、これをかいくんにって」
ぼくの目の前には、表紙に『思い出の海』とペンで書かれたアルバムのようなものが置かれている。
「未来さんが…」
ぼくの体は震えていた。
ずっと探していたもの。
見つからなかったもの。
大事なものが今目の前にある。
「そらがずっと大切に持っていたの。新しい写真を撮ってはここに貼ってね…」
青井さんは少し悲しげな表情を浮かべている。
「やっと…ずっと…ずっと探してたんです…」
涙がこぼれてくる。
最近は泣くことが多い。
「もしかしたら、そらはかいくんにこれを見せたかったのかもね」
手にとると、図書館で見たものとは微妙に違うところがあったが間違いなかった。
「中をみても…大丈夫ですか…?」
青井さんは静かにうなずく。
表紙をめくると、まさに図書館でみたものと同じ写真が貼られていた。
写真の下には、一枚一枚、日付と海の名前が書かれている。
一枚ずつしっかりと見たかったが、それよりもぼくは神栖の海の写真を見たかった。
そらちゃんも眺めていた、あの写真を。
ページを一枚ずつめくっていく。
もうすこしであるはずだ。
そう思い、次のページをめくった瞬間、手が止まった。
「あれ…なんで…」
後のページも見てみるが、やはりそうだ。
神栖の海の写真だけ、貼られていなかった。
写真一枚分のスペースがぽっかりと空いているのだ。
「青井さん…これって…」
「そうなの…そこの写真はがれたのかと思って探してみたけどなかったの」
自分が見落としているだけかと思い、前後のページを確認したがやはりなかった。
「やっぱりなさそうですね…」
少し落ち込みながら、本を閉じた。
写真がなかったことはとても残念だったが、ぼくにはもうひとつ青井さんに聞いておくべきことがあった。
「あ、あの…青井さん…」
「どうしたの?」
ぼくは、そらちゃんのことについてもっと詳しく聞かなければと思っていた。
自分の大切な存在であるそらちゃんのことを。
「その…そらちゃんのこと…母から聞いたんです…」
少し聞くのは怖かった。
青井さんを悲しませるかもしれないから。
だけども、それ以上にしっかりと知っておかなければと思った。
「いじめのこととか…」
青井さんは悲しげな顔をすると思っていたが、そんなことはなく、ぼくにふんわりとやさしい笑みを向けていた。
「そうだね、そらのことちゃんとかいくんには知ってもらった方がいいよね」
「その…失礼なのは重々承知です…だけど…」
「ううん、大丈夫よ」
それから、青井さんはぼくにそらちゃんについてゆっくりと話をしてくれた。
「そらはね、本当にいい子だったの」
ぼくは、青井さんの話を静かに聞いていた。
「小学校でも、中学校でも、友達をすぐに作っては私に伝えに来るの。『ママ、お友達たくさんできたよ!!』ってね。そらがそうやって笑ってくれるだけで私は幸せだった。少しつらいことがあっても、そらの笑顔があればそんなのすぐに吹っ飛んだ」
青井さんは、そらちゃんの遺影を微笑みながら見つめている。
「それで、高校に入った時も友達はすぐにできたみたい。家にも何回か友達が来たのを覚えてるわ…」
このとき、青井さんは少し沈黙を続けた。
「高校三年生になって、クラス替えをしたの。だけど、そら…そのクラスの女の子達から良く思われていなかったみたい…。なんでだろうねぇ…あんなに…あんなに優しい子だったのにねぇ…」
青井さんは涙を流して、声を震わせている。
「ごめんね…あの子のことではもう泣かないって決めてたんだけどね…」
「全然…大丈夫です…」
「ありがとう…」
青井さんは、ハンカチで目を軽くぬぐってからまた話をつづけた。
「それで、クラスの子達からいじめを受けていたんだけど、そらがいじめられていたって言うのを私が知ったのは、あの子が亡くなってからなの…」
息が止まった。
青井さんは、そらちゃんが亡くなるまでいじめがあったことを知らなかった。
「それって…」」
「あの子、私に心配かけたくなかったのかな…、家に帰ってきてもいつも笑顔だし…一切そんな話は聞かなかったの…」
「そう…ですか…」
言葉に詰まらせているときに、そらちゃんの言葉を思い出す。
『私お母さんも大好きだし、お母さんの作る料理も全部大好き!』
そらちゃんは、本当に母のことが好きなのだと改めて思った。
母のことが大好きだからこそ、言えなかった。
母に心配をかけないために。
「そらが亡くなった後、クラスメイトだった女の子から話を聞いたの。今でも覚えてる、月菜ちゃん。中村月菜ちゃんていう子でそらとすごく仲良くしてくれていたの。」
その瞬間、ぼくの体を衝撃が襲った。それと同時にある言葉が頭をよぎる。
『月菜だね。結構珍しくて同じ名前の人見たことないけど』
「月菜…陽太の…お姉ちゃん…??」
そらと学生時代、仲が良かったのが陽太の姉で。いろいろなことが突然に押し寄せて整理がつかなくなってしまった。しかし、そうなるとあの時陽太に見せてもらった海の写真がすべてぼくとくうの巡った海というのも納得がいく。月菜さんはそらが巡った海を同じように巡ったのではないか。それが罪滅ぼしかどうかまでは今のぼくにはわからないが。
「かいくん?どうしたの?」
考え込んでいた顔をしていたぼくに青井さんが、心配をしてくれている。
「あ、いや…ごめんなさい、大丈夫です」
ここでは、青井さんには伝えず、今後陽太のお姉ちゃんに会えた時にすべてを伝えようと決めた。そして、伝えようと。ぼくが経験したことを、そらと過ごしたことを。
青井さんはすこし息を整えて、続けて話し始める。
「月菜ちゃん、そらがいじめられているところを見てたみたいで、私に泣いて謝ってくれたの。私は見てるだけで、そらちゃんを助けられなかったって。いじめの内容は…その時は聞いてて本当につらかった…。殴る蹴る、物を壊したりとか…本当にひどかったみたい…」
青井さんの話を聞いていると、自分の見た夢との辻褄があってくる。
あの時にみた、いじめられていた光景も、もしかしたら。
そんなことを考えてしまい、涙が不思議なくらい出てくる。
「すみません…どうしても…勝手に涙が…」
「ううん、大丈夫よ。聞くのがつらかったら無理しなくても大丈夫だからね」
「いえ…すみません…続きをお願いします…」
青井さんは静かに頷く。
「そらはね、いじめのことを私だけじゃなくて、友達にも誰にも相談してなかったみたい」
「だれにも…ですか…」
「そう、ひとり、いじめられてるとこをみてからそらに声をかけた子がいたみたいなんだけど、その時も何事もなかったように笑ってたって」
「全部…ひとりで…」
「そう…だから私…あとになってたくさん後悔した…私が…母親の私が気づいてあげてればって…」
青井さんの涙はもう止まらない。
「かいくん…」
「はい…」
「そらと神栖の海に行ったのは覚えてる…?」
「ごめんなさい…その時のことはほとんど覚えてなくて…」
「そうだったのね…、そらはかいくんと神栖の海に行った翌日に…亡くなったの…」
衝撃を受けた。
夢で見たあの光景。
ビデオに残っていた記録。
あの、海に行った翌日にそらちゃんは亡くなったのだ。
「翌日…ですか…?」
「そうなの…あの日の翌日の朝からそらが出かけてくるって行ったの。雨が強めに降っていたけど、あの子、図書館に行くのが好きだったから…いつも通り見送ったの…。だけど…あの子家を出る直前に『お母さん、大好き』って…まさかあの言葉が最後になるなんてね…」
「雨の日に…」
そらちゃんが、雨の日は会えなかったのもこのためなのかもしれない。
雨の日に亡くなったから、かもしれないと。
ぼくは涙を流しながらも、質問をした。
「そらちゃんは…そらちゃんはどうやって…」
青井さんはもう一度沈黙を続けてから口を開いた。
「その日の夜に、警察から電話があったの…そらは、神栖の海で溺れて亡くなっていたって…」
「入水自殺…!?それも…神栖の海で…!?」
信じられなかった。
そらちゃんは雨の降る夜、自分から海へ入っていき、亡くなった。
そして、その海はぼくとそらちゃんが探し求めていた神栖の海だった。
「私も、最初は信じられなかった…。悪い夢でも見てるんじゃないかって…なにかのドッキリなんじゃないかって…」
青井さんの悔しさや悲痛が伝わってくる。
そらちゃんは、本当に海が好きだったから、青井さんの気持ちには痛いほど共感できた。
「そらちゃん…海が…本当に好きでしたから…ですよね…」
「そうなのよ…あの子は本当に海が好きだったから…」
リビングには、ぼくと青井さんの涙を流す音しか聞こえていない。
「そらが海を好きなのは、お父さんの影響でね…」
「そうだったんですか…」
そらちゃんの父親の話を聞くのは初めてだったが、そらちゃんの父親を想う姿から、優しい人だったんだろうという想像ができる。
「まだ、娘達が小さい頃にね…家族四人でよく海に行ったの…。そのときに、お父さんはよく、娘達を抱いてから、海の方へ指さして『水平線を歩いたら、普段は会えないような大事な人に会えるんだよ』ってよく言ってたの…。今でもその意味は私には分からないけどね…」
青井さんはすこし笑顔を見せながら言った。
ぼくがその時、青井さんにできるのは、そらちゃんがぼくに行ったことを代弁することだった。
「水平線は…水平線は空と海の繋がりだから…だから、水平線を歩けば…空にいる人に会えるって…そんな気がします…」
青井さんは、ぼくの言うことをしっかりと聞いてから微笑んだ。
「ふふっ、そうかもしれないね」
青井さんは、どこか嬉しそうに微笑んでいて少し安心した。
「それでね…かいくんにひとつお願いがあって」
今のぼくには、青井さんの願いを断るという選択肢は一切なかった。
「なんですか?」
青井さんはさっきの優しい微笑みのまま言う。
「かいくんには、そらのことをずっと忘れないでいてほしいの。」
「はい…」
ぼくは今までそらちゃんのことを忘れていた、だからこそこれからは忘れないでほしいと、青井さんの願いなんだとぼくは受け取った。
「少しでもいいから、そらがさみしくならないように、ずっと覚えててほしい」
「もちろんです…だけど…ぼくは…そらちゃんのことをずっと忘れてました…」
青井さんは嫌な顔は一切せず、ぼくの言うことを優しく聞いている。
「ぼくは…あんなにぼくのことを大事にしてくれた…かわいがってくれたそらちゃんを…お姉ちゃんみたいな存在だったはずなのに…」
ほんとうに、自分を恥じた。
「ぼくに会いに来てくれたのに…全然…気づけなかった…」
体に力が入る。
しかし、青井さんから帰ってきたのは優しく、包み込むようなものだった。
「そんなことはいいのよ。いま思い出せてるだけでも、そらはきっと喜んでるはずよ。あの子は、本当に優しい子だもの」
ぼくの涙は、泣いても泣いても足りないようだ。
「ありがとうございます…」
握りしめた手を震わせながら、頭を下げた。
「ぼくは…ぼくはそらちゃんに伝えなきゃいけないことが…まだ…。だけど…もうそらちゃんには会えないかもしれない…」
ぼくはまだそらちゃんに言えていないことがたくさんある。
また会わなければならない。
謝らなければならない。
ありがとうって言わなければならない。
「大丈夫、あの子はまた会いに来てくれると思う」
「本当ですか…」
「本当だよ、あの子、かいくんのこと大好きなんだから」
この日のぼくは、青井さんの言葉に救われてばかりだった。
「本当ですか…」
「うん、必ずね」
そう言ってくれた青井さんの目は真っ赤にはれている。
靴を履き、家をでる準備を整える。
「本当に、ありがとうございました。これもいただいてしまって」
ぼくの手には"思い出の海"がしっかりと持たれている。
「うんうん、いいのよ。あの子もかいくんが持ってくれてるなら喜ぶと思うわ」
青井さんは、わざわざ見送りに来てくれている。
「また必ず来ます」
「かいくんがまた来るのいつでも待ってるからね」
「はい。じゃあ、お邪魔しました」
青井さんは笑顔で見送ってくれた。
扉が閉まってから、手元にある"思い出の海"をみつめる。
「もしかしたら…あそこで…」
このあとのぼくの行先はひとつしかなかった。
スマホを取り出し、神栖までの経路を改めて確認する。
スマホをポケットにしまって、ぼくは駅に向かって歩き始めた。
「そらちゃん、待っててね」
あの写真に写っていた海に、そらちゃんが空へと旅立っていった海に。
久しぶりにそらちゃんに会えるから、ぼくの心は緊張すると思っていた。
だけど、自分でも驚くほど落ち着いていて、淡々と神栖へと向かっている。
そらちゃんに会えたら、まず何を話そう。
そらのことを忘れていたぼくに対して腹がたったか?とか。
なんでぼくとの約束破って、図書館に来なかったんだよ!とか。
今まで忘れていてごめんね。とか。
どれだけ謝っても、そらちゃんを忘れていた事実は変わらないことはもちろん分かっている。
分かっていた。
何を言っても、そらちゃんがこの世に帰ってこないことだってもちろん分かってる。
そらちゃんは七年前にこの世を去っているのだから。
だけど、伝えなければいけなかった。
君のことを忘れててごめんねって。
助けてあげられなくてごめんねって。
よく、がんばったねって。
ぼくを許して欲しいって。
電車はぼくを乗せて、うなりを上げながら海へと向かっていき、ビルがどんどん木に変わっていく。
ぼくは"思い出の海"を抱きしめながら、揺れに身を任せている。
電車に乗っている時間なんて感じなかった。
遠くまで来ているのか、それすらも曖昧だった。
ぼくの頭にあるのは、そらちゃんと会えたら。
それだけ。
ようやく目的の駅に着いた。
いつのまにか、電車に乗っていたのはぼくだけになっていた。
「ここか…」
周りを見渡すが、見覚えはない。
だけど、不思議と行くべき方向は分かる。
木々が連ねる道をひとりあるいていく。
道では誰ともすれ違わない。
ただ静寂の中をひたすらに歩いていく。
しばらく歩いたところで、潮風が鼻をついた。
その時、頭に記憶が流れ込んでくる。
『かいくん…わたし…だめかも…』
そらちゃんが、ぼくを呼んでいる。
ただひたすらに歩みを進める。
だんだんと波の音が聞こえてくる。
『水平線を…向こうまで…』
そらちゃんの声が頭に響く。
「そらちゃん…もうすぐだから…」
そのとき、地面が日に照らされた。
ぼく以外、だれもいない海がそこには広がっている。
波の音は、もうしっかりと聞こえている。
潮の香りもしっかりと。
足をとめて、ゆっくりと顔を上げる。
太陽がまぶしい中、ぼくは目を見開く。
砂浜も。水も。水平線も。
そこにはぼくの求めていたすべてがあった。
写真に写っていた海が。
そらちゃんと探していた海が。
太陽を反射して、宝石が浮いているかのように水が輝いている。
ぼくは体全体を震わせて、無意識に涙を流していた。
「あった…ここだ…間違いない…あった…!あった!!」
涙を拭いながら海を見つめる。
震える足を進めながら、砂浜へと入っていく。
砂も真っ白で美しく、まるで別世界にいるようなそんな気がした。
砂浜へ入ってから、ぼくは膝から崩れた。
「やっとみつけた…やっと…」
見つけることができた感動を抑えきれない中、青井さんの言葉を思いだす。
『そらは、神栖の海で溺れて亡くなっていたって…』
そらちゃんは、七年前にこの海でこの世を去った。
雨の降る中ひとりで死んでいった。
「そらちゃんは…ここで…この海で…そらちゃん…そらちゃん…」
いくら名前を呼んでも、帰ってくるのは波の音。
誰もいない浜辺に響くのは、ぼくの声と波の音だけ。
ぼくはもっていた"思い出の海"をみつめた。
「ぼくは確かに七年前にここに来たんだ…そらちゃんと…」
ぼくがうなだれていると、夏なのにも関わらず周りがどんどん暗くなってきた。
太陽がじわじわと沈んでいき、水平線へと近づいていく。
ここの海だけが、周りよりも時間が早くながれているように感じる。
みるみるうちに辺りは赤く染まっていく。
「え…なにが…」
夕日がより赤く染まったと思ったその時だった。
目をつむってしまうほどの強い光がぼくを包み込んだ。
「うっ…」
手で目をさえぎる。
光に包み込まれた瞬間に、頭の中にたくさんの声が流れ込んでくる。
『おまえなんて!死んじまえ!!』
『お母さんのことは悪く言わないでよ!!』
『そら、ほんとに大丈夫なの…?』
『そらは…大事な妹だから…』
『お父さんは…お父さんに会いたいよ!!』
『わたし…もうだめかもしれない…』
『私を許して欲しいの!!私は…強くなかった!!』
少しして、ゆっくりと目を開けていく。
波打ち際に目を向けたとき、ぼくは自分の目を疑った。
海の方を向いて、ひとり少女が立っている。
ぼくは反射的に立ち上がった。
「くう…く…そらちゃん!そらちゃん!!」
間違いなかった。
風になびく髪。
出会ったときに身に着けていた制服。
ぼくは荷物を置きっぱなしにしたまま走り出した。
「そらちゃん!そらちゃん!!」
そらちゃんは何も反応しない。
一心不乱に走り、そらちゃんの少し後ろで足を止めた。
疲れと興奮で、息が激しく切れている。
「そらちゃん…」
なにも返ってこない。
「探してたんだよ…ずっと…」
少し間を開けてから、柔らかく、優しい声が聞こえてくる。
「信じてたよ。かいくんが、ここに来てくれるって」
返答はするが、いまだに顔は見せてくれない。
「もっと…もっとはやくここに来たかったよ…。もっとはやく…そらちゃんのことを…思い出したかった…」
涙はとっくに止まることをしらない。
「なんで…なんで初めからここに…」
そらちゃんは静かに海を見ている。
「なんで…もっと早くここに連れてきてくれなかったの…」
風は温かく、ぼくらを包み込むように吹き続けている。
「かいくんと、少しでも長く一緒にいたかったの。少しでも長く、顔を眺めていたかった」
「それでも…!それでもぼくは…そらちゃんのこと忘れてたんだ…七年間も…ずっと…」
ぼくは必死になって続ける。
「そらちゃんが会いに来るまで…ずっと無意識に生きてきた…。ずっと忘れてたけど…ぼくはそらちゃんが大事だったんだ!ぼくを認めてくれて、ぼくをかわいがってくれて!そらちゃんは…そらちゃんはぼくにとってお姉ちゃんみたいな存在なんだ!!だから!だからもう一度…もう一度ぼくといっしょにいてほしいんだ!
もう一度…」
ぼくの必死の訴えにも、そらちゃんから返ってきたのは一言だった。
「だめだよ」
「なんで…なんで…!」
ダメということは、前から分かっていたはずだった。
だけど、そらちゃんを前にしてしまうと、ダメなことでもどうにかしてでもと考えてしまう。
「私はもう生きてないんだよ」
「そんなの知ってる!そんなこと知ってるよ!!だけどそんなことどうだっていい!ぼくはただ、そらちゃんにずっと!ずっと一緒にいてほしいだけなんだよ!!」
心からの願いだった。
そらちゃんには、ただ一緒にいてほしい。
生きていなくたって、なんだってよかった。
「かいくん。ごめんね」
「おねがいだ…そらちゃん…おねがい…もうどこにもいかないで…ぼくと一緒にいてください…」
顔の下の砂浜は、雨が降ったかのように涙が濡らしていた。
「かいくんのことが本当に大事だったの。こんな私と一緒にいてくれて、いっぱいくっついてくれて。私にたくさん好きっていってくれた。学校でひとりだった私はかいくんに救われてた。ほんとにうれしかったの。かいくんが私と同級生だったらなってたくさん思ったよ」
久しぶりに聞く声は、前のくうのような明るさではなく、とても落ち着いていて、ぼくを慰めてくれるような優しい声をしていた。
「ぼくと生きて欲しかった…ぼくと同じ時間を…。なんでぼくを置いて行っちゃったの…」
そらちゃんと話せる時間はもうすぐ終わりがくる。
そんな気がしていた。
「最初は、私が耐えてればって、私が強くあればって思ってたの。お母さんを、お姉ちゃんを、大事な友達を悲しませないためなら、どんなに酷いいじめをうけても頑張ろうって。」
そらちゃんは、ひとりで戦い続けてたのだ。
周りの人を心配させまいと。
「だけどね、私はそんなに強くなかったの。たくさん自分をごまかしてみたり、笑顔を作ったりしてたけど、だめだった。ほんとはもっと、もっと一緒にいたかった。
お母さんも。お姉ちゃんも。かいくんも。大好きな友達も、みんなと」
「そらちゃんは変わらないのに…あのときのままなのに…。ぼくはこんなに大きくなったんだよ…もう十九歳だよ…そらちゃんを追い越しちゃったよ…」
ぼくは、自分でも気づかぬうちにそらちゃんの年齢をぬかした。
そらちゃんよりも大人になった。
そらちゃんは永遠に十八歳なんだ。
『私は永遠の十八歳なのっ』
そらちゃんがぼくの年齢を越すことはない。
成人することも、絶対にない。
そらがゆっくりとこちらへ振り返った。
大粒の涙をたくさん流している。
「そらちゃん…」
そらちゃんは、涙を流しながらまぶしいくらいの笑顔を作る。
「かいくん…おおきくなったねっ」
それは、ほんとうにお姉ちゃんのような、ぼくを包み込む優しい表情だった。
そらちゃんの体が少しずつ薄くなっている。
呼吸が止まるくらい嗚咽交じりに涙があふれだした。
「ああぁ…いやだ…いやだよ…」
そらちゃんは海の方へ向きなおして、海の方へ歩いていく。
そらちゃんの体は、微かに海の上を歩いているように見えた。
水平線に近づいていくうちに、体が風に溶けているかのように。
「まって…まって…そらちゃ…そら…やだ…まって!」
あふれ出る涙をこぼしながら、必死にそらちゃんを追いかけて海に入っていく。
服が濡れることなんて気にするわけがなかった。
「いかないで!いかないでよ!もう忘れたりしないから!!」
そらちゃんはゆっくり歩いているように見えるが、不思議と追い付くことができない。
「いやだ!いやだ!もっとぼくと一緒にいてよ!!」
水はどんどんと深くなっていき、腰辺りまで来ている。
「ぼくも一緒に水平線まで行くから!ひとりでいかないで!!」
もうそらちゃんの姿はほとんど見えなくなっており、水は首ほどまでになっている。
後ろから服をつかまれて大きな声をかけられる。
「きみ!なにしてるんだ!あぶないぞ!!」
危ないなんてどうだっていい。
ただそちゃんに追いつくことだけを考えていた。
「やめてくれ!!はなせよ!!いかないと!!はやくいかないとだめなんだ!!!」
「やめろ!!死ぬぞ!!!」
もうそらちゃんの姿は完全に無くなっている。
「あああああああ!!!まだ!!まだ!!!」
「やめろ!!おい!!やめるんだ!!!」
「そら!!!そら!!!あああああああああああああああ!!!!!」
呼吸が苦しくなり、だんだんと意識が遠のいていった。
『かいくんにお願いがあるの。私の家族に、私のことを自分のせいだと思ってほしくないの。だから、そのことを伝えてほしい。ずっと大好きだよって』
最後に一瞬、美しく光る水平線だけが目に入った。
『かいくん。かいくん。かいくん。』
誰かがぼくを呼んでいる。
ふわふわとした優しい声で。
『かいくん。かいくん』
「かい、かい」
目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
横から母が声をかける。
いまだに状況が理解できない。
「なんで…お母さん…」
母はものすごく悲しげな顔をして涙まで流している。
「かい…なんで…」
「なんで…?」
「なんで海になんて入っていったの…」
ここでだんだんと昨日のことを思い出してきた。
ぼくは昨日、神栖の海に行った。
そこでそらちゃんに会って。
そらちゃんは水平線へと歩いていき、消えた。
「昨日…海で…」
そう言いかけたとき、母が強い力でぼくを抱きしめた。
「ほんとに…心配したんだからね…」
母の声は震えており、涙をぽろぽろ流している。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
それから、しばらくは母は涙を流し続けていた。
ぼくは、神栖の海でそらちゃんと再会した。
ぼくにしか姿が見えてないとしても、間違いなくあの場にそらちゃんはいた。
七年前と変わらない優しさで、ぼくを待ってくれていた。
ある日を境に図書館に来なくなったのも、ずっとあそこで待っていたからかもしれない。
そらちゃんと再会した日から、いままですっかり忘れていたはずのそらちゃんとの思い出をはっきりと思い出すことができる。
それが七年前のことだとしても、しっかりと。
目が覚めると、まぶしい光がさしていた。
ぼくは昨日、海に入っていき溺れていたところを、タイミングよく通りがかった管理者の男性に助けられたらしい。
母のところに警察から連絡が入り、母がぼくを家まで帰してくれた。
ぼくは探していた海にたどり着き、そらちゃんと再会できた。
だが、まだやり残していることがあった。
"思い出の海"にあるはずの神栖の海の写真を見つけることだ。そして、陽太のお姉ちゃんで、そらとの友人だった月菜さんに会うこと。
ベッドからでて、リビングへと降りて行った。
「あら、おはよう」
母はいつものように声をかける。
「うん、おはよう」
準備を済ませて、家をでる。
今日は、なんとなく青井さんの家に行くべきだと思った。
日差しも強く、少し暑いが、秋が少しづつ近づいているのがわかる。
肩にかかっているバックには"思い出の海"が入っている。
しばらくして青井さんの家に到着した。
玄関に取り付けられているインターホンを押す。
すぐに声が聞こえてくる。
『はーい』
「突然すみません、大野です」
『あらっ、かいくん!今開けますねっ』
インターホンがきれ、少し間を開けてからドアが開いた。
「かいくん、いらっしゃい、どうぞ」
ぼくは軽く頭を下げて、入っていった。
廊下を抜けてから、リビングに入ると、そらちゃんの遺影に軽く目を通してから椅子に座った。
青井さんはぼくの前にお茶を置いてから、席についた。
「青井さん、突然お邪魔してすみません」
青井さんは笑顔で手を横に振った。
「いいのよいいのよ、いつでも大歓迎だからね」
「ありがとうございます。今日はそらちゃんのことで少しだけお話がしたくて」
ぼくは、昨日そらちゃんにあったこと、そらちゃんの青井さんへの想いをすべて伝えたかった。
「昨日、そらちゃんにあったんです」
もう七年も前に亡くなった人に会ったなんて、だれも信じないだろうと思うが、青井さんは優しい笑顔のまま頷いていた。
「ちゃんと、お話できたかな」
「はい、長い時間は話せなかったけど、そらちゃんにいろいろなことが聞けました」
そらちゃんは、本当に家族を大事にしていた。
そらちゃんが亡くなったことを、青井さんに自分のせいだと思ってほしくなかった。
「その、青井さんに、思い詰めてほしくないんです」
青井さんは静かにぼくの話を聞いている。
「そらちゃんのことは、青井さんのせいじゃないって、だから自分を責めないで
欲しいって。ぼくとそらちゃんから伝えたいことです」
青井さんは目が少しうるんでいるが、どうにかこらえているようだった。
「かいくん…そらはほかに…なにか言ってた?…」
そらの言葉が頭をよぎる。
『かいくんにお願いがあるの。私の家族に、私のことを自分のせいだと思ってほしくないの。だから、そのことを伝えてほしい。ずっと大好きだよって』
「ずっと、ずっと大好きだよって」
ぼくの言葉に、青井さんは少し涙をこぼした。
だけど、それは悲しい涙じゃなくて、幸せの涙のようにぼくには見えた。
「ありがとう…ありがとう…。最近は私泣いてばっかだね…」
涙を流しながらも、笑顔をみせた。
ぼくは青井さんが落ちつくまで、静かに待っていた。
「その、青井さん、ひとつお願いがあるんです。」
ぼくはここに来てから、ひとつ見ておくべきものを思い出した。
「お願いって?」
「前に見せてくれた、ぼくとそらちゃんの写真を少し見せて欲しいんです」
くうがそらちゃんと気づくきっかけになった写真を見れば、"思い出の海"のなくなった写真のことがなにか分かるような気がした。
「ええ、大丈夫よ」
そういって青井さんは奥の部屋に入っていき、前と同じ写真たてに入った写真をもっきてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
写真の中では、海を背に幼いぼくと笑顔のそらちゃんが並んで写っている。
「それ、ずっとそらが自分の部屋に飾っていたの。いまでは私の寝室に置いてあるんだけどね」
ぼくが、そらちゃんとの思い出を考えながら写真を見つめているときだった。
頭の中に、そらちゃんの言葉がひとこと浮かんだ。
『大事なものは写真たてに入れておくの』
「大事なものは…写真たてに…」
「かいくん?」
青井さんは不思議そうにぼくを見ている。
ひとつ、あることがぼくの頭に浮かんだ。
「青井さん、この写真…中から取り出しても大丈夫ですか…?」
「え…ええ、大丈夫だけど…」
「ありがとうございます…!」
ぼくは慎重に、写真たてを取り外し、写真を中から取り出した。
「やっぱり…」
「かいくん?どうしたの?」
ぼくの考えは当たっていた。
中に入っていた写真は一枚ではなかった。
ぼくとそらちゃんが写る写真と、もう一枚重なっていた。
ゆっくりと、後ろの写真をずらす。
「あった…ここにあったんだ…」
「それって…」
出てきたのは、海の写真。
真っ白な砂浜、太陽を反射して輝く水面、横に美しく伸びる水平線。
写真越しでも、目を奪うほどの海だった。
「神栖の海だ…"思い出の海"の最後の一枚…。ぼくとそらちゃんはこの写真で…」
この時、青井さんがぼくにいった。
「かいくん…これ…裏面はなんて…?」
「え…?」
青井さんは写真の裏面を指さしている。
「裏面…?」
ゆっくりと、写真を裏返してみると文字が書いてあった。
「これ…そらの字…」
青井さんの言うように、そらちゃんが書いたもののようだった。
ゆっくりと一文字ずつ読んでいく。
『私が、どれだけ遠くにいる存在でも。
私が、どれだけ離れている存在でも。
みんなからは見えなくても。
もし、私のことを忘れてしまったら。
そのときは。
そのときだけは。
きみと水平線を歩けたら』
視界は少しの涙でかすんでいた。
そらちゃんが残してくれたもの。
すごく、悲しかった。
けれども、それ以上に心は温かく、自然と笑みがこぼれていた。
「青井さん…そらちゃんは…ほんとうに優しくて…強かった…」
そらちゃんは多くのことをぼくに伝えようとした。
友人ではなく、まだ幼い自分に。
「そらちゃんは…ぼくにいろんなことを授けてくれました…」
青井さんは、ずっと優しい表情のままぼくを見守っている。
「そらちゃんがぼくに伝えたかったこと…あの頃はまだ分からなかったけど…今なら…今ならわかる気がするんです…」
ぼくは手に持った写真を離さず体を震わせている。
「青井さん…この写真…」
青井さんはぼくの言いたいことを理解していた。
「ええ、もちろんよ。かいくんが持っていたほうがあの子もきっと喜ぶわ」
「ほんとうに…ありがとうございます…」
母親である、青井さんが持っておくべき物なのはもちろん分かっていた。
だけど、そらちゃんの生きた証、そらちゃんが残してくれたもの。
それがぼくには必要だった。
ぼくは"思い出の海"を取り出し、写真を挟んで閉じる。
「貼ったら、裏面が見えないですからね」
ぼくと青井さんは顔見合わせて笑う。
青井さんは玄関までぼくを見送ってくれた。
「青井さん、突然お邪魔したのに、色々とありがとうございました」
頭を深く下げる。
「うんうん、いいのよ、娘が帰ってくる時以外はひとりだからさみしいの。だからいつでもまた来てね」
「はい、ありがとうございます。では、お邪魔しました」
改めて頭を下げてから、外にでた。
なんとなく空を見上げる。
いつもと変わらないはずの景色だが、今のぼくには不思議と新鮮なものに感じた。
太陽がいつもより優しく暖めてくれるし、鳥の鳴き声がよく聞こえる。
色々なことを感じながら、足は自然と図書館へと向かっている。
図書館にはすぐに到着して、中に入る。
ドアが開くと同時に、カウンターにいる未来さんと目が合った。
「こんにちは」
未来さんは、そらちゃんみたいににっこりと笑ってくれる。
ぼくは未来さんに近づいていき、軽く頭を下げながらいう。
「こんにちは。未来さん、"思い出の海"のこと、ありがとうございました」
未来さんがいなかったら、ぼくが"思い出の海"を見つけることはできていなかった。
「ふふ、いいのよ。ちゃんと見つけられてよかったわ」
未来さんは、ぼくのいつもの席の方へ目を向けた。
「あそこの席、そらのお気に入りの席だったの」
ぼくは、今までずっとそらちゃんのお気に入りの席で本を読んでいた。
この時は、驚きよりも、喜びが勝っていた。
そらちゃんが、ぼくのお気に入りの席に座っていたという事実が、なんとなく嬉しかった。
「そうだったんですね」
ふと、笑みをこぼしながら視線を落とした時に膨らんでいるお腹が目に入る。
ぼくの目線に気づいた未来さんがお腹をさする。
「たまに、ぽこってするのよ」
「中で、遊んでいるんですかね」
未来さんが、ぼくの手をとり、お腹に触れさせた。
「どうかなぁ?」
手を止め、じっと待っていると、ぼくの手を中からポコッと叩くのを感じた。
「あっ」
「ふふっ、してくれたねっ」
すごく不思議な感覚だが、どこか幸せな気持ちになった。
「私はもうすぐ産休に入っちゃうから、この子が生まれたら会いに来てねっ」
「もちろんですっ、楽しみにしてます」
未来さんはにっこりと微笑みカウンターへ戻っていった。
ぼくも、いつもの席に向かっていく。
椅子に腰かけ、一息つく。
「そらちゃんのお気に入りの席だったんだ」
そらちゃんも、かつてここに座っていた。
そのときは、どんなことを考えながら、どんな本を読んでいたんだろう。
そらちゃんも、ぼくと同じ景色を見ていたのかな。
窓の外に目を向けながら、ずっとそんなことばかり考えていた。
しばらくしてから、後ろの本棚から一冊の本を取り出しページをめくる。
ふとした瞬間に、もう一度窓の外を見る。
青空に大きな雲が浮いている。
「そらちゃん…お父さんと会えたのかな…」
そのとき、青空が一瞬きらりと光った。
それが何なのかは分からなかったが、ぼくにはそらが何かしたんだろうと、そんなふうに思えた。
ひとりで軽く微笑んでから、ぼくはもう一度本に目を落とした。