狗神巡礼ものがたり


お二人に連れられ、雉子亭へ戻ったわたし達。
怪我とぬめり塗れの体と、傍らに携えた大きな雉喰いの抜け殻を見て、君影さまを始めとした雉の皆さまは言葉を失っていました。

「……驚きました。まさか本当に、雉喰いを退治されるなんて…。」

驚きを隠せない君影さまに、義嵐さまが不服そうに言い返します。

「白々しいこと言うなよな。お前が焚き付けたんだぞ?」

次いで、仁雷さまが一歩前へ進み出ます。傍らの大きな殻に手で触れながら、

「望み通り、雉喰いの殻を持ち帰った。
後始末はお前達に任せる。
…これで文句は無いな。早苗さんは第一の試練を達成した。」

落ち着いているけど、力強い声…。
君影さまはしばし言葉無く、仁雷さまを見つめていましたが、やがて深々と頭を下げられました。

「……早苗様、お使い様。私共は本当に敬服しているのです。雉喰いによって幾多の同胞を亡くしてきましたから。
心より感謝申し上げます。

そして、…おめでとうございます。
早苗様が此度の試練を乗り越えられたこと、大変喜ばしく存じます。」

君影さまに倣い、竜胆さまや…お姉さま方も深く頭を下げる…。

「…………し、試練、達成…。」

わたし、試練とやらを乗り越えたのね…。
呆然とする頭の中に、じわじわと湧き上がる実感。恐怖もまだ濃く残っているけれど…それ以上に、これまで感じたことのない達成感に満たされていました。

ふと、わたしはこれだけは伝えなければと、仁雷さまの後ろから一歩前へ進み出ます。

「…あの、君影さま。
お役に立てたのなら幸いです。…けれど本当は、竜胆さまにいただいたお塩のおかげなのです。」

懐から、すっかり空っぽになってしまった小箱を取り出します。

「…これが無ければ、わたしも雉喰いに食べられていたかもしれません。
だから、お礼を言うのはわたしのほうなのです。ありがとうございます。」

君影さまは小箱と、わたしの顔を交互に見つめます。彼の表情はひたすら驚きの色に満ちていて、やがてその目をゆっくり閉じました。

「言葉もありません。早苗様は充分すぎるお方だ。…お使い様方、どうか早苗様を“最後まで”お護りくださいませ。」

「…元よりそのつもりだ。」

君影さまの託すようなお言葉に答えたのは、芒色の髪の仁雷さまでした。

「ーーーでは、傷の手当ての前に、雉子亭自慢の温泉にお入りくださいませ。
座敷に布団の用意もいたします。どうか今宵はごゆるりとお体を休まれませ…。」

雉子亭の(はな)れに通じる廊下を渡りながら、君影さまはそんな、この上なくありがたいお言葉をくださいました。

「お湯にっ、浸かれるのですか…!」

雉喰いのどろどろの汚れを落とすどころか、わたしは生贄の儀式ために犬居屋敷を出てから、一度もお湯に浸かっていませんでした。
沢の水で体を拭いたりはしましたが、やっぱり人間たるもの、入浴は極上のご褒美。浮き足立たないほうが難しいのです。

君影さまは、離れの木の引き戸を優しく開きます。その奥を覗いて、わたしは感激で一杯になりました。
もうもうと立ち上る柔らかな湯気。大きな岩が詰まれた囲いの中に、乳白色に染まった温泉が広がっていたのです。

「こちらが雉子亭自慢の、(ひな)の湯でございます。傷や打ち身に良い効能がございますよ。
混浴ですが奥に仕切りもありますので、ご心配なく。」

雛の湯を眺めながらうっとりするわたしとは対照的に、仁雷さまはみるみる体を強張らせていきます。

「…し、仕切り、だけか…っ!」

「オイ仁雷、目の焦点が合ってないぞ。
…じゃあまぁ、せっかくだし三人で浸からせてもらおうか。体中汚れたし、お前達二人は妙なぬめぬめ(まみ)れだしな。」

浴場全体を見れば、温泉の奥のほうに竹造りの仕切りが立てられています。なるほど、あちらは女性の場所なのね。

温泉を前にするとどうしても、早く浸かりたい気持ちに駆られてしまいます。それにこのぬめぬめの生臭さ…鼻のきく山犬のお二人には、尚のこと辛いはず。

「手厚いおもてなしをありがとうございます、君影さま。浸からせていただきます。」

「……早苗さんっ!!本気か!?」

仁雷さまの焦った声が後ろから飛んできて、わたしはびくりと肩を震わせました。
きっと、他人(わたし)が一緒のお湯に浸かることを気にしているのかも…。
でも仕切りもあるし、静かに浸かれば、きっと仁雷さまの気は散らさないわ。

「仁雷さま、わたしのことはお気になさらず、ゆっくりご堪能くださいませ。」

「…………っ、あ、ウ……ウン…。」

仁雷さまは何か言いたそうでしたが、わたしのお願いを渋々受け入れてくださったようでした。

ーーーやっぱり、優しい方だわ…。

◇◇◇

仕切りを隔てた向こう側に早苗さんがいる。
そう思うだけで、体が忙しなく動いてしまう。落ち着いていられない俺に呆れてか、岩にもたれて温泉を堪能していた義嵐が声を掛けてきた。

「落ち着いて肩まで浸かれよ、仁雷。
こっちまでソワソワしちゃうだろうが。」

「……お前はよく落ち着いていられるな。
俺達は早苗さんの護衛だぞ。なのにこんな…無防備な…。」

いざとなれば山犬の姿になって助けに行けばいい。
そうは思うものの、姿が見えないだけでこんなにも落ち着きを無くすのは予想外だった。
早苗さんは俺達に気を遣ってか、あまり水音も立てないよう入浴しているらしい。

微かに匂いがする。温泉の匂いに混じっていた雉喰いの生臭さが薄れ、代わりに覚えのある彼女の匂い。
姿が見えない以上、俺には匂いから“想像”することしかできない。
体の汚れを落とし、温泉に浸かった頃だろうか。今日は一日疲れた上に、恐ろしかったろうに。状況が飲み込めない中で、あの小さな体で早苗さんは精一杯頑張っていた。

ーーー小さな、体…。

温泉効果による“良くない想像”に傾きかけて、俺は勢いよく水面に顔を叩きつけた。

「…ハァ。仁雷は昔から真面目一辺倒なんだよなぁ。もう少し肩の力を抜いていいんだぞ?」

義嵐は言った。
それは奴に幾度となくかけられた言葉だ。
真面目。堅物。石頭。…そうは言われても、持ち前の性格は変えようがない。それに、

「真面目と言われてもいい。
俺はただ、後悔したくないだけだ。この巡礼の旅で、犬居の娘を最後まで護りたい。…それはこれまでもこれからも変わらない。」

「……おれは、あんまり肩入れしない方がいいと思うけどな。別れの時が辛くなるだけだ。」

そうだ。義嵐のこういう姿勢もずっと変わらない。元々緩い性格だが、ここ十年で輪をかけて関心が薄くなったように感じる。
狗神が何十年も義嵐と俺を組ませるのは、性格の釣り合いがとれているからなんだろう。

「義嵐も“必ず早苗さんを護り抜く”と強く決心すれば、成功する確率は上がる。気持ちを改める気はないか?」

「うーん、おれは自分の出来る範囲で努めるだけだからなぁ。
…ただ、早苗さんはやっぱり、今までの娘達とは一風変わってる。本家の娘と比べるとどうしても“血が薄い”から最初こそ半信半疑だったが、あの子が残りの試練をどう乗り越えるのか、近くで見てみたいもんだな。」

「………。」

血が薄い。
確かに彼女は、犬居家当主・犬居 玄幽と本妻との子ではない。それは初めてあった時、“匂い”で分かった。

犬居家が生贄に差し出すために産み育てた“妾の子”。その立場を、きっと彼女自身も分かっているのだろう。

「だから、彼女の振る舞いはどこか…。」

「……ウー…、仁雷…すまん…。
おれは先に上がるぞ。のぼせちまった…。」

義嵐は(がら)にもないふらつきようで、逃げるように岩を伝って、温泉から上がっていった。
元々山犬だから体温が高いうえに、俺と違って肩までしっかり浸かっていたせいだろう。

「義嵐、傷は痛むか?部屋に戻ったら雉に手当てをしてもらえよ。」

「あー、温泉効果でだいぶマシだ。
仁雷も早めに上がって来いよな。」

そう言うと、義嵐は炭色の山犬の姿に戻り、力の限り体を震わせて、全身の水気を払った。
巨体から放たれる豪雨。それから逃れるため、俺は敢えて距離を取っていた“仕切り”の近くへと移動する。

「…………。」

微かに匂いはあるが、仕切りの向こうから音はしない。
もしかすると、早苗さんはとっくに温泉から上がったのかも。俺達に気を遣って、音を立てないように。

指先で竹の仕切りに触れながら、俺はさっきの続きを考える。

ーーー早苗さんはどこか、自分以外を優先するきらいがあるんだよな……。

決して生きやすい身の上ではないはず。
彼女は年の割に、自己を抑えつけてしまっているように思えてならなかった。
今回の巡礼だって、心から望んでいるはずもない。それなのに、彼女はすぐに受け入れた。

ーーー我が儘とか…言ったことはあるんだろうか…。

あの小さな双肩にかかる重圧は相当なもののはず。弱音も吐かず受け入れられたのは恐らく、とうの昔に自制を身に付けてしまった証拠なのだろう。

「…早苗さんの我が儘を叶えるのは、“俺”でありたいな…。」

口を()いて出たそれは、俺の素直な願いだった。


「……あの、仁雷さま、でしょうか?」

突然仕切りの向こうから、聞き慣れた可愛らしい声が聞こえた。

俺は思わず、その場からほんの少しだけ飛び上がる。
声の主は間違いなく、早苗さんだ。

「あっ、申し訳ありません。名を呼ばれた気がして…。」

「…い、いや!すまない!考え事を、してて…!」

仕切りから離れようとしたが、その耳に心地良い…安心する声を聞いてしまっては、その場に留まらざるを得なくなってしまう。

…そうだ、今なら、顔が見えない今なら。

「…早苗さん。俺は…、」

「はい。」

俺は喉まで出かかった声を、

「………。」

言葉にすることができず、結局飲み込んでしまう。
代わりに、今日の出来事について話すことにした。

「…今日は、本当によく頑張ってくれた。
とても恐ろしかったろうに、早苗さんは勇気があるな。」

「そんな…ただ夢中で…。
仁雷さまこそ、わたしを助けてくださって、ありがとうございました…。」

「…イヤ、それが俺達の役目だから…。」

そこで会話は途切れる。
しばしの沈黙の後、早苗さんは不安げに訊ねる。

「…お怪我の具合は、いかがですか?」

俺は雉喰いに噛まれた痕に目をやる。

「大したことはないよ。」

早苗さんが見れば卒倒するかもしれないが、こんなのは擦り傷の部類だ。
今回だけじゃない。犬居の娘達を導く度に、幾度となく怪我を負ったが、今やもうほとんど痕は残っていない。

「早苗さんに怪我が無くて良かった。」

俺の安堵の声に対して、彼女の返答は弱々しいものだった。

「…でも、義嵐さまと仁雷さまが代わりに傷付くのは、とても恐ろしいです…。」

“恐ろしい”。
自分の命が脅かされること以上に、恐ろしいことなどあるものか…。

「今までも、犬居の娘達が同じ試練に挑んだのですよね。…皆、無事に乗り越えたのでしょうか?」

「…………。」

俺は、どう伝えるべきか悩んだ。
試練自体に成功した者もいれば…失敗してしまった者もいた。
正直に言えば、今回の早苗さんの対応は前例の無かったこと。

「…本来、雉喰いと闘うのは俺達お使いの役目だ。貴女達への本当の試練は、“何があってもその場から逃げ出さないこと”。

だが中には、恐ろしさのあまり、一人で竹藪の奥へ逃げ出し…後を追った雉喰いに捕まった者もいた。
自ら雉喰いに突っ込んだのは、俺の知る限り早苗さんが初めてだ。」

『俺達を信じて離れるな。』
人の身である娘達に、雉喰いと真っ向から闘う術なんてあるはずがない。
だから、“俺たちを信頼して見守っていてくれる”だけで良かった。俺と義嵐が雉喰いと闘い、勝利する一部始終を見守ってくれれば。

ーーーその場合、怪我はこの程度では済まなかっただろうが…。

「……そうと知らず…。
ご心配をおかけして申し訳ありません…。」

「…本当に、心の臓が止まるかと思ったよ。」

仕切りの向こうで一層小さく「申し訳ありません…」と呟く声がする。
責めるつもりじゃなかった。俺は慌てて、正直に本心を打ち明ける。

「だが、嬉しくもあったんだ。
早苗さんが逃げずに、自ら立ち向かってくれたこと。俺たちを信じてくれたこと。それが嬉しかった。

初めて顔を見た時にも感じた不思議な感覚。
貴女となら、きっと…。」

そこまでで、俺の言葉は続かなかった。
これ以上は言えない。

また沈黙が流れ、不思議に思った早苗さんが、小さく訊ねてくる。

「……仁雷さま?きっと…何です…?」

今はまだ言えない。
だが、きっと伝えられる時が来る。

「…早苗さん、覚えていてくれ。
俺達は何があっても、最後まで貴女を護る。だから、貴女も命を預けて、最後まで一緒に来てほしい。」

この巡礼の旅を乗り越えた先に、答えがあるから。


「……まだ、自分でも分かりません。
仁雷さまと義嵐さまのことを信じたい気持ちと、…この先に待つ試練への不安が、どちらも大きくて…。

今回だって、一度は逃げてしまいたいと考えました…。頼りなくて、申し訳ありません…。」

ーーー早苗さん…。

「ゆっくりでいい。
覚えていてくれれば、それで。」

また沈黙が流れた後、仕切りの向こうから、少しだけ元気を取り戻したような、早苗さんの可愛らしい声が聞こえた。

「はい…っ。」

***

雉喰い退治で嵐のようだった一夜が明けました。

次の試練の地へ向かうための旅支度を整えていたわたし達の元へ、君影さまと雉のお姉さま方がやって来ました。
今は鳥ではなく、人に変化した姿。君影さまの傍らには、三宝(さんぽう)に乗った黒い棒状の、不思議な品がありました。

「早苗様。お使い様。昨夜はよくお休みになられましたでしょうか?
雉喰いの抜け殻で作った、第一の試練達成の証である“宝”をお持ちいたしました。」

そう言い、三宝をこちらへ差し出します。

黒い棒状の小物。艶やかな漆塗りの表面に、虹色の美しい螺鈿(らでん)細工が施されています。光を幾重(いくえ)にも反射して、まるで螺鈿自体が発光しているかのよう。

「わあ、素敵…。でも、この螺鈿ってもしかして…。」

「はい。雉喰いの貝殻の螺鈿でございます。」

わたしの予感は当たりました。
殻の内部に入った時、眩いばかりの虹色の輝きを放っていたのが印象的でした。実際、螺鈿細工に生まれ変わったそれは、普通の螺鈿とは比べ物にならないくらい、繊細な輝きを放っていました。

「雉子の竹藪の宝。螺鈿(らでん)懐剣(かいけん)でございます。
どうぞ早苗様。お納めくださいませ。」

きらきらと輝く、小さな懐剣。
わたしはおっかなびっくりな手つきで、それを受け取ります。

懐剣というくらいですから、よくよく見れば刀を納める溝がある…。
少し力を入れてみれば、簡単に鞘から刀部分を引き抜くことが出来ました。

「まあ……!」

刃もまた、虹色の輝きを放っていました。
どうやら鉄ではなく、螺鈿細工と同じく、雉喰いの殻で出来ているようなのです。

「護りのまじないがこもった貝殻だ。早苗さんの心強い護身刀になるだろう。」

仁雷さまの言葉に続いて、君影さまがこう言います。

「覚えていてくださいませ、早苗様。
これは、“貴女の決意を守る”懐剣でございます。決して肌身離さず、お持ちくださいませ。」

「…決意を、守る…?」

わたしは刃の輝きをじっと見つめます。
決意を守るとは、どういうことかしら。
刀である以上、誰かを傷付ける場合があるかもしれない、ということ…?

そんな場面は訪れて欲しくありませんが、何にせよ、最初の試練達成の証には変わらない。わたしは懐剣を、大切に帯に差します。

「ありがとうございます、君影さま。
皆さまも、お世話になりました。」

雉の皆さまに向かって、わたしは深く頭を下げます。

不思議な感覚。わたしは一歩一歩、確実に死に向かっているはずなのに、今わたしの胸の内には…達成感や安堵感が満ちているのです。

ーーー狗神さま…。あなたさまは、なぜ犬居の娘達に試練を課すのでしょう…?

この旅の中に、答えがあるのかしら。


「早苗さん、次の行き先は南方に位置する、狒々の池泉だ。また遠い道程だから、早速出発しよう。」

「あっ、はい、仁雷さま!」

雉の皆さまに見送られ、わたし達は雉子亭を後にします。
豪奢なお部屋、絶品のお料理、素晴らしい温泉、優しい方々…。どれをとっても、夢のような時間でした。

「仁雷さま、義嵐さま。
これでもう雉の皆さまは、雉喰いの脅威に怯えることは無くなるのですよね…?」

「……早苗さん。
残念だが雉喰いはまた現れる。」

それ以上は言いづらそうに視線を逸らす仁雷さまに代わり、義嵐さまが答えを語ります。

「雉喰いが、何の妖怪か分かるかな?」

「え…?」

わたしは嫌々ながら、昨夜の雉喰いの姿を思い起こします。
頭から突き出した角。ぬめぬめとした粘液。這うような動きに、大きな大きな貝殻。思い当たる生き物がひとつだけありました。

「か、蝸牛(かたつむり)、でしょうか…?」

「そう。蝸牛さ。
そして雉は生きるために、小さな虫や“蝸牛を食べる”。

彼らが蝸牛を喰らえば喰らうほど、蝸牛の無念は募り、やがて妖怪となって、(かたき)である雉に復讐する。

…そんな終わりのない命の奪い合いを繰り返してんだ。大昔からずっとね。」

「そんな……。」

言葉もありませんでした。
危険に晒されながら、やっとの思いで退治できたというのに。
あんなに恐ろしい妖怪がまた現れる。

そうか。だから“毎回”犬居の娘達に、雉喰い退治の試練を課すことができる…。

「雉の皆さまは、竹藪から出ることは叶わないのですか…?」

「それは出来ない。この竹藪から一歩たりとも出ないことが、大昔から続く狗神様との約束だから。
彼らは狗神様の力に依存しているし、恩義もある。狗神様も彼らを解放したりはしない。それが、大昔から続いてきた風習なのさ。」

“大昔から続いているから”。
その言葉は、わたしの中に違和感として残ります。

「早苗さんが気にすることじゃないよ。
貴女の目的は、三つの試練を達成して巡礼を無事に終えること!
おれ達二人の目的も同じさ。」

義嵐さまはそう明るく言うと、行きと同じように、先導して竹藪を歩き始めました。
これ以上は答えたくない、という風にも聞こえます。

「………狗神さま…。」

気にしなくていい。
そうは言われても、わたしの中で疑問の種が芽吹き始めていたのです…。

また鬱蒼とした獣道を歩くものと覚悟していましたが、南方へ続く道はとても緩やかな人工道でした。

昔、南の山から初めて砂金が採掘され、犬居家が採掘事業を展開した歴史があります。山の豊富な資源と、金山(きんざん)の開拓によって、犬居家は莫大な財を築きました。その頃に運搬のための道が整えられ、採れた砂金を都まで運んでいたといいます。
現在ではほとんど資源は枯渇してしまったため、この道を使う必要も無くなってしまったとか。


お日さまは天上高くに昇っています。
朝早くに出立(しゅったつ)してから歩き通し。人の身であるわたしはどうしても、すぐに足に限界が来てしまうのです。

「………はぁ、はぁ…。」

歩みが遅くなったことに気づき、仁雷さまが足を止めます。

「早苗さん、疲れたよな?
ここらで休憩しよう。」

「…はぁ、す、すみません。少しだけ…。」

少しの間、腰を下ろして休めば大丈夫…。
そう思って少し目線を先にやると、義嵐さまがこちらに手を振っているのが見えます。

「おーい!ここ!ここで一服しよう!」

義嵐さまが指差す方向を見れば、一軒の小さな茶屋があります。
ああ、嬉しい。ほんの一瞬足の疲れも忘れて、わたしは仁雷さまと駆け出します。


茶屋へ着くと、既に義嵐さまが三人分のお茶と、串団子を頼んでくださっていました。
腰掛けに座り、疲れた脚を目一杯伸ばします。

餡子(あんこ)(くる)んで焼いた、焼餡団子(やきあんだんご)。ここの名物なんだとさ。おあがり、早苗さん。」

「まあ…!ありがとうございます!
いただきます。」

お盆に乗った串団子を一本つまみます。その香ばしい匂いを胸一杯に吸い込めば、それだけでさっきまでの疲れが吹き飛んでしまいそう。

串に刺さった三つの玉のうち、一つ目を口に運びます。
口いっぱいのお団子をよく噛んでよく噛んで…、

「んん〜〜!」

餡子の甘味のなんて奥深いこと!お団子表面の香ばしさが、さらに甘味を引き立てています。
お団子をよく噛み、味わい、飲み込むまで、わたしは何かの儀式のように、ひとつひとつの動作を丁寧に行なっていました。

そんな様子がおかしかったのか、右隣に座る義嵐さまが笑います。

「ハハッ、本当幸せそうに食うなぁ早苗さんは。」

「あっ、す、すみません。夢中で…。」

ふと、義嵐さまの指が、わたしの口元に伸びました。
親指がわたしの唇を優しく拭い、そのままご自身の唇へ。

「口に餡子付いてるぞ。落ち着いて食べな。」

「あ、わ……あの、ありがとうございます…。」

わたしときたら、まるで小さい子どもみたい…。あまりに恥ずかしくて、顔が熱くなってしまいます。
義嵐さまとわたしのやり取りを目の当たりにした仁雷さまは、何か恐ろしいものを見たかのような引き攣った顔をしていました。


「………。」

義嵐さまはご自分のお団子を食べることを後回しにして、わたしの顔をじっくりと眺めています。

「………。
義嵐さま?どうかなさいました?」


「早苗さんはさ、美人(・・)だよなぁ。」

その言葉を聞いた瞬間、わたしと、そしてなぜか仁雷さまも、二人で息を呑みました。
義嵐さまがそんな言葉を口にするとは、夢にも思わなかったのです。

「そ、んなことっ!
言われたこともありませんし…、な、亡くなった母のほうがずっと…その…。」

「じゃあ、早苗さんの容貌はお母上(ゆず)りか。今はまだ幼いけど、これからもっとお母上に似て美しくなるな。」

「よ、よしてください…。」

あまりの恥ずかしさに、わたしは両手で顔を覆い隠してしまいました。急にどうしたのかしら、義嵐さま…。

「………おい、義嵐。何かの悪ふざけか?
早苗さんを困らせることを言うのはやめろ。」

「…は、はぁ?何だよ、素直に思ったことを言っただけだってのに。これからの成長が楽しみだなぁ〜ってさ。」

「お前はほんっ、本当に…っ、呑気な…!!」

「仁雷ももっと思ったことは言った方がいいぞ?減るもんじゃなし。なぁ、早苗さんなぁ?」

「そうやって彼女を巻き込むのもやめろ!」

義嵐さまと仁雷さまの掛け合いが面白くて、わたしは思わず笑ってしまいます。

「ふふ…、お二人はとても仲が良いのですね。」

瞳の色はどちらも似た琥珀色だけれど、毛色が違う。兄弟…というには、お顔もあまり似ていないような。

わたしの問いに答えたのは、興奮気味の息を整えている仁雷さまのほうでした。

「………山犬のお使いは大勢居るんだが、なぜか昔から俺達が組ませられることが多くて、自然と腐れ縁になったんだ。」

「そうなのですか。
ふふ、本当のご兄弟のように、仲良しに見えます。」

兄弟というものは少し憧れます。
わたしは一人っ子だし、本家の娘達はあくまでお世話すべき“お嬢様”でしたから。

ーーー星見さまだけは、最後にわたしを“妹”と呼んでくださったけれど…。

「早苗さんには、お母上の記憶はあるのかい?」

義嵐さまは先ほどと同じ、のんびりした様子で訊ねます。
その質問には、わたしは少しだけ答えるのを躊躇いました。

「母は…わたしが三歳の頃に亡くなったので、顔は朧げにしか覚えていないのです…。
でも、とても優しくて、狗神さまへの信仰の厚い方だったと記憶しています。」

わたしを寝かしつける時、狗神さまのお話を欠かさなかった母様。
なぜ突然亡くなってしまったのか…。幼いわたしには理由が分からず、当時のことを語る者もいませんでした。

女中達の噂で、流行り病に(かか)ってしまったと耳にした記憶があります。誰もわたしに教えてくれなかったのも、理由を知ればわたしが余計に気に病むと思って…。
もう十年も前のこと。わたしも成長して、今では大切な思い出として受け入れています。

「…そうかい。早苗さんの優しさも、お母上の教えの賜物(たまもの)かもしれないな。」

「義嵐さま…。
…ふふ、そうだと嬉しいです。」

少し、亡き母のことが思い出せて、わたしは嬉しくなりました。
不思議。義嵐さまの声を聞いていると、穏やかな気持ちになれるのです。まるでわたしのことを、心から大切に思ってくださっているかのような…不思議な安心感があります。

わたしは手元のお団子のことを思い出し、冷めてしまわないうちに、もうひとつ口元に運びます。

…しかし、わたしがお団子を味わうことは叶いませんでした。
団子の串を地面に落としてしまったためです。

「…えっ?」

体がふわりと浮かび上がる…いえ、何者かに抱えられる感覚がありました。
唐突な出来事に、驚きの表情を浮かべる義嵐さまと仁雷さま。
お二人ではない…。では、一体誰が?

「…だ、だれ……っ?」

自分を抱え上げた人物の顔を見上げて、わたしは驚きの声を上げます。
それは見たこともない、青い髪に、青い着物を纏った男性でした。
義嵐さま以上の大きな体。とても険しい顔。彼はわたしをじろりと睨み、

「犬居の娘、確かに貰い受けたぞ。」

それだけを言うと、踵を返し、街道を真っ直ぐに走り出しました。

「きゃ…っ!」

「早苗さんっ!!」

なんという速さ。人間の脚ではないみたい。例えるなら森を駆る獣のような、野生的な足運びなのです。
一体どういうことなのかしら。なぜ突然わたしを?

「っ、じ、仁雷さま!義嵐さま!」

遥か遠くに置き去りにされたお二人に向かって、声の限り叫びます。
けれど、その声が届くよりも速く、青い男の人はどんどん距離を広げていきました。

「…な、何ですか!お願い、離してください…!」

「あまり抵抗するなよ、犬居の娘。(わし)が欲しいのは貴様の命のみ。五体の無事までは保証せぬからな。」

冷たくて恐ろしい言葉。太く強い腕に捕らえられたわたしの体は、少しの自由もききません。

ーーー懐剣も、出せない…!

なんて無力なのでしょう。自分の身一つ守れないなんて。
わたしは為す(すべ)なく、遠くに霞んでいくお二人の姿を見ていることしか出来ませんでした。

◇◇◇

早苗さんが攫われた。
何者だ?なぜ突然、よりにもよって彼女を?
俺はなぜもっと早く反応出来なかったんだ。

俺達に助けを求めた、早苗さんの怯えた顔…。
居ても立っても居られず、あの大男が走り去った方向を目指し、俺もまた走り出した。
人の姿じゃ遅すぎる。芒色の山犬の姿となって、力の限り脚を回す。

【早苗さんっ、早苗さん…!!】

だが…俺がどれだけ走ろうと、あの大男に追いつくことはなかった。
広くどこまでも続く街道の彼方に、二人の姿は消えてしまったのだ。

全速力の脚も、もう追いつけないと悟ったとたん、力が抜けていく。
次第に速度が落ち、やがて…、

「…くそ…っ!!」

俺は人の姿で、その場に立ち尽くしてしまった。


「ーーー仁雷!」

後から追いついた義嵐には目もくれず、俺は早苗さんが連れ去られた方角を睨む。

「…何なんだ、あいつは。何者なんだ?なぜ、早苗さんを…?」

「…落ちつけよ、仁雷。」

「…っ、状況が分かってるか、義嵐!!
俺達は早苗さんの護衛だろう!それなのに…っ、みすみす連れ去られたんだ!
奴がもし彼女の命を狙っているとしたら…!」

自制が効かないほど、俺は追い詰められていた。
義嵐に当たったところで何にもならない。頭では分かっているのに。

「……俺が、もっと注意深く彼女を見ていれば…。」

自分自身が憎い。いくら責めて罵っても足りない。
そんな俺を鎮めるのはいつだって、義嵐の役目だ。

「何者にせよ、奴は早苗さんが犬居の娘であることを知ってた。巡礼に関係しているのは間違いない。何か必要があって連れ去ったんだとしたら、無闇に命を奪ったりはしないだろ。

幸い早苗さんは焼き団子を食べてたから、匂いが強く残ってる。それを辿れば、居所なんてすぐに分かるさ。」

言うが早いか、義嵐の体が大きく盛り上がり、見慣れた炭色の山犬に変化する。

【そら、泣いてる暇はないぞ。さっさと走れ仁雷!】

「……な、泣いてない。お前こそ、脚を緩めるなよ!」

次いで、俺も元の芒色の山犬に変化する。
そうだ。立ち止まってる暇なんてない。今こうしている間にも、早苗さんは脅威に晒されている。

雨や風で匂いがかき消されないうちに、俺達は早苗さんの連れ去られた方角を目指し、走り出す。

【あの男……見つけたら必ず喰い殺す…!!】

【…仁雷、仁雷。顔が恐い。】

今度は、自分の中に湧き立つ“怒り”を抑えることが出来なかった。

***

どれほど長い間、青い髪の男の人は、わたしを抱えて走り続けているのでしょう。
とても人間とは思えない。いえ、もしかすると、この方も人間ではないのかも。

すっかり抵抗する力も無くなり、わたしは腕の中でぐったりとするばかり。

ーーーこれからどうなるのかしら…。義嵐さま…仁雷さま…。


「儂の(ねぐら)が見えてきた。」

声の示す方に目をやります。
そこは断崖(だんがい)に掘られた大きな洞窟でした。

男の人は、洞窟の前の足場に立つと、わたしをその場に落とします。

「……あうっ。」

硬い地面に打ち付けてしまった箇所をさすりながらヨロヨロと立ち上がり、わたしは目の前の洞窟に目を凝らします。
中は薄暗く、様子が分かりません。どこまでも深く続いていそうな、気味の悪さを覚えました。

「……あの、なぜわたしをここへ…?
ええと…。」

呼び名に困っていると、男の人はなんともあっさりと、名を教えてくれました。

「儂は青衣(あおぎぬ)
この南の山々と、瓢箪池(ひょうたんいけ)を治める(ぬし)じゃ。」

瓢箪池、と聞いた時、わたしは義嵐さまの見せてくれた絵巻物を思い出しました。
南方の…瓢箪の形をした“狒々の池泉”。
とするとこの方が、第二の試練の…。

「青衣、さま……。わたしを連れて来たのは、巡礼と何か関係があるのですか…?」

「ほう、これは話が早い。
犬居の娘、話の続きは塒の中じゃ。」

そう言い、青衣さまは先導して、洞窟の中へ入って行きます。
わたしのことを見ていない…。今なら逃げられるかも…。

「…言っておくが、儂から逃げようなどと考えるなよ。この山には忠実な“猿共”を散らしておる。人間の小娘の手足を折って連れ戻すくらい、難しくもない。」

「…っ!」

すっかり見抜かれているようでした。
言う通りにするほかありません。わたしは促されるまま、暗く不気味な洞窟の中へ、勇気を振り絞って足を踏み入れました。


外から見ると様子の分からなかった洞窟も、奥へ奥へ進んでいくと、小さな灯りが見え始めました。通路に等間隔で松明(たいまつ)が置かれているのです。
さらに通路を進んでいくと、急に(ひら)けた空間に出ました。

「……まあ…。」

洞窟内部の硬い岩を切り出して、外に運び出したのでしょう。壁も床も天井も広く、まっさらな平面の岩肌が見えています。
どのくらいの広さがあるのかは分かりません。ですが、大きな蔵や民家がいくつも建ち、最奥には朱塗りの社殿のような建物が構えています。この空間だけで、小さな村ひとつ分はありそうです。

そして驚くべきことに、そこで働いているのは皆、白い毛皮の“猿”なのです。
重い荷を運ぶ者、薪を割る者、魚を捌く者。人さながらの仕事ぶりです。
しかし、彼らの目には活気がありません。毛並みは乱れ放題で、中には痛々しい怪我を負っている者も。それでも一心不乱に働く姿からは、どこか…奴隷のような怖ろしさを覚えました。
その原因はまさか、目の前を歩くこの男が…?

「犬居の娘、足を止めるなよ。」

「は、はい…っ。」

青衣さまは、最奥に構える社殿の中へと入って行きました。
わたしもそれに続き、内部に足を踏み入れます。
内部は、外観と同じ朱塗りの柱が立ち並ぶ、広い板の間でした。

「貴様もそこへ座れ。」

「……はい…。」

命じられるままに、その場に座り込みます。
すかさず、わたしの背後に白毛のお猿が二匹、音もなく控えます。わたしが逃げ出さないよう見張るためでしょう。
片方のお猿は、右目に痛々しい裂き傷の痕を残していました。

青衣さまのほうを見直せば、煙管(きせる)を蒸し始めていした。あたりに嗅ぎ慣れない匂いが漂います。
ふと、彼が懐から取り出した光り物に、わたしは目を奪われました。それは金色で、手の平に収まりそうな大きさの、円形の金属板でした。
美しいけれど、見たこともない装飾品です。何かの神具なのかしら?数珠に通して、首から提げています。

青衣さまはしばし一服した後、満足げにわたしのことを眺めます。

「ようやっと手に入れたわ。犬居の娘。十年待ち侘びた好機じゃ。」

十年前…。わたしの前の犬居の娘が、生贄に選ばれた年です。

「…わたしを、どうなさる気なのですか?」

「儂の言葉を遮るな、娘。
貴様は狒々の池泉の、試練の内容を知っておるか?」

わたしは首を横に振ります。
試練の内容を事前に聞くことが出来ませんでした。わたしが知っているのは、これから向かう場所が“狒々の池泉”と呼ばれていること。そして、そこで“宝”を得なければならないこと。

「ならば、儂が教えてやろう。
貴様はこれから瓢箪池へ行け。
そして、瓢箪池の底に沈んでおる“宝”を、儂の元へ持ってくるのじゃ。」

「……え?」

それは意外な言葉でした。
まさか本当に、この方が第二の試練を課すなんて。ですが、ではなぜこんな手荒な、拉致紛いな真似を…?

「巡礼は、義嵐さまと仁雷さま…山犬のお使いさまと一緒に行動するよう言われております。
なぜわたし一人だけを連れて来たのですか?」

「フン、野犬共の力など要らぬだろう。
これは貴様が生贄となるための巡礼。貴様一人で挑まず、何の意味があろうか?」

「………。」

青衣さまは長く煙を吐き出します。
自信に満ちた物言い。君影さまのように、これまでの巡礼をよく知る者なのだとしたら、やはりわたし一人で…?

ーーーでも…。

仁雷さまは仰っていました。
決して離れるな、と。
試練には危険が伴う。本当にわたし一人で挑むべきなの…?

それに、ひとつ気にかかることがあります。

「…青衣さまが瓢箪池の主なのでしたら、その宝もあなたの物では?
何か、得られない理由があるのですか?」

その言葉を発すると、一瞬で空気が凍りつきました。
青衣さまの顔がみるみる険しくなっていき、わたしの背後のお猿達が、小さく怯えた声を漏らし始めます。

「…生意気な小娘じゃ。儂に訊ねることは許さぬ。女は黙って儂の命じるままに働けばよいのじゃ。」

大きな体。恐いお顔。脅す言葉。
わたしは思わず怯んでしまいます。

しかし、その反応がますます、わたしの不信感を煽りました。雉子亭の君影さまと大違いなのです。高圧的で得体が知れない。
何より、この者は仁雷さまと義嵐さまのことを…、

「……そ、それに、あのお二人は“野犬”ではありません。口を謹んでください。」

青衣が握り締めていた煙管(キセル)が、小枝のようにパキンと割れました。

「…小娘…、本当に生意気な奴じゃ。
腕の一本でもへし折ってやらねば、聞く耳を持たぬらしいな…?」

「!?」

大きな青衣の体が、みるみる膨れ上がります。
“山のよう”と形容できるほどに、腕や脚や胸の筋肉が盛り上がり、青い髪の毛が長く長く伸び始めます。
社殿の高い天井いっぱいに大きくなった青衣はもはや人ではなく、青い毛皮に身を包んだ“狒々(ひひ)”そのものでした。


【キ、キィー!!】

わたしの背後にいたお猿達は、とうとう悲鳴を上げて、転がるように社殿から逃げ出してしまいました。
しかし、右目を怪我したお猿が足をもつれさせ、その場に倒れ込みます。恐怖で足が(すく)み上がってしまったのです。

逃げ遅れたお猿を気にかけることなく、青衣はわたしに迫ります。水晶玉のように大きな二つの目玉が、わたしを強く睨みました。
剥き出しの歯は鋭く、弱いわたしなど、ひと噛みでやっつけてしまうでしょう。
鋭い爪は刀のよう。襲われてしまえば、恐らく無事では済みません。

【小娘、最後の機会じゃ。
瓢箪池へ行き、儂に宝を献上すると誓え。】

なんて恐ろしい姿。
人の身であるわたしが敵うはずもない。
震える唇で、なんとかこれだけを口にすることが出来ました。

「……わ、わたしは、小娘ではありません!
“早苗”と、いうのです…!」


青衣が大きく口を開きました。
わたしを動かすことを諦めたのです。

【貴様は気に入らぬ!
また十年、次の犬居の娘を待てばよいわ!!】

青衣の巨大な手が襲いかかって来るのが、ひどくゆっくりに見えました。
恐怖と緊張で汗が噴き出る。しかしこのままではわたしだけでなく、逃げ遅れたお猿も巻き添えに…。

【キッ!】

わたしはとっさに、お猿の体を力の限り、遠くへ突き飛ばしました。
その時頭の中に浮かんだのは義嵐さまと…仁雷さまのお顔。そして、亡き母の面影。これが走馬灯というものでしょうか。

肉を裂く、生々しい音がしました。

しかし、不思議とわたし自身に痛みはありません。恐る恐る目を開くと…、

「あっ!」

青衣とわたしの間には、二頭の山犬がいるではありませんか。芒色と炭色の大きな山犬。それぞれが、青衣の首と腕に噛みついているのです。

「…じ、仁雷さま!義嵐さま!」

お二人の牙の餌食となった青衣は、悲痛な叫びを上げました。
体勢を崩した隙をお二人は見逃さず、息の合った動きで、青衣の体を後ろへ叩き込みます。
社殿の壁に体を何度も叩きつけられ、逃れようと暴れる青衣。
三者がもつれ合い荒れ狂う様は大嵐のよう。度重なる衝撃で、社殿全体が大きく揺れ…、

「あっ…!」

梁と天井が落ち始め、その上の岩までもが崩れ落ちて来ました。落盤が起きたのです。

「きゃっ!」

わたしは思わず、頭を抱えてその場に伏せます。
けれどそれより僅かに速く、わたしの体は誰かに抱え上げられました。

「あっ…、仁………!」

人の姿の仁雷さまです。
山犬の姿の義嵐さまが盾となり、わたし達三人は崩れ行く社殿から、間一髪外へ脱出しました。


「……はぁっ、はぁ…!」

背後を振り返り、わたしは唖然とします。
朱塗りの柱は見事に折れ、社殿全体が崩壊してしまいました。
ですが、九死に一生というべきか、崩壊したのは最奥の社殿のみ。大勢のお猿の住む民家や蔵のある一帯の天井は、綺麗な切り出しのおかげか、落盤は起こっていませんでした。

今しがた何が起こったのか。混乱する頭を必死に整理していると、

「…っ!」

誰かに強く抱きしめられました。
男の人の広い胸。覚えのある匂い…。

「…じ、仁雷さま…!助けに、来てくださったのですね…!」

芒色の髪の仁雷さまでした。
仁雷さまは何も言わずに強く…雉喰いの時よりも強く、わたしを抱きしめます。
今回ばかりはわたしも、本当に死を意識してしまったものだから、

「……っ。」

そしてひどく安心してしまったものだから、仁雷さまの胸に顔を埋めて、声を殺して、ほんの少しだけ涙を滲ませました。

傍らの義嵐さまも、何も言わずにわたしの頭を撫でてくださいます。
それがさらに、わたしの涙を誘うのでした。