「奈菜!お行儀よく食べなさい。」
幼い頃からうちは躾が厳しかった。食事中は正座で背筋を伸ばして食べないと背中を叩かれ、万が一残飯が出た場合には次の食事は半分の量だった。
運動はしなくていい、勉強だけしていればいいのだと教わってきたのは、やはり家計を継ぐためだ。私の家は代々日本古来の貴重遺産の展示や一部販売をする大手企業の社長だった。だから、一人娘の私は会社を継ぐ道しか選択肢になかったのだ。正直なところ、私は社長として会社を継ぐよりモデルやインフルエンサーとして活躍したかった。そんな夢を持っていたが、両親に逆らうことは許されず気付くとそんなことは出来ないと自分で自分を一蹴していた。
私が小学校にあがった頃、桜に出会った。私が初めて学校で言葉を交わしたのが桜だった。桜は内気な私と正反対で社交的な上にスタイル抜群で美人だった。髪はボブに切り揃えていて当時ロングヘアをひと結びにしていた私は彼女の髪型に憧れた。ボブはまさに彼女の為にあるのだと言っても過言ではないくらいの勢いで似合っていた。
ある日の校外学習で、桜を見ていた私は異変に気がついた。顔から色を失い、唇が真っ青な桜がいた。
周りは気づいていないようだった。
「桜ちゃん大丈夫?」
思わず声をかけると彼女は辛そうに顔を上げた。私は彼女の返事を待つ前に先生に報告した。彼女は救急で保健室に連れていかれた。私はそれを遠く見届けた。変態のようだが、顔が真っ青で体調不良の彼女も綺麗だった。もう彼女と言葉を交わすことがないと思うと少し寂しかった。
「この間はありがとう。」
席について本を開いていると、目の前には彼女が居てそういった。突然の事でなんのことか分からなかったけれど、この間の保健室の件を思い出した。
「だ、大丈夫だった?」
「あの後少し休んだら良くなった。軽い貧血だったのかも。奈菜ちゃんが気付いてくれなかったら私倒れてたかもしれないって保健室の先生に言われたの。だからありがとう。」
「うん。」
彼女はニコッと笑って席に戻って言った。彼女の綺麗な目元をあんなに間近で見たのは初めてで心臓が波打つ感覚を覚えた。今度は、自分から話しかけようと思った。彼女とたった数言交わしただけでも今日はいい一日だと言えた。彼女は私にとっての高嶺の花のような存在だった。
それから彼女が一人の隙を見て話すようになった。何色が好きかとか、どんな食べ物が好きかとかそんな他愛ない話をして休み時間をすごした。彼女は人気があって一緒にいられない時もあったが、彼女は彼女なりに私のそばにいてくれるようになって気が付いたら互いに親友になっていた。
ある日、桜を置いて一人でトイレに向かった。中から声が聞こえてきて足を止めた。
「桜ちゃんめっちゃ可愛いよね」
「うん!モデルさんみたいに目が大きくて手足も長いし、私もあんな風になりたいな。」
桜が周りからいい印象を持たれてどんどん人気になっていく姿が美しかった。それが私の嬉しさでもあったから。その高嶺の桜と私は親友なんだと思うと一気に自分のくらいが上がったようで胸を張りたくなった。
「でも、奈菜ちゃんは…ね。」
「うん、こんなこと言ったら失礼だけど桜ちゃんの隣歩くんだったら鏡見てって感じ。」
「まあ、桜ちゃんの親友だから私達が言ってもどうもならないけどね。」
そこまで聞いて、トイレに入ることはもちろん出来ずとぼとぼと、教室へ戻った。教室では桜が待っている。私の気持ちが下がったのに気が付いたのか、「どうした?」と顔を覗き込んだ。
「なんでもない」そう言おうとしたのに、桜の優しすぎる表情を見て、本当の事しか話しては行けないような気がした。
「あのさ、」
私はトイレでの出来事を話した。言っていて自分でも性格悪いなと思う。桜のことを褒めておいて自分は被害者面。慰めを心待ちにしているようで気持ちが悪い。でも、桜がずっと相槌を打って聞いてくれているから、その瞳が私を溶け込むようで話は止めなかった。
「そっか。」
全て話し終えると、話した私を慰めるようにそっとそういった。あまりにも自然で内心驚く。次の瞬間には私の体を優しいものが包み込んでいた。桜だと気づいたのはその数秒後で、しばらく固まっているしか無かった。
「周りがどんなことを言おうと、私は奈菜の親友だから。忘れないで。」
「うん、ありがとう。」
桜の体に顔をうずめた。柔軟剤のいい香りがして心地よかった。周りの視線など気にならなかった。私は、ずっと桜について行くと決心した。
その日は気分がいいまま帰宅した。家に入った途端、体に力が入る。行儀よく、いい子で勉強に努める。それが我が家のルールだった。
「ただいま帰りました。」
「おかえりなさい。奈菜」
母親が出迎える。私は手を洗うと、通りに置かれた高級な壺や陶芸品を割らないように自室へ向かった。襖を開けると畳で布団が敷いてある八畳程の部屋がある。広さには感謝しているが、床畳の点が気に入っていなかった。うちは全て和風で統一されているから私の部屋だけ洋風に帰ることは不可能なのだ。以前桜の家に行った時、フローリングで可愛らしいベッドを見た時は驚いた。みんなああいう部屋を持っていると思うと悔しくなった。うちは金持ちなのになんで満足出来ないんだと苦しくなった。いずれ、もう考えることは無駄と化し無意識で過ごすようにした。何かと不満な出来事を考えるよりはだいぶ良かった。
家は常にしんと静まり返っている。私に挨拶をしたら、お母さんは私と話さない。これもいつだかにお父さんが決めたルールなのかもしれない。こう、時々考えると胸がしぼんでいくように寂しくなる。家族ってもっと賑やかで楽しいものじゃないの?今日学校どうだった?とか話すものじゃないの?
よくクラスの男子が母親の愚痴を言っているの聞くがそれは私にとってとても羨ましい事だった。親が子供を気にかけてくれている。どんなに鬱陶しくってもそう言ってくれる親が欲しかった。そうならないことはわかっているはずなのに、ずっと淡い期待を持ち続ける私は要するに馬鹿なのか。桜が羨ましかった。桜のお母さんは桜と一緒でとても綺麗でスタイルもよくて、とっても優しい。家に友達を入れることは無論禁止だから、桜をの家にしか行ったことが無いけど桜のお母さんは美味しい洋菓子とジュースを出してくれた。うちは殆ど和食で洋食、しかも洋菓子なんて食べる機会が無かったからラングドシャのサクッとした食感と甘さは今でも覚えている。
「…っと、」
ダメダメ。想像したらどんどん被害妄想が酷くなっていく。私は恵まれているんだ。社長の家に生まれ、お金に困ることはなく、美味しい和食が出てくる。そう、私は幸せ。表面上は。
「奈菜は良いよね。お金持ちで」
久々に学校でそんなことを言われた。桜が仲良くしている子達のグループと仕方なく話しているときだった。
「え」
なんと返せばいいのか迷う。「そんなことないよ」というのが典型的だが、うちは控えめに言っても金持ち。だから否定したら厄介なことになりそうだ。じゃあ、何?「ありがとう」も違うし、「○○ちゃんもじゃん。」というわけにもいかない。
「あゆみ、そういうこと言うならあんただって大人になって大企業にでも就職したら?そうすればあんたが望む金持ちに近付くんじゃない?」
あゆみという子はバツが悪そうに連れの子達を連れて行ってしまった。
「はぁー、あういう子ってめんどい。」
「ありがと」
いいよーと、力が全く入っていない声で言った。その声が妙に好きだった。
「ああ言って困らせる子って結局は自分の理想を嫌味たらしく見せつけてるだけなんだよ。奈菜が気にする必要は全くない。」
「うん。」
私も桜のようにはっきり物事を口にすることが出来たらどれだけ良いのだろう。嫌なことは嫌って、好きなことは大好きって思いっきり楽しめる時が私に来るのだろうか。
その勇気を乗せた風は、まだ吹きそうにない。
数日後の放課後に桜が私を体育館倉庫に呼び出した。
「どうしたの?こんなとこ…」
私が言葉を止めたのは、目の前に空川という女の子が立っているのが見えたからだ。下を向いて立っている。下の名前は確か、悠花だったかな。
「奈菜、この子芽衣を虐めたんだってー。」
芽衣は、最近私達と仲良くしている子の一人だった。空川さんが少し顔を上げた。
「…虐めてないけど。」
「うるさい」
桜が空川さんの胸ぐらを掴んで上に引き上げる。彼女は全く抵抗しないで体を委ねているように見えた。この子が芽衣をいじめたと思うとよく分からない気持ちになった。きっと非日常的だったからだ。
「っ」
息を思い切り吸ったら変な声が出た。いつもあんなに優しくて可愛いのに今桜は全然違う。
「いつもの桜じゃないの」
「さあ、分からないの、私も。」
空川さんが、逸らしていた目を戻した。
「だから、私は芽衣を虐めて…」
ゴンッと鈍い音がして反射的に目をつぶる。恐る恐る目を開けると息を切らした桜と、床に尻もちをついた空川さんがいた。
「うるせー、口答えすんなよ」
桜が今までに見た事がないような鋭い目付きで空川さんを睨んでいた。空川さんはそれに睨み返しているけど、クラスの中心という良いレッテルを貼られた桜にやり返すつもりはなさそうだった。
「うざ」
そうセリフを残して、桜が立ち去ろうとしたから私も仕方なくついて行った。空川さんの視線が痛かった。
体育館からでると、桜が謝った。
「ごめんね、奈菜まで巻き込んじゃって。」
そんなこと、まるで気にしていないよ。と言わんばかりの笑顔で期限を損ねないように
「どうして空川さんに手をあげたの?」
という。芽衣を虐めていたからだけど、それだけでいじめを働くかと疑問だったからだ。桜は自分がスクールカーストの頂点に立っていることを自覚しているはずなのに、今まで好き勝手やることは無かった。多少嫌なことがあっても愚痴を言わなかったのに。
なにか理由がありそうだった。
「なんか、芽衣をいじめていたって聞いた時私の大切な友達をいじめるなんて最低、って思うだけじゃ済まなくて、手が出てた。行けないことだって分かってるつもりだけど。」
「そうなんだ。」
私の時もそうしてくれるかな。勿論だよね。私はずっと前から、芽衣の前から桜の親友だもんね。私を虐めた相手には手を上げるくらい怒ってくれるよね。
そんな不安がよぎったのは何故だろう。私は彼女を信じている。信じている。
だから、ついて行くことに決めた。桜がやっている事に一生ついて行く。その善悪は今の私には無関係である。
「桜、大好き」
「うん、私も」
大好きと笑う彼女にずっとついていく。
それから、いじめは続いた。
放課後、桜は空川さんを連れて体育館倉庫に行く。私は黙ってついていく。時々友達の夕を連れていくこともあった。しかし、今日は芽衣もいた。桜が呼んだのだという。
「あんたを虐めた相手なんでしょ、仕返しに一回やったら?」
芽衣の手は震えていた。立っていることすらもままならないようで支えが必要だと思ったくらいだ。
「あんたが一発殴るまで帰らないから。」
嫌だ。早く帰らないとお母さんに怒られるのに。そう思ったが何も言えず、ただ早く殴れって無言の圧力をかけることしか出来ない。我ながら自分が最低だと感じた。私が同じ立場だったらその場にたっていることも出来ないだろう。
早く早く早く。私も嫌だよ。
「奈菜もやったら」
は?なんで。頭に血が上る感覚を覚える。
「はーやーく。私も帰りたいんだよ。」
でも、自分が言った手前辞めるとは言えないのか。私はこの子を殴ることは出来ない。桜が私を見る。その視線に押されて空川さんの方へ歩む。自分が殴ることで完全に加害者になってしまうことが頭に浮かぶ。このいじめがバレた時、「私は見ていただけでした」と言い訳出来ない。それをお母さんに知られたら、うちは大きな損害を受けるかもしれない。『いじめをしていた子の親がやっている会社』とレッテルを貼られれば、この先大きく変わってくる。
いじめはやっていけない、やりたくない思いと桜に一生ついて行くと決めた自分の決意とが葛藤を繰り返している。鼓動が高鳴る。
空川さんの前に来る。空川さんの表情が一気に鮮明に見えるようになる。くっきりとした潤潤しい目が一瞬交わる。私に手を上げられることを怖がる様子は無かった。どうぞと言っているようだ。そう見えるだけなのかもしれないけれど。
その場の雰囲気に私は飲まれている。その空気に身を委ねるように手を上げた。
バンッと重苦しい音が倉庫に響く。気付けば私の拳は、空川さんの丁度肩関節の部分に入っていた。
「痛っ」
「あ、ごめん。」
思わず謝ってしまうと罰が悪くなる。今すぐにでもこの場所から抜け出したかった。
手のひらには、まだ空川さんを殴ったあとの感覚が残っていてそれに苛立った。あぁ私はやってしまった。もう引き返せない、私はいじめの加害者だ。
その次、桜は夕に言った。夕はなんの抵抗も見せることなく鋭く強く体を傷つけた。空川さんはもう限界に近づいている気がした。体も、心も。
芽衣も同じように命令された。芽衣は、私と同じように立ちすくんだまま、動き出そうとしなかった。
「早くしろよ、奈菜も夕もやったよ?」
桜に言われても彼女は手足を震わせたままだ。
「…私には、出来ない。」
悔しい、と思った。私だってやったよ。やりたくないけど、空川さんが可哀想で助けてあげたかったけど自分が可愛くて守りたくて仕方がないから手を上げた。あんたもやりなよ。桜の怒号が響く。
ずるい、という感情が湧き上がってきた。私は断る勇気が無くて言いなりになったのに、彼女はちゃんと自分の意見を言った。「出来ない」と、はっきり伝えた。途端に悔しさが蘇った。なんで手を上げてしまったのだろう。行き場の無い怒りにどうしようもなく嫌になる。
桜が倉庫から出ていくのを視界の端で捉えて仕方なく、私もついていった。金魚の糞のような存在の私を周りはどうみているのだろうか。
きっと私は、一生誰かに依存しないと生きていけないんだ。
幼い頃からうちは躾が厳しかった。食事中は正座で背筋を伸ばして食べないと背中を叩かれ、万が一残飯が出た場合には次の食事は半分の量だった。
運動はしなくていい、勉強だけしていればいいのだと教わってきたのは、やはり家計を継ぐためだ。私の家は代々日本古来の貴重遺産の展示や一部販売をする大手企業の社長だった。だから、一人娘の私は会社を継ぐ道しか選択肢になかったのだ。正直なところ、私は社長として会社を継ぐよりモデルやインフルエンサーとして活躍したかった。そんな夢を持っていたが、両親に逆らうことは許されず気付くとそんなことは出来ないと自分で自分を一蹴していた。
私が小学校にあがった頃、桜に出会った。私が初めて学校で言葉を交わしたのが桜だった。桜は内気な私と正反対で社交的な上にスタイル抜群で美人だった。髪はボブに切り揃えていて当時ロングヘアをひと結びにしていた私は彼女の髪型に憧れた。ボブはまさに彼女の為にあるのだと言っても過言ではないくらいの勢いで似合っていた。
ある日の校外学習で、桜を見ていた私は異変に気がついた。顔から色を失い、唇が真っ青な桜がいた。
周りは気づいていないようだった。
「桜ちゃん大丈夫?」
思わず声をかけると彼女は辛そうに顔を上げた。私は彼女の返事を待つ前に先生に報告した。彼女は救急で保健室に連れていかれた。私はそれを遠く見届けた。変態のようだが、顔が真っ青で体調不良の彼女も綺麗だった。もう彼女と言葉を交わすことがないと思うと少し寂しかった。
「この間はありがとう。」
席について本を開いていると、目の前には彼女が居てそういった。突然の事でなんのことか分からなかったけれど、この間の保健室の件を思い出した。
「だ、大丈夫だった?」
「あの後少し休んだら良くなった。軽い貧血だったのかも。奈菜ちゃんが気付いてくれなかったら私倒れてたかもしれないって保健室の先生に言われたの。だからありがとう。」
「うん。」
彼女はニコッと笑って席に戻って言った。彼女の綺麗な目元をあんなに間近で見たのは初めてで心臓が波打つ感覚を覚えた。今度は、自分から話しかけようと思った。彼女とたった数言交わしただけでも今日はいい一日だと言えた。彼女は私にとっての高嶺の花のような存在だった。
それから彼女が一人の隙を見て話すようになった。何色が好きかとか、どんな食べ物が好きかとかそんな他愛ない話をして休み時間をすごした。彼女は人気があって一緒にいられない時もあったが、彼女は彼女なりに私のそばにいてくれるようになって気が付いたら互いに親友になっていた。
ある日、桜を置いて一人でトイレに向かった。中から声が聞こえてきて足を止めた。
「桜ちゃんめっちゃ可愛いよね」
「うん!モデルさんみたいに目が大きくて手足も長いし、私もあんな風になりたいな。」
桜が周りからいい印象を持たれてどんどん人気になっていく姿が美しかった。それが私の嬉しさでもあったから。その高嶺の桜と私は親友なんだと思うと一気に自分のくらいが上がったようで胸を張りたくなった。
「でも、奈菜ちゃんは…ね。」
「うん、こんなこと言ったら失礼だけど桜ちゃんの隣歩くんだったら鏡見てって感じ。」
「まあ、桜ちゃんの親友だから私達が言ってもどうもならないけどね。」
そこまで聞いて、トイレに入ることはもちろん出来ずとぼとぼと、教室へ戻った。教室では桜が待っている。私の気持ちが下がったのに気が付いたのか、「どうした?」と顔を覗き込んだ。
「なんでもない」そう言おうとしたのに、桜の優しすぎる表情を見て、本当の事しか話しては行けないような気がした。
「あのさ、」
私はトイレでの出来事を話した。言っていて自分でも性格悪いなと思う。桜のことを褒めておいて自分は被害者面。慰めを心待ちにしているようで気持ちが悪い。でも、桜がずっと相槌を打って聞いてくれているから、その瞳が私を溶け込むようで話は止めなかった。
「そっか。」
全て話し終えると、話した私を慰めるようにそっとそういった。あまりにも自然で内心驚く。次の瞬間には私の体を優しいものが包み込んでいた。桜だと気づいたのはその数秒後で、しばらく固まっているしか無かった。
「周りがどんなことを言おうと、私は奈菜の親友だから。忘れないで。」
「うん、ありがとう。」
桜の体に顔をうずめた。柔軟剤のいい香りがして心地よかった。周りの視線など気にならなかった。私は、ずっと桜について行くと決心した。
その日は気分がいいまま帰宅した。家に入った途端、体に力が入る。行儀よく、いい子で勉強に努める。それが我が家のルールだった。
「ただいま帰りました。」
「おかえりなさい。奈菜」
母親が出迎える。私は手を洗うと、通りに置かれた高級な壺や陶芸品を割らないように自室へ向かった。襖を開けると畳で布団が敷いてある八畳程の部屋がある。広さには感謝しているが、床畳の点が気に入っていなかった。うちは全て和風で統一されているから私の部屋だけ洋風に帰ることは不可能なのだ。以前桜の家に行った時、フローリングで可愛らしいベッドを見た時は驚いた。みんなああいう部屋を持っていると思うと悔しくなった。うちは金持ちなのになんで満足出来ないんだと苦しくなった。いずれ、もう考えることは無駄と化し無意識で過ごすようにした。何かと不満な出来事を考えるよりはだいぶ良かった。
家は常にしんと静まり返っている。私に挨拶をしたら、お母さんは私と話さない。これもいつだかにお父さんが決めたルールなのかもしれない。こう、時々考えると胸がしぼんでいくように寂しくなる。家族ってもっと賑やかで楽しいものじゃないの?今日学校どうだった?とか話すものじゃないの?
よくクラスの男子が母親の愚痴を言っているの聞くがそれは私にとってとても羨ましい事だった。親が子供を気にかけてくれている。どんなに鬱陶しくってもそう言ってくれる親が欲しかった。そうならないことはわかっているはずなのに、ずっと淡い期待を持ち続ける私は要するに馬鹿なのか。桜が羨ましかった。桜のお母さんは桜と一緒でとても綺麗でスタイルもよくて、とっても優しい。家に友達を入れることは無論禁止だから、桜をの家にしか行ったことが無いけど桜のお母さんは美味しい洋菓子とジュースを出してくれた。うちは殆ど和食で洋食、しかも洋菓子なんて食べる機会が無かったからラングドシャのサクッとした食感と甘さは今でも覚えている。
「…っと、」
ダメダメ。想像したらどんどん被害妄想が酷くなっていく。私は恵まれているんだ。社長の家に生まれ、お金に困ることはなく、美味しい和食が出てくる。そう、私は幸せ。表面上は。
「奈菜は良いよね。お金持ちで」
久々に学校でそんなことを言われた。桜が仲良くしている子達のグループと仕方なく話しているときだった。
「え」
なんと返せばいいのか迷う。「そんなことないよ」というのが典型的だが、うちは控えめに言っても金持ち。だから否定したら厄介なことになりそうだ。じゃあ、何?「ありがとう」も違うし、「○○ちゃんもじゃん。」というわけにもいかない。
「あゆみ、そういうこと言うならあんただって大人になって大企業にでも就職したら?そうすればあんたが望む金持ちに近付くんじゃない?」
あゆみという子はバツが悪そうに連れの子達を連れて行ってしまった。
「はぁー、あういう子ってめんどい。」
「ありがと」
いいよーと、力が全く入っていない声で言った。その声が妙に好きだった。
「ああ言って困らせる子って結局は自分の理想を嫌味たらしく見せつけてるだけなんだよ。奈菜が気にする必要は全くない。」
「うん。」
私も桜のようにはっきり物事を口にすることが出来たらどれだけ良いのだろう。嫌なことは嫌って、好きなことは大好きって思いっきり楽しめる時が私に来るのだろうか。
その勇気を乗せた風は、まだ吹きそうにない。
数日後の放課後に桜が私を体育館倉庫に呼び出した。
「どうしたの?こんなとこ…」
私が言葉を止めたのは、目の前に空川という女の子が立っているのが見えたからだ。下を向いて立っている。下の名前は確か、悠花だったかな。
「奈菜、この子芽衣を虐めたんだってー。」
芽衣は、最近私達と仲良くしている子の一人だった。空川さんが少し顔を上げた。
「…虐めてないけど。」
「うるさい」
桜が空川さんの胸ぐらを掴んで上に引き上げる。彼女は全く抵抗しないで体を委ねているように見えた。この子が芽衣をいじめたと思うとよく分からない気持ちになった。きっと非日常的だったからだ。
「っ」
息を思い切り吸ったら変な声が出た。いつもあんなに優しくて可愛いのに今桜は全然違う。
「いつもの桜じゃないの」
「さあ、分からないの、私も。」
空川さんが、逸らしていた目を戻した。
「だから、私は芽衣を虐めて…」
ゴンッと鈍い音がして反射的に目をつぶる。恐る恐る目を開けると息を切らした桜と、床に尻もちをついた空川さんがいた。
「うるせー、口答えすんなよ」
桜が今までに見た事がないような鋭い目付きで空川さんを睨んでいた。空川さんはそれに睨み返しているけど、クラスの中心という良いレッテルを貼られた桜にやり返すつもりはなさそうだった。
「うざ」
そうセリフを残して、桜が立ち去ろうとしたから私も仕方なくついて行った。空川さんの視線が痛かった。
体育館からでると、桜が謝った。
「ごめんね、奈菜まで巻き込んじゃって。」
そんなこと、まるで気にしていないよ。と言わんばかりの笑顔で期限を損ねないように
「どうして空川さんに手をあげたの?」
という。芽衣を虐めていたからだけど、それだけでいじめを働くかと疑問だったからだ。桜は自分がスクールカーストの頂点に立っていることを自覚しているはずなのに、今まで好き勝手やることは無かった。多少嫌なことがあっても愚痴を言わなかったのに。
なにか理由がありそうだった。
「なんか、芽衣をいじめていたって聞いた時私の大切な友達をいじめるなんて最低、って思うだけじゃ済まなくて、手が出てた。行けないことだって分かってるつもりだけど。」
「そうなんだ。」
私の時もそうしてくれるかな。勿論だよね。私はずっと前から、芽衣の前から桜の親友だもんね。私を虐めた相手には手を上げるくらい怒ってくれるよね。
そんな不安がよぎったのは何故だろう。私は彼女を信じている。信じている。
だから、ついて行くことに決めた。桜がやっている事に一生ついて行く。その善悪は今の私には無関係である。
「桜、大好き」
「うん、私も」
大好きと笑う彼女にずっとついていく。
それから、いじめは続いた。
放課後、桜は空川さんを連れて体育館倉庫に行く。私は黙ってついていく。時々友達の夕を連れていくこともあった。しかし、今日は芽衣もいた。桜が呼んだのだという。
「あんたを虐めた相手なんでしょ、仕返しに一回やったら?」
芽衣の手は震えていた。立っていることすらもままならないようで支えが必要だと思ったくらいだ。
「あんたが一発殴るまで帰らないから。」
嫌だ。早く帰らないとお母さんに怒られるのに。そう思ったが何も言えず、ただ早く殴れって無言の圧力をかけることしか出来ない。我ながら自分が最低だと感じた。私が同じ立場だったらその場にたっていることも出来ないだろう。
早く早く早く。私も嫌だよ。
「奈菜もやったら」
は?なんで。頭に血が上る感覚を覚える。
「はーやーく。私も帰りたいんだよ。」
でも、自分が言った手前辞めるとは言えないのか。私はこの子を殴ることは出来ない。桜が私を見る。その視線に押されて空川さんの方へ歩む。自分が殴ることで完全に加害者になってしまうことが頭に浮かぶ。このいじめがバレた時、「私は見ていただけでした」と言い訳出来ない。それをお母さんに知られたら、うちは大きな損害を受けるかもしれない。『いじめをしていた子の親がやっている会社』とレッテルを貼られれば、この先大きく変わってくる。
いじめはやっていけない、やりたくない思いと桜に一生ついて行くと決めた自分の決意とが葛藤を繰り返している。鼓動が高鳴る。
空川さんの前に来る。空川さんの表情が一気に鮮明に見えるようになる。くっきりとした潤潤しい目が一瞬交わる。私に手を上げられることを怖がる様子は無かった。どうぞと言っているようだ。そう見えるだけなのかもしれないけれど。
その場の雰囲気に私は飲まれている。その空気に身を委ねるように手を上げた。
バンッと重苦しい音が倉庫に響く。気付けば私の拳は、空川さんの丁度肩関節の部分に入っていた。
「痛っ」
「あ、ごめん。」
思わず謝ってしまうと罰が悪くなる。今すぐにでもこの場所から抜け出したかった。
手のひらには、まだ空川さんを殴ったあとの感覚が残っていてそれに苛立った。あぁ私はやってしまった。もう引き返せない、私はいじめの加害者だ。
その次、桜は夕に言った。夕はなんの抵抗も見せることなく鋭く強く体を傷つけた。空川さんはもう限界に近づいている気がした。体も、心も。
芽衣も同じように命令された。芽衣は、私と同じように立ちすくんだまま、動き出そうとしなかった。
「早くしろよ、奈菜も夕もやったよ?」
桜に言われても彼女は手足を震わせたままだ。
「…私には、出来ない。」
悔しい、と思った。私だってやったよ。やりたくないけど、空川さんが可哀想で助けてあげたかったけど自分が可愛くて守りたくて仕方がないから手を上げた。あんたもやりなよ。桜の怒号が響く。
ずるい、という感情が湧き上がってきた。私は断る勇気が無くて言いなりになったのに、彼女はちゃんと自分の意見を言った。「出来ない」と、はっきり伝えた。途端に悔しさが蘇った。なんで手を上げてしまったのだろう。行き場の無い怒りにどうしようもなく嫌になる。
桜が倉庫から出ていくのを視界の端で捉えて仕方なく、私もついていった。金魚の糞のような存在の私を周りはどうみているのだろうか。
きっと私は、一生誰かに依存しないと生きていけないんだ。