小さい頃、保育園生だった私はなかなか周りと馴染むことができなかった。と言うのも、私は人と話すことがあまり得意ではなかったのだ。初めこそ、話しかけてくれる子は沢山いたものの半年くらい経つともう私に話しかけてくれる子は一人もいなかった。だから、春から冬の寒くなるまでは保育園の砂場で一人で遊び、室内では折り紙や塗り絵をして過ごすことが大半だった。そんな私の日常に転機が訪れたのは、やはりあの瞬間だろう。
「今日からみなさんに新しい仲間が増えます!」
そう機嫌の良い女の先生が紹介した少女こそが、空川悠花という子供だった。
「空川悠花です!よろしくね。」
保育園生にも関わらず、自己紹介どころか一発ギャグまで披露してしまって他の子も唖然としていた。悠花への第一印象はうるさい、だった。でも、馴染み方がめちゃくちゃ上手くてすぐにクラスの人気者になったのだ。いつも元気溌溂とした彼女に魅力を感じていたのだと思う。
「悠花ちゃん!あそぼ!」
自由時間には彼女の周りに、人集りができる。彼女は持ち前のコミュ力でその周りの子供達を笑わせるのだった。私は、ただその空間をのんびりと見つめているだけだった。
「ねえねえ、あの女の子はなんて言う名前なの?」
ある日、彼女は私を指さしていった。私は気恥ずかしくて目を逸らし、俯く。誰かが答える。
「あの子は、広森芽依ちゃん。全然喋らなくてつまらない子だからこっちで遊ぼ!」
まだ幼い子供たちはオブラートに包むと言う事を知らない。ズバズバとあまりにも強く言われ、目が潤んだ。
「ふーん。」
彼女はただ冷たくそう言っただけだった。私は落胆した。どこかで、声をかけてくれてくれるのを期待していたのかもしれない。そんな自分が嫌いだった。
彼女は、人だかりを嗅ぎ分けてこちらへ歩いてきた。なんだよ、あんたまで私のことを馬鹿にするんだろう?と思いながらも、心臓がどくどくとなるのを感じていた。
「私、悠花。芽依ちゃんよろしくね!」
目の前で立ち止まると、彼女はそんなことを言った。この瞬間だと思う、私の転機は。屈託のない笑顔を見せてそう言う彼女に周りの奴らも私も、唖然とした。
「うん。」
なんとか声を絞り出したがその声はあまりにも、格好が悪いか弱い声で自分の体からこんな声が出るのかと、どこか冷静に実感していた。
翌日も、彼女は私の元へとやってきて「遊ぼ」と言った。特にやることもなく、砂遊びにも飽きていたので従うことにした。フラフープや縄跳びを使って遊ぶのは初めてではなかったけれど、久々だった。私は知らないうちに笑顔になって明日が来るのを心待ちにしていた。心配していた母も先生も安心したようだった。
ある朝、るんるんで保育園に行くと自分の机の中に虫の死骸が何匹か入っていた。驚いって小さく悲鳴をあげると、後ろの方で戯れていた男女の集いがこちらを向いて笑った。あいつらがやったのは明らかだった。するとすぐ隣から声が聞こえたのである。
「誰?芽依ちゃんにこんなことしたの。最低!」
悠花だった。自分の心の叫びを代弁してくれたようだった。悠花が言うと周りも静かになって、男女の集いもどこかへ逃げていった。この時、私は悠花といれば絶対安心だと言うことに気がついた。私への嫌がらせは無くなったし、それどころか少人数の女子が私に話しかけてくれるようになった。ずっと同じ年の子と話していなくて会話が弾まないたびに、申し訳なかったけれど悠花がフォローしてくれていたからか段々と話すことに違和感がなくなってきていた。
「芽依ちゃんのお母さんとお父さんはなんの仕事をしてるの?」
ある日そんなことを尋ねられたことがあり、お母さんは専業主婦でお父さんは会社員と答えた。
「私のお父さんは会社の社長をしてるんだよ!だから私も社長になるの!」
悠花の父親がどのくらいの会社の社長を務めているのかは全く分からなかったけれど、なんとなく悠花の家はお金持ちだと言うことはわかった。今の私だったらそう言われたことに怒りを覚えるのだろう。自慢としか解釈できないからだ。でも当時はあの歳で夢を胸張って言える悠花のことがすごいと思って、勢いで私も社長になってみたいと言った。ただの真似事に過ぎなかった。
「芽依ちゃんは無理だよ。だってお父さんが会社員なんでしょ?うちはお父さんの会社をついで社長になれるけど、芽依ちゃんとこはものすごい努力をしないとダメだって言ってたもん。」
お互い幼くて、分からないことが多かったから二人ともムキになって喧嘩した。悠花と喧嘩したのは初めてだった。
「無理じゃないもん。私も社長になれるもん!」
「なれないの!私の方が上なんだから!」
“私の方が上なんだから”そう言われて気がついた。彼女だけは私を馬鹿になんてしないと思っていたのに、結局みんな私のことを見下していたのだ。
「もう…悠花ちゃんなんて大っ嫌い!」
泣きながらトイレに駆け込んだ。私は嗚咽に耐えられず嘔吐した。そのことは誰にも気付かれることはなかった。
些細な一度きりの喧嘩で、私たちの友情は終わりを告げた。
次の日は、保育園を休んだ。次の日も、次の日も。休む度に行く気が失せて、小学校に上がるまで全く保育園に行かなかった。悠花は何度か謝りにうちへ来たみたいだったけど、私が出ることはなかった。
小学校に上がって、運よく私たちは違うクラスになった。新しい小学校生活は少なからず胸が躍った。その中で、私は染井夕と言う女の子と仲良くなった。歳の関係もあるかもしれないが、夕は私を全く馬鹿にしなかった。いつも私と対等でいてくれた。テストで私よりも高い点数を取った時も「あと少しだったじゃん、惜しい!」って慰めてくれたし、次は二人でいい点数取ろう、と言ってくれたこともあった。それが私に取ってはすごく大切な一言になって、悠花との出来事は過去になった。
「芽依〜、私の家の近くにめちゃめちゃ景色がいい丘があるんだって!今日の放課後行ってみない?」
そう言われてもちろん承諾の返事をした。
放課後、互いに赤色と紫色のランドセルを揺らしながら坂を登った。小学二年生の時だった。
息を切らしながら辿り着いた丘は、想像以上に高所にあって街全体が見渡せた。
「すごい綺麗!」
二人とも感激した。空は夕日で橙色に染まり、グラデーションができていた。
「あっあれ私の家だ。」
自分の家の屋根を見つけた時、心底嬉しさに満たされたのを覚えている。ずっとこの場所で夕と一緒にいたいと思った。暗くなるまで、その景色を眺めていた。以来、この場所は私と夕に取ってかけがえのない大切な空間になった。二人の秘密だよと約束して小指を繋いだ時の高揚感は忘れられない。
とある日、私と夕は放課後にあの丘へ来ていた。ここで、他愛ない話をして夕日を見てから帰るのが日課になっていた。
「芽依、私の今までのこと聞いてくれる?」
突然夕がそんなことを言い出した。その時には小学校高学年になっていた。
「うん、何かあったの?」
「私保育園の時から周りに馴染むのが苦手でいつもひとりぼっちだった。虐められることは無かったけど日に日に孤独感に蝕まれていきそうで保育園に通うのが、辛くて行きたくなかったの。でも、小学校に上がってクラスで活躍することは無くても芽依とこうして、一緒にいられるのが本当に嬉しい。過去の自分に言ってあげたい。小学生のなればきっと先は明るいよって。」
私はずっと相槌を打ちながらその話を聞いた。私たちは同じ境遇だった。運命じゃないかと思ったくらいだ。それでも同時に悠花の存在が甦った。今頃何をしているのだろう。社長になるための勉強?それとも友達と遊んでいるのか。以前、同じクラスの女子達が噂しているのを聞いたがクラスの中心的な存在である悠花は、味方を数人つけてクラスごと支配しているらしい。何かの真似事からしれないのだが、指図や命令で気に入る人とそうでない人を区別して一緒にいるという。あの時謝りに来たという悠花がそんなことをしているのならばきっと反省なんでこれっぽっちもしてないはず。そう考えると無性に腹が立って仕方が無かった。
「…私のことも聞いてくれる?」
夕はこくんと頷いた。
「私も保育園の時から馴染めなくていつもひとりで、時々嫌がらせを受けることもあった。その時に転入してきた女の子で悠花っていう子がいたんだけど、その子はすぐに周りの子を味方につけて私を虐めた。いじめはエスカレートして保育園に行けなくなった。」
「悠花ってとなりのクラスの?」
頷いて返事をした。
「どんないじめを受けてたの?」
私は必死に脳を動かして答えを探す。
「机に虫の死骸を入れられたりとか、水を頭からかけられたりとか」
ふと夕の顔に視線を移すと、夕は泣いていた。いつも元気で強い夕の泣いた所を見たのは初めてだった。嗚咽を漏らして号泣していた。その時に一気に罪悪感が襲ってきた。悠花は私を虐めてない。むしろ助けてくれた。いつも遊ぼって声をかけてくれた。それを私は愛と友情の塊だと感じた。
 なのに、なんで私こんなことを言ったのだろう。
「夕、泣かないで。」
「芽依、辛かったね。ごめんね。私はずっと芽依が大好きだからね。」
やっぱり夕は素直でいい子だ。その夕の表情を見たら。わたしはもう、先程の話を「ごめん、嘘なんだ」と訂正することなんて出来なかった。
 その日も日が暮れるまで二人で抱きしめ合って別れた。家に帰ると、母と父が言い争っている。最近になって私の両親は、喧嘩を繰り返している。
「ちょっとくらい手伝ってくれてもいいじゃない!」
「俺は朝から仕事で疲れてんだよ!日中だらけてるお前に言われる筋合いはねぇよ!」
もう少しで父の手が上がりそうで、怖気付く。両親の怖いところは、喧嘩が始まると私が帰ってきてもまるでいなかったもののように無視して、喧嘩を続けるところだ。横では、まだ幼い妹が寝ているというのに。子供ながらにこんな大人にはなりたくないと感じている自分がいた。
両親の声が嫌でも耳に入ってくるのが嫌で、寝室の布団を頭から被って一晩中泣いていた。父は、家を出ていったようだった。母は、食事の準備もしないでただ、ぼうっと机に向かっていた。無気力で光のない母の瞳は今でも忘れられない。
 この日からだった。最悪の事態の始まりは。
小学生生活も終わりを告げようとしていた二月の下旬。私はいつも通りに登校する。すると、席が近いクラスの女子から悠花のことを噂された。
「隣のクラスの悠花ちゃんが桜ちゃんに虐められてるらしいよ」
「え?そうなの?」
桜は、この学校の頂点で中心的人物と言っても過言ではない程、大きな存在だ。私が悠花と喧嘩して、夕と仲良くするようになってから夕を通じて仲良くする時が増えていた。もともと桜をよく思っていない人も多くて、一概に彼女を肯定することも出来ない。大胆で元気な彼女は人を虐めていたという噂をどう感じているのだろうか。悠花が初めてではない。その前もその前もこのような噂があったことは覚えている。
「桜ちゃんって自己中だよね。」
一人の少女が言った。
「うん、自分が一番偉いみたいな雰囲気が苦手かも」
もうひとりが続けた。この子達に彼女の何がわかるというのだろう。ろくに関わりもしないあんた達に。桜は気が強いと思われがちだし、実際そんな時もあるかもしれないけど友達を大切にして心から愛してくれている。それを知っている者が彼女と本当の友達として、関わっていけると私は思う。彼女たちは、陰でそんなことを言っておきながら実際に悠花を助けたりはしない。ただ愚痴るだけの人間だ。すごく弱い生き物なんだ。そう彼女らを軽く罵っておきながらも、悠花が桜に虐めれていることについて多少の安心感を抱く自分がいた。「私の方が上なの!」と叫んだ彼女は、今どんな気持ちでいるのだろう。後悔していればいい。
 そんなことを思っていると、いつの間にか彼女らは席を離れていた。チャイムがなって各々席に着いた。

休み時間。夕に悠花のことを話していた。
「桜に虐められてるって本当?」
「うん、そうらしいよ」
不自然な程に彼女が軽い返事をしたので拍子抜けしてしまう。
「大丈夫なのかな。」
「そんなに酷くないらしいよ。桜もそう言ってた、奈菜も。」
「そっか…」
それだけで会話が途切れる。私がもっと嫌なことに関わってしまうのは、その放課後の事だった。
「芽依〜!」
桜がこちらに来る。後ろには奈菜もついていた。
「あのさ、お願いがあるんだけど。」
彼女は自分が悠花を虐めていることを黙っていて欲しいと懇願した。
「それか、芽依も一緒にするか。」
一緒にというのは、いじめのことだろう。悠花と私が以前に友達であったことは知らないはずだった。
「いいよ、黙っておくよ。だからいじめをするのは私は辞めておこうかな。」
桜に嫌な顔をされそうで不安が過ったが、桜はOK!と笑っただけだった。心から安堵した。桜と話すのは、今でも緊張する。一言間違えるだけで私はカーストが下がる。下がれば下がるほど、酷い扱いを受けるようになり人間のしての価値を失ってしまう。奴隷、パシリと言うやつだ。今までに何度もその目にあった人を見てきた私は、絶対に自分がそうなる訳にはいかなかった。

それから数日後のことだった。
「芽依〜」
桜と奈菜がニヤニヤしながらこちらへ来る。何かしたかと一気に緊張が走った。
「ねえ、私たちが悠花のこと虐めてるの誰かに言った?」
全力で首を横に振る。
「本当?じゃあ何であの陰キャグループがその事知ってんの?」
桜曰く、静かめのグループが悠花について話しているのを聞いてしまったらしい。自分は芽依以外に言ってないのに、と嫌味らしく言ってくる。私は本当にバラしていなかった。
「本当に私じゃないよ」
「うん、私も芽依のことは信じたいけどさ。私、あんた以外に言ってないわけ。もう信じるしかないのよ」
そう言いながら私を睨んで、軽く胸ぐらを掴まれた。瞬間の出来事に驚いて反射的に避けてしまう。
「じゃ、明日の放課後体育館倉庫の前で」
「え?」
今まで口を開かなかった奈菜が「いじめに加担するってこと」と言った。膝に力が入らなくて、その場に座り込んだ。
どうして、学校というのはこうなってしまうのだろう。奴隷だよ、このままじゃあ。桜や奈菜みたいな中心人物に皆が頭を下げる。ペコペコしてゴマをすって自分のカーストを上げていく。この世界が、私は嫌い。きっと、性にあわないんだと思う。
明日、学校に行くのが苦痛で仕方ないが休んだら桜に何をされるかわからなくて、登校するしか無かった。
朝、学校に行くと桜が言っていたあの静かめなグループが悠花のことを話しているのを耳にした。
「ねえ、悠花のこと知ってるの?」
私が声をかけたのが不思議でたまらないと言ったように、ポカーンとしていたが「たまたま見てしまって」と答えた。
「どこで?」
「体育館の倉庫です。大体毎日悠花ちゃんをそこに呼び出して虐めてるそうです。桜さんと奈菜ちゃんと夕ちゃんが」
えっ、夕も。と思った。私には一度もそんなことを言ってくれなかったから、悔しかった。話している子が桜だけをさん付けしているのも癇に障る。
「そう。」
黙って席に着く。私が悠花を虐めたら、彼女はどう思うだろう。きっと一生私を許してくれることは無い。というか、桜も奈菜もいじめている自覚は十分あるのにやるというのは、相当な恨みがあるのだろうか。
授業もうわの空で聞き流していると、放課後になっていた。このまま逃げられる気もしたけど、桜が一緒に遊ぶようなノリで私を体育館の倉庫に行くように言ってきて、行くしか無かった。
倉庫の中には跳び箱、バスケットボール、バレーボール、マットなどいつも体育で使っているものから小学校以来の懐かしい道具もある。古くなった道具の誇りの匂いが鼻腔をくすぐる。床はひんやりと冷たくて静かだった。そして、目の前には桜と奈菜に加えて悠花が立っている。指先を体の前で結ぶようにして足を閉じて立っている。俯いていて表情は読めない。
「あんた、ウザイんだよね」
桜がそう言って彼女の胸ぐらを掴む。彼女の制服は一瞬にして乱れ、桜の力に身を委ねていた。顔をずっと俯いて見えないままだった。
「どこがウザイの」
一瞬誰の声か分からなかったが悠花が喋ったか細い声が倉庫に響いた。
「あ?全部だよ全部。親が金持ちだからって調子乗りあがって。」
桜が悠花を思い切り殴った。桜の拳は彼女のみぞおちを直撃した。彼女は後ろに突き飛ばされて倒れ込む。
ダメだよ、悠花を助けないと。もう一人の自分が問い掛けてくる。助けなくていいの?悠花はあなたの為に話しかけてくれたんだよ、そのお陰で今のあなたがいるんだよ。
「…ちょっと、やり過ぎじゃない?」
気づいたら声が出ていた。桜と奈菜が振り返る。私の影が薄すぎたのか、私がいることに気付いていなさそうだった悠花も顔を上げる。彼女の顔が強ばったのがわかった。
「は?まだこんなの序の口じゃん。ねえ奈菜」
「そ、そうだよ。こいつに自分がどんな態度をとってきたか分からせてやらないと。」
何か言わなきゃと、脳が必死に考えている気がするがもう一度口を開くことは出来なかった。怖くて仕方が無かった。一番怖いのは悠花のはずなのに。
「ま、いいや。今日は私も早く帰りたいし」
そう言って桜は一人、足を外へ向けた。奈菜が急いでその後を追った。
これで倉庫の中で私と悠花は二人きりになったら。気まずい雰囲気が充満している。バツが悪くて私も帰ろうとする。今日は私が手をあげなくて済んだのだから。
「ねえ、芽依?待ってよ」
後ろへ動かした足が止まった。反射的に振り向くと悠花も顔を上げていた。目は赤く腫れ、白い陶器肌にその涙を含んだ大きな目が映えている。こんなに綺麗な顔だったっけ、と思うと私と悠花との思い出がもう昔のことになっていることを感じた。
「ごめんね」
私はそう言って、彼女に背を向けて歩いた。絶対に振り向かないと決めた。この私の弱い心で。でないと私は罪悪感に押しつぶされて息が出来なくなると思った。体育館を出ても尚、悠花の視線がずっと私の背中を見ている気がしてならなかった。それは夜まで続いた。
私が初めて、いじめの現場を見た日だった。
次の日もまた次の日も、週が開けてもいじめは続いた。私もその度に体育館倉庫に行かなければならなかった。日に日に目から光が消えうせていく悠花を見ているのが本当に辛かった。桜が中心になって暴言を吐く。ウザイんだよ、消えろ。いつしか悠花に言われていたその言葉は私自身を蝕んでいった。私はこれを望んだわけではなかった。ただ、悠花ともう一度やり直したかっただけだったことに気付いた。
私はいつから間違えてしまったのだろうか。
「おーい、芽依」
びくりと体を震わせ、現実に戻ってきていた。目の前には桜も奈菜も夕もいる。そして、悠花も。
私が思考をめぐらせているうちに、何発も殴られていたみたいだった。もう既に、彼女は手足を震わせて倒れているし、左目の辺りには大きな青あざがあった。その痣を見た時は流石に驚いた。目が腫れていた。
「ねえ、次芽依だよ?」
次?順番に彼女を殴っていたのか。だから、体のあちらこちらに痣が見えるのだ。流石に、私は彼女に手を挙げることは出来なかった。
「ねえ、早く」
三人の視線が痛い。でもここで手を挙げたら私は加害者になる。手が震えて、命令通りに動けなかった。
「…ごめん。できない。」
自分から出たとは思えないくらい小さな声が広い倉庫に響いた。奈菜と夕が「桜の命令は絶対なのに」という目で見てくるのがまた、鬱陶しい。
「はぁ?奈菜も夕もやったよ?」
「…でも、私にはできない。」
悠花が今、どんな表情をしているのか読むことは出来ない。痛さでそれどころでは無いかもしれない。
「じゃあ、今日は芽依が悠花に手を上げるまで帰らないから」
奈菜と夕が有り得ない、早く殴れよ。そう言っている気がして胸が痛い。心臓が今にも爆発しそうなくらい音を立てて鳴っている。
「早く帰りたいから、早く殴れよ」
桜が言った。その目が怖くて思わず後ずさる。
「早くしてよ」
三人が一斉に声の主の方を見る。私もそれに倣ってその方を向く。「早くしてよ」と言ったのは悠花だった。
「私はウザイ奴なんだよ。虐められて当然なんだよ。早く殴れよ芽依」
私達が友達だったことは夕にしか話していなかった。だから今、目に手を添えながら懸命に声を出す彼女を見て桜と奈菜は、信じられないと言った表情で彼女を見ていた。
「私のことはもういいんだよ。芽依、あんただって私のことが憎いでしょう?」
「そんなことない。私は今でも、悠花とやり直せられればどれほどいいかって思ってるよ。」
「じゃあ、どうしてここにいるの?この子にお願いされたの?自分できたの?」
それに答えることは出来なかった。桜の前で桜に命令されたと言われれば私も標的にされてしまうこと間違いなかった。
「私にはできない。」
いつしか、二人とも泣いていた。泣きながら訴えていた。悠花は極限まで自分が追い詰められても、私を守ろうとしている。そのことに気付くと涙をこられることは出来なかった。
「さっさと殴れよ!」
ついに悠花が怒鳴った。私のためだと分かった。
「無理だよ!出来ない!」
顔をぐちゃぐちゃにしながら返した。悠花の優しさに甘えたくなかった。
桜は溜息をついて出ていった。私が最後まで手を上げないことに苛立ったのだろう。その溜息には相当の嫌味が込められていた。
「覚えとけよ」
そう言われた気がして、また怖気付く。桜がいなくなれば奈菜も夕も出ていった。夕まで行ってしまったことが、少し残念だった。
私は悠花に駆け寄る。近くで見たら、痣がもっと痛々しく見えた。
「ありがとう」
「ごめんね」
互いにそう言い合った。私たちの間には何か暖かいものが纏っていた。
その日、彼女と私は一緒に帰った。足が痛くて上手く歩けない彼女に肩を貸して。私は悠花と和解できたと思って安堵した。これからは今まで通りに話せるかもしれない。あの時悪かったのは私。助けてもらったのに自ら彼女を突き放し、拒絶した。でも、これからならまた、彼女と一緒にいられるかもしれないという期待が過ぎった。
「悠花のお母さんにはいじめのこと話したの?」
「話してない。でも、こんな痣つけて帰ったら即バレだよね。」
参ったな、と痣の付近に手を当てる。彼女の母はとても悠花のことを愛していて、且つ友達の私のことも大切に思ってくれていた。愛している自分の子供が他所の子供に痣を付けられて帰ってきたら、そう考えると胸が痛む。
「悠花、あの時は本当にごめんね。私が悪かった。もし良ければこれからも友達でいて欲しい。」
立ち止まって頭を下げた。今の悠花がどう思っているのかを知りたかった。
「私も友達でいたいよ。」
そう言って涙ながらに抱きしめ合った。
しかし、翌日から悠花は学校に来なくなった。そして、私たちのグループには新しい子が加わった。鈴木紗香という女子だ。