さよならとつぶやいて、きみは夏空に消えた



 少女がふっと、濡れたフロントガラスの向こうを見た。夕立は嘘のように通り過ぎていた。

「と、お、る」
「ほたる……?」
「もウ、かえ、ラ、ナキャ」

 きみはまた、いなくなるのか。
 現実と幻想の狭間で、また僕を救って死ぬのか。

「かエ、ル」
「行くな」
「オバア、チャンチ、カエル」

 キシキシと軋む声。
 おぼろげに微笑む少女。
 唇の端が持ち上がり、榛色の瞳が優しく細められる。

 最後だとわかった。

 妄想なのかもしれない。奇跡なのかもしれない。
 何が真実なのかは定かではないけれど、これで本当に最後なのだ。

 少女の魂の欠片が消えていく。
 ほたるのまぼろしが、透の心の奥底の虚ろの中から旅立っていく。



「ナカ、ナク、テ、イイ、ンダ、ヨ」

 ――泣かなくて、いいんだよ。



「ほたる」

 とめどなく涙があふれる。
 肝心な時に、前が見えない。ほたるが見えない。

「ほたる」

 埃くさい夏のアスファルトの匂い。
 黄昏の予感をほんのりと抱いて広がる、深く高い空。
 乾きはじめたフロントガラスの向こうに、大きな虹がかかっていた。

「ニ、ジ」
「うん。虹だね」

 雨と空と虹と。
 生と死と再生と。

 透は泣きながら笑った。
 失われた蛍の命を、透の中で生き生きと輝く優しいホタルの魂を笑顔で見送りたかった。



「……さ……よ……な……ら……」



 一音一音を確かめるように、少女が喉から柔らかな声を押し出した。全身を使ってかろうじて人の声を保ち、最後の音を言い終える。
 小さな声は、とけるように夏空に消えた。

「ほたる」

 少女は青空に弧を描く虹の橋を見上げ、ちらりと一瞬だけ透に視線を戻して笑った。



「    」



 雲が流れ、風が光り、

 虹が
 消えて

 少女は



「……ほたる……さよなら」



 ほんのりと杏色の滲んできた空。
 透は時の止まったままだった少年時代に別れを告げた。