23時。本当なら、私が眠りにつく時間だ。勝手に決められた就寝時刻を守っているから、塾から帰るなりすぐ風呂や寝る支度をしなければならない。
だけど今日は違う。
玄関からお父さんが帰ってくる音がした。ただいま、の声が聞こえる。
もっと厳しい声だと思っていたのに、その声は優しいものだった。まともに会話したのはいつか思い出せないほどなのだから、ズレがあるのは当たり前かもしれない。
本を読みながら、ふたりきりになれるチャンスをうかがう。お母さんは私が少しでも反抗的な態度を取ると、この世の終わりかのように喚き散らす。
そうだ、私は自分の意思で『いい子』になったんじゃない。お母さんが喚くのが嫌だから、反抗的な態度をひた隠しにして生きてきたのだ。
そこまで考えて、初めて優等生の原因に思い至る。見ないようにしたほうが楽だったからなのかもしれない。
そこで、廊下から足音が聞こえた。少し忍び足だから、きっとお母さんのものだ。寝るためなのかはわからないが、お父さんがリビングでひとりなのは確か。
意を決して、自室から廊下へ繰り出す。トイレに行くだけでも、まだ寝ていないのかと咎められることもあった。そのことを思い出すと、心臓がきゅっと締め付けられ、足がすくむ。こんな状況、変えられっこないと。
だけど、私の希望のためには戦わなくちゃいけないんだ。
一葉ちゃんの笑顔を頭に浮かべる。私のことを信頼して、素の顔を見せてくれた友達のためにも。
「お父さん、ちょっと話があるの」
今まで優等生のふりをしてきたから、こんな状態でも問題なく優等生の声が出た。可もなく不可もなく、聞き取りやすいだけの無個性な声。
あまり話さない娘から話を持ちかけられたことに驚いたのだろう、お父さんは驚いた表情を作ったものの、すぐにそれは嬉しさに変わる。
「奈々か、どうしたんだ?」
お父さんから出てきたのは起きていることを咎める言葉ではなく、私を受け入れてくれる言葉。お母さんとは違う、と悟った。私の勝手な行動を怒らない──もうそれだけで、涙が出そうになっていた。
「進路と、夏休みにあるボランティアの相談があるの」
「ああ、奈々も進路を決める時期か……」
進路を決める時期ということは、まだお父さんのなかでは私の進路は決まっていないということだろうか。
そうだといいな。しみじみとするお父さんに、私は次いで口を開く。
「あのね、私、小学校教諭になりたいんだけど」
告げると、お父さんは沈黙した。驚いている様子だ。
やっぱりお父さんは、私に裁判官になってほしかったのかな。悲しくなりつつ、言葉を発する。
「お父さんが裁判官になってほしいって思う気持ちはわかるよ。……だけど、私はずっと小学校の先生に憧れてて」
「いや、反対してるわけじゃないよ。深刻そうに言うから、YouTuberだとか芸人、アイドルになりたいって言い出すのかと思ったら、すごく真っ当な職業を言うもんだから」
軽く言ったかと思うと、お父さんは笑って「いいよ、応援してる」と言ってくれた。その様子に拍子抜けすると同時に、一葉ちゃんへの感謝が募る。
もし一葉ちゃんが背中を押してくれなかったら、お母さんしか反対していないのに夢を諦めることになっていた。
「それに、別にお父さんは奈々に裁判官を目指せなんて言ってないよ。お母さんにもね。向き不向きもあるから、奈々の好きな仕事についてほしいのが本音だよ」
お父さんは優しくもハッキリとした口調で言う。今までお母さんの言葉を盲信していたのがバカみたいだ。
だから今からは、そのバカから卒業する。
「ありがとう。……それで、もうひとつの相談なんだけど。夏休みに保育園でのボランティアがあるから、参加していい?」
「いいことじゃないか。それくらい許可を取らなくても大丈夫だよ」
お父さんの許可が取れた!
何年ぶりだろう、心が踊る。今日断ってしまったから、もう定員が埋まってしまっているかもしれないが、明日言ってみよう。もし無理だと言われても、今まで積み上げてきた信頼があるから『変なやつ』とは思われないはずだ。
──いや、思われてもいい。それが私の道なら。
「ありがとう、お父さん」
「これくらい感謝されることでもないよ」
お父さんは軽快に笑って、私の溜まった鬱憤を晴らしてくれる。お母さんなんて気にする必要はないんだと言ってくれるかのようだ。
そうだ、本当は気にする必要なんてないんだろう。
お母さんに否定されても、お父さんに否定されないなら私はこの家で生きていける。
自室に戻りながら、すぅっと息を吸い込む。まったく新しい爽やかな空気が、私の肺を満たした。
だけど今日は違う。
玄関からお父さんが帰ってくる音がした。ただいま、の声が聞こえる。
もっと厳しい声だと思っていたのに、その声は優しいものだった。まともに会話したのはいつか思い出せないほどなのだから、ズレがあるのは当たり前かもしれない。
本を読みながら、ふたりきりになれるチャンスをうかがう。お母さんは私が少しでも反抗的な態度を取ると、この世の終わりかのように喚き散らす。
そうだ、私は自分の意思で『いい子』になったんじゃない。お母さんが喚くのが嫌だから、反抗的な態度をひた隠しにして生きてきたのだ。
そこまで考えて、初めて優等生の原因に思い至る。見ないようにしたほうが楽だったからなのかもしれない。
そこで、廊下から足音が聞こえた。少し忍び足だから、きっとお母さんのものだ。寝るためなのかはわからないが、お父さんがリビングでひとりなのは確か。
意を決して、自室から廊下へ繰り出す。トイレに行くだけでも、まだ寝ていないのかと咎められることもあった。そのことを思い出すと、心臓がきゅっと締め付けられ、足がすくむ。こんな状況、変えられっこないと。
だけど、私の希望のためには戦わなくちゃいけないんだ。
一葉ちゃんの笑顔を頭に浮かべる。私のことを信頼して、素の顔を見せてくれた友達のためにも。
「お父さん、ちょっと話があるの」
今まで優等生のふりをしてきたから、こんな状態でも問題なく優等生の声が出た。可もなく不可もなく、聞き取りやすいだけの無個性な声。
あまり話さない娘から話を持ちかけられたことに驚いたのだろう、お父さんは驚いた表情を作ったものの、すぐにそれは嬉しさに変わる。
「奈々か、どうしたんだ?」
お父さんから出てきたのは起きていることを咎める言葉ではなく、私を受け入れてくれる言葉。お母さんとは違う、と悟った。私の勝手な行動を怒らない──もうそれだけで、涙が出そうになっていた。
「進路と、夏休みにあるボランティアの相談があるの」
「ああ、奈々も進路を決める時期か……」
進路を決める時期ということは、まだお父さんのなかでは私の進路は決まっていないということだろうか。
そうだといいな。しみじみとするお父さんに、私は次いで口を開く。
「あのね、私、小学校教諭になりたいんだけど」
告げると、お父さんは沈黙した。驚いている様子だ。
やっぱりお父さんは、私に裁判官になってほしかったのかな。悲しくなりつつ、言葉を発する。
「お父さんが裁判官になってほしいって思う気持ちはわかるよ。……だけど、私はずっと小学校の先生に憧れてて」
「いや、反対してるわけじゃないよ。深刻そうに言うから、YouTuberだとか芸人、アイドルになりたいって言い出すのかと思ったら、すごく真っ当な職業を言うもんだから」
軽く言ったかと思うと、お父さんは笑って「いいよ、応援してる」と言ってくれた。その様子に拍子抜けすると同時に、一葉ちゃんへの感謝が募る。
もし一葉ちゃんが背中を押してくれなかったら、お母さんしか反対していないのに夢を諦めることになっていた。
「それに、別にお父さんは奈々に裁判官を目指せなんて言ってないよ。お母さんにもね。向き不向きもあるから、奈々の好きな仕事についてほしいのが本音だよ」
お父さんは優しくもハッキリとした口調で言う。今までお母さんの言葉を盲信していたのがバカみたいだ。
だから今からは、そのバカから卒業する。
「ありがとう。……それで、もうひとつの相談なんだけど。夏休みに保育園でのボランティアがあるから、参加していい?」
「いいことじゃないか。それくらい許可を取らなくても大丈夫だよ」
お父さんの許可が取れた!
何年ぶりだろう、心が踊る。今日断ってしまったから、もう定員が埋まってしまっているかもしれないが、明日言ってみよう。もし無理だと言われても、今まで積み上げてきた信頼があるから『変なやつ』とは思われないはずだ。
──いや、思われてもいい。それが私の道なら。
「ありがとう、お父さん」
「これくらい感謝されることでもないよ」
お父さんは軽快に笑って、私の溜まった鬱憤を晴らしてくれる。お母さんなんて気にする必要はないんだと言ってくれるかのようだ。
そうだ、本当は気にする必要なんてないんだろう。
お母さんに否定されても、お父さんに否定されないなら私はこの家で生きていける。
自室に戻りながら、すぅっと息を吸い込む。まったく新しい爽やかな空気が、私の肺を満たした。