その日、尚隆の全ての仕事が終わったのは夜8時過ぎだった。転職してからの残業最長記録更新である。セミナーに出ていた時間にたまっていた作業はさほど手間取らなかったのだが、終業時間直前に顧客からの急ぎの見積もりが入ってきてしまい、結果こんな時間までかかってしまった。
タイムカードを専用レコーダーに差し込んで打刻し、1階まで降りると、当然ながら正面玄関は閉まっている。通用口に回り、守衛の男性に挨拶をして扉を開けようとした時、後ろから小走りに駆けてくる足音に気づいた。
「……あ」
「──、ああ。お疲れさま」
みづほだった。同じく守衛に挨拶をし、尚隆の脇をすっと抜けて出入口のドアを開ける。閉まる前にと、慌てて後を追った。
外へ出ると、昼間のじわりとした暑さは去ったようで、風が涼しい。できれば一年中、こんな感じの気候であればいいのになと、人一倍暑さが苦手な尚隆は思う。
「なに?」
と歩きながら振り返ったみづほに言われ、自分が、単純に同じ方向へ行くと言うには近づきすぎていたことに気づく。
「え、ああごめん」
体半分ぐらいの距離を余分に取ってから、尋ねる。
「毎日こんな遅いのか」
「最近はそうでもない、けど。今日はシステムチェックの当番だった──」
と、続けかけた言葉を突然途切れさせ、何かに気づいたようにみづほは横を、正確にはやや斜め後ろに視線をやった。
「?」
尚隆が首を傾げるのとほぼ同時に、いきなり、みづほが身を寄せてきた。何事かと仰天していると、なにやらささやき声がする。悪いけど、と聞こえた。耳をすました。
「……このまま、駅まで一緒に行ってくれる?」
「──かまわないけど、なんで」
「後で話すから」
みづほはそう言ったが、やはり気になる。彼女が見ていた方向に、不自然でない程度に顔を振り向けると、街路樹の陰にさっと隠れる人影があった。かろうじて届く街灯の光で、うっすらと見えた顔には覚えがある。あれは。
──本庄さん?
訝しく思った。8階の営業エリアは、席こそ課ごとに分かれているが、全体は壁のないひとつの区画だから、別の課でも人がいればわかる。尚隆が仕事を終えた時には、たしかに誰もいなかった。
ということは、退社してからずっと、あそこにいたのだろうか……みづほを待って?
じめっとした何かを感じて、少し不快な気持ちになる。
だがあえてその場では口に出さず、触れんばかりの距離に近づいたみづほとともに、駅への道を歩きだした。
5分も歩くと、商店や飲食店の建ち並んだ通りに出る。そこに入ってようやく、尚隆はみづほに尋ねた。
「さっき見てたの、もしかして本庄さん?」
「……そう」
「なんかあったのか?」
セミナーの時の態度といい、さっきの様子といい、気にせざるを得ない。みづほの受け答えからしても、何かしらの迷惑行為が、他にもあったのではないか。
みづほは言いづらそうにしていたが、後で話すと言った以上は黙っていられないと判断したのだろう、やがて話し始めた。
「……ちょっと、つきまとわれてて、最近」
「最近って」
「半年ぐらい、かな」
「半年?」
それは「ちょっと」と言えるような期間なのだろうか。少なくとも尚隆にはそう思えなかった。
「もしかして今日みたいに誘ってくるとか?」
「……最初にちゃんと断ったんだけど、しつこくて。私が担当になってからセミナーにも毎回出てきて、あんなふうに答えにくい質問をしたりするし。なんか、私が困ってるのを見るのが楽しいんじゃないかって、そんな気もするくらい」
目当ての相手を困らせて楽しむ、そういう性癖の奴も確かにいるだろう。もう少し目的がずれるとストーカーになりかねないタイプではなかろうか。
「上に、言った方がいいんじゃないか」
「大ごとにはしたくないの。……それに、うちは社内恋愛いい顔されないし、お偉いさんに男性至上主義みたいな人もいるから、下手に伝わると私が誘ってるって言われかねない」
「……なんだそれ」
21世紀になって久しいというのに、今時まだそんな考えの輩がいるのか。というか、そんな考えが社内でまかり通るのか。
後ろを振り返り、人の波の中に目をこらす。見る限り、その中に本庄の姿はなかった。
「どっかの店で、時間つぶしてくか?」
提案に、みづほは首を横に振った。
「ううん、もう遅いし、明日も早いから」
「なら送ってくよ」
「──え」
「もしかしたら、家まで付いてこられるかもしれないだろ。その方が危ないし気になる」
みづほは戸惑ったようにこちらを見上げ、再度首を振る。
「いいよ、そんなこと」
「よくない」
自分で思ったよりも強い調子が、口から飛び出した。みづほが心配なのはもちろんだった。……だが、自分の中に本当に、やましい気持ちはないだろうかと自問する。
全く無い、とは言いきれないかもしれない。しかし今は、みづほが本庄に危ない目に遭わされないことの方が重要だ。
押し問答をしているうちに、会社の最寄り駅に着いた。みづほに聞くと、彼女の家は同じ方向で、尚隆が降りる駅よりも4つ先だという。
今日だけでも送ってく、と譲らない様子に観念したのか、迷う態度を消しきらないまでもみづほは「じゃあ、今日だけなら」と答えた。ほっとする。
念のため、もう一度周囲を見回した。思う人物の姿は見当たらない。立ち止まったみづほを促し、ホームへと続く連絡橋の階段を上った。