その日、外回りから戻ってきた午後。
「……あれ?」
転職して1ヶ月。仕事もひと通り覚えて順調だ、と思っているとトラブルに見舞われる。大げさな言い方かもしれないがこの時はそんな気分になった。顧客からの急ぎの注文があるというのに、注文ソフトが動かなくなったのだ。
マウスポインタは動くから、パソコン本体の不具合ではないはず。だがどこをクリックしても反応しない。近くの席の営業課員は皆、外回りに出かけていて誰もおらず、尋ねようがなかった。
これはシステム課に相談するしかなさそうだ。内線番号を押して、相手が出るのを待つ。2コール目で「はい、システムの須田です」と声が聞こえた。
その瞬間、尚隆の心臓は少しばかり跳ねた。
用件がさっと声に出ない。「もしもし?」と問われてやっと、自分が名乗るのも失念していたことに気づいて焦る。
「あ、ごめ、すみません、営業の広野ですが」
「……なんだ、広野くんか。どうしたの」
「えと、注文ソフトが動かなくなって」
一瞬、みづほの声が堅くなったように感じたが、気のせいだったろうか? と思うくらいに短い違和感だったから、尚隆はすぐにそのことを忘れた。
「ああ、よくあるのよね。ちょっと待って……動く?」
「──いや、全然」
「そう、 ……じゃそっちに誰か行かせるから」
内線が切れ、数分後にフロアにやってきたのは、みづほ自身だった。主任の彼女がこんな用件までこなすのだろうか。
「普段は他の人に任せるんだけど、手が空いてたのが今、私しかいなくて」
尋ねると、みづほはそう説明した。言うと早々に、尚隆のPCの具合をチェックし始める。デスクに上半身を乗り出す姿勢で、約1分。
「ああ、工場からの回答出るのに時間かかってるんだ……たぶん、納期問い合わせが重なってサーバの調子が悪いんだと思う。しばらくしたら直ると思うから」
と、みづほが解説する声は聞こえていたが、内容は半ば、右耳から左耳へと流れていた。わずかの間、密着する寸前まで接近した彼女から、ふわっと漂った香りに気を取られて。花の香り、香水だろうか。学生時代はつけてなかったよな、とぼんやり思う。
「広野くん、聞いてる?」
訝しげな声にはっと我に返り、慌てて、聞こえていたはずの話を脳内で反芻する。
「──あ、ん、聞いてた。わかった、待ってみる」
慌てた、それゆえにあやふやな口調にみづほは首を傾げたが、いちおうは納得したのか「それじゃ、何かあったらまた内線して」と言い置いて去ってゆく。
みづほの後ろ姿を見送りながら、尚隆は戸惑わずにはいられなかった。いや、正確に言うなら、彼女と再会してからこちら、ずっと戸惑っていた。
みづほに対して、初めて会う女性を見るような、そんな不可思議な感覚がまとわりついて離れない。
実際、7年ぶりに会ったみづほは、一見するとほぼ別人であった。地味の代名詞のようだった見た目が一変、ごく普通の小綺麗な、いっぱしの美人OLになっていた。
というかそもそも、顔立ち自体はそれなりに整っていたのだ、昔から。あの日、初めて彼女を「意外と可愛い」と思った時に、気づいていたはずじゃなかったか。
「……まいったな」
ひとりごちた言葉が実際に声になっていたことにも、外から戻ってきた向かいの同僚が眉を寄せてこちらを見ていたことにも、尚隆は気づかなかった。