「……好きなんです」
 絞り出すように告白されて、予測はしていたものの正直、ああまたか、という思いを尚隆は抑えきれなかった。
 来年早々に本社へ転勤する、という内示が出てまだ半月も経っていないのに、このところ数日おきに同じような事態に見舞われている。本当にこの会社は、噂が広まるのが早い。
 相手のことはいちおう知っている。経理の一番若い子で、出張や経費の伝票を持って行くとだいたい彼女が受け付けてくれる。いつも笑顔で、二つ返事で仕事をこなす、真面目な女子社員だと思っていた。
 当然ながらこちらにはそれ以上の認識はなかったのだが、相手はそうではなかったということか。
 真っ赤な顔で女子社員は「付き合ってもらえませんか」と続けた。会社の中、しかも仕事中の隙を狙ってこちらを捕まえ、告白した勇気はたいしたものだと思うが、返す答えは最初から決まっている。
 「ありがとう、岡島(おかじま)さん。気持ちは有難いと思うけど付き合えない。俺には大切な人たちがいるから」
 「人たち?」
 赤らめた顔が一転、血の気が引き青ざめる。
 「──広野さんには、毎週会ってる通い妻と、隠し子がいるって聞きました。そんなの、ただの噂ですよね?」
 何度も聞かされた噂をまた口にされて、内心で苦笑する。ひょっとしたら実際に顔にも出たかもしれない。最初にその噂を耳にした時は、誰が広めたのかということよりも、表現のされ方に戸惑った。言い得て妙かもとは思ったが、状況的にはこちらが通っている方だし、娘を隠し子と言われるのはあまり気分が良くない。客観的にはそう呼ばれても仕方ないのだとしても。
 「噂だけじゃないよ。通ってるのは俺の方だけど。あと、別に子供のことは隠してないから」
 簡潔に事実を述べると、女子社員の顔色は青を通り越し、白くなったように見えた。
 「…………ほ、本当なんですか」
 「そう。結婚はまだだけどいずれするつもりだし、だから他の誰かと付き合うつもりは一切ないんだ。悪いけど」
 すでに涙目だった相手は、尚隆の言葉に、ぶわっと本格的に涙をあふれさせた。
 「本当にごめん。そういうことだから──」
 最後まで聞かず、女子社員は踵を返して走り去る。せめて泣くのを止めてからにしてほしいと思ったが、呼び止めるのも今さら間に合わない。また新たな噂が広まるのだろうな、と確信的に考えた。
 ……果たして、約2時間後にはもう、例の営業が女子社員を泣かせて放置した、という若干ねじ曲がった話が社内中に広まっていた。
 それと知ったのは「今度は経理の子だって?」と、外回りから帰ってきた森宮に尋ねられたからである。
 「ほんっとに罪な奴だな、おまえ」
 「そういう言い方やめてください」
 社内的にどう見られていようと、自分自身は別に、罪なことをしているつもりはこれっぽちもない。大事な女と子供がいるから、他の女性と付き合うつもりはないというだけの話だ。なのにどういうわけか、転勤の内示が出た頃からにわかに、告白されることが重なった。
 「そりゃあ、支社から本社に呼ばれるってことは、事実上の栄転だからな。女子的にはおいしい物件だと思うだろ」
 とは森宮の弁である。全社の稼ぎ頭である本社営業部は実際、各支社の営業部員にとっては憧れの部署だ。そこへ転勤ということは一定の評価をされたと推察できるわけで、それ自体は非常に嬉しく思うのだが。
 「そういうもんなんですか?」
 「そういうもんだよ。なんだかんだ言ったって基本、稼ぎのいい奴の方がモテるようになってんだし」
 だからと言って、これまで誰からも何のアプローチもされてこなかったのに、いきなり何人も出没するなんて事態が、果たしてあり得るのか。
 「まあ、中にはひそかに慕ってたって子もいるかもしれないけど? 今日の岡島さんなんかはそれっぽかったんじゃね」
 純情そうだもんな、と森宮は続けた。確かに、今時の若い女性には珍しく、すれた雰囲気の全くない子であった。