尚隆を通した部屋は客間のひとつで、いつ誰が来ても良いようにと整えてある場所だった。たまたま今朝、よく使う部屋とともに掃除をしておいたので、タイミングが良かったと思う。使う人が退屈しないよう、コンパクトサイズのテレビとDVDレコーダーも設置してある。ついでにこの家は母親の仕事の都合もあって、Wi-Fi完備でもある。
 「スマホの充電器、ある?」
 「バッテリーなら持って来たけど」
 「端子なに、Cケーブル? じゃあ持ってくるから」
 「コート、ここでいいかな」
 「そっちのハンガー使って」
 そんな会話を交わしていると、約7ヶ月、話をするどころか顔も見ていなかったことが、嘘のように思えてくる。
 突然こんな展開になって、尚隆はさぞ戸惑っているとは思うが、みづほの方も正直、負けず劣らずの心境であった。どんな顔で対応すべきか判断がつかず、結果的にたぶん、かなり無愛想になっている気がする。しかし愛想良くするのもなんだか違う、というかわざとらしい気がして、できない。
 部屋の使い方をひととおり教えて、廊下へ出る。自分の部屋へ戻ってきてから、やっと大きく息を吐いた。
 ……まさか、こんなことになるなんて。
 同じ屋根の下、親子3人が初めてそろってしまった。しかも別々の部屋とはいえ、一晩を一緒に過ごすのである。
 「…………とりあえず、晩ごはんどうしようかな」
 材料は、ある。母が食べるはずだった分を回せばいい。彼の好みに合うかどうかはわからないけど、いい大人なんだから、もし好きでない物があっても我慢してもらおう。
 考えていたら凛が起きたので、母乳をあげミルクを足し、おんぶひもで背中におぶって、夕食の準備を始めた。


 部屋のテレビをニュース番組に合わせつつ、スマートフォンで仕事のメールが来ていないか、チェックする。届いていた問い合わせに返信を送ってから、この辺りの天気と電車の運行状況がどうなのかを調べていると、障子がそっと叩かれた。
 はい、と反射的に返事をして、姿を現したのは、当然だがみづほである。膝をついて、敷居を踏まないように入ってきて。次いで、廊下に置いていたお盆を持ち上げた。
 「ごはん、作ったから。ありあわせの物しかないけど」
 ちょっと目を見開いた尚隆が見たのは、テーブルに並べられる夕食の皿の数々。鮭の味噌漬けを焼いたものに、ししとうが添えられている。他には、鰹節のかかったほうれん草のおひたし。ひじきとにんじんと油揚げの煮物。具だくさんの豚汁に、茶碗に多めに盛られた白飯。立派な和食膳だった。
 「いや、充分だよ。ありがとう」
 「ごはんと豚汁は、お代わりあるから。要るなら呼んで」
 そう言って、足早にみづほは出ていった。一緒に食べる、という展開を少し期待していたのだが、そういうわけにはいかないようだ、さすがに。
 「いただきます」
 手を合わせ、男物の箸を取る。これは、みづほの父親が使っていた箸だろうか。亡くなった人が使っていた物だと考えても、格別抵抗は感じなかった。むしろ、彼女と母親が亡き家族の思い出を大事にしていると思えて、好ましい。
 まずはお椀を持ち上げ、豚汁をすすった。肉と野菜のだしがよく出ていて、美味しい。知らず笑みがこぼれる。
 みづほの家で一晩過ごした翌朝、彼女が作った朝食を初めて味わった。卵焼きと大根おろし、サラダと味噌汁、白飯といった、当人いわく「簡単なもの」だったが、卵の焼き加減も味付けも、サラダの野菜の切り方も文句のつけようのないレベルだったと思う。彼女が料理上手なのはその時から予想がついていた。
 この夕食も、鮭はきれいに焦がさず、その上できちんと火が通っているし、ほうれん草の茹で具合も煮物の味付けも、非常に程良い加減で箸が進む。自分でも呆れるほど、あっという間に食べ終えてしまった。
 白飯と豚汁のお代わりをもらおうと思ったが、さて、どう呼べばいいのかと少し困った。携帯は着信拒否状態になっているはずだし、ここで呼ばわって声が届く距離にみづほがいるかどうかもわからない。尚隆は立ち上がり、廊下に出た。
 台所がわかれば、と思って勘で歩き回ってみたが、目的の場所にはたどり着かない。その代わりにというか、みづほのものらしい(というか間違いなくそうであろう)声が聞こえる部屋の前に来てしまった。
 優しい声音は、子供をあやしているからだろうか。
 入っていいものかどうかしばし迷い、部屋を出てきた目的を思い出し、勇気を出して障子を控えめに叩く。
 ぴたりと、彼女の声が途切れた。軽い足音がして、障子がすっと開く。
 「……どうかした?」
 「あ、その。お代わりもらいたいと思って」
 「わかった、ちょっと待ってて」
 と一度は背を向けたみづほが、なぜかそのまま静止した後に、また振り返る。沈黙が数秒続き。
 「────顔、見ていく?」
 「え?」
 「あの子の」
 あの子、と言われてすぐに思考が結びつかなかった。気づいてはっとする。
 娘の、凛のことに違いない。
 もちろん、ずっと気にかけてはいた。みづほの母が、折に触れてLINEで写真を送ってくれてはいるが、じかに顔を見たい、会いたいという思いは止むどころか、日毎に大きくなっていたのだ。……だが、現状では難しいかな、とも思っていた。みづほがその気にならない限りは。
 「今、寝てるけど、それでもよければ」
 「あ、いや全然。かまわない。起こさないようにするから」
 「じゃ、入って」
 招き入れられた部屋は、尚隆が今使っているのと同じ程度の広さの、和室。違いはと言えば、奥の壁の半分を本棚が占めている。空いている部分の壁の色が少し違うのは、昔何かの家具を置いていたからなのか。彼女が自室として使っていた部屋であるならば、学習机とかかもしれない。
 中央の大きなテーブルの上には、何かの冊子が広げられ、メモのような小さな紙が積み上げられている。部屋に入ってすぐ、みづほはそれを片づけた。ちらりと見えた冊子の表紙からすると、家計簿のようである。
 ……そして、こちらから向かって左側。揺りかごに似た、四つ足の大きな器具があり、みづほがその上から抱き上げたのは。
 「両手、出して」
 大切そうに抱え、こちらの腕にゆっくりと預けてくる、小さな存在。右肘の内側に頭、腕で背中を支えて、とみづほが指示する体勢をぎこちなく真似ているうちに、それは、腕の中に納まった。
 「……こんな小さいの?」
 「5ヶ月になったばかりだから」
 とみづほは言ったが、それにしても小さいように思えてしまう。兄の子供はもっと大きかったような気が……? とはいえずいぶん前に1・2度しか経験していないし、あちらは男だから、もしかしたら性別の体格差があるかもしれない。
 すやすやと、何の不安もない様子で、静かに眠る赤ん坊。柔らかな髪はほぼ真っ黒で、たぶん、みづほに似たのだろうと思う。自分は少し茶色がかっているから。
 正直、顔立ちがどちらに似ているかは、よくわからない。だがこの年齢(正しくは月齢というのだろうか)にしては、目鼻立ちははっきりしているように見えて、有り体に言ってすごく可愛らしい。……あるいは、自分の子供だと思うからこそ、そんなふうに感じるのか。
 と。
 ぎこちない抱き方に違和感を感じたのか、赤ん坊がぱちりと目を開いた。直後、くしゃりと顔をゆがめ、何秒も経たないうちに大泣きを始める。
 焦って、落とさないように気をつけるので精一杯だった。
 「ごめんなさい、たぶんミルクだと思う。すぐ作ってくるから、悪いけどちょっと待ってて」
 そう言って、呼び止める間もなくみづほは、足早に部屋を出ていった。遠ざかる足音は、泣き声にかき消されてすぐに聞こえなくなる。
 そういえば兄の子供を抱かせてもらった時にも、こんなふうに大泣きされたのを思い出した。自分は子供に好かれないのだろうか? 気づきたくない事実に気づいてしまったような気もするが、今、そんなことを考えている場合ではない。
 ともかく落としてはいけない。座り直し、赤ん坊の、特に頭がずれないように気をつけながら、抱き直した。それでもまだ娘は泣きまくっている。母親が離れていることがきっとわかるのだろう。
 すぐに戻ってくると言ったみづほは、何か予想外の事態があったのか、なかなか戻ってこない。焦るなと思いつつも、赤ん坊の泣き声には反射的に落ち着かなくさせる作用があるようで、どうにも心もとない気分を抑えがたかった。
 考えに考えて、相当にうろ覚えながら、子守歌を歌ってみる。かなりぎこちなく揺らしながら。音痴ではないと思っているが、ろくに覚えていない歌を歌うのはこんなに冷や汗をかくもの、という経験を初めて今している。音も調子っぱずれのような気がしてきて、ますます落ち着かない。
 ……だが、努力の甲斐あってか、何らかの効果は及ぼしたようだった。娘は徐々に泣き声を小さくし、涙は止まっていないものの、親指をくわえてぐすぐすと鼻をすする程度まで治まってくれた。はああ、と心底からほっとして息をつく。
 そのすぐ後、ぱたぱたと戻ってくる足音。障子の向こうからみづほが姿を現した。
 「遅くなってごめんなさい、ポットのお湯がなくなってて」
 時間がかかった理由を説明しながら、みづほはこちらの腕から赤ん坊を受け取る。ほ乳瓶の乳首をくわえた途端、娘はすごい勢いで飲み始めた。食欲旺盛らしい。結構なことだ。
 「さっき歌ってたのって、広野くん、だよね」
 と問われ、頬が少し熱くなる。
 「……聞こえてた?」
 「ちょっとだけね」
 「下手だったろ」
 「ううん、そうでも──」
 唐突に言葉を切り、みづほは横を向いた。笑いをこらえているのかと思ったが、伏せた彼女の目元は笑っていない。代わりに、涙がぽたりと一粒、娘の服に落ちた。
 「…………」
 「────」
 膝の上で拳を握りしめる。キスしたい、という思いを努力してこらえた。みづほにそんな気は、今はないだろうから。だが娘にミルクをあげている状況でなかったら、強引にでもしていたに違いない。この状況下でよかった、と思う。
 全量飲んだ後も、娘はほ乳瓶を離さなかった。もっとよこせとばかりに両手で持った空の瓶を振り回している。意外と力が強いらしい。
 みづほは目元を拭ったものの、こちらを向かずに「部屋に戻っててくれる? 寝かしつけてからお代わり、持って行くから」と言った。
 そう言われては戻るしかない。じゃよろしく、と言い置いて尚隆は部屋を出た。
 うろ覚えで廊下を歩きながら、先ほどと同じぐらい大きなため息をつく。思いがけず娘に会えたのは嬉しかったが、そのせいで、押し込めている願望がまた頭をもたげてきた。今は考えるなと戒めてはいても、ふとしたきっかけですぐ浮上してくる。それが最終的な目的であるから当然と言えば当然なのだが、こんなにも抑えがたいのは、みづほの妊娠を知ったあの日以来かもしれなかった。
 ──彼女と結婚して子供を一緒に育てたいという、たったひとつの願望。

 「……好きなんです」
 絞り出すように告白されて、予測はしていたものの正直、ああまたか、という思いを尚隆は抑えきれなかった。
 来年早々に本社へ転勤する、という内示が出てまだ半月も経っていないのに、このところ数日おきに同じような事態に見舞われている。本当にこの会社は、噂が広まるのが早い。
 相手のことはいちおう知っている。経理の一番若い子で、出張や経費の伝票を持って行くとだいたい彼女が受け付けてくれる。いつも笑顔で、二つ返事で仕事をこなす、真面目な女子社員だと思っていた。
 当然ながらこちらにはそれ以上の認識はなかったのだが、相手はそうではなかったということか。
 真っ赤な顔で女子社員は「付き合ってもらえませんか」と続けた。会社の中、しかも仕事中の隙を狙ってこちらを捕まえ、告白した勇気はたいしたものだと思うが、返す答えは最初から決まっている。
 「ありがとう、岡島(おかじま)さん。気持ちは有難いと思うけど付き合えない。俺には大切な人たちがいるから」
 「人たち?」
 赤らめた顔が一転、血の気が引き青ざめる。
 「──広野さんには、毎週会ってる通い妻と、隠し子がいるって聞きました。そんなの、ただの噂ですよね?」
 何度も聞かされた噂をまた口にされて、内心で苦笑する。ひょっとしたら実際に顔にも出たかもしれない。最初にその噂を耳にした時は、誰が広めたのかということよりも、表現のされ方に戸惑った。言い得て妙かもとは思ったが、状況的にはこちらが通っている方だし、娘を隠し子と言われるのはあまり気分が良くない。客観的にはそう呼ばれても仕方ないのだとしても。
 「噂だけじゃないよ。通ってるのは俺の方だけど。あと、別に子供のことは隠してないから」
 簡潔に事実を述べると、女子社員の顔色は青を通り越し、白くなったように見えた。
 「…………ほ、本当なんですか」
 「そう。結婚はまだだけどいずれするつもりだし、だから他の誰かと付き合うつもりは一切ないんだ。悪いけど」
 すでに涙目だった相手は、尚隆の言葉に、ぶわっと本格的に涙をあふれさせた。
 「本当にごめん。そういうことだから──」
 最後まで聞かず、女子社員は踵を返して走り去る。せめて泣くのを止めてからにしてほしいと思ったが、呼び止めるのも今さら間に合わない。また新たな噂が広まるのだろうな、と確信的に考えた。
 ……果たして、約2時間後にはもう、例の営業が女子社員を泣かせて放置した、という若干ねじ曲がった話が社内中に広まっていた。
 それと知ったのは「今度は経理の子だって?」と、外回りから帰ってきた森宮に尋ねられたからである。
 「ほんっとに罪な奴だな、おまえ」
 「そういう言い方やめてください」
 社内的にどう見られていようと、自分自身は別に、罪なことをしているつもりはこれっぽちもない。大事な女と子供がいるから、他の女性と付き合うつもりはないというだけの話だ。なのにどういうわけか、転勤の内示が出た頃からにわかに、告白されることが重なった。
 「そりゃあ、支社から本社に呼ばれるってことは、事実上の栄転だからな。女子的にはおいしい物件だと思うだろ」
 とは森宮の弁である。全社の稼ぎ頭である本社営業部は実際、各支社の営業部員にとっては憧れの部署だ。そこへ転勤ということは一定の評価をされたと推察できるわけで、それ自体は非常に嬉しく思うのだが。
 「そういうもんなんですか?」
 「そういうもんだよ。なんだかんだ言ったって基本、稼ぎのいい奴の方がモテるようになってんだし」
 だからと言って、これまで誰からも何のアプローチもされてこなかったのに、いきなり何人も出没するなんて事態が、果たしてあり得るのか。
 「まあ、中にはひそかに慕ってたって子もいるかもしれないけど? 今日の岡島さんなんかはそれっぽかったんじゃね」
 純情そうだもんな、と森宮は続けた。確かに、今時の若い女性には珍しく、すれた雰囲気の全くない子であった。
 「どっちにしたって俺たちにはうらやましい話だよ。本社に行く上、女に不自由しないなんてさ」
 「だから、そういう言い方しないでください」
 本社に移るのは同僚に羨まれても仕方ないと思うが、後者に関してはとんでもない言われようだ。濡れ衣もいいところである。
 「わーってるよ。おまえは主任さん一筋だもんな、あ、元主任さんか」
 そもそも、このこと──みづほが尚隆の子供を産んで育てていることを誰が聞きつけて広めたのかも、はっきり言えば謎であった。百歩譲って、自分がみづほを追いかけていたことは、調べる際になりふり構っていられなかったから噂されても仕方なかっただろうが、その後の顛末については、当然だが自分からは誰にも何も話していないのだから、知られたのは不思議としか言いようがなかった。
 「それはしょうがないんじゃねーの? 営業のくせに、週末は全部予定が入っててダメなんて奴、何してんのか勘ぐられても。その手の話はどっかから洩れるもんだよ」
 尚隆の疑問に、訳知り顔で森宮は言ったものだ。確かに、初めて娘と対面した2月のあの日以来、毎週といっていいほど、みづほたちの元を訪ねている。自身の顔すら頑なに見せなかったみづほが、あれ以降は毎回出迎えてくれるし、娘が起きていれば会わせてもくれる。長い時間ではないけれど、いやだからこそ、週に1度のその時間は楽しみなものになっていた。娘の成長をリアルタイムで追えることも嬉しい。
 だが、いつまでもこの状態で良いとは思わない。通い妻、もとい通い夫の現状は、単身赴任でもないのに不自然だし、なにより両親が結婚していない状態というのは、娘の将来を考えれば良いことではないだろう。
 「……で、報告は済んだんですか森宮さん」
 「おっとそうだった。まずいまずい」
 口振りとは裏腹に、さほど慌ててもいない様子で、森宮は課長の席へと向かう。そのとたんに周囲の視線がさっと自分から逸れるのを感じて、やれやれと思う。
 自分もみづほも、少なくともこの支社内では、すっかり有名人になってしまった。彼女があの時に会社を辞めたのは、その意味では正解だったかと思う。自分一人ならまだしも、みづほも同じような視線に日々さらされるのだと考えると、とてもじゃないが申し訳なさ過ぎて言葉がない。いや、女性であるみづほには、周囲の目はもっと厳しくなっていたかもしれない。真面目で仕事のできる社員としてのイメージが強かっただけに。
 ……もうすぐまた、週末だ。
 彼女にはまだ、転勤が半ば決まったことを話していない。


 8月は文字通り、灼けるような暑さの日々だった。
 今月になってそれが落ち着いてくれたようで、みづほは正直ほっとしている。なにぶんあまりに暑すぎて、子供を連れて外出するのはためらわれたのだ。
 外遊びが好きな娘の凛は、たどたどしくも言葉を発するようになってからの癖で、出かけられない日はしきりにぐずった。かわいそうには思ったがどうしようもなく、ただただ、不機嫌が治まるまでなだめてやるしかなかった。
 今日は気温が最高でも30度を超えない予報で、なおかつ曇り空。ようやく凛を、お気に入りの公園へ連れて行ってやれる。
 「気をつけてね」
 「わかってる、行ってきます」
 凛をベビーカーに乗せ、母に後を頼んで出かける。いつものマザーズバッグに、ミルク1回分の用意とおやつ、着替えやタオルは入れてある。この1年で慣れた準備に抜かりはない。
 歩いて約10分、たどり着いた公園は人少なだった。みづほたち以外に来ているのは、年頃の近い親子が1組と、兄弟か友達らしき小学生男子の2人組。土曜日の午前中であるせいだろうか。
 凛の片言リクエストに応じて、まずはブランコに向かう。みづほも小さい頃はブランコが好きで飽きずに乗っていた、と今も母からよく言われている。15分ほど乗った後、中央にある砂場へ。持って来た「すなあそびセット」のスコップやバケツを使い、凛と一緒に砂の山を作っていく。
 大小の砂山が3つできたところで、公園に入ってくる新たな人物に気づく。みづほが顔を上げたのを確認してだろう、荷物を持っていない方の手を、顔の高さに上げて振った。
 「……今日は早いのね」
 「朝飯食ってすぐ出たから。あ、これお茶と子供用の水」
 と、尚隆は荷物の中からコンビニの袋を取り上げ、こちらに渡す。ありがとう、と受け取った。比較的和らいだとはいえまだ暑さは感じるから、飲めるものが多いと助かる。
 それにしても、いつもなら午後、昼食時を過ぎてから訪ねてくるのに、今日は早い。時計を見ると10時になったところだ。
 「話があったから。待たせてもらおうかと思ったんだけど、やっぱり早く顔が見たくて」
 「話?」
 「後でいいよ。お、砂だらけだなあ」
 手にも服にも、靴にまで砂粒をいっぱい付けた凛を見て、尚隆が感嘆したように言った。これ持ってて、と他の荷物、いつも持っている鞄や紙袋をみづほに預けてから、砂まみれの凛を抱き上げて水飲み場へと連れて行く。自分の服に砂が付くのもかまわず。
 二人の後ろを追いかけ、尚隆が凛の服の砂を払い、手を洗わせているのを見ながら、マザーズバッグからタオルを取り出した。洗った小さな手を拭き、顔に付いた砂を拭き取る。
 その後、低年齢用のすべり台と、地面を歩かせる練習に、尚隆は辛抱強く付き合った。いや、みづほが見る限りでは決してしぶしぶではなく、むしろ楽しそうな様子であった。
 凛も、相手の好意がわかるのか、尚隆の遊ばせ方が意外と上手だからなのか、きゃっきゃっと喜ぶ声を上げ、楽しげに遊んでいた。そうしてさらに30分ほどが過ぎ、休憩のために凛をベビーカーに乗せ、子供用のおやつを渡す。はしゃいで疲れたのか、ソフトせんべいを右手に持ったまま、凛はうとうとし始めた。
 その様を、可愛いなと思いながらみづほは見つめる。ふと尚隆を見ると、彼も同じように凛を見つめていた。たぶん、みづほと同じように口の端を上げ、優しいまなざしで。
 彼が、愛情深い人であることを、どうして気づかずにいられたのか──否、知っていたはずなのに忘れていたのか。
 ここ半年ほどの、自分や凛への接し方を考えれば、尚隆が子煩悩な父親であることは明らかだった。きっとこの先も、義務感からだけではなく、子供を可愛がってくれるだろう。
 今月、9月で凛は、1歳になった。これからはどんどん言葉を覚えて、物心も付いてくる。
 決断の時が近づいているのかもしれない。いや、おそらくもう、目の前まで来ているのだ。……だが、みづほから切り出すことは、今もはばかられる気分だった。そんな、格好をつけている段階ではもうないと、わかっているにもかかわらず。
 本格的に眠り始めた凛を見つめながら、そばのベンチに並んで座って、しばらくどちらも無言でいた。数分後、沈黙を打ち破ったのはみづほの方だった。
 「話って、何?」
 「え、ああ──戻ってから話そうかと」
 「気になるから、今言ってくれる?」
 悩むような間を置いた後、わかった、と尚隆はうなずく。
 「実は、来年早々に、転勤することになって」
 「転勤? どこに」
 「本社。向こうの営業部から、直々に呼ばれたらしくて」
 「え、すごいじゃない」
 本社営業部と言えば、各支社の営業部員からすれば憧れの部署だと聞く。売上額トップである分ノルマも厳しいらしいが、そこから声がかかったということは普段の実績が認められてのことに違いないし、名誉と言っていいのではなかろうか。
 難があるとすれば、この町からはさらに、遠い場所になること。時間的に、今のように日帰りで行き来するのは難しくなるだろう。
 「それで、……引っ越しが年末とかになるから慌ただしいけど。付いてきてもらえないか」
 「────え?」
 「凛も1歳になったし、これからはいろいろわかるようになるだろ。いい機会だと思うんだけど」
 尚隆の言う通りである。彼も、みづほと同じように考えていたのだ。凛のためを思うなら、いつまでも今のまま、両親が離れて暮らす状態でいるのは良くない。
 しいて問題を言うなら、仕事を世話してくれた叔父たちへの義理であった。今は凛を連れての出勤も認めてくれている彼らに対し、申し訳ない思いもあって仕事を続けているが、事情を知る叔父や従兄は事あるごとに「何かあるならいつでも辞めていい、管理はまた外注に出すから」と言ってくれている。
 母もおそらく、事情を話せば同じことを言うだろう。
 尚隆にもらったお茶のペットボトルは、まだほんのりと冷たい。開けて一口、二口飲んでから再び、ベビーカーで眠る凛を見つめた。息を吸い込む。
 「この子、最近、まあまって呼んでくれるようになったの。まだだいぶ片言だけど。母のことは、ばあばって」
 「へえ、そうか。聞きたいな」
 「……ぱあぱって、呼ばれたい?」
 「えっ?」
 「一緒に暮らしたら、そういうことになるでしょ」
 「──それって」
 若干の不安混じりの、期待をこめた目で見てくる尚隆に、みづほはうなずいた。視線をそらさずに。
 直後、尚隆が笑み崩れる。左手をぎゅっと握られた。
 「ありがとう」
 「ううん、そう言うのは私の方よ。ほんとうにありがとう」
 久しぶりに感じる彼の熱に、目頭が熱くなってくる。ぽろりと落ちた涙を、尚隆の指がぬぐった。
 そのまま、どちらからともなく顔を近づけ、唇を重ねる。
 ──と。
 「ちゅー!」
 上がった抗議の声に、二人そろってびくりとした。見るといつの間にか目を覚ましたらしい凛が、こちらに手を伸ばしてじたばたしている。抱っこをせがんでいるらしい。
 「ごめんね凛、はい抱っこ抱っこ」
 「ちゅーっ!」
 いくぶん焦ってベビーカーから降ろすと、先ほどと同じ言葉を凛は繰り返した。今まで言ったことなどなかったのに。
 「ちゅー、って」
 尚隆と顔を見合わせ、照れ臭さでいっぱいの気分になる。自分にもしろということなのか。
 「……はいはい、わかったから。ちゅーね」
 言って、小さく柔らかい頬に、みづほは唇を寄せた。だが凛は満足しなかったようで、今度は尚隆に手を伸ばす。
 もう一度顔を見合わせ、まばたきをお互い何度か繰り返した後、ふっと笑い合う。抱っこの腕が尚隆に変わると、凛はにこにこと笑い、父親の頬にちゅっと、可愛らしいキスをする。
 驚きで目を見開いた後、尚隆は娘に笑いかけた。二人の笑顔に、みづほは幸せを実感して、笑みをこぼす。
 涼しさの混ざり始めた風が、3人の周りを吹き抜けていった。



                   - 終 -

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