そう言って、呼び止める間もなくみづほは、足早に部屋を出ていった。遠ざかる足音は、泣き声にかき消されてすぐに聞こえなくなる。
 そういえば兄の子供を抱かせてもらった時にも、こんなふうに大泣きされたのを思い出した。自分は子供に好かれないのだろうか? 気づきたくない事実に気づいてしまったような気もするが、今、そんなことを考えている場合ではない。
 ともかく落としてはいけない。座り直し、赤ん坊の、特に頭がずれないように気をつけながら、抱き直した。それでもまだ娘は泣きまくっている。母親が離れていることがきっとわかるのだろう。
 すぐに戻ってくると言ったみづほは、何か予想外の事態があったのか、なかなか戻ってこない。焦るなと思いつつも、赤ん坊の泣き声には反射的に落ち着かなくさせる作用があるようで、どうにも心もとない気分を抑えがたかった。
 考えに考えて、相当にうろ覚えながら、子守歌を歌ってみる。かなりぎこちなく揺らしながら。音痴ではないと思っているが、ろくに覚えていない歌を歌うのはこんなに冷や汗をかくもの、という経験を初めて今している。音も調子っぱずれのような気がしてきて、ますます落ち着かない。
 ……だが、努力の甲斐あってか、何らかの効果は及ぼしたようだった。娘は徐々に泣き声を小さくし、涙は止まっていないものの、親指をくわえてぐすぐすと鼻をすする程度まで治まってくれた。はああ、と心底からほっとして息をつく。
 そのすぐ後、ぱたぱたと戻ってくる足音。障子の向こうからみづほが姿を現した。
 「遅くなってごめんなさい、ポットのお湯がなくなってて」
 時間がかかった理由を説明しながら、みづほはこちらの腕から赤ん坊を受け取る。ほ乳瓶の乳首をくわえた途端、娘はすごい勢いで飲み始めた。食欲旺盛らしい。結構なことだ。
 「さっき歌ってたのって、広野くん、だよね」
 と問われ、頬が少し熱くなる。
 「……聞こえてた?」
 「ちょっとだけね」
 「下手だったろ」
 「ううん、そうでも──」
 唐突に言葉を切り、みづほは横を向いた。笑いをこらえているのかと思ったが、伏せた彼女の目元は笑っていない。代わりに、涙がぽたりと一粒、娘の服に落ちた。
 「…………」
 「────」
 膝の上で拳を握りしめる。キスしたい、という思いを努力してこらえた。みづほにそんな気は、今はないだろうから。だが娘にミルクをあげている状況でなかったら、強引にでもしていたに違いない。この状況下でよかった、と思う。
 全量飲んだ後も、娘はほ乳瓶を離さなかった。もっとよこせとばかりに両手で持った空の瓶を振り回している。意外と力が強いらしい。
 みづほは目元を拭ったものの、こちらを向かずに「部屋に戻っててくれる? 寝かしつけてからお代わり、持って行くから」と言った。
 そう言われては戻るしかない。じゃよろしく、と言い置いて尚隆は部屋を出た。
 うろ覚えで廊下を歩きながら、先ほどと同じぐらい大きなため息をつく。思いがけず娘に会えたのは嬉しかったが、そのせいで、押し込めている願望がまた頭をもたげてきた。今は考えるなと戒めてはいても、ふとしたきっかけですぐ浮上してくる。それが最終的な目的であるから当然と言えば当然なのだが、こんなにも抑えがたいのは、みづほの妊娠を知ったあの日以来かもしれなかった。
 ──彼女と結婚して子供を一緒に育てたいという、たったひとつの願望。