実家の応接間で、みづほは尚隆と向かい合って座った。
とにかく話をしなさい、と至極もっともなことを言った母が、半ば強引に尚隆を家に上げ、躊躇するみづほを引っ張るようにして、セッティングを済ませてしまった。
──怒ったかな、母さん。怒っただろうな。
なにせ母には、相手とは話がついている、自分一人で産んで育てることにしたから、と言ってあったのだ。その時も、当然ながら母は困惑して憤慨したが、みづほに対してというよりはやはり、子供の父親──尚隆に対して怒っている比率が高かっただろう。彼を悪者にしてしまっていることに罪悪感を少なからず感じはしたが、もう会う気はなかったし、母にも会わせるつもりはなかった。
それなのに彼は、わざわざ実家を調べてやって来て、別れをはっきり告げたにもかかわらず、懲りずにまた訪れた。
たぶん母は、最初はやはり、尚隆に対して怒りを向けていただろう。それが、みづほが実はきちんと話をしていなかったのだと知って、感情の何割かはこちらへ移行したに違いない。当たり前の、しかたないことではあるけれど。
母が置いていったお茶は、まだ湯気を立てている。長い時間が経ったように思うけどさほどでもないらしい。そんなことを考えていると。
「切ったんだな」
「え?」
「髪」
「……あ、長いと、洗うのも乾かすのも時間かかるから」
お腹が大きくなってきて感じたのは、想像以上に、日常のいろんなことが億劫になる上、やりづらくなることだった。今後は入院も必須だし、髪が長いままでは産後の生活が面倒だろうと思ったので、切ってしまった。学生時代から伸ばしていた髪を短くするのは、愛着があっただけに、少し寂しさも感じたけど。
こくりと、尚隆はうなずきで応じた。予測よりも静かな表情に、かえって不安がつのる。彼が本当に聞きたいのは髪のことではないはずだ。
「お母さんが機嫌悪い理由、わかったよ」
「…………」
「大事な娘を妊娠させた奴が、なんにもわかってない顔で訪ねてきたら、そりゃ気分良くないよな」
母を「お母さん」と尚隆が呼ぶと、非常に変な気がする。広野くんのお母さんじゃないから、と言いたくはなったが、さりとて他にどんな呼ばせ方があるかというと、思いつかない。名前で呼ばせるのはそれこそ妙な話だし。だから黙っていた。
尚隆はひとつため息をつき、ようやく核心を突いてきた。
「なんで、言ってくれなかったの」
「…………」
「こないだ会った時には、もうわかってたんだろ」
もちろん、わかっていた。それどころか、実家に戻る前にもう気づいていた。引っ越しの準備が一段落ついた頃、急に吐き気に襲われることが続いて、ふと生理が遅れていることにも気づき、病院に行った。6週目だと言われた。
当然ながら、どうしようと最初は途方に暮れた。可能性はあるかもしれないと思う時はあったが、考えないようにしていたのだ。できれば何事もなく日が過ぎてほしいと思って。それなのに──実家に帰るまでの日にちは、悩みに悩んだ。
そうして、結論を出した。尚隆には言わない。母に協力を頼むことにはなるけれど、実家で産んで育てようと。中絶の選択肢は、頭をよぎりはしたけど、すぐに打ち消していた。産むのは怖いけど、芽生えた命を殺すのはもっと嫌だ。アクシデントに近い形とはいえ、好きな人の間に授かった子供。最初の逡巡の後は産むことしか考えなかった。
実家は、友達の中でも限られた人しか知らないし、会社や不動産屋が明かすはずはないから大丈夫、そう高をくくっていた。だが甘かった。知っている友達には、残らず口止めをお願いしておくべきだったのだ……本気で、二度と彼に会う気がないのなら。
そうしなかったのは、心のどこかで、探し当てて来てほしいという思いがあったということなのか。自分でもよくわからない。