「好きだったけど、今さら戻れないわよ。新しく主任になった人に悪いし、わざわざ噂の種になりに行くのも気が進まない。それに」
そこで口をつぐんだみづほに、尚隆は首を傾げる。
「それに?」
「──なんでもない。とにかく、私が戻ったりしたら、絶対騒がれちゃうに決まってるから無理よ。これ以上、仕事以外のことでなんやかや言われるのは嫌だから。専務にはそう伝えておいてくれる?」
「……わかった」
残念そうに応じた尚隆だったが、よけいなことは言わなかった。おそらく彼も、専務のお嬢さんとの件ではきっと、いろいろ言われているだろう。似たような状況をみづほにまで経験させるのは忍びない、と考えたかもしれない。
「じゃあそれについては終わりにする。で、最初の話に戻るけど」
最初の話って、と混ぜっ返したくなった気持ちを抑えた。さすがにこれ以上知らぬふりをするのは大人げないだろう。
「さっきも言った通り、見合いの話は断ったから。だから」
「私と付き合いたいって言うの?」
「──、そう」
勢い込んだのに機先を制されて、鼻白んだようだ。尚隆は軽く眉を寄せた。
「言ったでしょ、付き合う気はないって」
「だから、そう言う意味がわかんないんだけど」
だったらまた聞くけど、と半ば怒ったような口調になって続ける。
「なんであの時拒否らなかったんだ? みづほが、──求められたら誰とでも寝る女だとは思えない、俺」
後半を潜めた声で言い、そうだろ、と言いたげな表情で、尚隆はこちらをじっと見る。その視線をまともに受け止めるのがつらくて、みづほは目を伏せた。
彼は、どこまで本気なのだろうか。この期に及んでもみづほは測りかねていた。彼が、体の相性の良さで目が曇っているんじゃないかという思いが消えない。
「……だったら、私を買いかぶっていただけかもね」
「みづほ?」
「私には本当に、そんな気はないの。もう誰も好きにならない、付き合わないって決めてるから」
「なんでだよ」
正直、迷った。言うべきなのかどうか。逡巡の後、みづほは選んだ。
「──面倒だから。付き合おうとしても、ろくなことにならなかったから、もう嫌なの」
ある程度は本心だったから、力を込めて言う。尚隆は押し黙った。視線を上げると、傷ついたような顔をしている。
その表情に、みづほの心にもちくりと、良心の呵責による痛みが生じた。自分の巡り合わせが悪いのは別に、彼のせいではないのに。だがあえて、痛みを無視して続ける。
「そういうことだから。もう話、ないわよね」
「え、ちょっと」
「ここのお勘定、会社のツケにできるから。そう言っとく」
「待てって!」
立ち上がり去りかけたみづほを、大声と椅子の倒れる音が制した。みづほを止めようと声を上げた尚隆が、反射的に立ち上がった勢いで椅子を後ろに倒したのだ。