不安げな表情のみづほにそう言い、約束の証として、もう一度キスした。彼女は答えなかったが、涙目でまっすぐにこちらを見つめる様子から、理解してくれたのだと判断し、疑わなかった。
──それが本当は、自分の勘違いだったというのか?
「広野くん」
前坂課長が、柔和に見える外見とは裏腹な、重々しい声で呼ばわった。
「君の話は社内に広まっているよ、半井専務に見初められ、娘さんとの縁談が進行中だとね。……須田くんも、それは承知のはずだ。だから辞めることになったんだろう」
「──え?」
「これ以上、彼女の件で騒ぐのは、君のためにならないということだよ。せっかくの輝かしい将来をふいにするのは、望ましいことではないだろう。須田くんもそう思っているはずだ、噂が本当なら」
課長が遠回しに言おうとしていることがなんなのか、おぼろげながらもわかってきた。自分とみづほの仲が、またもや噂になっていたのだと──おそらくは、みづほの家を訪ねていった日のことが知られたのだ。誰かが偶然見ていたのか、それとも付けていたのか。
真っ先に本庄の顔が浮かんだ。……だが、証拠はない。
「ともあれ、須田くんは納得して退職した。急な話で準備期間も短かったが、きちんと引き継ぎもおこなっていったよ。彼女の能力や人柄は買っていたから、こんなことになったのは私も残念だと思うが、仕方ない。
君も、彼女を気遣うなら気持ちを理解して、自分の仕事を精一杯やりなさい」
そういうことだ、と前坂課長は話の終わりを告げた。戸締まりは必要ないからと言い残し、先に小会議室を出ていく。
ひとりになり、相手の足音が消えるのを待ってから、尚隆はテーブルが震えるほどに拳を打ちつけた。事態のあまりの唐突さ、理不尽さに、なにより自分の迂闊さに憤った。
二人で会ったことを責められるなら、それは自分であるべきだった。だがそうはならなかった。生け贄にされたのはみづほの方──彼女は尚隆の身代わりになったのだ。しかも、「納得」の上で。
すぐにでも本庄を問いつめたい気持ちだった。だが、繰り返すようだが証拠は何もない。そんな状態で問うたところで奴はとぼけるだろうし、何も認めはしないだろう。それに、たとえ奴が密告を認めたとしても、内容が事実である以上、みづほの退職が取り消されるとも思えない。
だとすれば、自分がしなければならないことは何か。
営業2課に急ぎ戻り、課長に外回りと直帰の許可を取り付け、尚隆は外へ飛び出した。とにかくみづほに会って話をしなければいけない。駅までの道も、電車に乗っている間も、たまらなくもどかしかった。
……そうしてたどり着いた彼女の家、否、住んでいたマンションにはすでに、彼女の姿はなかった。空っぽの部屋を、不動産会社の社員と入居希望の女性が内見している場に行き会った。
不動産屋の男性に聞くと、部屋が空いたのは土曜日のことだという。前の入居者はとても優良で、綺麗に部屋を使っていたからクリーニングの必要もなかったと、嬉しそうな口振りで話した。念のために連絡先を訪ねたが、それは個人情報だからと当然ながら教えてもらえなかった。礼を言い、場を足早に立ち去る。
エントランスを出て数歩進んだところで、尚隆は振り返った。3階の、彼女が住んでいた部屋のあたりを。
あの部屋で過ごしたのは、まだ1ヶ月も前の話ではない。それなのに──最後に見た彼女の不安げな表情、涙をためた目を思い返した。
冗談じゃない、あれを最後にしてたまるか。
尚隆は心底から決意し、今度こそマンションを後にした。
──それが本当は、自分の勘違いだったというのか?
「広野くん」
前坂課長が、柔和に見える外見とは裏腹な、重々しい声で呼ばわった。
「君の話は社内に広まっているよ、半井専務に見初められ、娘さんとの縁談が進行中だとね。……須田くんも、それは承知のはずだ。だから辞めることになったんだろう」
「──え?」
「これ以上、彼女の件で騒ぐのは、君のためにならないということだよ。せっかくの輝かしい将来をふいにするのは、望ましいことではないだろう。須田くんもそう思っているはずだ、噂が本当なら」
課長が遠回しに言おうとしていることがなんなのか、おぼろげながらもわかってきた。自分とみづほの仲が、またもや噂になっていたのだと──おそらくは、みづほの家を訪ねていった日のことが知られたのだ。誰かが偶然見ていたのか、それとも付けていたのか。
真っ先に本庄の顔が浮かんだ。……だが、証拠はない。
「ともあれ、須田くんは納得して退職した。急な話で準備期間も短かったが、きちんと引き継ぎもおこなっていったよ。彼女の能力や人柄は買っていたから、こんなことになったのは私も残念だと思うが、仕方ない。
君も、彼女を気遣うなら気持ちを理解して、自分の仕事を精一杯やりなさい」
そういうことだ、と前坂課長は話の終わりを告げた。戸締まりは必要ないからと言い残し、先に小会議室を出ていく。
ひとりになり、相手の足音が消えるのを待ってから、尚隆はテーブルが震えるほどに拳を打ちつけた。事態のあまりの唐突さ、理不尽さに、なにより自分の迂闊さに憤った。
二人で会ったことを責められるなら、それは自分であるべきだった。だがそうはならなかった。生け贄にされたのはみづほの方──彼女は尚隆の身代わりになったのだ。しかも、「納得」の上で。
すぐにでも本庄を問いつめたい気持ちだった。だが、繰り返すようだが証拠は何もない。そんな状態で問うたところで奴はとぼけるだろうし、何も認めはしないだろう。それに、たとえ奴が密告を認めたとしても、内容が事実である以上、みづほの退職が取り消されるとも思えない。
だとすれば、自分がしなければならないことは何か。
営業2課に急ぎ戻り、課長に外回りと直帰の許可を取り付け、尚隆は外へ飛び出した。とにかくみづほに会って話をしなければいけない。駅までの道も、電車に乗っている間も、たまらなくもどかしかった。
……そうしてたどり着いた彼女の家、否、住んでいたマンションにはすでに、彼女の姿はなかった。空っぽの部屋を、不動産会社の社員と入居希望の女性が内見している場に行き会った。
不動産屋の男性に聞くと、部屋が空いたのは土曜日のことだという。前の入居者はとても優良で、綺麗に部屋を使っていたからクリーニングの必要もなかったと、嬉しそうな口振りで話した。念のために連絡先を訪ねたが、それは個人情報だからと当然ながら教えてもらえなかった。礼を言い、場を足早に立ち去る。
エントランスを出て数歩進んだところで、尚隆は振り返った。3階の、彼女が住んでいた部屋のあたりを。
あの部屋で過ごしたのは、まだ1ヶ月も前の話ではない。それなのに──最後に見た彼女の不安げな表情、涙をためた目を思い返した。
冗談じゃない、あれを最後にしてたまるか。
尚隆は心底から決意し、今度こそマンションを後にした。