「辞めた?」
室内であるにもかかわらず、否、わかっていながら、大声を出さずにはいられなかった。
「どういうことですか、それは」
システム課の部屋に入ってすぐの受付スペース、応対した同じ年頃の男性社員を、尚隆は問いつめる。
対する社員は、困惑したように首を傾げるばかり。
「どうと言われても……こっちも急な話で、よくわからないんですよ。一身上の都合としか」
「一身上の都合?」
おうむ返しについ言ったが、信じられなかった。あれほど一生懸命に仕事に取り組んでいた彼女が、そんな、ありきたりすぎる上に詳細の不明な理由なんかで辞めるはずがない。
年が改まって、今は1月上旬。
先月、正確には3週間ほど前、尚隆は突然、課長の海外出張への同行を命じられた。日程は半月と、初めてなのに長丁場なのが気になったし、海外経験がほとんどないため不安でもあったが、良い機会だから行った方がいいと課長や同僚に励まされ、どうにか準備を整えた。
支社があるタイへの出張は、確かに貴重な体験の連続で勉強になったし、得意とは言えない英語も多少は鍛えられたような気がするから、行ってよかったと思う。そして帰国後は「疲れているだろうから」と、3日間の特別休暇を与えられた。続く週末も換算して、合計5日、仕事を休んだ。
そして久しぶりに会社に出てきて、システム課を訪ねた顛末がこれである。始業時間はとうに過ぎているのにみづほの姿が見えないので、近くの男性社員に尋ねたところ、主任は先週で退職しましたと言われたのだ。
「都合ってなんですか。まさか仕事でミスでもしたとか?」
「いや、それは……」
さらに詰め寄ると、男性社員(野間口、とネームカードが見えた)はカウンターから2歩、後ずさった。困らせている自覚はあったが、聞かずにはいられない。これ以上何もわからないなど、納得できない。
みづほが座っているはずの空席の向こう、責任者位置の席で、咳払いが聞こえた。見ると、その席の主、システム課の課長が立ち上がるところだった。
「広野くん、別室で話そう。君は席に戻っていいよ」
と言われた野間口氏は、会釈しながらそそくさと自分の席へ戻る。その姿に、先ほどよりは強く、申し訳ない思いが湧いてくる。他の社員の刺すような視線にも今さらながら気づいた。
こっちへ、と促されて、同じ8階の小会議室へと向かう。おそらく総務やシステム課が会議の際に使う部屋だろう。
「さてと」
システム課課長──ネームカードに「前坂」と書いてある相手は先に手近な椅子に腰掛け、立ったままの尚隆に「座りなさい」と自分の隣を示した。
言われた通り、小会議室仕様のパイプ椅子に腰を下ろす。
「君は、先週出張から戻ってきたんだったかな」
「そうです」
「で、須田くんに何の用だったんだい」
「個人的な話です。帰国してから何度か電話したんですが、つながらなかったので。それで伺いました」
──あの日、彼女の家で一晩過ごした、翌朝。
月曜日だったから、始発の時間を見計らい、一度自宅に戻ることにした。そろそろ服を着ようかと考えた頃に、みづほも目を覚ました。
二人そろってシャワーを浴び、身支度を整えた。彼女が用意してくれた朝食を取り、コーヒーを飲み、30分ほどを過ごした。その間、必要最低限の事柄以外はほとんど喋らずにいた。自分は考えていることがあったし、みづほはずっとうつむきがちで、頬を染めたままでいた。シャワーの際、抱き合いながらキスを繰り返したことが、後になって恥ずかしくなったのかもしれない。
『じゃあ、帰るな』
『……気をつけて』
『ちゃんとしてから、話すから。待ってて』