場所が悪いのだろうか。これまで澄美子と出かけた場所と言えば、美術館や博物館などの施設、公園、この店のような高級料理店が続いている。それらのセッティングはすべて彼女だ。口調は物柔らかなのだが、なぜか澄美子の提案には、うなずかなくてはならない空気が強かった。そして実際、提案に有無を言えない気分にさせられる。
自分の普段の行動範囲と違う所ばかりだから、気後れが先に立つのだろうか。そんな気もしないではない。
「あの、澄美子さん」
「はい」
デザートが出た段階で、尚隆は思いきって切り出した。
「次に会う時に行く場所は、任せてもらってもいいですか」
「え」
澄美子は目を丸くした。
思ってもいなかったことを聞かされた、というふうにも見える。だがすぐにその表情を消し、にこりとまた微笑んだ。
「もちろん、かまいません。広野さんの行きたい所に連れていってくだされば」
何の含みもない口調で澄美子は言った。
その、あまりにも何気ない調子に、じわりと感じた違和感を尚隆は打ち消した。
……そうして、次の週末。
土曜日が半日出勤のシフトだという澄美子に合わせ、日曜日に会う約束をした。
尚隆が立てたプランは、といっても込み入ったものや高尚なものが思いつけるはずはなく、「映画を観に行って喫茶店でお茶、その後居酒屋で夕食がてら飲む」という、学生時代から変わらないパターン。非常にありきたりだ。
しかし、そういう、尚隆にとっての「ありきたり」の状況に澄美子がなじむ──なじめるかどうか。そこが重要なポイントだと思ったから、あえて使い古したプランを選んだ。
ただし映画に関してはつい気を使ってしまい、洋画の、落ち着いたストーリーの(であると思われる)恋愛ものを選んだ。
「こういうの普段観ないんですけど、興味深かったです」
観賞後の澄美子はそう言った。立ち寄った近くの喫茶店では、しばし映画の感想で盛り上がった──と言うべきか。
「あの場面で、男性がああいう行動をとるのはちょっと納得いきませんけど。女性が止めているのだし、危険な場所に行くのは人情に反すると思いますわ。そうでしょう?」
「まあ、あれは戦争時代の設定だから……男は戦地に行くのが当然と思われていた時代でしょうし、行かなければ世間に白い目で見られていたんじゃないかな」
「それがおかしいんです。愛し合っている二人を引き裂くなんて、いくら世間だろうと国だろうと、許されるべきじゃありませんわ。ねえ、そう思いません?」
「……ええまあ、そうかもしれませんね」
でしょう、と意気込む澄美子はちょっと珍しくて、端から見るなら「美人が頬を赤くして熱心に喋る姿は見ものだ」で済むと思うが、会話の相手としては感じるのはそれだけではなかった。
非の打ち所がない、完璧な女性と思える澄美子の唯一とも言えそうな、かつ大きな問題。
当人はきっと無意識であるに違いない。だが明らかに、彼女には「人を従わせなければ気が済まない」性質がある。
尚隆の提案に目を丸くしたのも、熱の入った会話で必ずこちらの同意を求めるのも、その表れだと感じた。おそらく、自分の言う通りに人が動くことに慣れていて、そうではない状況は落ち着かないのだろう。
たぶん、両親も周りの人間も、澄美子が可愛いあまりに、彼女の要求には百パーセントに近い割合で応じてきたのだ。澄美子自身、ポテンシャルが非常に高く何でもできる女性だから、意に沿わない、希望に反する事例には、これまでほぼ出会わなかったのかもしれない。
「広野さん、聞いてらっしゃいます?」
「え、ああ、聞いてますよ」
「本当に、監督の見識はどうなっているのかって、直接聞いてみたいくらいですわ。メール送ろうかしら。アドレスご存じありません?」
「いやさすがに……それは知らないですね」
話が長くなり時間が経ってきたのと、少し気分を変える目的とで、通りかかった店員に「すみません、ホットコーヒーとレモンティーひとつずつ」とお変わりを頼んだ。
するとすかさず「まあ」と目を見開き、澄美子は言った。
「私、次はミルクティーにしようかと思ってましたのに。頼む時はおっしゃってくださいな。
すみません、レモンティーはミルクに変更してください」
「ああ、失礼しました」
「そもそも男性って、思いこみが強すぎるところがあると思うんです、先ほどの広野さんみたいに。私がレモンティーを飲んでるからって、お代わりも同じだとお思いだったでしょう。そうとは限らないんですよ」
余計なことをしてしまった。澄美子に言質を与えてしまったうかつさに歯噛みする。尚隆のそんな後悔には気づかないふうで、澄美子はさらに話を続けた。
「だいたい、あの男性も、女性の話をちゃんと聞かないからあんなことになって──」
……結局、話が終わったのはそれから1時間半後、午後6時に近かった。
「ごめんなさい、私ってば興奮してしまって。喋りすぎてしまいましたね」
つい十数分前までの勢いが嘘のように、澄美子はしとやかに落ち着いた、普段の「お嬢様」の様子に戻っている。
「でも、楽しかったです。これからどちらに?」
尋ねられたが、正直、尚隆にはもう、今日は澄美子とこれ以上一緒にいたいという気持ちはなくなっていた。ひどく気疲れして、ともかく休みたかった。
「……すみません、今日はここまでで。実は少し風邪気味なので──もちろん、送りますから」
どう言われるかと思ったが、澄美子は意外とあっさり「あら、そうなんですか」と、いくぶん残念そうな色を混ぜて、応じた。
「わかりました。今日は一人で帰ります、まだ早いですし」
「いいえ、ちゃんとお宅まで送ります。責任ですから」
澄美子の家は今いる場所から1時間ほど離れた、山手の高級住宅地にある。6時過ぎとはいえ時期は冬至近く、もう陽は沈んでいるし、一人で帰したら専務や彼女の母親に何と思われるか。
「でも、風邪気味なら早く帰った方がいいですよ。雪も降っていますし。私は本当に、大丈夫ですから」
澄美子がそう言うのに、迷いはあったが、本心では少しでも早く一人になりたかったので、最終的には「そうですか」と同意した。
「ならせめてタクシーで帰ってください。代金は出します」
そこでまた、ひとしくり押し問答があったが、尚隆が粘って、澄美子に1万円を押しつけた。これでとにかく今は別れられるなら、安いものだと思った。
大通りでつかまえたタクシーが去ってゆくのを見送りながら、尚隆は心底、ほっとした気持ちでいた。同時に、ぐったりと心が疲れているのも感じた。
陽が落ち、街灯に照らされた駅前の通りを、ふらふらと駅に向かって歩く。
……そこから、いつもの路線には乗ったものの、自宅の最寄りでは降りず、さらに先の駅に向かったのは、無意識だったのか意識してなのか。
自分でもわからなかった。ただ、今は心の安らぎがほしいと思った。窓の外の雪は今は止んでいる。
目的の駅で降りて、記憶を頼りに歩を進め、マンションにたどり着く。のぼり始めた月に誘われるように。4階建てだからエレベーターはない。階段を、一歩一歩、何かを確かめるように踏みしめて上った。3階まで。
そして扉の前に立つ。インターホンを押した。
はいどなたですか、の穏やかな声。名乗ると「えっ」という驚きが返ってきた。
ぷつりと通話が切れると同時に、部屋の中からは焦った足音。数秒後、がちゃりと扉が開いた。
「……広野くん」
目をいっぱいに見開き、みづほはこちらを見上げている。当然だろう、いつだったか、この家までの道はよく覚えていないと言ったのだから。だがいざ駅に降り立ってみると、自分でも不思議なほどに、一度だけたどった道を正確に思い出した。
「どうしたの、こんな時間に──また雪、降ってきたの?」
マンションに着く少し前、止んでいた雪がまた、ちらちらと降り出してきた。冷えたコートの肩や髪に残る雪を見て、みづほは尋ねたに違いない。
「……とにかく一度入って、寒いから。コーヒーでも飲んでから──」
戸惑いを隠せないながらも、そう言ったみづほの言葉が、急に途切れた。自分が抱きしめたからだ。
すぐ後ろで、扉が音を立てて閉まる。鍵を閉めなければ、と一瞬思ったものの、そうするために動く気にはなれなかった。今はただ、みづほの温かい体に、優しい心に触れていたかった。
当然ながら、みづほはいきなりの事態に体をこわばらせている。しばし後、我に返って身じろぎし、尚隆の腕から逃れようともがいた。その動きを左腕で封じながら、右手を彼女の頬に添える。
「────、────」
唇も、きっと冷たかったに違いない。重ねた瞬間のみづほの驚きには、それも含まれているように思った。だがそれ以上にもちろん、今の状況自体に驚愕しているだろう。
そうだとわかっていながらも、やめようとはしなかった。思わなかった。彼女が、みづほが、欲しかった。
唇のかすかな震えが、止まった。だらりと下げられていたみづほの腕が、おそるおそるといったふうに、尚隆の背中に添えられる。
「…………鍵、閉めてくれる?」
ややあって唇を離した時、みづほは言った。
受け入れるサインなのだと、尚隆は判断した。
今夜ほど、一人の女を欲しいと思ったことはかつてなかった。彼女を1秒でも多く、少しでも強く感じたくて、何度も繰り返し求めた。みづほが、感覚的にはともかく経験上では慣れていないと前の時に気づいてはいたが、衝動を抑えられなかった。
そしてみづほは、慣れていないはずなのに、こちらの求めに適宜応じてくれた。つながるたびに深くなる充足感、高まる昂揚は、果てがないようにさえ感じられた。
……そうして3度、彼女とつながり。
さすがに息が上がって、二人ともしばらく横たわって休んでいた。だが息が落ち着くと、またもや欲しくなる。回数もわからなくなるほど重ねたみづほの唇を幾度かついばみ、肩から背中の肌をするりとなぞってから、腰を引き寄せる。
みづほがひゅっと息を吸い込んだ。
「ま、まって」
二の腕に添えられた彼女の手のひらからは、制止の意志が伝わる。
「……ちょっと、もう、無理」
声に色が付くなら、きっと真っ赤になっていたろう。そういうふうに思えるような、恥じらいでいっぱいの声だった。
そんな様子にも、尚隆の心にはじわりと火がともる。
──可愛い。
愛おしさが胸に、体全体に満ちる。みづほのまぶたに、頬に、唇に飽きることなく口づけた。みづほは最初こそ、もじもじと恥ずかしそうに避ける仕草をしていたが、やがておとなしく、雨のように続くキスを受け入れた。
あれだけ抱き合ってつながっても、みづほの中にはまだ、恥じらいが存在している。その事実がたまらなく可愛らしく思えた。
もう一度、は彼女のために止めておくことにしたが、体を引き寄せた腕は解かない。体温を、匂いを、まだしばらくは感じていたい。
「……なにか、あったの」
腕の中でみづほが尋ねた。行為の合間にも何度か、何事か言いかけていた。たぶんそう聞きたかったのだろう。
夜に、前触れもなく訪ねてきて、なんの説明もなしにただ繰り返し求めた。彼女でなくとも、誰であろうと疑問に思うのは当たり前だ。……だが、説明する気にはなれなかった。
今この時、みづほに対して、澄美子の話はしたくない。
「──何もないよ」
だから、そう答えた。みづほは顔を動かして、こちらに目線を移したようだった。おそらく、重ねて問いたかったのだろうけど──尚隆が言いそうにないと思ったのか、実際には2度目の問いは発されなかった。
代わりに、頭が再び動き、肩にすり付けられる。
そして目を閉じたようだった。……しばらくして、穏やかな寝息が聞こえ、呼吸がかすかに肌に当たる。
先ほどの問いも声が揺れていたし、相当疲れているに違いない。そうさせたのは自分だから、多少の後ろめたさ、申し訳なさは感じるものの、間違ったことをしたとは思っていなかった。
自分の心に嘘をつかない行動をした。それを後悔してはいない──彼女もそうだと、思いたい。
眠るみづほの耳元に、唇を近づける。
「好きだよ、みづほ」
ささやいて、耳たぶに口づけた。かつてないほどの愛しさに、尚隆の心と体は満たされていた。
その日出社すると、課長が厳しい顔でみづほを呼んだ。
「何でしょう?」
「淵上部長が呼んでる。出社次第すぐに来させるようにとのことだから、急いで行ってくれ」
淵上とは、システム課を含めた総務部門の部長である。営業畑出身のためか、普段は課のことは課長にまかせきりで、大きな会議や重要な決裁以外で関わってくることはない人なのだが。いったい何だというのだろう。
「わかりました。もし時間がかかったら、朝礼の進行お願いできますか?」
「やっとくから、とにかく急いで」
温厚で落ち着きのある課長が、どういうわけか妙に焦っている。普段ならあり得ないことの二重発生に、みづほの頭は混乱してきた。
とにかく、部長の所に行かなければ。8階から9階に上がり、指定された小会議室へと向かう。
案内札が使用中になっているドアを、2回ノックした。
「おはようございます、須田です」
「入りなさい」
ドアを開けると、一番奥の席に淵上部長が座っていた。先ほどの課長と同じく、いやもっと、厳しい表情でみづほを見ている。
ふわりと浮き上がってくる、予想があった。
「お待たせしました。お呼びと伺いましたが」
「とりあえずそこに座って」
そこ、と示されたのがどこなのかはっきりしなかったが、自己判断で、部長から3つ椅子を空けた位置に座った。
「さっそくだが、先週の週末、君は何をしていたかな」
「先週末ですか? 自宅におりました」
「証明できるかい」
「証明、と申されましても、私は一人暮らしなので」
「2日間、ずっと一人だったと証明できるか、ということなんだが」
「……何をおっしゃりたいのでしょうか、部長」
「これだよ」
と、部長がわざわざ立ち上がり近づいてきて見せたのは、3枚の写真。反射的に言葉が出なかった。
尚隆が、みづほの部屋があるマンションへ入っていくところ、みづほが尚隆を出迎えたところ──尚隆に抱きしめられた瞬間。誰がどうして撮ったのか、なぜこんなに的確に撮れたのか。想像しただけで背筋が寒くなる。
「写っているのは君と、営業の広野くんで間違いないね。
君も聞いているとは思うが、彼は今、半井専務のお嬢さんとの縁談が進んでいる。正式にはまだ決められていないが、まあ婚約者のような立場だ。その人物と、休日に自宅で密会するとは、いったいどういうつもりだったのかな。ぜひとも君の言い分を聞きたいね」
「…………この写真は」
「個人情報は伏せるが、ある社員からメールで昨日、私に送られてきた。パソコンで見せるより、印刷した方がよくわかると思ったんだよ。
さて、何か弁明なりなんなり、言いたいことはあるかな」
みづほは、しばらく沈黙した。
言い分が、無いわけではない──あの日、約束などはしていなかった。訪ねてきたのは尚隆の方である。夜に突然のことだったし、コーヒーでも飲んでいけばいいと思ったのは外のあまりの寒さに驚いたからで、他意は全くなかった。
……だが、結果的に彼の抱擁を受け入れ、一晩を過ごしたのは事実である。拒むこともできた。しなかったのは、まぎれもなく自分自身の選択だ。どう言い訳しようとその事実は変わらない。
たとえ自分にいっさいの非がなかったとしても、この写真がある限り、なにを言っても無駄だろう。
「──いえ、何もありません」
「なら、認めるんだね」
「はい」
そうか、と淵上部長はため息を吐き出すように言った。その「残念だよ」と言いたげな口調で、次に何を言われるのかも、なんとなくわかってしまった。
「須田くんは、入社以来システムの方で、よく頑張ってくれたよ。前坂くんから女性を主任にすると聞いた時も、反対はしなかった。君ならまあ務まるだろうと思ったからね。
その君がこんなことをしでかすとは……本当に残念だよ」
課長の名前を挙げ、淵上部長はいかにも惜しむような調子で、今度は声に出してそう言った。どこまでが本心なのかは疑わしいが。昇進の際「反対はしなかった」と言った通り、色よい反応も返さなかったと、前坂課長から聞いている。
「非常に残念だが、君がこの会社にいると、また同じ間違いを起こさないとも限らない。申し訳ないが、なるべく早く、辞めてもらいたいというのが上の意向だ。了解してもらえるだろうか」
表向きは疑問形、こちらの意思を確認している形だが、実質的には勧告に違いない。もしこの場で騒げば、公式に懲戒退職という事態にもなりかねないだろう。部長の表情を見てみづほはそう察した。
とても、不本意ではある。熱を入れてきた仕事を、こんな形で辞めねばならないなど──だが、証拠を突きつけられた上に、おそらくは半井専務の意向が働いているのであれば、どうしようもなかった。
絞り出すように、みづほは懸命に言った。
「…………承知しました」
「そうか。聞き分けが良くて助かるよ。ああ、もちろんだが自己都合退職扱いになるから、そのつもりで頼むよ」
「はい」
「それで、いつ辞められるかな。できれば2週間ぐらいでどうだろうか」
「──後任への引き継ぎの都合もありますから、せめて1ヶ月は頂きたいのですが」
「長いな。3週間程度にならないかね」
「……わかりました、では3週間で準備します」
「よろしく頼むよ」
部長との話を終え、小会議室を出て数歩進んだところで、みづほは立ち止まってしまった。システム課へ早く戻らなければいけないのに、足が動かない。
──心が、ひどく打ちひしがれていた。
上の意思であっさりと会社に切り捨てられたから、だけではない。自分の仕事が、しょせん2・3週間程度で人に任せられること、つまりは誰にでもできることに過ぎないと判断された。それが想像以上に辛かった。
客観的には、事実なのかもしれない。そうでなければ後任に引き継ぐこともできない。……だが、主任になって1年足らずとはいえ、精一杯の仕事をしてきた。目立つ立場ではないけれど重要な仕事、そう思って頑張ってきたのだ。
なのに──
「よう、どうした」
神経に障る声がして、顔をそちらに向けると、本庄が立っていた。……ああそうか、ここは9階、営業フロアなんだっけ。だったらなおさら、早く立ち去らなくては。
実行に移そうとした瞬間、本庄が「なんかあったか?」と先ほどと同じ口調で問うてくる。あなたには関係ない、と言い置いて去ろうと思った。だが、できなかった。
再び見た本庄の顔に、無視できない意味ありげな笑みが、貼り付いていたからだ。その表情で直感した。
「────まさか、あなたが?」
ぷっ、と本庄が息を吐き出して笑う。
「なんのことだよ」
その表情と目つき、声音から、相手がとぼけていることは明らかだった。本庄ならこちらの家を知っているし、これまでの経緯上、ああいうことをする動機もある。みづほを陥れる絶好の機会だと思ったに違いない。
その執念に基づいた行動を想像し、また寒気を感じる。
だが、本庄がやったという確実な証拠がない以上、この場で問いつめることはできなかった──それに、そんなことをしてもこの男は認めないだろうし、仮に認めたところで何も変わりはしないだろう。みづほは諦めるしかなかった。
「──いいえ、なんでも。私の勘違いです」
「だろうな」
くくっ、と喉を鳴らして本庄は再度笑う。しつこく続く声をそれ以上聞かないよう、みづほは足早にその場を去った。
……あまり長くこのフロアにいると、今度は尚隆に出くわすかもしれない。それだけは、どうしても避けたかった。
今、彼に会ったら、何か声を掛けられたら、平静を保てるとは思えない。せめて、みっともない言動は、最後までしたくなかった。誰の前であろうと。
「辞めた?」
室内であるにもかかわらず、否、わかっていながら、大声を出さずにはいられなかった。
「どういうことですか、それは」
システム課の部屋に入ってすぐの受付スペース、応対した同じ年頃の男性社員を、尚隆は問いつめる。
対する社員は、困惑したように首を傾げるばかり。
「どうと言われても……こっちも急な話で、よくわからないんですよ。一身上の都合としか」
「一身上の都合?」
おうむ返しについ言ったが、信じられなかった。あれほど一生懸命に仕事に取り組んでいた彼女が、そんな、ありきたりすぎる上に詳細の不明な理由なんかで辞めるはずがない。
年が改まって、今は1月上旬。
先月、正確には3週間ほど前、尚隆は突然、課長の海外出張への同行を命じられた。日程は半月と、初めてなのに長丁場なのが気になったし、海外経験がほとんどないため不安でもあったが、良い機会だから行った方がいいと課長や同僚に励まされ、どうにか準備を整えた。
支社があるタイへの出張は、確かに貴重な体験の連続で勉強になったし、得意とは言えない英語も多少は鍛えられたような気がするから、行ってよかったと思う。そして帰国後は「疲れているだろうから」と、3日間の特別休暇を与えられた。続く週末も換算して、合計5日、仕事を休んだ。
そして久しぶりに会社に出てきて、システム課を訪ねた顛末がこれである。始業時間はとうに過ぎているのにみづほの姿が見えないので、近くの男性社員に尋ねたところ、主任は先週で退職しましたと言われたのだ。
「都合ってなんですか。まさか仕事でミスでもしたとか?」
「いや、それは……」
さらに詰め寄ると、男性社員(野間口、とネームカードが見えた)はカウンターから2歩、後ずさった。困らせている自覚はあったが、聞かずにはいられない。これ以上何もわからないなど、納得できない。
みづほが座っているはずの空席の向こう、責任者位置の席で、咳払いが聞こえた。見ると、その席の主、システム課の課長が立ち上がるところだった。
「広野くん、別室で話そう。君は席に戻っていいよ」
と言われた野間口氏は、会釈しながらそそくさと自分の席へ戻る。その姿に、先ほどよりは強く、申し訳ない思いが湧いてくる。他の社員の刺すような視線にも今さらながら気づいた。
こっちへ、と促されて、同じ8階の小会議室へと向かう。おそらく総務やシステム課が会議の際に使う部屋だろう。
「さてと」
システム課課長──ネームカードに「前坂」と書いてある相手は先に手近な椅子に腰掛け、立ったままの尚隆に「座りなさい」と自分の隣を示した。
言われた通り、小会議室仕様のパイプ椅子に腰を下ろす。
「君は、先週出張から戻ってきたんだったかな」
「そうです」
「で、須田くんに何の用だったんだい」
「個人的な話です。帰国してから何度か電話したんですが、つながらなかったので。それで伺いました」
──あの日、彼女の家で一晩過ごした、翌朝。
月曜日だったから、始発の時間を見計らい、一度自宅に戻ることにした。そろそろ服を着ようかと考えた頃に、みづほも目を覚ました。
二人そろってシャワーを浴び、身支度を整えた。彼女が用意してくれた朝食を取り、コーヒーを飲み、30分ほどを過ごした。その間、必要最低限の事柄以外はほとんど喋らずにいた。自分は考えていることがあったし、みづほはずっとうつむきがちで、頬を染めたままでいた。シャワーの際、抱き合いながらキスを繰り返したことが、後になって恥ずかしくなったのかもしれない。
『じゃあ、帰るな』
『……気をつけて』
『ちゃんとしてから、話すから。待ってて』
不安げな表情のみづほにそう言い、約束の証として、もう一度キスした。彼女は答えなかったが、涙目でまっすぐにこちらを見つめる様子から、理解してくれたのだと判断し、疑わなかった。
──それが本当は、自分の勘違いだったというのか?
「広野くん」
前坂課長が、柔和に見える外見とは裏腹な、重々しい声で呼ばわった。
「君の話は社内に広まっているよ、半井専務に見初められ、娘さんとの縁談が進行中だとね。……須田くんも、それは承知のはずだ。だから辞めることになったんだろう」
「──え?」
「これ以上、彼女の件で騒ぐのは、君のためにならないということだよ。せっかくの輝かしい将来をふいにするのは、望ましいことではないだろう。須田くんもそう思っているはずだ、噂が本当なら」
課長が遠回しに言おうとしていることがなんなのか、おぼろげながらもわかってきた。自分とみづほの仲が、またもや噂になっていたのだと──おそらくは、みづほの家を訪ねていった日のことが知られたのだ。誰かが偶然見ていたのか、それとも付けていたのか。
真っ先に本庄の顔が浮かんだ。……だが、証拠はない。
「ともあれ、須田くんは納得して退職した。急な話で準備期間も短かったが、きちんと引き継ぎもおこなっていったよ。彼女の能力や人柄は買っていたから、こんなことになったのは私も残念だと思うが、仕方ない。
君も、彼女を気遣うなら気持ちを理解して、自分の仕事を精一杯やりなさい」
そういうことだ、と前坂課長は話の終わりを告げた。戸締まりは必要ないからと言い残し、先に小会議室を出ていく。
ひとりになり、相手の足音が消えるのを待ってから、尚隆はテーブルが震えるほどに拳を打ちつけた。事態のあまりの唐突さ、理不尽さに、なにより自分の迂闊さに憤った。
二人で会ったことを責められるなら、それは自分であるべきだった。だがそうはならなかった。生け贄にされたのはみづほの方──彼女は尚隆の身代わりになったのだ。しかも、「納得」の上で。
すぐにでも本庄を問いつめたい気持ちだった。だが、繰り返すようだが証拠は何もない。そんな状態で問うたところで奴はとぼけるだろうし、何も認めはしないだろう。それに、たとえ奴が密告を認めたとしても、内容が事実である以上、みづほの退職が取り消されるとも思えない。
だとすれば、自分がしなければならないことは何か。
営業2課に急ぎ戻り、課長に外回りと直帰の許可を取り付け、尚隆は外へ飛び出した。とにかくみづほに会って話をしなければいけない。駅までの道も、電車に乗っている間も、たまらなくもどかしかった。
……そうしてたどり着いた彼女の家、否、住んでいたマンションにはすでに、彼女の姿はなかった。空っぽの部屋を、不動産会社の社員と入居希望の女性が内見している場に行き会った。
不動産屋の男性に聞くと、部屋が空いたのは土曜日のことだという。前の入居者はとても優良で、綺麗に部屋を使っていたからクリーニングの必要もなかったと、嬉しそうな口振りで話した。念のために連絡先を訪ねたが、それは個人情報だからと当然ながら教えてもらえなかった。礼を言い、場を足早に立ち去る。
エントランスを出て数歩進んだところで、尚隆は振り返った。3階の、彼女が住んでいた部屋のあたりを。
あの部屋で過ごしたのは、まだ1ヶ月も前の話ではない。それなのに──最後に見た彼女の不安げな表情、涙をためた目を思い返した。
冗談じゃない、あれを最後にしてたまるか。
尚隆は心底から決意し、今度こそマンションを後にした。
その電話は、金曜の夜にかかってきた。
「広野さん、私やっぱり、納得いかなくて……お会いして話をしたいんですが、いいですか」
「もちろんです」
いいですかも何も、こちらは最初から、会ってきちんと話をしたいと申し出ていたはずだ。用件はすでに電話で伝えたとはいえ。それを、なんやかやと理由をつけて会う機会を作ってくれなかったのは、澄美子の方である。
自分が出張の間は致し方なかったにせよ、帰国してからすでに、1ヶ月以上が経っていた──澄美子はその間、何を考えていたのだろう。
おそらく、いや絶対に、すさまじい勢いで責められるに違いない。当然、覚悟の上だ。
明日の午後に会う約束をして、通話を終えた。
尚隆が待ち望んでいた連絡が来たのは、澄美子からの電話が来る、ほんの1時間ほど前だった。
「いま電話大丈夫か? 連絡、取れたぞ」
「ほんとか?」
「おう、海外のしかも奥地だから、時間かかっちまったけどな。やっとメール見られる環境に戻ってきて、こっちが送ったのを読んだって」
電話の相手は、大学のサークルで同期、かつ自分たちの代で部長を務めていた、竹口という男である。みづほが姿を消して、行方を調べる中で思い出したのが、彼だった。
不動産屋はもちろんのこと、会社の総務にも、個人情報は明かせませんと連絡先は教えてもらえなかった。携帯も、いつの間にか着信拒否登録されたようで、呼び出し音すら鳴らせなくなってしまった。
途方に暮れかけた時、年賀状の存在を思い出した。さほど多くはない枚数のハガキの中に、律儀に毎年送ってきていた竹口のものがあり、彼ならば、もしくは彼のツテで誰かをたどれば、みづほの実家の住所を知ることができるのではないかと思った。
果たして、竹口自身はみづほの実家も現在の居場所も知らなかったが(手元にある年賀状は元のマンションの住所で来ていた)、彼女と仲の良かった女子部員の何人かには覚えがあると言った。尚隆が事情を包み隠さず話すと、しばしつるし上げのようにからかわれた後、元女子部員の誰かなら知っているかもしれない、連絡を試みてやるよ、と請け負ってくれた。
竹口は、若干冗談の過ぎるところはあるが、幹部が指名で決まるサークルの中で部長をやっていたぐらいだから、頼りがいは間違いなくある。だから、彼に任せておけばきっと何とかなる、そう思えた。
頼んでから半月ほど経った頃、竹口の方から経過報告の電話があった。4人に連絡を取ったところ、残念ながら3人からは「知らない」との回答が返ってきた。残る一人がみづほと一番親しかった女子だが、彼女は現在NGO団体に所属、理系卒の経歴を生かして発展途上国の生活向上に尽力する活動を行っているため、日本にはいない。だが中学からの友人だった彼女、村松佐和子なら知っている可能性は高いから、連絡が付くまでメールを送り続けてみる──と。
そしてさらに半月以上が過ぎた今日、村松嬢からの連絡が竹口のもとに届いたらしい。内容が急を要しているようだったからと、メールではなく国際電話で。
『みいちゃんの実家ね、古い年賀状かアドレス帳見ればわかるはずなんだけど、どっちも手元になくて。実家の親に頼んで、年賀状探してもらってるから、もうしばらく待ってて』
みづほを「みいちゃん」と呼び、一言も残さずに会社を辞め姿を消したみづほのことを、村松嬢は非常に心配していたという。
『誰が探してるって、広野くん? ふうん、本気で?』
と、尚隆に対しての、ある種辛辣な物言いもしっかり付け加えられていたと、竹口づてで聞かされた。それだけ親しい間柄であるならば、大学時代の件もとうの昔に、みづほから聞いているのかもしれなかった。
「てなわけだから、もうちょっとしたらわかると思う。悪いな、時間かかっちまって」
「いや、そっちのせいじゃないし、仕方ないだろ。こっちこそややこしいこと頼んじまってすまない」
「住所わかったらどうすんだ、会いに行くのか」
「当たり前だろ」
そのために今、探しているのだ。このまま関係がフェードアウトすることなど、到底認められなかった。
ようやく、みづほへの想いが真剣な、掛け替えのないものであると確信したのだ。そしてみづほも、自分の錯覚でなければ、憎からず想ってくれているはず。曖昧な関係ではなく正式なものにするために、どうあっても彼女にもう一度会わねばならない。
遠回りをして余計なことを背負い込んでしまったが、それについては明日、きちんと片を付ける。
みづほが何も言わずにいなくなったのは、少なくとも彼女の方は、何も話すことはないという結論だったに違いない。最初に電話した時、竹口は推測をそう口にした。尚隆も同じように思う。本心でどんなことを思っていたにせよ、みづほは尚隆に何も言わず、静かに去る道を選んだのだ。
彼女はそれで納得したかもしれない。だが自分は、絶対に納得がいかない。
「そうか、……須田さん、ああ見えてかなり頑固だからな。口説くの大変かもしれないけど頑張れよ」
心配そうな口調で竹口は言った。同期の幹部仲間、部長と会計として、彼はみづほと多少の交流があった。だから彼女の性格を、他の奴らよりは的確に分析しているだろう。
「ん、わかってる。ありがとな」
そう返して、通話を終えた。
その後30分ほど、大学時代のこと、再会してからのことをぐるぐると考えていたところに、澄美子からの電話がかかってきたのである。
待ち合わせた喫茶店で、先に来ていた澄美子は最初から、いつもの落ち着きと聡明さを失っているように見えた。容貌に似合わぬ張りつめた表情で、尚隆が向かいに座ると即座に問いつめてきた。
「広野さんのお話、よく考えましたけどどうしても理解できませんでした。どういうことなのか、この場でもう一度おっしゃってほしいんですが」
「どういうも何も、申し訳ないがこれ以上、あなたとのお付き合いはできないということですよ。僕には、好きな人がいますから」
電話で伝え済みの内容を繰り返すと、澄美子は形の良い眉をきっ、と上げた。
「それが理解できないんです。そんな相手がいらしたのならなぜ、私とお見合いしたりしたんです」
「──それは確かに、僕の不徳の致すところであったと反省しています。彼女にはふられたと思っていましたから、傷心を引きずってもおりましたし。そこに専務、お父上からお話を頂いて、澄美子さんに『会ってみたい』と思ってしまったんです。僕も男ですから、美人で魅力的な方には会ってみたいと思うのは自然なことで」
「そんな一般論はどうでもいいです。問題は、私とお見合いしておきながら、どうして他の女性に目移りするのかということで」
澄美子は半ば叫ぶようにそう言った。自身の優位を、自身の方が優れていることをかけらも疑っていない表情。
なるほどな、と尚隆は醒めた頭で思う。澄美子は、自分の都合が良いように事が運んでいる時には上品に聡明に振る舞えるが、そうでなくなると態度を一転させて、子供のように「なぜ」を繰り返すのだ。それもわがままな子供のように、ヒステリックに。
「ですから、僕はもともと彼女が好きだったんですよ。それについては本当に、澄美子さんには失礼なことをしたと」
こちらの言葉が終わる前に、澄美子はつり上げた眉を目をさらに鋭くした。もとが美しいだけに、怒った顔は恐ろしげで、般若面のような表情だと思った。
「失礼すぎますわ。どうして私が、あんな普通の女性なんかに」
「あんな?」
聞き咎め、尚隆はおうむ返しに尋ねる。澄美子は一瞬きょとんとしたが、遅れて何を言ったか気づいたようで、はっと口を押さえた。
「彼女を、みづほを知っているんですか。どうして」
知る限り澄美子は、みづほに会うどころか、見たこともないはずである。それなのになぜ。
ふいに、頭にひらめくものがあった。
「……もしかして、彼女と会うところを見ていたのは」
本庄ではなく、澄美子だったというのか?