「でも、楽しかったです。これからどちらに?」
 尋ねられたが、正直、尚隆にはもう、今日は澄美子とこれ以上一緒にいたいという気持ちはなくなっていた。ひどく気疲れして、ともかく休みたかった。
 「……すみません、今日はここまでで。実は少し風邪気味なので──もちろん、送りますから」
 どう言われるかと思ったが、澄美子は意外とあっさり「あら、そうなんですか」と、いくぶん残念そうな色を混ぜて、応じた。
 「わかりました。今日は一人で帰ります、まだ早いですし」
 「いいえ、ちゃんとお宅まで送ります。責任ですから」
 澄美子の家は今いる場所から1時間ほど離れた、山手の高級住宅地にある。6時過ぎとはいえ時期は冬至近く、もう陽は沈んでいるし、一人で帰したら専務や彼女の母親に何と思われるか。
 「でも、風邪気味なら早く帰った方がいいですよ。雪も降っていますし。私は本当に、大丈夫ですから」
 澄美子がそう言うのに、迷いはあったが、本心では少しでも早く一人になりたかったので、最終的には「そうですか」と同意した。
 「ならせめてタクシーで帰ってください。代金は出します」
 そこでまた、ひとしくり押し問答があったが、尚隆が粘って、澄美子に1万円を押しつけた。これでとにかく今は別れられるなら、安いものだと思った。
 大通りでつかまえたタクシーが去ってゆくのを見送りながら、尚隆は心底、ほっとした気持ちでいた。同時に、ぐったりと心が疲れているのも感じた。
 陽が落ち、街灯に照らされた駅前の通りを、ふらふらと駅に向かって歩く。
 ……そこから、いつもの路線には乗ったものの、自宅の最寄りでは降りず、さらに先の駅に向かったのは、無意識だったのか意識してなのか。
 自分でもわからなかった。ただ、今は心の安らぎがほしいと思った。窓の外の雪は今は止んでいる。
 目的の駅で降りて、記憶を頼りに歩を進め、マンションにたどり着く。のぼり始めた月に誘われるように。4階建てだからエレベーターはない。階段を、一歩一歩、何かを確かめるように踏みしめて上った。3階まで。
 そして扉の前に立つ。インターホンを押した。
 はいどなたですか、の穏やかな声。名乗ると「えっ」という驚きが返ってきた。
 ぷつりと通話が切れると同時に、部屋の中からは焦った足音。数秒後、がちゃりと扉が開いた。
 「……広野くん」
 目をいっぱいに見開き、みづほはこちらを見上げている。当然だろう、いつだったか、この家までの道はよく覚えていないと言ったのだから。だがいざ駅に降り立ってみると、自分でも不思議なほどに、一度だけたどった道を正確に思い出した。
 「どうしたの、こんな時間に──また雪、降ってきたの?」
 マンションに着く少し前、止んでいた雪がまた、ちらちらと降り出してきた。冷えたコートの肩や髪に残る雪を見て、みづほは尋ねたに違いない。
 「……とにかく一度入って、寒いから。コーヒーでも飲んでから──」
 戸惑いを隠せないながらも、そう言ったみづほの言葉が、急に途切れた。自分が抱きしめたからだ。
 すぐ後ろで、扉が音を立てて閉まる。鍵を閉めなければ、と一瞬思ったものの、そうするために動く気にはなれなかった。今はただ、みづほの温かい体に、優しい心に触れていたかった。
 当然ながら、みづほはいきなりの事態に体をこわばらせている。しばし後、我に返って身じろぎし、尚隆の腕から逃れようともがいた。その動きを左腕で封じながら、右手を彼女の頬に添える。
 「────、────」
 唇も、きっと冷たかったに違いない。重ねた瞬間のみづほの驚きには、それも含まれているように思った。だがそれ以上にもちろん、今の状況自体に驚愕しているだろう。
 そうだとわかっていながらも、やめようとはしなかった。思わなかった。彼女が、みづほが、欲しかった。
 唇のかすかな震えが、止まった。だらりと下げられていたみづほの腕が、おそるおそるといったふうに、尚隆の背中に添えられる。
 「…………鍵、閉めてくれる?」
 ややあって唇を離した時、みづほは言った。
 受け入れるサインなのだと、尚隆は判断した。