「どうしたんですか?」
「え?」
「さっきからずっと、外ばかり見て」
「……いや、綺麗な月が出たなあ、なんて」
「まあ。広野さんてけっこうロマンチストなんですね」
くすくす、と向かいの席で笑う仕草には、嫌味な雰囲気も高慢な印象もまったくない。すごいな、と彼女に初めて会ってから何度も思ってきたところだ。
──半井専務に、承諾の返事をして、およそ3週間。
返事をした翌日には引き合わされたから、彼女との初対面からも、ほぼ同じだけの日にちが経つ。
彼女──半井澄美子嬢。25歳という、聞いていた年齢よりも大人びた、そして噂以上に美しく知的な女性。それが第一印象だった。
こんな女性と自分が釣り合うのだろうか、と尚隆は本気で案じたものだ。その懸念は正直、今でも抱えている。
なにせ話せば話すほど、澄美子の頭の良さ、知識の豊富さに舌を巻き、うならされるのだ。それなりの大学を出たとはいえ、単位取得はギリギリに近く、卒論もたいした評価をもらわなかった自分など、太刀打ちできない。
それにもかかわらず、澄美子といることにさほど気後れを感じないのは、彼女の気取りのなさのおかげだろう。これだけの美人で頭脳明晰な女性なら、自身のレベルの高さを鼻にかけるのが普通ではないかと思うが、澄美子にはそういった驕りや高慢さがまったく感じられない。
一人娘として大切にされた育ちのせいなのか、彼女自身が生来持つ性質なのか、あるいは両方か。
ともかくこれほどの女性であれば、さぞかしモテるだろうし自分なんかがあてがわれる必要はないのではないか、と思うのだが、澄美子に言わせると「恋愛をする暇がなかった」のだそうだ。
「ずっと、勉強や友達との時間が楽しくて。就職したら仕事に没頭してしまって、男の人とのお付き合いにまで気が回らなかったんです。それで、どなたともお付き合いしないままに、この歳になってしまって」
初対面の時、澄美子はそう説明した。今時、そんなことがあるのだろうか。尚隆はついうたぐったが、澄美子の表情や話しぶりに嘘は感じられなかった。
そして、最初の顔合わせは、専務が同席していたにもかかわらず、思いのほか楽しかった。頭が良いだけに澄美子は話し上手で、こちらが緊張のせいでつたない話しぶりになってしまっても、その中から的確に意図やポイントを読みとり、答えを返してくれた。
彼女のおかげで、スムーズに話せた覚えはないのに、会話が案外はずんだとまで感じられたのである。
噂以上に素敵な女性だと尚隆は思ったし、澄美子の方も、理由は不明ながら尚隆を気に入ったらしく、翌日には「またお会いできませんか?」との連絡が来た。メールやLINEを教えていたにもかかわらず、電話で。きちんとお話しした方がいいと思って、との弁で、お嬢様らしく古風なところもあるらしい。
……そんなこんなで、約3週間。週末には必ず会うようになって、初対面を除くと、今日が4回目のデートである。
昼過ぎに会ってから、彼女が好きだという美術館で企画展を見学し、夜は彼女のセッティングで、フランス料理店に来ていた。上品な店構えのわりにはフランクな雰囲気で、テーブルマナーに詳しくない人間には、尋ねれば嫌な顔をせずに丁寧に教えてくれる。無知だからと客をバカにすることなどしない、ちゃんとした店だと思う。
とはいえ、正直、言われた料理の名前もよくはわからないので、とにかく可能な限り行儀良く食べることで場を乗り切っていた。そしてついつい、皿が下げられ次の料理が来るまでの間に、気が抜けて外をぼんやり見てしまっていたという次第だ。
「本当、綺麗な月ですね。もうすぐ満月なんでしょうか」
「え、いや……どうでしょうね」
「また、広野さんてば。丁寧語はやめてくださいってお願いしているのに」
「……はあ」
「私の方が年下なんですから。いつまでもそんな話し方されると、緊張してしまいます」
「澄美子さんも緊張するんですか」
「まあ嫌だ。もちろんしますよ、人間ですもの」
照れくさそうに澄美子は微笑む。たいていの男なら、この笑顔ひとつで、彼女に完全にまいってしまうだろう。正直、尚隆も何度かぐらっと来ている。それほどに彼女の笑みは、そして人柄は魅力的だった。
……だが、何かが違う。
澄美子と会うことは嫌ではないし、会話は心地よい。それでも、彼女とこの先付き合いを続けて、結婚まで至るイメージが、どうにも湧いてこない。