社内サーバのメンテナンスを頼んでいる業者との定期打ち合わせが押して、昼休みが遅くなった。
 課長に断りを入れて、40分時間をもらい、外へ出る。本当は1時間ゆっくり行ってきていいと言われたのだが、月末が近くていろいろとやることがあるため、早めに戻ろうと思った。
 運良く、会社のビルから近い定食屋が、並ばずに済みそうだった。小綺麗な構えの扉を開けて、中に入る。
 「ご相席でもよろしいですか?」
 「はい、大丈夫です」
 並ぶ列こそなかったものの、店内はほぼ満席である。近いのと、リーズナブルなのに美味しい定食とで、近隣の飲食店の中では人気なのだ、仕方ない。
 ……だが、他の店に行かなかったことを、みづほはすぐに後悔した。案内された席に座っていた人物のせいだ。
 「すみません、ご相席お願いできますか」
 店員の女性が訪ねている人物に、背後から念を送る。断って、お願いだから。
 いいですよ、と振り返らずに答える相手の声に、みづほは回れ右をして店を出たくなった。しかし行動に移す前に店員は去り、相手は今になって振り返り、こちらを見た。
 「──────」
 「………………」
 お互い何も言わないが、会いたくない相手に会った、という思いは一致していたに違いない。挨拶がとっさに出ない、どんよりした空気が物語っていた。
 みづほは観念して、席に着く。
 コートを着て鞄を持っている様子からすると、外回りからの帰りか、これから行くところなのか。スマホに集中している尚隆の身なりを視界に入れながら、みづほは例の噂に思いを馳せた。
 あの噂を田村嬢から聞いてから、2日。たった2日で、噂はすでに社内中に広まっているように感じる。内容のインパクトを考えれば当然かもしれないし──あるいは、羨望や妬みも手伝って、誰かが意図的に広めている、ということもあるかもしれなかった。
 周囲の反応としては無理もないだろうし、納得はできる。自分がもし当事者だったらすごく迷惑に感じるだろうとは思うが。
 ……尚隆は、どう感じているのだろうか。
 そもそも、噂は本当なのだろうか。
 漏れ聞くところによれば、数日前に尚隆が、営業統括担当の専務に呼ばれたのは確からしい。営業の半井専務といえば切れ者で有名だ──そして、その一人娘も。
 2・3年前に、専務のコネで入社するのではないかと言われていた。だが本人が嫌がったのか、専務が身内を贔屓すると思われるのを避けるためなのか、彼女は入社しなかった。代わりにというか、外資系の企業に入り、そこでアメリカ人社長の秘書を務めていると聞く。留学経験があるらしいから英語は得意なのだろう。
 その上に、専務がひそかに自慢にするほどの美人で、性格も悪くないらしい。事実なら、絵に描いたような才色兼備の女性だ。
 そんな一人娘の見合い相手に、尚隆を選んだということは……言うまでもなく、彼をかなり買っていることに他ならない。部署が違うから直接に知る機会はなかったけど、尚隆が所属する営業2課でなかなかの実績を上げていることは、噂の中で必ず耳にした。前職の大手商社でも成績は良かったらしい。
 さらに言うなら、大学もそこそこ名の通った所を卒業しているし(卒業生のみづほが言うのもなんだが偏差値は高い方だった)、風貌も決して悪くない。……いや、昔より落ち着いた分、頼りがいのある社会人としての見た目を確立している。
 出世頭として、専務に目を付けられるのも無理はない。
 「お待たせしました、本日の定食です」
 先に、尚隆の分が運ばれてきた。この店はランチメニューが日替わりだが1品だけなので、店員は注文を取らない。席に着けば数分後に運ばれてくる。
 今日のメインである煮込みハンバーグでも、副菜のひじきでもなく、味噌汁に尚隆は口を付ける。椀を置いたタイミングで、思い切ってみづほは口火を切った。
 「──広野くんの話、噂になってるね」
 サラダにのばした箸が、ぴたりと止まる。
 「……何の」
 「半井専務のお嬢さんと、お見合いするって話」
 ああ、と気のない口調の相づちが返ってくる。
 「本当なの、専務に呼ばれたって」
 「………………」
 尚隆はしばらく無言だった。ぼそぼそとした動きで、定食を3分の1ほど食べてからお茶を飲み、ようやく「呼ばれたのは、本当だけど」と答える。
 ああ、本当なんだ。みづほは複雑な気持ちをこらえて、話を続けた。
 「そう、すごいじゃない。半井専務、次の副社長間違いなしって言われてる人でしょ。そんな人に見初められたなんて、広野くんも将来有望って思われたわけよね。絶対、話は受けるべきだと思う」
 ぴく、と尚隆の眉の片方が上がった。しばらく無言が続いた後、おもむろに向けられた視線に、思わずぎくりとする。
 抑えた感情──それが何か、はわからないけれど、今にもほとばしりそうな感情を努力して抑えて、それでも止めきれずにあふれている、そういう目だ。
 ……いや、彼が何を言いたくて言えないのか、本当は気づいている。だが、それを言ってほしいとは思わなかったし、言わずにいてほしかった。