「主任、聞きました?」
その日出勤すると、開口一番、後輩にそう言われた。
「田村さんおはよう。何かあったの」
「聞いてないんですか? 昨日からすっごい噂になってますよ」
「だから何が?」
うふふふ、と後輩は意味深な、なおかつ楽しそうに笑いを漏らす。こういう思わせぶりな反応が、みづほはあまり好きではない。女子の友達がいないわけではないが、これまで、噂話の輪には積極的に入ったことがなかった。親しくなるのも必然、同じようなタイプがほとんどだった。人数は多くなかったが、その方が気楽だったのでかまわなかった。
ところで田村嬢は何を言いたいのだろう。みづほが若干、苛立ちを心の奥にちらつかせた頃、ようやく後輩は話し始めた。
「お見合いをするんですって、専務の娘さんと」
「誰が?」
「だから、営業の広野さんがですよ。もう主任ったら」
もうも何も、主語を先に言わなかったのは田村嬢の方で、こちらが(冗談にしても)文句を言われる筋合いは1ミリもなかろうと思った。そのせいで、というかおかげで、感じた驚きと動揺をそのままに表に出さずに済んだ──はずだ。
「……そうなの?」
少なくとも、後輩に応じた声は、少し震えてはいたが平静の範疇に入っていたと思う。田村嬢もそう感じたのか(感じてくれたのか)、やや不満そうに口を尖らせた。
「えーそれだけですか? 気にならないんですか」
「そりゃ、気にはなるけど。昔の知り合いだし」
「じゃなくて、元カレでしょ。元カレが彼女のコネで出世街道一直線、とかなったらやっぱり妬ましくないですか」
「ちょっと待って、田村さん……広野、さんが元カレだって話、どこから出てきたの?」
「やだなあ、皆そう言ってますよ。あんなにかばったのは昔付き合ってたからに違いないって。そうなんでしょ」
くらくらする頭を押さえつつ、なんとかみづほは否定の言葉をつむぐ。
「違うから。広野さんは、大学のサークルで一緒だっただけなの。向こうにはずっと彼女がいたし、私に興味なんか持ってなかった。断じて、付き合ってたことなんかないのよ」
えーそうなんですか、とは受けたが、田村嬢の目はまだ疑わしげである。……というか、元カレ元カノ、ということにしておいた方が話が盛り上がるから、そうしたいのだろう。
みづほは念押しした。
「そうよ、ただの知り合い、昔のサークル仲間。決して、いちどたりとも、付き合ってはいないから。皆にもそう言っておいてね」
「ふーん……」
いかにもつまらなさそうに後輩は応じた。わかりました、と続けて言うには言ったけど、果たしてどれだけの効果が期待できるものかは疑問だ。まあそれでもこちらが言うことはちゃんと言ったし、それ以上は今は何もできない。
とりあえずは今日の仕事だ。昨夜のシステムログを見て、特に問題がないことを確認してから、机の上に置かれたいくつかの書類のチェックをみづほは始めた。
──あの日、尚隆と二度目の夜を過ごした翌朝。
目が覚めた時には、すでに尚隆は隣にいなかった。だがすぐに何があったかは頭に浮かび、感じるいたたまれなさと恥ずかしさは7年前の比ではなかった。
……こんなことは、あの時だけで終わりにしようと思っていたのに。なのにまた。
場の雰囲気と感情に流されて、抱かれてしまった。
とにかく尚隆の家から、尚隆本人から離れたくて、逃げるように外へと出た。いや、文字通り彼から逃げたのだった。
大きな道に出てタクシーを拾い、自宅に戻ってようやく、少し落ち着いた。そしてあらためて思い出す、彼との時間にまた、顔から火が出る思いが湧き上がってきた。
他の誰と、そんな展開になりかけても、先に進む気にはなれなかったのに──どうして尚隆が相手だと、拒否感が吹っ飛んでしまうのか。
彼を好きだから、というのはもちろん理由のひとつとしてあるだろう。だがいくら好きだからといっても、行為に対する不安、緊張がすべて払拭されるとは限らない──実際、そうではなかったのに。
今に至るまで、抱かれた相手は尚隆以外にいない。つまりあの夜は、そういう意味でも7年前以来の出来事。みづほにとって2度目の行為だった。
彼に、そうだと、気づかれただろうか?
ある程度ブランクがあると、処女でなくても痛みを感じることがあるという。セカンドバージンと表現するらしい。
みづほはどうだったか。……確かに、入ってくる時には少し痛かったが、違和感の延長のようなレベルで、初めての時のように腰まで響く痛みは感じなかった。その違和感も気がつけば消えていて、じわじわと押し寄せる快感の波に、理性が少しずつさらわれていった。
その後のことは、よく覚えていない。正確に言えば、あまり思い出したくない。思い出すのが恥ずかしかった。そのくらい、最中は興奮していた──彼に抱かれることに没頭していた。大胆なふるまいをしてしまった気がするし、平時では絶対に言えないようなことも、言ってしまっていたように思う。
……彼の名前を、何度も呼んでいたことも。
そして何度となく、名前を呼ばれたことも。
思い返すと頭と心にじわりと火がともる。体の奥底が震えて、どうしようもない気持ちになってくる。
尚隆がまた欲しくて、たまらなくなってしまう。
だけど、そんなことは言えない。表に出すわけにはいかない。だって。
尚隆は、みづほを好きなわけではないのだから。