2ヶ月前の、あの日の朝。
 我に返ったのは、みづほが部屋を出ていって何分も経ってから。たぶん、5分はゆうに過ぎていたのではなかろうか。
 彼女の反応がわからなかった。逃げるように帰っていったその理由が。
 だから週が明けた月曜日、朝一でシステム課を訪ねていった。みづほときちんと話すために。だが応対した社員に「まだ来ていません」と言われ、その後、昼休みや、仕事の合間にも2回ほど行ったのだが、いずれも「主任は今手が離せないそうです」と断られた。ならばと内線で勝負したが、相手が尚隆だとわかった途端、ぶつりと切られた。
 以前にも増して、避けられているのは明らかだった。だが本当に、尚隆としては理由がわからない。あの夜、再び自分を受け入れたのは、気持ちがこちらにあるからではなかったのか? みづほが誰とでも、成りゆきで寝るような女とは、どうしても考えがたかった。
 とにかく一度、ちゃんと話をしなければ。そう思い、それからしばらく、帰りの時間を合わせようとタイミングをはかった。結果的に、思惑通り退社の頃合いが一緒になったのは1週間後。以前と同じく、どちらも残業で居残っていた。
 あからさまに待ち伏せていたら逃げるかもしれないから、意図的に早めに残業を終え、システム課の様子がうかがえる場所、非常階段で待っていた。日中でなければめったに人は来ない。
 みづほが部屋を出るのにともなって、非常階段で1階まで駆け下りた。大学卒業からこちら、まともな運動はしていなかったから、下りた頃にはかなり息切れしたが、そんなことにはかまっていられない。なんとか、みづほが通用口に来るのに合わせて、自分もそこへ行くことができた。
 尚隆の姿を見たみづほは、文字通り固まった。だがそれは一瞬のことで、タイムカードに素早く打刻し、早足で出て行こうとした。彼女から離れぬよう自分もすぐさま、カードの手続きをして通用口をほぼ同時に出た。
 みづほはかなり早足で歩いたが、ヒールと革靴の違いで、追いつくのにはさほど苦労しなかった。少々強めに力を込めて腕を引くと、観念したのか立ち止まり、振り返った。
 「────なに?」
 振り返りはしたが、こちらをまっすぐ見ようとはせず、目を伏せていた。しかも顔を斜めに向けて。話したくない、という意志がありありと感じられたが、屈するわけにはいかない。まだ残る息切れを抑えて、尚隆は口を開いた。
 「なんで避けるの?」
 「……避けてなんか」
 「避けてるだろ、ずっと。呼び出しにも全然応じないし」
 「………………」
 「理由、言ってもらわないとわからない。納得いかない」
 「……何が?」
 ためらうような間を置きつつも、首を傾げてそう言ったみづほに対し、思わず語調が強くなる。
 「こないだのことだよ。避けるくらいならなんであの時、拒まなかった?」
 詰め寄る尚隆に、みづほは開きかけた口を結局は閉じて、沈黙する。その反応を迷いと受け取り、深く息を吸ってから尚隆はついに言った。
 「──俺は、須田とちゃんと付き合いたいと思ってるんだ。言えなかったけど、大学のあの時からずっとそう思ってた。だから」
 「私は、そんな気ないから」
 唐突にみづほが遮った。彼女の発言の内容に、つまづいたように言葉が止まる。頭がついていけず、しばしリアクションが取れなかった。
 「…………え?」
 間の抜けた声でつぶやいた尚隆を、今度ははっきりと見据えて、みづほははあっと息を吐いた。ため息のような。
 「そういうこと、言い出すんじゃないかと思ってた。だから避けてたのに」
 「ど、ういう意味だよ」
 「たかだか1回や2回、あんなことになったからって、勘違いしないでほしいの。ちょっと寝ただけの女が、予想外に相性良かったから付き合ってもいいかなんて、短絡的に思わないでほしい。
 私のこと、ああなるまで何とも思ってなかったでしょ」
 あからさまに棘のある口調。みづほがわざとそうしているのは明白で、だが、言われた内容に対してとっさに反論できなかった。
 「──────」
 ここで、何か言い返せていれば、違った展開になったかもしれない。しかし尚隆は何も言えないままで、みづほの続く言葉をただ聞いていた。
 「私だっていつまでも、大学の時と同じじゃないから。気持ちだって変わるし。
 ……私は、広野くんと付き合いたいなんて思ってない」
 言い切ると、みづほはすっと視線を、顔ごとそらした。その仕草と、言い切る前の一瞬の間を、彼女のためらいだと思ったのはこちらの期待に過ぎなかったのか。
 「そういうことだから。じゃあ」
 念を押すようにそう告げて、みづほは背を向ける。一度たりとも、振り返ったり足を止めたりすることなく、駅の方へと去っていった。
 尚隆は、追わなかった。みづほの背中が、角を曲がって見えなくなっても。