「おはようございます」
 「おう広野か、ちょうどよかった」
 2ヶ月後のある日の朝。出社した途端、挨拶した課長にそんなふうに言われた。
 何がちょうどよいのか、と思っていると「半井(なからい)専務がな、おまえが来たら個室に呼ぶようにと言ってる。すぐ行ってくれ」とのことである。
 「専務、ですか?」
 「そうだ。知ってるだろう、半井専務は」
 知ってるも何も、営業統括担当の重役であるから、営業部員なら知らないはずのない相手だ。だが、その重役に平社員が個人的に呼ばれることなど、通常はあり得ない。
 何かまずいことをしでかしただろうか? いや、心当たりはない。むしろ入社以来の半年間、成績は右肩上がりだし、この2ヶ月は課内トップが続いている。誉められこそすれ、叱られる材料はない……と思いたいが。
 ともあれ、来たらすぐと言うならば急ぎの用件なのであろう。わかりました今から行きます、と早口で課長に応じて、場所を確認してから向かう。
 個室とは言っても、ここは支社だから、重役用の部屋と言えば支社長室しかない。その支社長は今は、本社に呼ばれて留守のはずであるが、どうだったろうか。
 目的の部屋の前に立ち、2回ノックする。誰何の声に「営業2課の広野です」と答えると「入りなさい」と声がした。
 部屋の中、正面の大きなデスクの椅子は当然ながら支社長の席である。そこに今は、半井専務が座っていた。営業全体の上半期決算の会議で、テレビ通話で一度しか見てはいないが、その自信にあふれた威圧感、整った顔立ちはよく覚えている。テレビを通じてでなく直接に対面すると、相手の持つ雰囲気というか、オーラとでも呼ぶべきものがより強く、こちらに伝わってくるような気がする。
 もっとも、今は非常に緊張しているから、なおさらに威圧される空気を感じてしまうのかもしれないが。
 失礼します、とお辞儀をして部屋に足を踏み入れ、ドアを後ろ手に閉める。尚隆から見て右手の応接セットを専務は手で示して「そこに座って」と言った。
 言われた通りに座る。ドアを開けて目が合った時から、半井専務は今に至るまで、機嫌良さそうに微笑んでいる。とりあえず悪い用件、叱られるような問題ではないかな、と尚隆は心中でつぶやき、ほんの少しだけ心を落ち着けた。
 「すまなかったね、朝早くから呼びつけて」
 「──い、いいえ」
 「君のことは原口くんから聞いているよ。中途採用だが他の社員に引けを取らず、よく頑張っていると。先月と先々月、2課でトップの売り上げだったともね。
  実力者ぞろいの2課で素晴らしいと思うよ。さすがエルグレードで働いていただけのことはある」
 「……ありがとうございます」
 原口とは営業2課の課長で、エルグレードというのが尚隆が1年前まで働いていた、業界大手の総合商社だ。現在も、ブラックな社風は変わっていないとかつての同僚からは聞くが、業績での評価は相変わらず高いらしい。
 それはそれとして、確かに前職でもそこそこの成績を上げていた自負はあるものの、こんなふうに上役のさらに上役から手放しで誉められるのは、嬉しさはもちろんあれども面映ゆい。そして、わざわざ誉めるだけのために呼んだとも思いにくい。いったい何なのだろう。
 「ところで、話は変わるのだけどね」
 来た。先ほどまでの気安さが少し抑えられた口調に、思わず身構える。
 「広野くんは今、独身だね」
 「? そうですが」
 「交際している女性はいるのかな」
 そう問われて、反射的に浮かんだ相手。迷ったが、事実ではないと打ち消した。
 「……いいえ」
 そうか、と安心したような表情と声音。──この話の流れは、もしかして。
 「実はね、君に紹介したい人がいるんだよ。うちの娘なんだが」
 「お嬢さん、ですか」
 「親が言うのも何だけど、いい娘に育ってね。料理が得意でよく食事も作ってくれるんだ。顔もそこそこ見られると思うし、どうだろう」
 「どう……とおっしゃいますと」
 「会ってみないかということだよ。今年25歳だから、君とは年齢的にも釣り合いがとれるだろう」
 は、と相づちを打ちながら「若く見えるけど専務はうちの親とあまり年代変わらないんだな、まあ専務になるぐらいだからそりゃそうか」などと考えていた。
 自分に話が持ち込まれると思ったことはなかったが、これはいわゆる、見合いというやつか。しかも会社の重役の娘との。何かのドラマで見たような展開が、どうにも現実感をともなっては感じられない。
 そんな尚隆の目に映る半井専務は、どうやら娘を溺愛しているようで、楽しげに話を続ける。いわく、高校までは私立の女子校に通い、学年で五本の指に入る成績だった、大学では1年アメリカに留学したから卒業は遅れたけど、「大学に残らないか」と教授に言われるほど論文の成績は良かった、などなど。
 話半分に聞いたとしても、専務の娘はなかなかの才色兼備らしい。そんな女性が果たして、自分なんかを気に入るものだろうか。
 「そんな娘なんだが、どうも男性との付き合いには疎いようでね。年頃だというのにこれまで彼氏どころか、男友達も連れてきたことがない。それで、まあ親のお節介ではあるが、良い相手がいないか探したわけだ。君ならふさわしいのではないかと思ってね」
 「俺、いや、私がですか?」
 「失礼だが経歴は調べさせてもらった。それなりの大学を出て、エルグレードで恥ずかしくない実績を残している。ご家庭にも問題はないようだし、なんと言っても男気がある」
 「……男気?」
 「聞いているよ。ストーカーに絡まれていた女性を助けたそうじゃないか」
 と言われて、一瞬混乱したが、みづほの一件のことかと思い当たった。
 「見て見ぬ振りの人間が多いこのご時世、なかなかできることじゃない。私とて、身内が被害に遭っているならばともかく、そうでなければ君みたいに毅然と対応できるかどうか」
 「いえ、あれは」
 「わかってる、大学での知人らしいね。だとしても、尋常でない相手から庇うというのは勇気のいることだ。違うかい」
 「……ええ、まあ」
 例の件の後、みづほとの関係については、聞かれた相手には確かに「大学でサークルが一緒だった」と答えはした。しかしそんなに多くの人間に言った覚えはないし、わざわざ上司に報告したりもしていない。なのに、そんなことまでどこかから聞いているのか。半井専務の情報収集能力に舌を巻くとともに、この人が出世するのは当たり前だなと、尚隆は思った。
 「ともあれ、そういうことなんだ。娘にはまだ話していないんだが、君に会ってみる気があるのなら、と思ってね。どうかな」
 専務の笑顔を前に、尚隆は沈黙する。
 ──正直に言うなら、迷っていた。