みづほが目を覚ますと、周囲は真っ暗だった。
 ……今、いる場所がどこなのか、全くわからない。
 自分が横たわっているのが布団かベッドなのは、感触でわかる。しかし、それ以外はまるで見当がつかない。そもそもなぜ、横になっているのだろう。
 覚醒しきらないぼんやりした頭を必死に動かし、考えた。
 ──そうだ、今日は報告書とかの書類仕事が佳境で。週明け提出の分だけでなく他の書類も作っていたら、いきなり部屋のドアが開いて……顔を上げたら尚隆がいて。
 しばらく押し問答しているうちに、尚隆が、弁当を買ってくるからと飛び出していって、その勢いで落としていった物を見たら、携帯で。
 どうしようかと迷って、結局は、戻るのを待つことにしたのだった。一番近いコンビニは5分もかからない距離だし、15分もあれば戻ってくるだろう、そう思って。
 それから……どうしたのか。20分過ぎても尚隆が戻ってこず、遅いなとは思った。それは覚えている。だが、その後は……そうだ、とにかくあと10分くらいは待ってみようと考えながら、PCとディスプレイの電源を落とした。そして、そして?
 座って頬杖をついている間に──うとうとしてしまった、ようだ。うとうとだけでなく、完全に眠ってしまったのか。
 自宅へ戻ってきたけどその間の記憶がない、とは考えにくかった。酒を飲んだわけでもないのに。だが、どこだかわからないこの場所へ運ばれたのにも気づかないほど、熟睡してしまっていたのは確かなようだった。そう考えるしかない。
 がばりと跳ね起き、手探りで両脇を確認する。
 誰も隣にはいない、みづほひとりだ。そして感触からすると敷いてあるのはマットレスで、自分はベッドに寝ていたらしかった。
 そうしているうちに目が慣れて、うっすらと周りの様子が見えてきた。視線の先にドアらしきものがあるところからすると、どこかの部屋──だが自分の家、寝室にしている部屋でないことは確かだ。
 右側が壁に接していたため、左に体を回し、床に慎重に足を下ろす。そして立ち上がって一歩踏み出した途端、何かにつまづいた。
 「きゃ!」
 思わず大きな声が出て、つまづいた何かの上に倒れ込む。意外とクッションがあり衝撃はさほどなかったが、ずいぶん大きくて、もぞもぞと動いている……人が、布団をかぶって床で寝ていたのだ。
 再度叫びかけた声を止めたのは「起きた?」と寝ぼけ声ながら聞き覚えのある声がしたからだった。
 「…………広野、くん?」
 呆然としたつぶやきに、声は「ん、ここ、俺の家」と返してくる。尚隆の家?
 「会社で寝ちまって、どうしても起きなかったから。須田の家の道順はっきり覚えてなかったし、放っとくわけにもいかなくて、連れてきた」
 説明されるうちに徐々に目が慣れてきて、尚隆の輪郭が見えた。そして羞恥心がわいてくる。やっぱり、寝ちゃったんだ。焦りと、面倒をかけた申し訳なさでいっぱいになった。
 「ご、ごめんなさい、迷惑かけて」
 「──いや、まあ。タクシーですぐだったし」
 頭をかきながら、まだ寝ぼけた様子でぼそぼそと言う尚隆の声からは、彼の本心を推し量りにくかった。だが仮に、彼が言葉通りに「たいしたことじゃない」と思っているのだとしても、こちらとしてはやはり相当に恥ずかしい。眠ってしまったこと自体もだが、その状態でここまで運ばれてきたことも、それでもなお起きずに今さっきまで熟睡していたことも。
 「のど乾いてない?」
 尚隆に問われ、反射的に喉に手をやる。……確かに、乾いているような気がする。
 「ん、と……少し」
 「水入れてくる」
 短く言って、尚隆は部屋を出ていった。ドアが閉まって数秒後、みづほはようやく大きく息をつく。
 そしてあらためて襲ってきた羞恥に、両手で顔を覆った。──まったく、なんて無様なところを見せてしまったのだろう。今までの努力が台無しではないか。
 尚隆にはこれ以上、弱みも何も、見られたくはなかったのに。
 疲れては、いた。一人暮らしの家に帰るのがおっくうだ、そう思う程度には眠くもあった。だが、本当にそのまま寝てしまうだなんて。しかも尚隆の前で。
 と考えながらも、同時に、彼だったからまだ良かったのかもしれない、とも思った。よからぬ考えを持つ人物──たとえば本庄のような人物が相手だったら、どうなっていたか。想像して身震いした。最近、あの男が目立ったちょっかいをかけてこなかったからと、油断していたのではないか。そう自分を叱咤する。
 次いで押し寄せてきた疲労感とともに息をついた時、尚隆がグラスを手に戻ってきた。
 ほら、と差し出されて、やや慌てて受け取る。仕草になんだか、ぞんざいな雰囲気を感じた。……当たり前か、こんな面倒をかけたのだから。
 当然、迷惑に思っているに違いない。胸苦しさを感じながら、できるだけ早く水を飲み干した。
 「……ありがとう」
 礼に、こくりと頷きを返したのみで、尚隆はまたグラスを持って部屋を出ていく。台所へでも戻しに行くのだろう──気まずい。
 今が何時か確かめてはいないが、この暗さでは、夜が明けて電車が動くのはもうしばらく先だろう。けれどもう一度ここで眠り直す気にはなれないし、目が冴えて眠れそうにもない。尚隆が戻ってきたら、今すぐ帰ると言おう。大きい道に出てタクシーを捕まえれば一人で帰れる。カバンはどこだろう、カバンは──
 探そうと立ち上がった時、尚隆が再び部屋に入ってきた。あの、とみづほが口を開くとほぼ同時に、彼の方が先に早口で「じゃ俺、別の部屋で寝るから」と言った。そうして足元の布団、もしくは毛布を持ち上げたので、思わずそれをつかんでしまった。
 「何?」
 「え、……あ、その」
 問われて、自分の行動が謎だと思った。私は何をしたかったのだろう。
 そうだ、帰ると言おうとしてたんだった。思い出したにもかかわらず、何故か言葉を口に出せない。言うために引き止めたんじゃなかったのか。
 行ってしまったら言えないから、出ていってほしくなかったから──その思いが、頭の中でぐるぐる回り、どうしたわけか混乱してきた。訳がわからない。
 思考の停滞に焦っていると、尚隆が布団か毛布を床に放り出し、ベッドに、みづほの隣に無言で座る。え、と思いそちらを見た途端、肩をぐいと引き寄せられた。
 一瞬後、唇が重ねられる。
 (────え)
 数秒、頭が真っ白になり、我に返った後も、まだキスは続いていた。気づくと尚隆の手が肩から背中に回っている。
 反射的に身を引こうとした。けれどすかさず、今度は尚隆の腕に抱きすくめられてしまい、身動きが取れなくなった。
 体を固くして、とにかくキスが終わるのを待っていると、そうなるより前にベッドに横たえられる。抱きすくめられたまま。
 7年前の夜が、よみがえってくるようだった──夜の闇の中で見下ろしてくる尚隆がどんな表情をしているか、細かくは見えなくてもわかるような気がした。
 間違いなく今、あの夜と同じことが起きようとしている。そうならないようにと、ずっと注意して振る舞ってきたにもかかわらず、この状況を嫌だと思っていない自分にみづほは気づいた。
 窓の外を車が通り、ハイビームのライトが束の間、部屋の中を照らし出す。尚隆の痛いような視線を、受け止めながらみづほは思った。
 ……ああ、やっぱり。
 私はまだ、この人が好きなんだ、と。


 抱きしめた彼女は震えていた。
 ホテルに入る前から──いや校門前で会った時から、握った手はずっと、かすかに震えていたのだ。
 何故なのかは考えなくてもわかる。彼女、須田みづほは、こういう事柄に免疫がないのだ。ほぼ間違いなく初めてだろう。
 そう考えて、今の出来事は、夢に見ていることだと尚隆は気づいた。7年前の、あの夜だ。
 「本当にいいの?」
 問うと、みづほは腕の中でびくりと体をこわばらせた。ややあって、うなずく動きを胸に直接感じる。
 ここに来るまでずっとうつむいていた、彼女の表情はよくわからなかった。だが引き結んだ口元からは、悲壮な雰囲気の漂う決意が見て取れた。今もきっと同じ表情をしているのだろう。
 みづほが自分を想う気持ちを利用している。その事実を確認しながらも、尚隆は引き返そうとしなかった。言い訳でしかないけど、ここまで来てしまったら男としては止められない。
 それに、可愛いと思ったのだ。みづほの仕草を、ここに至るまでに保ってきたに違いない勇気を。
 少しだけ体を離し、みづほの顔を上向ける。重ねた唇もまた、細かく震えていて──思いがけない甘さを感じた。ただのキスを、一度目からこんなふうに感じたことは、なかったと思う。
 もっと味わいたくなって、舌を差し入れる。驚いて反射的に引こうとするみづほを再び引き寄せて、先ほどよりも力を込めて抱きしめる。
 みづほが体をよろめかせて、しがみついてきた。足の力が抜けそうになっているらしかった。引きずるように彼女を運び、ベッドに倒れ込んだ。
 ふわ、と尚隆を受け止めたのはベッドのクッションと、みづほの細い体。抱きしめてわかったが、彼女は見た目より凹凸がはっきりしたスタイルをしている。直に触れてみると、出るところは出て締まるところは締まっているのが、さらによくわかる。
 形の良い胸の柔らかさも。
 「…………っ」
 触れた手に軽く力を込めるたび、みづほは歯を食いしばって声を抑える。緊張で固くなった体の、弾むような反応に、じわじわと自分の奥が刺激されてゆくのを感じた。静かだけど確実に燃え広がっていく、熾火のような熱に。
 服の上からでもこうだったら、直接触ったらどんなふうに反応するのだろう。それを早く見たいと思った。
 ブラウスの裾をスカートのベルトから引っぱり出し、手を一息に差し入れる。はっ、とみづほが驚きの息を漏らした。
 驚いたのはこちらもだった。肌が、びっくりするほど手触りが良くて、綺麗だ。もっと触りたいと思う本能に任せて、手をあちこちに滑らせる。
 「っ、……は、っ……はあっ」
 みづほの息遣いに、徐々に声が混じってきた。我慢と、気持ち良さの間のような、男心を喚起される響き。この女は自分が初めての男なんだ、その思いが急激に強まった。もっと感じさせたいという欲望と、痛くないようにしてやらなければという戒めがせめぎ合う。
 愛撫しながら、みづほの服はほとんど脱がせてしまい、いつしかショーツだけになっていた。自分の服を全部脱ぎ捨ててから、彼女の最後の1枚をはぎ取った。
 その場所が濡れていることを、直接確かめる。
 「ひっ」
 おびえた声。当然だが誰にも触られたことがないはずの、その場所。どこよりも柔らかく、そして熱い。触るたびに中から、とろとろとこぼれてくる。
 舐めたい。
 衝動に従って顔を近づけ、細い足をぐっと開いた。
 「────!」
 声にならない声が、みづほの体からほとばしったように感じる。そのくらい激しい反応が伝わってきた。足を支える手にも、彼女の中心に触れた舌にも。
 「は……あ、や、……んあっ」
 頭の上から漏れてくる声は、何かを我慢しきれないような苦しさと、淫らな響きをともなっている。かなり強く、感じているに違いない。初めての女にこんな声を出させている、その事実が誇らしいと思った。
 びしょびしょになった場所を舌でひと通り舐め取った時にも、みづほは足を震わせて反応した。今がきっと一番敏感な時だ、と確信し、すでに待機状態だった自分のものの準備を済ませる。
 「入れるから、力抜いて」
 肩で息をつくみづほが小さくうなずいたのを見てから、姿勢を整え、腰を前へと進めた。
 「あ、あ……っ」
 中に入った瞬間、みづほが叫ぶように声を上げる。固くつむった目元、半開きの唇、自分の反応を恥じらって顔半分を手で隠す仕草。なんて可愛いのかと、心の底から思った。
 彼女がこんなに綺麗だと、誰も知らない。その女を今、自分が抱いている。男の征服感が満たされてゆくのを感じた。だけど、まだ足りない。
 「──っ! う、うぅっ……」
 さらに進んで奥に達した時、痛みを含んだ短い呻きが聞こえた。ゆっくり腰を引くと同時に、かすれた声と、内側の壁からの反応が返る。
 初めて男を受け入れた体が、震えて収縮し、締め付けてくる動きに、理性が飛びそうになる。一度息をついて、再び奥まで差し入れた。組み敷いた体が反り返る。
 「ああっ!」
 叫びとともに締め上げられる。今度こそ理性が吹き飛んだ。初めてだという現実も気遣いも忘れて、目の前の女をただ一心に抱いた。
 外側以上にみづほは内側の感度が良く、そしてサイズが自分に適していた。突き上げるたびに震える壁が締め上げる具合が、本当にちょうど良い具合でたまらなく気持ち良い──そして痛みと甘さの混じる声と、身をよじって喘ぐ表情が、さらに欲望を刺激する。
 「みづほ」
 自然に、名前が口から出た。一時的な征服欲と所有欲かもしれないが、今はとにかく、ただこの女を独り占めしていたい。
 みづほにも、そう思われたかった。もっと強く求められたかった。
 「みづほ──俺を呼んで」
 「……ひろの、く」
 「ちがう、名前」
 「──な、おたか……っ」
 「俺のこと好き?」
 「好、きっ……ああ、あんっ!」
 ひときわ高く大きな喘ぎとともに、みづほの内側が締め付ける強さと震えが、増した。そろそろいきそうになっているに違いない──そして尚隆自身も。
 ちゃんとゴムを付けておいて良かったと思う。この気持ち良さは絶対最後まで味わいたい。今さら外で出すなんてできない。
 「気持ち、いい? このまま、いくから」
 「いっ……あっ、あ────あああああっ!」
 叫んで跳ねる体を、力の限り抱きしめる。深く、奥底までつながった互いが、その瞬間ひとつになった。

 はっと目を開けた時、部屋の中は薄明るくなっていた。いつの間にか眠っていたらしい。
 ……7年前の夜、一度きりだったあの時を夢に見ていた。いや、今ではもう「一度きり」とは言えないが。
 隣では、こちらに体を傾ける格好で、みづほがまだ眠っている。すうすうと寝息を立てて、安らいだ表情で。
 その寝顔を見つめていると、ほんの何時間か前のことが、幻だったようにも思えてくる。それほど彼女の寝顔の穏やかさと、数時間前の情熱的な仕草にはギャップがあった。
 みづほと寝たのはまだ、2度目だ。しかも7年ものブランクがある。なのに、つい昨夜もそうしていたかのように、互いの体はあっという間に馴染んだ。
 それからのことは、半ば夢うつつのように感じながらも、鮮明に思い出せる。7年前の夜と同じく──他の誰とも過ごしたことのない、深く熱い時間だった。
 スマホの時計を見ると6時前だ。まだ早いが、二度寝すると寝過ごしてしまいそうな気もする。みづほを起こさないように慎重に体を起こし、尚隆はベッドから抜け出した。音を極力立てないように服をかき集め、風呂場へと向かう。
 ……昨夜、みづほが眠っているのを見た時、最初は当然ながら困った。そっと揺らしても、わりと大きな声で呼ばわっても起きず、だからと言ってそのまま放っておくわけにもいかないし、かなり弱った。
 みづほの家には一度行っているが、夜だったし、道順をよく覚えていない。タクシーで行こうにも正確な住所を知らない。となれば、自分の家に連れて帰るしか選択肢がなく……はっきり言って、耐えられるかどうかの自信がなかった。
 だから、帰ってすぐに彼女をベッドへ横たえた後も、しばらく迷ったのだ。酒を飲み過ぎたわけではないし、ただ単に疲れて眠っているだけだとは思ったものの、あまりに覚めない深い眠りが心配だったのも確かで、結局はベッドのすぐ横で待機する、イコール自分も眠ることにした。
 みづほが朝まで目覚めなければやり過ごせると思って。だがそれは淡い期待に終わった。
 最後の抵抗として、みづほに水を飲ませた後は、別の部屋で寝ようと思った。なのにどういうわけか、みづほの方から引き止められた。彼女自身、よくわからないといった顔をしていたが、その行為が引き金になったことは事実だった。
 それでも、拒まれたなら止めていただろう。けれどみづほは拒まなかった。あの夜──7年前と同じように、少し震えながらも、尚隆を受け入れた。
 昔と同じような物慣れない仕草、恥じらい痛がった様も、あの夜を呼び起こさせるようだった。……あるいはあの時以来、まともに経験してこなかったのか。そんなふうにも思わせるような。
 まさかな、と考えつつも、もしかしたら本当にそうかもしれない、という思いもあった。彼女の性格、気性ならおかしくはない。
 シャワーを終え、持ってきた下着とTシャツ、ジーンズを身につける。
 2DKのキッチンには湯沸かしポットとトースター、小型のオーブンレンジが並んでいる。湯の残り量を確認して、取り出したマグカップ2つに、それぞれスプーン1杯分の粉末コーヒーを入れた。彼女が砂糖を好むかどうかわからずにしばし迷ったが、要るなら後で入れればいいか、と結論づけて置いておくことにする。
 運良く2枚残っていた食パンを焼き、1枚ずつ皿に載せてテーブルに並べていたところで、寝室の方から気配がした。みづほだった。
 入口の柱に手をついて立つ彼女は、すでに服は着けていたが、ひどく身の置き所がなさそうな風情を醸し出していた。そんなところまで、7年前の彼女とそっくりで、今が今なのか昔なのか一瞬わからなくなる。
 しばしの後、みづほに集中していた五感のすべてが胸の奥にぎゅうっと凝縮し、ひとつの感情を作り上げた──いや、もともとそこに存在して眠らせていたものを、呼び覚ましたと言った方が正しいかもしれない。少なくとも7年前、一度はそれに気づきかけていたのだから。
 「おはよう、須田」
 「……おはよう」
 「コーヒー飲む? 砂糖とクリーム要るなら入れ」
 「ごめんなさい、帰るね」
 え、とつぶやいた時には、みづほはもう尚隆の脇をすり抜けていた。戸惑っているうちに彼女は慌ただしくヒールを履き、玄関の扉を開けて出ていく。
 ガチャン、と鉄製の扉が重みで閉まる音がして、それからも数分の間、尚隆はマグカップを持ったまま呆然と立ち尽くしていた。

 「おはようございます」
 「おう広野か、ちょうどよかった」
 2ヶ月後のある日の朝。出社した途端、挨拶した課長にそんなふうに言われた。
 何がちょうどよいのか、と思っていると「半井(なからい)専務がな、おまえが来たら個室に呼ぶようにと言ってる。すぐ行ってくれ」とのことである。
 「専務、ですか?」
 「そうだ。知ってるだろう、半井専務は」
 知ってるも何も、営業統括担当の重役であるから、営業部員なら知らないはずのない相手だ。だが、その重役に平社員が個人的に呼ばれることなど、通常はあり得ない。
 何かまずいことをしでかしただろうか? いや、心当たりはない。むしろ入社以来の半年間、成績は右肩上がりだし、この2ヶ月は課内トップが続いている。誉められこそすれ、叱られる材料はない……と思いたいが。
 ともあれ、来たらすぐと言うならば急ぎの用件なのであろう。わかりました今から行きます、と早口で課長に応じて、場所を確認してから向かう。
 個室とは言っても、ここは支社だから、重役用の部屋と言えば支社長室しかない。その支社長は今は、本社に呼ばれて留守のはずであるが、どうだったろうか。
 目的の部屋の前に立ち、2回ノックする。誰何の声に「営業2課の広野です」と答えると「入りなさい」と声がした。
 部屋の中、正面の大きなデスクの椅子は当然ながら支社長の席である。そこに今は、半井専務が座っていた。営業全体の上半期決算の会議で、テレビ通話で一度しか見てはいないが、その自信にあふれた威圧感、整った顔立ちはよく覚えている。テレビを通じてでなく直接に対面すると、相手の持つ雰囲気というか、オーラとでも呼ぶべきものがより強く、こちらに伝わってくるような気がする。
 もっとも、今は非常に緊張しているから、なおさらに威圧される空気を感じてしまうのかもしれないが。
 失礼します、とお辞儀をして部屋に足を踏み入れ、ドアを後ろ手に閉める。尚隆から見て右手の応接セットを専務は手で示して「そこに座って」と言った。
 言われた通りに座る。ドアを開けて目が合った時から、半井専務は今に至るまで、機嫌良さそうに微笑んでいる。とりあえず悪い用件、叱られるような問題ではないかな、と尚隆は心中でつぶやき、ほんの少しだけ心を落ち着けた。
 「すまなかったね、朝早くから呼びつけて」
 「──い、いいえ」
 「君のことは原口くんから聞いているよ。中途採用だが他の社員に引けを取らず、よく頑張っていると。先月と先々月、2課でトップの売り上げだったともね。
  実力者ぞろいの2課で素晴らしいと思うよ。さすがエルグレードで働いていただけのことはある」
 「……ありがとうございます」
 原口とは営業2課の課長で、エルグレードというのが尚隆が1年前まで働いていた、業界大手の総合商社だ。現在も、ブラックな社風は変わっていないとかつての同僚からは聞くが、業績での評価は相変わらず高いらしい。
 それはそれとして、確かに前職でもそこそこの成績を上げていた自負はあるものの、こんなふうに上役のさらに上役から手放しで誉められるのは、嬉しさはもちろんあれども面映ゆい。そして、わざわざ誉めるだけのために呼んだとも思いにくい。いったい何なのだろう。
 「ところで、話は変わるのだけどね」
 来た。先ほどまでの気安さが少し抑えられた口調に、思わず身構える。
 「広野くんは今、独身だね」
 「? そうですが」
 「交際している女性はいるのかな」
 そう問われて、反射的に浮かんだ相手。迷ったが、事実ではないと打ち消した。
 「……いいえ」
 そうか、と安心したような表情と声音。──この話の流れは、もしかして。
 「実はね、君に紹介したい人がいるんだよ。うちの娘なんだが」
 「お嬢さん、ですか」
 「親が言うのも何だけど、いい娘に育ってね。料理が得意でよく食事も作ってくれるんだ。顔もそこそこ見られると思うし、どうだろう」
 「どう……とおっしゃいますと」
 「会ってみないかということだよ。今年25歳だから、君とは年齢的にも釣り合いがとれるだろう」
 は、と相づちを打ちながら「若く見えるけど専務はうちの親とあまり年代変わらないんだな、まあ専務になるぐらいだからそりゃそうか」などと考えていた。
 自分に話が持ち込まれると思ったことはなかったが、これはいわゆる、見合いというやつか。しかも会社の重役の娘との。何かのドラマで見たような展開が、どうにも現実感をともなっては感じられない。
 そんな尚隆の目に映る半井専務は、どうやら娘を溺愛しているようで、楽しげに話を続ける。いわく、高校までは私立の女子校に通い、学年で五本の指に入る成績だった、大学では1年アメリカに留学したから卒業は遅れたけど、「大学に残らないか」と教授に言われるほど論文の成績は良かった、などなど。
 話半分に聞いたとしても、専務の娘はなかなかの才色兼備らしい。そんな女性が果たして、自分なんかを気に入るものだろうか。
 「そんな娘なんだが、どうも男性との付き合いには疎いようでね。年頃だというのにこれまで彼氏どころか、男友達も連れてきたことがない。それで、まあ親のお節介ではあるが、良い相手がいないか探したわけだ。君ならふさわしいのではないかと思ってね」
 「俺、いや、私がですか?」
 「失礼だが経歴は調べさせてもらった。それなりの大学を出て、エルグレードで恥ずかしくない実績を残している。ご家庭にも問題はないようだし、なんと言っても男気がある」
 「……男気?」
 「聞いているよ。ストーカーに絡まれていた女性を助けたそうじゃないか」
 と言われて、一瞬混乱したが、みづほの一件のことかと思い当たった。
 「見て見ぬ振りの人間が多いこのご時世、なかなかできることじゃない。私とて、身内が被害に遭っているならばともかく、そうでなければ君みたいに毅然と対応できるかどうか」
 「いえ、あれは」
 「わかってる、大学での知人らしいね。だとしても、尋常でない相手から庇うというのは勇気のいることだ。違うかい」
 「……ええ、まあ」
 例の件の後、みづほとの関係については、聞かれた相手には確かに「大学でサークルが一緒だった」と答えはした。しかしそんなに多くの人間に言った覚えはないし、わざわざ上司に報告したりもしていない。なのに、そんなことまでどこかから聞いているのか。半井専務の情報収集能力に舌を巻くとともに、この人が出世するのは当たり前だなと、尚隆は思った。
 「ともあれ、そういうことなんだ。娘にはまだ話していないんだが、君に会ってみる気があるのなら、と思ってね。どうかな」
 専務の笑顔を前に、尚隆は沈黙する。
 ──正直に言うなら、迷っていた。
 仮に会うことを承諾して、話が進んだならば、半井専務は将来の義父ということになる。見る限り、人当たりは柔和だし物言いにも無理強いする調子はないが、尚隆に対する調査からすると隙のない人物だ。そこに、若干の畏れを感じはする。見方を変えれば、だからこそ尊敬できる人物とも考えられるのだが。
 ……しかし、今この場での承諾はしかねる心境だった。
 「あの、大変有難い話だと思います。ですが、しばらく考えさせていただいてもよろしいでしょうか」
 間違っても失礼に聞こえないよう、言葉と語調を恐る恐る選択しつつ、尚隆はそう答えた。
 専務の眉がピクリと上がる。気分を害されただろうか?
 尚隆が内心びくついていると、半井専務は笑みを絶やさずに「もちろんだ。人生の大事だからね」と応じた。
 「だが、週明けまでには返事をくれよ。私がいつ、娘に口を滑らせてしまうかわからない。そうなってから断られてしまうと、話がややこしいからね」
 「……承知しました」
 「始業前にすまなかったね。業務に戻りなさい」
 「はい。失礼します」
 最大限の会釈をし、支社長室を辞去する。まっすぐ席に戻る気にはなれず、フロアを突っ切り、化粧室へと向かった。
 洗面台に手をつき、やっと大きく息を吐く。
 ……緊張した。仕事前から疲れた。
 できることならこのまま帰宅してベッドに倒れ込みたい気分だったが、そうはいかない。今日は午前も午後も顧客と会う約束があるし、見積書を何件か仕上げなくてはいけない。始業時間が過ぎているのをスマホで確認し、化粧室を出る。
 ため息が止まらないまま席に戻り、課長に声をかけると、相手は訳知り顔でうなずいた。……課長も話の内容を、もしかしたら知っているのだろうか。そう思わせるような。
 今日の午前中の外回りは、森宮と二人で行くことになっている。絶対に何か聞かれるな、と思っていたら案の定、会社の営業車に乗り込むなり「おい、朝どこ行ってたんだよ」と問われた。
 「ちょっと、手洗いに」
 「ふーん?」
 尚隆の答えに、口の端を曲げて意味ありげな相槌を打った後、森宮は言った。
 「違うだろ、半井専務のとこだろ。課長に聞いた」
 知っていたのか。午前中の予定が一緒だから、出社した際に課長に居場所を確認したのだろう。だったらわざわざ聞くこともないだろうに。
 若干もやっとしつつ、尚隆は言葉を返す。
 「手洗いにも行きましたよ、その後」
 「後でどこに行こうが別にいいんだよ。問題は専務の話。
 ……ひょっとして、見合いの話とか」
 図星を指されて、喉が詰まる。変な音が出るのを抑えられなかった。
 「当たりかよ。わかりやすいな、おまえ」
 「…………なんで」
 「知らないのか? けっこう有名なんだぞ、専務の一人娘。美人で頭が良くて性格もいい、おまけに将来の社長か副社長候補の娘ってんで、大学卒業した時にはうちに入るんじゃないかって、しばらく噂になったし」
 「そうなんですか」
 「結局、うちには入らずによその企業に行ったけど、入社試験ではダントツの1位だったっていうし、留学経験買われて秘書課にいるらしいから、まさに才色兼備、高嶺の花ってやつだよ。
 どうなんだよ、専務が話、持ってきたってことはその子、じゃなくてお嬢さんなんだろ」
 ここまでの台詞を、森宮は運転しながら言っている。おまけに最後の質問部分を言い終えると同時に、ハンドルを握ったまま顔を近づけてきた。非常に危ない。
 「森宮さん危ないです」
 至極当然の忠告を、曲解して肯定の返事とでも受け取ったのか、森宮は前方に戻した顔を悔しそうに歪めた。
 「なんだよもー。何でおまえばっかりに美味しい話が回ってくんだ。主任さんといいお嬢さんといい」
 「主任さん?」
 「大学ん時の知り合いなんだろ。そんでちょっと付き合ってたって聞いたぞ、こないだだっていいカッコして」
 「いや、付き合ってたわけじゃ。単なるサークル仲間で」
 「どっちだっていいんだよ。おまえばっかり美人とお近づきになるチャンスが回ってくんのが問題なの。俺だって、おまえが来る前はしょっちゅう、売り上げ1位取ってたんだぞ。ずっと営業一筋だし、顔だって負けてねーと思うぞ?」
 途中まではともかく、最後の部分は何と言っていいかわからなかったが、また前方不注意をされると困るので全部まとめての相槌として「はあ」と返す。
 「なのにさあ……ったく、不公平だよなー。新卒で入社した俺より、中途の奴の方が目立つんだもんな。くっそう」
 ぶつぶつと、こちらに言うというよりはもはや勝手につぶやき続けている様子に、不安が湧いてきた。
 「…………あの、専務の話、確かにそういう話題は出ましたけど、まだ話、されただけですから。会うのOKしたとか、そういうことにはなってないんで、他には言わないでくださいよ」
 わかってるよ、と森宮は言ったが、本当に大丈夫なのかは若干疑わしい。社内の噂を網羅している彼の性質からして、この話題、自分で言うのもなんだが「特ダネ」を、広められずにいられるかどうか。現状では「頼みますよ」と念押しするしか、尚隆にできることはないのであったが。
 それ以上に今、悩むべきなのは専務の話そのものである。自分はいったい、どう答えるべきなのか──どう答えたいのか。


 2ヶ月前の、あの日の朝。
 我に返ったのは、みづほが部屋を出ていって何分も経ってから。たぶん、5分はゆうに過ぎていたのではなかろうか。
 彼女の反応がわからなかった。逃げるように帰っていったその理由が。
 だから週が明けた月曜日、朝一でシステム課を訪ねていった。みづほときちんと話すために。だが応対した社員に「まだ来ていません」と言われ、その後、昼休みや、仕事の合間にも2回ほど行ったのだが、いずれも「主任は今手が離せないそうです」と断られた。ならばと内線で勝負したが、相手が尚隆だとわかった途端、ぶつりと切られた。
 以前にも増して、避けられているのは明らかだった。だが本当に、尚隆としては理由がわからない。あの夜、再び自分を受け入れたのは、気持ちがこちらにあるからではなかったのか? みづほが誰とでも、成りゆきで寝るような女とは、どうしても考えがたかった。
 とにかく一度、ちゃんと話をしなければ。そう思い、それからしばらく、帰りの時間を合わせようとタイミングをはかった。結果的に、思惑通り退社の頃合いが一緒になったのは1週間後。以前と同じく、どちらも残業で居残っていた。
 あからさまに待ち伏せていたら逃げるかもしれないから、意図的に早めに残業を終え、システム課の様子がうかがえる場所、非常階段で待っていた。日中でなければめったに人は来ない。
 みづほが部屋を出るのにともなって、非常階段で1階まで駆け下りた。大学卒業からこちら、まともな運動はしていなかったから、下りた頃にはかなり息切れしたが、そんなことにはかまっていられない。なんとか、みづほが通用口に来るのに合わせて、自分もそこへ行くことができた。
 尚隆の姿を見たみづほは、文字通り固まった。だがそれは一瞬のことで、タイムカードに素早く打刻し、早足で出て行こうとした。彼女から離れぬよう自分もすぐさま、カードの手続きをして通用口をほぼ同時に出た。
 みづほはかなり早足で歩いたが、ヒールと革靴の違いで、追いつくのにはさほど苦労しなかった。少々強めに力を込めて腕を引くと、観念したのか立ち止まり、振り返った。
 「────なに?」
 振り返りはしたが、こちらをまっすぐ見ようとはせず、目を伏せていた。しかも顔を斜めに向けて。話したくない、という意志がありありと感じられたが、屈するわけにはいかない。まだ残る息切れを抑えて、尚隆は口を開いた。
 「なんで避けるの?」
 「……避けてなんか」
 「避けてるだろ、ずっと。呼び出しにも全然応じないし」
 「………………」
 「理由、言ってもらわないとわからない。納得いかない」
 「……何が?」
 ためらうような間を置きつつも、首を傾げてそう言ったみづほに対し、思わず語調が強くなる。
 「こないだのことだよ。避けるくらいならなんであの時、拒まなかった?」
 詰め寄る尚隆に、みづほは開きかけた口を結局は閉じて、沈黙する。その反応を迷いと受け取り、深く息を吸ってから尚隆はついに言った。
 「──俺は、須田とちゃんと付き合いたいと思ってるんだ。言えなかったけど、大学のあの時からずっとそう思ってた。だから」
 「私は、そんな気ないから」
 唐突にみづほが遮った。彼女の発言の内容に、つまづいたように言葉が止まる。頭がついていけず、しばしリアクションが取れなかった。
 「…………え?」
 間の抜けた声でつぶやいた尚隆を、今度ははっきりと見据えて、みづほははあっと息を吐いた。ため息のような。
 「そういうこと、言い出すんじゃないかと思ってた。だから避けてたのに」
 「ど、ういう意味だよ」
 「たかだか1回や2回、あんなことになったからって、勘違いしないでほしいの。ちょっと寝ただけの女が、予想外に相性良かったから付き合ってもいいかなんて、短絡的に思わないでほしい。
 私のこと、ああなるまで何とも思ってなかったでしょ」
 あからさまに棘のある口調。みづほがわざとそうしているのは明白で、だが、言われた内容に対してとっさに反論できなかった。
 「──────」
 ここで、何か言い返せていれば、違った展開になったかもしれない。しかし尚隆は何も言えないままで、みづほの続く言葉をただ聞いていた。
 「私だっていつまでも、大学の時と同じじゃないから。気持ちだって変わるし。
 ……私は、広野くんと付き合いたいなんて思ってない」
 言い切ると、みづほはすっと視線を、顔ごとそらした。その仕草と、言い切る前の一瞬の間を、彼女のためらいだと思ったのはこちらの期待に過ぎなかったのか。
 「そういうことだから。じゃあ」
 念を押すようにそう告げて、みづほは背を向ける。一度たりとも、振り返ったり足を止めたりすることなく、駅の方へと去っていった。
 尚隆は、追わなかった。みづほの背中が、角を曲がって見えなくなっても。


 「主任、聞きました?」
 その日出勤すると、開口一番、後輩にそう言われた。
 「田村さんおはよう。何かあったの」
 「聞いてないんですか? 昨日からすっごい噂になってますよ」
 「だから何が?」
 うふふふ、と後輩は意味深な、なおかつ楽しそうに笑いを漏らす。こういう思わせぶりな反応が、みづほはあまり好きではない。女子の友達がいないわけではないが、これまで、噂話の輪には積極的に入ったことがなかった。親しくなるのも必然、同じようなタイプがほとんどだった。人数は多くなかったが、その方が気楽だったのでかまわなかった。
 ところで田村嬢は何を言いたいのだろう。みづほが若干、苛立ちを心の奥にちらつかせた頃、ようやく後輩は話し始めた。
 「お見合いをするんですって、専務の娘さんと」
 「誰が?」
 「だから、営業の広野さんがですよ。もう主任ったら」
 もうも何も、主語を先に言わなかったのは田村嬢の方で、こちらが(冗談にしても)文句を言われる筋合いは1ミリもなかろうと思った。そのせいで、というかおかげで、感じた驚きと動揺をそのままに表に出さずに済んだ──はずだ。
 「……そうなの?」
 少なくとも、後輩に応じた声は、少し震えてはいたが平静の範疇に入っていたと思う。田村嬢もそう感じたのか(感じてくれたのか)、やや不満そうに口を尖らせた。
 「えーそれだけですか? 気にならないんですか」
 「そりゃ、気にはなるけど。昔の知り合いだし」
 「じゃなくて、元カレでしょ。元カレが彼女のコネで出世街道一直線、とかなったらやっぱり妬ましくないですか」
 「ちょっと待って、田村さん……広野、さんが元カレだって話、どこから出てきたの?」
 「やだなあ、皆そう言ってますよ。あんなにかばったのは昔付き合ってたからに違いないって。そうなんでしょ」
 くらくらする頭を押さえつつ、なんとかみづほは否定の言葉をつむぐ。
 「違うから。広野さんは、大学のサークルで一緒だっただけなの。向こうにはずっと彼女がいたし、私に興味なんか持ってなかった。断じて、付き合ってたことなんかないのよ」
 えーそうなんですか、とは受けたが、田村嬢の目はまだ疑わしげである。……というか、元カレ元カノ、ということにしておいた方が話が盛り上がるから、そうしたいのだろう。
 みづほは念押しした。
 「そうよ、ただの知り合い、昔のサークル仲間。決して、いちどたりとも、付き合ってはいないから。皆にもそう言っておいてね」
 「ふーん……」
 いかにもつまらなさそうに後輩は応じた。わかりました、と続けて言うには言ったけど、果たしてどれだけの効果が期待できるものかは疑問だ。まあそれでもこちらが言うことはちゃんと言ったし、それ以上は今は何もできない。
 とりあえずは今日の仕事だ。昨夜のシステムログを見て、特に問題がないことを確認してから、机の上に置かれたいくつかの書類のチェックをみづほは始めた。

 ──あの日、尚隆と二度目の夜を過ごした翌朝。
 目が覚めた時には、すでに尚隆は隣にいなかった。だがすぐに何があったかは頭に浮かび、感じるいたたまれなさと恥ずかしさは7年前の比ではなかった。
 ……こんなことは、あの時だけで終わりにしようと思っていたのに。なのにまた。
 場の雰囲気と感情に流されて、抱かれてしまった。
 とにかく尚隆の家から、尚隆本人から離れたくて、逃げるように外へと出た。いや、文字通り彼から逃げたのだった。
 大きな道に出てタクシーを拾い、自宅に戻ってようやく、少し落ち着いた。そしてあらためて思い出す、彼との時間にまた、顔から火が出る思いが湧き上がってきた。
 他の誰と、そんな展開になりかけても、先に進む気にはなれなかったのに──どうして尚隆が相手だと、拒否感が吹っ飛んでしまうのか。
 彼を好きだから、というのはもちろん理由のひとつとしてあるだろう。だがいくら好きだからといっても、行為に対する不安、緊張がすべて払拭されるとは限らない──実際、そうではなかったのに。
 今に至るまで、抱かれた相手は尚隆以外にいない。つまりあの夜は、そういう意味でも7年前以来の出来事。みづほにとって2度目の行為だった。
 彼に、そうだと、気づかれただろうか?
 ある程度ブランクがあると、処女でなくても痛みを感じることがあるという。セカンドバージンと表現するらしい。
 みづほはどうだったか。……確かに、入ってくる時には少し痛かったが、違和感の延長のようなレベルで、初めての時のように腰まで響く痛みは感じなかった。その違和感も気がつけば消えていて、じわじわと押し寄せる快感の波に、理性が少しずつさらわれていった。
 その後のことは、よく覚えていない。正確に言えば、あまり思い出したくない。思い出すのが恥ずかしかった。そのくらい、最中は興奮していた──彼に抱かれることに没頭していた。大胆なふるまいをしてしまった気がするし、平時では絶対に言えないようなことも、言ってしまっていたように思う。
 ……彼の名前を、何度も呼んでいたことも。
 そして何度となく、名前を呼ばれたことも。
 思い返すと頭と心にじわりと火がともる。体の奥底が震えて、どうしようもない気持ちになってくる。
 尚隆がまた欲しくて、たまらなくなってしまう。
 だけど、そんなことは言えない。表に出すわけにはいかない。だって。
 尚隆は、みづほを好きなわけではないのだから。

 社内サーバのメンテナンスを頼んでいる業者との定期打ち合わせが押して、昼休みが遅くなった。
 課長に断りを入れて、40分時間をもらい、外へ出る。本当は1時間ゆっくり行ってきていいと言われたのだが、月末が近くていろいろとやることがあるため、早めに戻ろうと思った。
 運良く、会社のビルから近い定食屋が、並ばずに済みそうだった。小綺麗な構えの扉を開けて、中に入る。
 「ご相席でもよろしいですか?」
 「はい、大丈夫です」
 並ぶ列こそなかったものの、店内はほぼ満席である。近いのと、リーズナブルなのに美味しい定食とで、近隣の飲食店の中では人気なのだ、仕方ない。
 ……だが、他の店に行かなかったことを、みづほはすぐに後悔した。案内された席に座っていた人物のせいだ。
 「すみません、ご相席お願いできますか」
 店員の女性が訪ねている人物に、背後から念を送る。断って、お願いだから。
 いいですよ、と振り返らずに答える相手の声に、みづほは回れ右をして店を出たくなった。しかし行動に移す前に店員は去り、相手は今になって振り返り、こちらを見た。
 「──────」
 「………………」
 お互い何も言わないが、会いたくない相手に会った、という思いは一致していたに違いない。挨拶がとっさに出ない、どんよりした空気が物語っていた。
 みづほは観念して、席に着く。
 コートを着て鞄を持っている様子からすると、外回りからの帰りか、これから行くところなのか。スマホに集中している尚隆の身なりを視界に入れながら、みづほは例の噂に思いを馳せた。
 あの噂を田村嬢から聞いてから、2日。たった2日で、噂はすでに社内中に広まっているように感じる。内容のインパクトを考えれば当然かもしれないし──あるいは、羨望や妬みも手伝って、誰かが意図的に広めている、ということもあるかもしれなかった。
 周囲の反応としては無理もないだろうし、納得はできる。自分がもし当事者だったらすごく迷惑に感じるだろうとは思うが。
 ……尚隆は、どう感じているのだろうか。
 そもそも、噂は本当なのだろうか。
 漏れ聞くところによれば、数日前に尚隆が、営業統括担当の専務に呼ばれたのは確からしい。営業の半井専務といえば切れ者で有名だ──そして、その一人娘も。
 2・3年前に、専務のコネで入社するのではないかと言われていた。だが本人が嫌がったのか、専務が身内を贔屓すると思われるのを避けるためなのか、彼女は入社しなかった。代わりにというか、外資系の企業に入り、そこでアメリカ人社長の秘書を務めていると聞く。留学経験があるらしいから英語は得意なのだろう。
 その上に、専務がひそかに自慢にするほどの美人で、性格も悪くないらしい。事実なら、絵に描いたような才色兼備の女性だ。
 そんな一人娘の見合い相手に、尚隆を選んだということは……言うまでもなく、彼をかなり買っていることに他ならない。部署が違うから直接に知る機会はなかったけど、尚隆が所属する営業2課でなかなかの実績を上げていることは、噂の中で必ず耳にした。前職の大手商社でも成績は良かったらしい。
 さらに言うなら、大学もそこそこ名の通った所を卒業しているし(卒業生のみづほが言うのもなんだが偏差値は高い方だった)、風貌も決して悪くない。……いや、昔より落ち着いた分、頼りがいのある社会人としての見た目を確立している。
 出世頭として、専務に目を付けられるのも無理はない。
 「お待たせしました、本日の定食です」
 先に、尚隆の分が運ばれてきた。この店はランチメニューが日替わりだが1品だけなので、店員は注文を取らない。席に着けば数分後に運ばれてくる。
 今日のメインである煮込みハンバーグでも、副菜のひじきでもなく、味噌汁に尚隆は口を付ける。椀を置いたタイミングで、思い切ってみづほは口火を切った。
 「──広野くんの話、噂になってるね」
 サラダにのばした箸が、ぴたりと止まる。
 「……何の」
 「半井専務のお嬢さんと、お見合いするって話」
 ああ、と気のない口調の相づちが返ってくる。
 「本当なの、専務に呼ばれたって」
 「………………」
 尚隆はしばらく無言だった。ぼそぼそとした動きで、定食を3分の1ほど食べてからお茶を飲み、ようやく「呼ばれたのは、本当だけど」と答える。
 ああ、本当なんだ。みづほは複雑な気持ちをこらえて、話を続けた。
 「そう、すごいじゃない。半井専務、次の副社長間違いなしって言われてる人でしょ。そんな人に見初められたなんて、広野くんも将来有望って思われたわけよね。絶対、話は受けるべきだと思う」
 ぴく、と尚隆の眉の片方が上がった。しばらく無言が続いた後、おもむろに向けられた視線に、思わずぎくりとする。
 抑えた感情──それが何か、はわからないけれど、今にもほとばしりそうな感情を努力して抑えて、それでも止めきれずにあふれている、そういう目だ。
 ……いや、彼が何を言いたくて言えないのか、本当は気づいている。だが、それを言ってほしいとは思わなかったし、言わずにいてほしかった。
 「──どうしたの」
 「須田は、話受けた方がいいって、思ってんの」
 その口調の抑えた、だが確かに感じる重々しさに、言葉が喉に詰まった。しかし努力して、言うべき台詞を紡ぎ出す。
 「もちろん、そうに決まってるでしょ。こんな機会逃すべきじゃないわよ。お嬢さんとどうしても気が合わないっていうならともかく、いい人みたいだし、とりあえず会って何回かデートしてみれば?」
 努めて明るく、何でもないことだと思っている。そんな風をめいっぱい演出して、みづほは言った。
 ……尚隆は、もしかしたら怒っているかもしれなかった。みづほに対して。実際の真剣度はどうあれ、告白した当の相手に他の女と付き合うことを勧められては、男性の立場からするとバカにされているように感じるかもしれない。
 しかしみづほも真剣だった。
 自分と付き合いたいなどという、一時の気の迷いからは早く醒めて、他のいい女性を探すべきだ。本気でそう思っている。
 ──だって、私なんかと付き合いたいって、本心から思うわけがない。
 美人と一部で噂されるようになっても、どんな異性に声をかけられても、みづほの心底にはまだ、自信のない女子大生だった頃のみづほがいる。彼が、私なんかを好きになるはずがないと、言われるまでもなく自覚していた頃の。
 今だって、わかっている。この人が私を本気で好きになるわけがない──彼は、私を好きなわけではないと。
 昔の、ちょっと関わりを持った女に、久しぶりに会ったから気になっているだけだ。付き合いたい、なんて言ったのもその延長線上にすぎない。懐かしいから、適度に近くにいたから、体の相性が良かったから。それだけ。
 ……だから、間違っちゃいけない。期待なんかしちゃいけない。
 尚隆は、唇を何度か動かしかけた。だが結局は何も言わなかった。そこだけは心底、良かったと思った。
 そのまま無言を互いに貫き、それぞれ自分の食事を、ひいき目に見積もっても重い空気の中で進めた。先に食べ終えたのは尚隆の方で「──じゃ、お先」と一言置いて席を立つ。
 彼が去っていって、ようやくみづほはほっと息をつける心地だった。思わずコップの水を、一息に飲み干す。
 ──これでいいんだ、これで。
 見合い話が、尚隆の「気の迷い」が晴れるきっかけになれば良いと、本心から思っている。……だから、涙が出そうになるのは、水を一気に飲んでむせたせいだ。そうに違いない。
 みづほは、そう自分に言い聞かせた。