みづほが目を覚ますと、周囲は真っ暗だった。
……今、いる場所がどこなのか、全くわからない。
自分が横たわっているのが布団かベッドなのは、感触でわかる。しかし、それ以外はまるで見当がつかない。そもそもなぜ、横になっているのだろう。
覚醒しきらないぼんやりした頭を必死に動かし、考えた。
──そうだ、今日は報告書とかの書類仕事が佳境で。週明け提出の分だけでなく他の書類も作っていたら、いきなり部屋のドアが開いて……顔を上げたら尚隆がいて。
しばらく押し問答しているうちに、尚隆が、弁当を買ってくるからと飛び出していって、その勢いで落としていった物を見たら、携帯で。
どうしようかと迷って、結局は、戻るのを待つことにしたのだった。一番近いコンビニは5分もかからない距離だし、15分もあれば戻ってくるだろう、そう思って。
それから……どうしたのか。20分過ぎても尚隆が戻ってこず、遅いなとは思った。それは覚えている。だが、その後は……そうだ、とにかくあと10分くらいは待ってみようと考えながら、PCとディスプレイの電源を落とした。そして、そして?
座って頬杖をついている間に──うとうとしてしまった、ようだ。うとうとだけでなく、完全に眠ってしまったのか。
自宅へ戻ってきたけどその間の記憶がない、とは考えにくかった。酒を飲んだわけでもないのに。だが、どこだかわからないこの場所へ運ばれたのにも気づかないほど、熟睡してしまっていたのは確かなようだった。そう考えるしかない。
がばりと跳ね起き、手探りで両脇を確認する。
誰も隣にはいない、みづほひとりだ。そして感触からすると敷いてあるのはマットレスで、自分はベッドに寝ていたらしかった。
そうしているうちに目が慣れて、うっすらと周りの様子が見えてきた。視線の先にドアらしきものがあるところからすると、どこかの部屋──だが自分の家、寝室にしている部屋でないことは確かだ。
右側が壁に接していたため、左に体を回し、床に慎重に足を下ろす。そして立ち上がって一歩踏み出した途端、何かにつまづいた。
「きゃ!」
思わず大きな声が出て、つまづいた何かの上に倒れ込む。意外とクッションがあり衝撃はさほどなかったが、ずいぶん大きくて、もぞもぞと動いている……人が、布団をかぶって床で寝ていたのだ。
再度叫びかけた声を止めたのは「起きた?」と寝ぼけ声ながら聞き覚えのある声がしたからだった。
「…………広野、くん?」
呆然としたつぶやきに、声は「ん、ここ、俺の家」と返してくる。尚隆の家?
「会社で寝ちまって、どうしても起きなかったから。須田の家の道順はっきり覚えてなかったし、放っとくわけにもいかなくて、連れてきた」
説明されるうちに徐々に目が慣れてきて、尚隆の輪郭が見えた。そして羞恥心がわいてくる。やっぱり、寝ちゃったんだ。焦りと、面倒をかけた申し訳なさでいっぱいになった。
「ご、ごめんなさい、迷惑かけて」
「──いや、まあ。タクシーですぐだったし」
頭をかきながら、まだ寝ぼけた様子でぼそぼそと言う尚隆の声からは、彼の本心を推し量りにくかった。だが仮に、彼が言葉通りに「たいしたことじゃない」と思っているのだとしても、こちらとしてはやはり相当に恥ずかしい。眠ってしまったこと自体もだが、その状態でここまで運ばれてきたことも、それでもなお起きずに今さっきまで熟睡していたことも。
「のど乾いてない?」
尚隆に問われ、反射的に喉に手をやる。……確かに、乾いているような気がする。
「ん、と……少し」
「水入れてくる」
短く言って、尚隆は部屋を出ていった。ドアが閉まって数秒後、みづほはようやく大きく息をつく。
そしてあらためて襲ってきた羞恥に、両手で顔を覆った。──まったく、なんて無様なところを見せてしまったのだろう。今までの努力が台無しではないか。
尚隆にはこれ以上、弱みも何も、見られたくはなかったのに。
疲れては、いた。一人暮らしの家に帰るのがおっくうだ、そう思う程度には眠くもあった。だが、本当にそのまま寝てしまうだなんて。しかも尚隆の前で。
と考えながらも、同時に、彼だったからまだ良かったのかもしれない、とも思った。よからぬ考えを持つ人物──たとえば本庄のような人物が相手だったら、どうなっていたか。想像して身震いした。最近、あの男が目立ったちょっかいをかけてこなかったからと、油断していたのではないか。そう自分を叱咤する。
次いで押し寄せてきた疲労感とともに息をついた時、尚隆がグラスを手に戻ってきた。
ほら、と差し出されて、やや慌てて受け取る。仕草になんだか、ぞんざいな雰囲気を感じた。……当たり前か、こんな面倒をかけたのだから。
当然、迷惑に思っているに違いない。胸苦しさを感じながら、できるだけ早く水を飲み干した。
「……ありがとう」
礼に、こくりと頷きを返したのみで、尚隆はまたグラスを持って部屋を出ていく。台所へでも戻しに行くのだろう──気まずい。
今が何時か確かめてはいないが、この暗さでは、夜が明けて電車が動くのはもうしばらく先だろう。けれどもう一度ここで眠り直す気にはなれないし、目が冴えて眠れそうにもない。尚隆が戻ってきたら、今すぐ帰ると言おう。大きい道に出てタクシーを捕まえれば一人で帰れる。カバンはどこだろう、カバンは──
探そうと立ち上がった時、尚隆が再び部屋に入ってきた。あの、とみづほが口を開くとほぼ同時に、彼の方が先に早口で「じゃ俺、別の部屋で寝るから」と言った。そうして足元の布団、もしくは毛布を持ち上げたので、思わずそれをつかんでしまった。
「何?」
「え、……あ、その」
問われて、自分の行動が謎だと思った。私は何をしたかったのだろう。
そうだ、帰ると言おうとしてたんだった。思い出したにもかかわらず、何故か言葉を口に出せない。言うために引き止めたんじゃなかったのか。
行ってしまったら言えないから、出ていってほしくなかったから──その思いが、頭の中でぐるぐる回り、どうしたわけか混乱してきた。訳がわからない。
思考の停滞に焦っていると、尚隆が布団か毛布を床に放り出し、ベッドに、みづほの隣に無言で座る。え、と思いそちらを見た途端、肩をぐいと引き寄せられた。
一瞬後、唇が重ねられる。
(────え)
数秒、頭が真っ白になり、我に返った後も、まだキスは続いていた。気づくと尚隆の手が肩から背中に回っている。
反射的に身を引こうとした。けれどすかさず、今度は尚隆の腕に抱きすくめられてしまい、身動きが取れなくなった。
体を固くして、とにかくキスが終わるのを待っていると、そうなるより前にベッドに横たえられる。抱きすくめられたまま。
7年前の夜が、よみがえってくるようだった──夜の闇の中で見下ろしてくる尚隆がどんな表情をしているか、細かくは見えなくてもわかるような気がした。
間違いなく今、あの夜と同じことが起きようとしている。そうならないようにと、ずっと注意して振る舞ってきたにもかかわらず、この状況を嫌だと思っていない自分にみづほは気づいた。
窓の外を車が通り、ハイビームのライトが束の間、部屋の中を照らし出す。尚隆の痛いような視線を、受け止めながらみづほは思った。
……ああ、やっぱり。
私はまだ、この人が好きなんだ、と。