「……では、この件に関してはそのように」
 「お願いいたします。ありがとうございました」
 取引先の担当者と頭を下げ合い、次の約束を交わしてから事務所の建物を出る。入る前には降っていた雨が止んで、今は秋らしい青空が広がっていた。
 今の会社に転職して、半年が経つ。当初は先輩社員と共に顧客先を回っていたが、3ヶ月目からは一人で担当するようになった。ここ2ヶ月ほどは空いた時間に飛び込みの営業も行うようにしており、運良く話を聞いてもらえた何件かの中には、契約の運びとなった所もある。
 ついさっき出てきた事務所もそのひとつで、大手メーカーにも商品を卸す機械部品の工場だ。制服を一新するということで、デザインと製作をまとめて請け負ったのである。
 既存の顧客も含めて売り上げは、時勢を考えれば好調で、
課の中での成績も徐々に上がっている。先月はついに、同僚とトップを争うほどになった。この調子ならボーナスも期待できるかもしれない、などと妬み混じりに言われたりもするが、入社して最初のボーナスでさすがにそれはないだろう。まあ、夏は普通に出た様子だし、冬も出るのであれば、この不景気下では御の字であろうと思う。
 さて、今日の外回りの予定は先ほどの事務所で終わった。4時までに戻れと言われているが、まだ30分ほどの余裕がある。このあたりは住宅街で、店はコンビニぐらいしかない。駅前のカフェででも時間をつぶしていこうか、とぼんやり考えながら駅の方向へ歩いていると、反対側から歩いてくる人物に目が止まった。
 「あ」
 驚きが思わず口に出る。
 本庄だった。
 なぜここにいるのだろう、という疑問が湧く。それは当然で、尚隆の営業2課と本庄の営業1課は、基本的に担当エリアが違う。そしてこちらの方向には、先ほど尚隆が訪問した事務所しか会社はないはずだ。1課に報告は行っていないのだろうか。
 向こうもこちらに気づいているようで、機嫌が良くなさそうである。声をかけるのは躊躇を覚えたが、仕事上ややこしい話になってもいけない。呼び止めると、案の定、不愉快そうに振り返られた。
 「なんだよ」
 「あの、この先の工場でしたら、うちの課がもう行ってますよ」
 本庄はふんと鼻を鳴らす。
 「わかってるよ、おまえの担当だろ。ちょっと時間つぶしにうろついてるだけだ」
 「……そうですか」
 返す言葉が他になく、つぶやくように尚隆は言った。
 そういえば先月と先々月、1課の成績は2課より低く、月初のミーティングで課長にずいぶん絞られたと聞いた。相当ノルマが厳しくなったのだろう、声に疲れがにじんでいる。
 気まずい雰囲気を作ってしまった。それじゃ、と一言置いて去ろうとすると、今度は本庄が「おい」と呼び止める。
 「おまえ、あの女とまだ付き合ってんのか」
 「あの?」
 「システムの主任だよ、とぼけやがって」
 「別にとぼけては」
 真実である。自分とみづほは現状、付き合っているわけではない。それどころか──
 「物好きだな。苦労すんぞ」
 尚隆の返答を聞いていなかったかのように、本庄は言葉を続けた。以前の、みづほに対する柔和な物言いの片鱗は全くなく、ただこちらへの、そしてみづほへの蔑みに満ちた声音である
 「……何がですか」
 「知ってんだろ、あの女の噂。できないっての」
 「────」
 「いい女だから試してみたいと思ったけど、ああ堅物じゃ、そもそも付き合いにくいよな? ま、いつまでも面倒な女に付き合うほど俺も暇じゃないから、あとは好きにやれよ。噂がほんとなら苦労するだろうけどな。もったいないよなあ」
 声に含まれる棘で喚起された苛立ちに、考えるより先に口から言葉が出た。
 「そういうこと、あまり外では話さない方がいいと思いますけど」
 尚隆の抑えた声に、意表を突かれたような顔で本庄は黙り込む。しばし後、けっ、と言いたげに口をゆがめた。
 「おまえもカタい奴だな、つまんねえ。ま、お似合いってとこじゃないのか。じゃあな」
 ふい、とそれきり顔をそむけ、本庄は去っていった。駅の方向に引き返す形で。
 一緒に歩いていく気にはなれなかったので、尚隆はしばらくその場にとどまっていた。少なくとも普通に歩いて追いつかない程度には離れよう、そう思って。
 ──本庄に言いかけた通り、みづほとは現状、付き合ってはいない。それどころかあの一件以来、彼女の方から連絡どころか、声をかけてきたこともない。
 会社が入っているビルのロビーや、エレベーターで遭遇した時でもそうだ。以前は普通に挨拶ぐらいはしていたのに、あれ以来、遠目ではもちろん位置が近い時でも、すっと手を挙げるか軽くお辞儀をするかのみで、口は閉ざしている。まるで、こちらと話すことを徹底的に避けるかのように……いや実際、徹底的に避けられているのかもしれなかった。
 何か、しただろうか? 考える限り、尚隆に覚えはない。少なくとも彼女と再会してからのこの半年においては。
 あえて言うならば、昔の一件かもしれないが──やはり、みづほにとっては、あのことはトラウマになっているのだろうか。いまだに口にされる、彼女が「できない女」だという噂。どうしたって引っかかってしまう。
 それが事実であるのならば、あれが原因となっているのならば、自分は彼女に近づくべきではないのかもしれない。尚隆が中途入社すると知った時、みづほはどう思っただろう。厄介の種、トラウマの原因が身近に来るなんて、と拒絶反応を感じたのではないか。
 それを押し隠して接していたものの、どこかの時点から耐えられなくなって──本庄とのいざこざを知られたあたりから、みづほの中では落ち着かない思いがあったのではないだろうか。
 あくまでも想像だが、想像だけでは済まないような気がする。尚隆はあらためて後ろめたさを感じた。
 ……だが、それと同時に、別の思いも頭をもたげる。
 みづほに近づきたい、という感情。
 思慕なのか──あるいは、欲望なのか。
 どちらか一方か、どちらの比率が多いのか、自分でも正直わからない。確かなのは、みづほとの距離を縮めたい、触れ合いたい、抱きしめたいという思いが、日に日に強まっているという事実だった。