翌日、尚隆は少し寝坊し、いつもより1本遅い電車での通勤になった。出社すると、いや正確には会社にたどり着く前から、自分を見てはこそこそと話す人がちらほらいることに気づいた。会社のあるビルに入るとそれは顕著になり、エレベーターを待っている時からそういう連中に囲まれて、自分だけが浮き上がっている感覚にとらわれる。
 訳のわからない居心地の悪さとともに8階で下り、自分の席に向かう。と、営業エリアに入ろうとしたところで森宮が駆け寄ってきた。からかいとも失笑ともつかない、妙な笑みを浮かべて「おいおいおい」と言う。正直不気味である。
 「…………おはようございます、何かあったんですか」
 「何かあったのはおまえだろ。タメ口にしろってのに」
 「それは、じゃなくて、俺がなにか」
 「なにかじゃねーよ。昨日、例の彼女と一緒に帰ったって?」
 「例の彼女、って」
 「主任さんだよ、決まってんだろ。どういうことだよ」


 「何なんですか朝から。どいてください」
 システム課の扉の前から去ろうとしない本庄に、みづほは脇をすり抜けようとしながら言うが、相手は押し戻して譲らなかった。
 「話を聞かないうちは駄目だよ、いったいどういうつもりなのか聞かせてくれないと」
 「どういうって」
 「なんで僕とは付き合えなくて、あいつならいいのさ。理由言ってくんないかな」
 「──だから、言ったじゃないですか。広野くんは大学の同期で、昨日はたまたま退社が同じ時間になったって。それで駅まで一緒に行っただけって」
 「嘘つくなよ、家まで一緒に行っただろ」
 「────どうして知ってるんです」
 「家に入れたの? 朝まであいつと仲良くやってたのか」
 「そんなことしてません!」
 「じゃあなんで家までついてこさせたんだよ、理由言ってみろよ」
 「それは…………」
 あなたがつきまとうから、と本人に言ってしまっていいものか。昨夜みづほを家までつけてきたことは間違いないが、それをあえて指摘しては逆上するのではないか。相手の言葉尻の変化にみづほは、危うい空気を感じ取っていた。
 言いよどむみづほを前に、本庄はもはや苛立つ様子を隠していない。なおも答えないみづほの手首をやおらつかみ、低い声で言った。
 「ふざけるなよ」
 その力と目の色に、みづほの背筋に冷たい汗がつたった。不穏すぎる空気に、周りの誰も声をかけられずにいる。と、離れた場所でざわつく様子があった。その気配がだんだん近づいてきて、周囲にまで届く。
 その源が、走り寄ってきてみづほと本庄の間に割って入った。
 「やめてください、迷惑じゃないですか」
 「広野くん」
 「引っ込んでろ、今話してるのはこっちだ」
 押しのけようとする本庄の手を押しとどめ、尚隆は言う。
 「昨夜のことでしょう、あれは俺が言って送っていったんです。つきまとう人がいるからって」
 最後の部分で尚隆が指さすと、本庄はにらみつけた。だが事実には違いない。みづほに手を上げようとしたのも周りが見ている。
 「ここは社内恋愛まずいんでしょ、それに彼女はとっくに断ってるって聞きましたよ。なのにしつこくするの、本庄さんにとっても良いこととは思えませんけど。上に伝わったら面倒なんじゃないですか」
 立て板に水、といった勢いで尚隆がまくしたてると、本庄は返す言葉に詰まったようだった。上に伝わったら、の部分が効いたのだろうか。
 頃合いだと思い、みづほは、尚隆がかばうようにしていた位置からすっと踏みだし、息を吸い込んで言った。
 「本庄さん、申し訳ないですけど、私はあなたと付き合う気はないんです。もうこれきりにしてください」
 きっぱりとした言葉に、周囲にいる誰かが「おお」と聞こえる声でつぶやいた。本庄がそちらを向いた途端に静まったので、誰だかはわからないが。
 こちらに向き直り、みづほを、そして尚隆を睨みつける。非常に何か言いたげではあったが、周囲の雰囲気と増えてくる人数に、争うのは得策ではないと判断したのか実際には何も言わなかった。しつこいほどに睨んできた後、ぼそぼそとなにごとか、悪態にも聞こえるようなことをつぶやきつつ、いまいましげな視線を最後に投げて去っていった。
 充満していた緊張の空気が、ふうっとほどける。
 ざわめきも、先ほどよりは開放感と明るさをともなっていて、何人かはみづほに近づいてきた。
 「大丈夫だった?」
 「何なんだろうな、あいつ」
 「よくはっきり言ったね」
 それぞれに適当な声をかけては「じゃ」と離れていく。決して広くはない廊下に残ったのは、みづほと尚隆だけになった。
 どちらからともなく顔を見合わせる。視線がまともにぶつかって、どきりとした。
 「──ごめんなさい」
 気づくと、謝っていた。
 「なんで?」
 「私が、余計なこと頼んだから」
 迷惑をかけるつもりはなかった。しかし、昨夜あの時に遭遇したのが尚隆ではなかったら、駅までついて来てとは頼まなかっただろう。当然、家まで送られることにもならなかったはずだ。
 尚隆は首を横に振った。
 「余計なことなんて思ってない、あの時は必要だっただろ。それに送ってったのは俺が言い出したことだし」
 「でも、それだって私が言ったから、広野くんにまで迷惑」
 「だから、迷惑なんて思ってないから」
 たまりかねたような調子で尚隆が言う。その、予想を超えた強い口調に、みづほは目を見張った。
 こちらの反応に、尚隆は一転、気まずそうに目をそらす。自分でも今の言葉、というか言い方は予想外だったのだろうか。なんだか、耳が赤くなってきている気までする。
 「広野くん?」
 「……とにかく、俺は迷惑とか思ってないから。もしあいつがまたなんかしてきたら、すぐ知らせて」
 そう繰り返し、付け加えて、踵を返した。かなりの早足でエレベーターホールへと去っていく。
 その背中が消えるまで、つい、見送ってしまった。はっと気づいた時には始業のチャイムが鳴る直前だった。まずい。今日の朝礼で訓辞を述べるのはみづほの役目なのに。
 慌てて扉を開けてシステム課に入ると、中にいた全員の目が一斉に集まった。それで当然ではあるし──見に出てくる人がいなかったことがむしろ不思議だ──居心地悪さは半端なかったが、あえて何でもない顔をして、少なくともみづほ自身は精一杯そのつもりで、自分の席に着く。
 「遅くなってすみません。おはようございます」
 毅然としたみづほの態度に、誰もが呆気にとられた顔をした。挨拶を返すことも忘れるほどに。
 「昨夜、ある本を読んだんですが──」
 みづほは気にならなかったふりを貫き、訓辞を述べるための前振り話を始めた。

 昼休み。これまた当然ではあるが、食事に一緒に行かないかと同僚や後輩から誘いを受けた。今朝のことについて詳しく聞き出そうという魂胆に違いない。
 しかし説明する気にはなれなかった。みづほ自身が辟易しているのだ。今日のシステムチェックが終わっていないからと半分は本当の理由を盾に、誘いを断る。
 同僚の一人が担当だった電話番を代わり、部屋に一人きりになってから、おそらく今朝出社してから初めて、大きく深呼吸できた。ずっと、息を詰めて仕事している心地だった。周りの無言の視線をやり過ごすために。
 ……まったく、これまでなるべく控えめに振る舞ってきたのに、今朝の一件でそのささやかな願いにはかなりヒビが入った気がする。仕事以外ではあまり目立たないようにと、社内の男性と関わることも極力避けてきたのに。
 学生時代と髪型を変えたりコンタクトにしたのだって、単に就職を機会とした、心機一転のつもりだった。それがどうしたことか、入社したとたんに、同期や先輩社員から声をかけられることが立て続けにあった。大学時代までとのあまりの違いに、異性の目なんていいかげんなものだなと思いつつも、まったく浮き足立たなかったとは言わない。
 だから、声をかけてきた中でも比較的良い感じだった人とは、付き合ってみることもした。それが新たな面倒ごとの始まりだとは想像もせずに。
 ──尚隆との一件があってから、少なくとも大学を卒業するまでは、他の誰かと付き合うことなど考えもしなかった。毎日ではないにせよ、尚隆の姿を見たり声を聞いたりするとどうしても、あの夜のことを思い出してしまって落ち着かなかった。だからなるべく彼とは遭遇しないように、間違っても二人きりにはならないように注意することで精一杯で、他に目をやる余裕などはなかったのだ。そもそも声をかけられることが皆無に近かったから、当時はさほど悩む必要もなかった。
 だが就職してからは、見た目を変えたのが大きな理由なのかは正直よくわからないのだが、学生時代に比してずいぶんと、声をかけてくる男性が増えた。
 いわゆる「モテる」状態になると意外と面倒くさいのだなと考えつつも、当初は、心の底から嫌だったわけではない。そのあたりは自分も平均的女性と同じ程度には自尊心や虚栄心があったようで、断る行為には一定の面倒さを感じたものの、ある程度の嬉しさや誇らしさも感じていた。男性たちの中で、とりわけ真面目そうで誠実そうな人とは、告白されてしばらくしてから個人的な付き合いに発展させた。いつまでも大学時代の恋にとらわれていてはいけない、前に進んでいかなければ、そう思って。
 その時の相手とはそこそこうまくいっていた、と思う。
 最後のステップへ踏み出せなかったことを除けば。
 相手を、好きでなかったわけではない。こんな人と結婚したら穏やかに暮らせるだろうな、なんてことを考えもした。
 けれどどうしても、いくら迫られても、相手に抱かれる気にはなれなかった。
 自分が、男性と付き合っても一線を越えられない──「できない女」だなんて、思いもしなかった。
 みづほの状態をそんなふうに表現したのは、当時付き合っていた、件の相手だった。何ヶ月経っても「それ」に関しては遠ざけようとする、迫っても拒み続けたみづほに対して、言ってみれば逆ギレしたのだろう。侮蔑混じりの視線と声でそう評したのだ。そして去っていった。
 思ってもみなかったショックの強さで、しばらくは仕事に行くのも憂鬱だった。相手に会社で会ったらどんな顔をしていいのかわからなくて。勤務フロアが違ったから実際はめったに遭遇することはなかったけれど、エレベーターや仕事上で顔を合わせるとやはり気まずかった。
 それ以来、社内の男性とは一定の距離を置くことにした。どれだけ誘われても個人的な付き合いには踏み込まずにいようと。
 そう心に決めた頃、大学でわりと仲の良かった友人から、合コンの誘いを受けた。正直あまり気は進まなかったが、外の人で付き合える人が見つかれば変わるかもしれないと思って参加してみた。
 初めての合コンは思ったより楽しく過ごせて、その後も何度か、時には幹事役の友人に頼んで参加した。気の合いそうな男性と毎回出会えるわけではなかったが、合コンから遠ざかるまでに合計3人と、数ヶ月から半年ほどの交際をした。
 ……しかし、結果的には誰とも、親密な関係にはなり得なかった。実際に付き合ってみるとどの相手に対しても、一緒にいて楽しいと心からは思えなかったり、学生時代に経験したようなときめきを感じるには至らないままだった。
 それでもある程度付き合いが続くと迫られる時は当然あって、そのたび努力はしたものの、どう勇気を出そうとしても体がついていかなかった。業を煮やした相手が強引なやり方に訴えて、結局は触れられるのすら拒むようになったこともあった。
 そんな女にいつまでも付き合える男性がいるはずもなく、皆、愛想を尽かして自ら去っていった。申し訳ないとは思ったが、未練や後悔は不思議なほどに感じなかった。
 結局のところ自分は、とうに終わった恋の記憶に捕らわれ続けているのだ。そう思ったのは、最後に付き合った相手と別れた時だった。過去のことが、言ってみればトラウマになって、自分を縛っている。
 もう自分はまともな恋などできない、誰かと付き合おうとするべきではないのかもしれない。そんなふうにも考えた。
 ──そこに来た、尚隆との再会。

 まさか職場が一緒になるなどとは思っていなかったから、知った時はかなり動揺した。トラウマの原因とまた、毎日ではないにしてもどこかで顔を合わせなければならない日々が来るなんて……いったいどんな顔をしていればいいのか。
 考えて考えて出した結論は、いたって普通にしていることだった。昔のことは昔のこと、気にしていないし半分忘れているようなもの、そんなふうに表面上は振る舞うこと。
 そう決めると意外と気が楽になった。いざ本人を前にすると全く緊張しないわけではなかったけれど、顔を合わせるのはあくまで仕事上でなのだから、と割り切ればどうにかやり過ごせたのだった。
 動揺するのはあくまで、過去のことがあるから。あの夜のことが恥ずかしくていたたまれなくて、それで落ち着かない気持ちになるだけだ。そう思っていたし、今も思っている。
 ……だが先日、退社時にばったり会ってしまった時には、予想外に困った。仕事の仮面をかぶっていられない時のことまで想定していなかったから戸惑いを覚えた。その上に本庄のつきまといにまで遭遇して、内心すっかり動転した。他に頼れる人がいなかったとはいえ、尚隆に付き添いを頼んでしまった。不安があったからとはいえ、自宅まで送らせた。
 それを誰かに見られていたのは仕方ないにせよ、そのことがこんなに噂になるなんて──自分がそんなふうに、噂の対象として認識されるだなんて、考えてもいなかった。仕事は真面目にやるけれど、プライベートで目立つことはしない。その信条で入社以来、特に最初に付き合った人と別れて以降はやってきたつもりなのに。
 仕事中の今も、何かにつけて、ちらちらとこちらを伺う視線を感じる。とっくに昼は過ぎて、もう午後も遅い時間だというのに。これから数日はこんな視線に耐えなければならないのだろうか。
 主任チェックお願いします、と書類を回してきた男性社員など、目が合った一瞬に、やけに意味ありげな目つきをして口の端で笑った。……そういえば彼も、一時はけっこう頻繁に声をかけてきた一人だった。同期であるだけに扱いに困って、最終的には、おなじく同期の友人に頼んで断る場に同席してもらったほどだ。
 そういえば主任になった頃、何かにつけてずいぶんと嫌味を言われた。彼が主任を目指していたのは察してたからある程度妬まれるのは仕方ないと思っていたが、単なる妬みだけではなかったのかもしれない。昨夜のことを見たのも噂を広めたのも、もしかしたら彼なのかもしれない。
 チェックの書類を持つ手に、知らず力が入った。いけないいけない、これは上にも回す重要な書類だ。ペーパーレス化が進んでいるのは社員への通達事項ぐらいで、伝票や決裁の書類はいまだ紙ベースである。
 そういうところも将来的に改革していければいいけど、と考えながら少しついてしまった書類のしわを伸ばす。それから、社内システムの定期チェックをしようと立ち上がった。
 途端にざっと、示し合わせたように視線が集まるのを感じる。やりにくい、とブースに入ってからため息をついた。
 ……そもそも私は、今どういう気持ちでいるのだろう、と自問する。本庄や同期の件はあれど、問題の発端はそこだ。少なくともみづほにとっては。
 尚隆とは必要以上に接触しない、関わらないと決めていたはずだ。それなのに成り行き上とはいえど、自分の厄介事に巻き込んでしまった。結果的にではあるけれど、2回も尚隆に助けられる事態になった。
 その上に、自分とともに噂の的にしてしまった。みづほはもちろんだが、尚隆だって、そんな対象になることは望んでいなかったはず。みづほ自身はまだ、自分の失敗が原因であるのだから仕方ないと言えるが、尚隆は違う。本来、大学の同期生、サークルのかつての仲間であるだけで、みづほとそれ以上の関係はないのだ。
 なのに、急な頼みに応じてくれたり、わざわざ様子を見に来て割って入ってくれたりしたのは、彼のもともとの親切さもあるのだろうが、おそらくは過去を忘れていないからに違いなかった。あの夜のことを尚隆なりに気にしていて(再会した時のぎこちなさを考えれば、そう思える)、みづほに対する申し訳なさや後ろめたさがあるから──それゆえの行動に過ぎない、きっと。
 だからこれ以上は、必要以上に関わるべきではないのだ、やはり。どれだけ彼のことが気になろうと、いや気になるからこそ、近づくべきではない──たとえ、送ると言ってくれた優しさを、争いに割って入ってくれた勇気を、すごく嬉しく感じたのだとしても。


 「……では、この件に関してはそのように」
 「お願いいたします。ありがとうございました」
 取引先の担当者と頭を下げ合い、次の約束を交わしてから事務所の建物を出る。入る前には降っていた雨が止んで、今は秋らしい青空が広がっていた。
 今の会社に転職して、半年が経つ。当初は先輩社員と共に顧客先を回っていたが、3ヶ月目からは一人で担当するようになった。ここ2ヶ月ほどは空いた時間に飛び込みの営業も行うようにしており、運良く話を聞いてもらえた何件かの中には、契約の運びとなった所もある。
 ついさっき出てきた事務所もそのひとつで、大手メーカーにも商品を卸す機械部品の工場だ。制服を一新するということで、デザインと製作をまとめて請け負ったのである。
 既存の顧客も含めて売り上げは、時勢を考えれば好調で、
課の中での成績も徐々に上がっている。先月はついに、同僚とトップを争うほどになった。この調子ならボーナスも期待できるかもしれない、などと妬み混じりに言われたりもするが、入社して最初のボーナスでさすがにそれはないだろう。まあ、夏は普通に出た様子だし、冬も出るのであれば、この不景気下では御の字であろうと思う。
 さて、今日の外回りの予定は先ほどの事務所で終わった。4時までに戻れと言われているが、まだ30分ほどの余裕がある。このあたりは住宅街で、店はコンビニぐらいしかない。駅前のカフェででも時間をつぶしていこうか、とぼんやり考えながら駅の方向へ歩いていると、反対側から歩いてくる人物に目が止まった。
 「あ」
 驚きが思わず口に出る。
 本庄だった。
 なぜここにいるのだろう、という疑問が湧く。それは当然で、尚隆の営業2課と本庄の営業1課は、基本的に担当エリアが違う。そしてこちらの方向には、先ほど尚隆が訪問した事務所しか会社はないはずだ。1課に報告は行っていないのだろうか。
 向こうもこちらに気づいているようで、機嫌が良くなさそうである。声をかけるのは躊躇を覚えたが、仕事上ややこしい話になってもいけない。呼び止めると、案の定、不愉快そうに振り返られた。
 「なんだよ」
 「あの、この先の工場でしたら、うちの課がもう行ってますよ」
 本庄はふんと鼻を鳴らす。
 「わかってるよ、おまえの担当だろ。ちょっと時間つぶしにうろついてるだけだ」
 「……そうですか」
 返す言葉が他になく、つぶやくように尚隆は言った。
 そういえば先月と先々月、1課の成績は2課より低く、月初のミーティングで課長にずいぶん絞られたと聞いた。相当ノルマが厳しくなったのだろう、声に疲れがにじんでいる。
 気まずい雰囲気を作ってしまった。それじゃ、と一言置いて去ろうとすると、今度は本庄が「おい」と呼び止める。
 「おまえ、あの女とまだ付き合ってんのか」
 「あの?」
 「システムの主任だよ、とぼけやがって」
 「別にとぼけては」
 真実である。自分とみづほは現状、付き合っているわけではない。それどころか──
 「物好きだな。苦労すんぞ」
 尚隆の返答を聞いていなかったかのように、本庄は言葉を続けた。以前の、みづほに対する柔和な物言いの片鱗は全くなく、ただこちらへの、そしてみづほへの蔑みに満ちた声音である
 「……何がですか」
 「知ってんだろ、あの女の噂。できないっての」
 「────」
 「いい女だから試してみたいと思ったけど、ああ堅物じゃ、そもそも付き合いにくいよな? ま、いつまでも面倒な女に付き合うほど俺も暇じゃないから、あとは好きにやれよ。噂がほんとなら苦労するだろうけどな。もったいないよなあ」
 声に含まれる棘で喚起された苛立ちに、考えるより先に口から言葉が出た。
 「そういうこと、あまり外では話さない方がいいと思いますけど」
 尚隆の抑えた声に、意表を突かれたような顔で本庄は黙り込む。しばし後、けっ、と言いたげに口をゆがめた。
 「おまえもカタい奴だな、つまんねえ。ま、お似合いってとこじゃないのか。じゃあな」
 ふい、とそれきり顔をそむけ、本庄は去っていった。駅の方向に引き返す形で。
 一緒に歩いていく気にはなれなかったので、尚隆はしばらくその場にとどまっていた。少なくとも普通に歩いて追いつかない程度には離れよう、そう思って。
 ──本庄に言いかけた通り、みづほとは現状、付き合ってはいない。それどころかあの一件以来、彼女の方から連絡どころか、声をかけてきたこともない。
 会社が入っているビルのロビーや、エレベーターで遭遇した時でもそうだ。以前は普通に挨拶ぐらいはしていたのに、あれ以来、遠目ではもちろん位置が近い時でも、すっと手を挙げるか軽くお辞儀をするかのみで、口は閉ざしている。まるで、こちらと話すことを徹底的に避けるかのように……いや実際、徹底的に避けられているのかもしれなかった。
 何か、しただろうか? 考える限り、尚隆に覚えはない。少なくとも彼女と再会してからのこの半年においては。
 あえて言うならば、昔の一件かもしれないが──やはり、みづほにとっては、あのことはトラウマになっているのだろうか。いまだに口にされる、彼女が「できない女」だという噂。どうしたって引っかかってしまう。
 それが事実であるのならば、あれが原因となっているのならば、自分は彼女に近づくべきではないのかもしれない。尚隆が中途入社すると知った時、みづほはどう思っただろう。厄介の種、トラウマの原因が身近に来るなんて、と拒絶反応を感じたのではないか。
 それを押し隠して接していたものの、どこかの時点から耐えられなくなって──本庄とのいざこざを知られたあたりから、みづほの中では落ち着かない思いがあったのではないだろうか。
 あくまでも想像だが、想像だけでは済まないような気がする。尚隆はあらためて後ろめたさを感じた。
 ……だが、それと同時に、別の思いも頭をもたげる。
 みづほに近づきたい、という感情。
 思慕なのか──あるいは、欲望なのか。
 どちらか一方か、どちらの比率が多いのか、自分でも正直わからない。確かなのは、みづほとの距離を縮めたい、触れ合いたい、抱きしめたいという思いが、日に日に強まっているという事実だった。

 数日後の夜。
 「じゃ、お先に。早く帰れよ」
 「はい。お疲れさまでした」
 営業2課の課長が退社して、尚隆はフロアに一人になる。得意先へ週明けに持って行かねばならない、提案書と在庫一覧表がまだできていなかったのだ。昼間に急な注文が立て込み、発注と梱包の作業に時間を取られたためだった。
 ……ようやく、書類を作り終えた時には、9時を回っていた。深く息をつき、座ったままで背伸びをする。今週は8時より前に終われない日が続いたので、明らかに疲労がたまっている感覚があった。明日が休みだからまだ、多少の解放感はあるのだが。
 ともあれ、早く帰ろう。パソコンの電源を落とし、書類をまとめて決裁が必要なものは課長のデスクに置き、一部点けていた照明を消してエレベーターホールへ向かう。
 その時、エレベーターではなく階段を使って下りよう、と思ったのは単なる気まぐれだったのか。そして、8階の非常扉の前で立ち止まり、フロアの様子を見てみようと思ったのは、虫の知らせのようなものだろうか。
 自分でもわからないまま、尚隆は鉄製の重い扉を開いて、システム課の部屋から光が漏れているのに気づいた。
 誘われるように廊下を歩いて、その部屋のドアを開ける。うかつにもノックをせずに。
 当然ながら、中にいた人物──みづほは、非常に驚いた顔で顔を上げた。驚きすぎてすぐには言葉も出ない様子に、たちまち後悔が湧き上がる。
 「…………びっくりした。どうしたの、こんな時間に」
 「──そう言う須田こそ、こんな時間まで何してんの」
 「何って、もちろん仕事よ。月次の報告書とか、いろいろあるから」
 「だからって……まさか毎日、こんな時間まで?」
 「毎日じゃないけど。主任って意外と雑務があって忙しいから」
 笑いにまぎらせてみづほは言うが、声には疲れがにじんでいる。無意識なのか、速いまばたきを繰り返す様子は、眠気をこらえているようにも受け取れる。
 相当疲れているんじゃないか、という心配とともに、そういえばこんなふうに話をするのは久々だな、と思って自然と喜びが湧いてくる。先ほどの後悔も押しのける、その喜びの大きさに、尚隆はいくぶん戸惑った。
 「……とにかく、今日はもう帰った方がいいんじゃないか。俺も帰るとこだし、駅まで送るから」
 提案に、みづほは戸惑ったように目を見開いた。わずかに眉を寄せているようにも見えるが、顔には照明で陰ができていてよくわからない。
 「──ありがとう、でも明日休みだから、区切りつけてからにする」
 と、再び笑って言うみづほだったが、どことなく笑みが引きつっている……気がする。無理をしているのか、あるいは尚隆に早く去ってほしいのか──またはその両方か。
 急激に、居心地が悪くなってきた。焦りで言葉がほとばしる。
 「じ、じゃあなんか飯、買ってくる。夕飯まだだろ」
 「えっ、そんなの別に気にしなくて」
 「いやいいから。コンビニ近いから」
 早口で言って、部屋を早足で出る。ドアが閉まるか閉まらないかの状態で階段まで駆け、閉まる音がした瞬間、ふうっと息を吐いた。そのまま勢いで1階まで駆け下り、通用口からビルの外へ出る。
 ……やはり、彼女は自分を避けたがっているのか。もはや間違いないように思われてしまう。そう考えると、これから会社へ戻るのもためらわれるが、言ってしまったことだし、何かのはずみでか、携帯を落としてきてしまったようだ。戻らないわけにはいかない。
 それでも、さっさと引き返す気にはなれなくて、周辺のコンビニを3軒ハシゴしてしまい、再び通用口をくぐったのは30分以上過ぎてからだった。エレベーターで8階に向かう。
 システム課の扉からは変わらず光が漏れているが、妙に静かだ。みづほ一人しかいないのだからそれでむしろ当然ではあるが、直感的に、何かが先ほどと違う気がした。
 足音を忍ばせて、そっと扉を開ける。
 ──みづほが、電源の切れたディスプレイを前に、机に頭を伏せた状態で眠っていた。


 みづほが目を覚ますと、周囲は真っ暗だった。
 ……今、いる場所がどこなのか、全くわからない。
 自分が横たわっているのが布団かベッドなのは、感触でわかる。しかし、それ以外はまるで見当がつかない。そもそもなぜ、横になっているのだろう。
 覚醒しきらないぼんやりした頭を必死に動かし、考えた。
 ──そうだ、今日は報告書とかの書類仕事が佳境で。週明け提出の分だけでなく他の書類も作っていたら、いきなり部屋のドアが開いて……顔を上げたら尚隆がいて。
 しばらく押し問答しているうちに、尚隆が、弁当を買ってくるからと飛び出していって、その勢いで落としていった物を見たら、携帯で。
 どうしようかと迷って、結局は、戻るのを待つことにしたのだった。一番近いコンビニは5分もかからない距離だし、15分もあれば戻ってくるだろう、そう思って。
 それから……どうしたのか。20分過ぎても尚隆が戻ってこず、遅いなとは思った。それは覚えている。だが、その後は……そうだ、とにかくあと10分くらいは待ってみようと考えながら、PCとディスプレイの電源を落とした。そして、そして?
 座って頬杖をついている間に──うとうとしてしまった、ようだ。うとうとだけでなく、完全に眠ってしまったのか。
 自宅へ戻ってきたけどその間の記憶がない、とは考えにくかった。酒を飲んだわけでもないのに。だが、どこだかわからないこの場所へ運ばれたのにも気づかないほど、熟睡してしまっていたのは確かなようだった。そう考えるしかない。
 がばりと跳ね起き、手探りで両脇を確認する。
 誰も隣にはいない、みづほひとりだ。そして感触からすると敷いてあるのはマットレスで、自分はベッドに寝ていたらしかった。
 そうしているうちに目が慣れて、うっすらと周りの様子が見えてきた。視線の先にドアらしきものがあるところからすると、どこかの部屋──だが自分の家、寝室にしている部屋でないことは確かだ。
 右側が壁に接していたため、左に体を回し、床に慎重に足を下ろす。そして立ち上がって一歩踏み出した途端、何かにつまづいた。
 「きゃ!」
 思わず大きな声が出て、つまづいた何かの上に倒れ込む。意外とクッションがあり衝撃はさほどなかったが、ずいぶん大きくて、もぞもぞと動いている……人が、布団をかぶって床で寝ていたのだ。
 再度叫びかけた声を止めたのは「起きた?」と寝ぼけ声ながら聞き覚えのある声がしたからだった。
 「…………広野、くん?」
 呆然としたつぶやきに、声は「ん、ここ、俺の家」と返してくる。尚隆の家?
 「会社で寝ちまって、どうしても起きなかったから。須田の家の道順はっきり覚えてなかったし、放っとくわけにもいかなくて、連れてきた」
 説明されるうちに徐々に目が慣れてきて、尚隆の輪郭が見えた。そして羞恥心がわいてくる。やっぱり、寝ちゃったんだ。焦りと、面倒をかけた申し訳なさでいっぱいになった。
 「ご、ごめんなさい、迷惑かけて」
 「──いや、まあ。タクシーですぐだったし」
 頭をかきながら、まだ寝ぼけた様子でぼそぼそと言う尚隆の声からは、彼の本心を推し量りにくかった。だが仮に、彼が言葉通りに「たいしたことじゃない」と思っているのだとしても、こちらとしてはやはり相当に恥ずかしい。眠ってしまったこと自体もだが、その状態でここまで運ばれてきたことも、それでもなお起きずに今さっきまで熟睡していたことも。
 「のど乾いてない?」
 尚隆に問われ、反射的に喉に手をやる。……確かに、乾いているような気がする。
 「ん、と……少し」
 「水入れてくる」
 短く言って、尚隆は部屋を出ていった。ドアが閉まって数秒後、みづほはようやく大きく息をつく。
 そしてあらためて襲ってきた羞恥に、両手で顔を覆った。──まったく、なんて無様なところを見せてしまったのだろう。今までの努力が台無しではないか。
 尚隆にはこれ以上、弱みも何も、見られたくはなかったのに。
 疲れては、いた。一人暮らしの家に帰るのがおっくうだ、そう思う程度には眠くもあった。だが、本当にそのまま寝てしまうだなんて。しかも尚隆の前で。
 と考えながらも、同時に、彼だったからまだ良かったのかもしれない、とも思った。よからぬ考えを持つ人物──たとえば本庄のような人物が相手だったら、どうなっていたか。想像して身震いした。最近、あの男が目立ったちょっかいをかけてこなかったからと、油断していたのではないか。そう自分を叱咤する。
 次いで押し寄せてきた疲労感とともに息をついた時、尚隆がグラスを手に戻ってきた。
 ほら、と差し出されて、やや慌てて受け取る。仕草になんだか、ぞんざいな雰囲気を感じた。……当たり前か、こんな面倒をかけたのだから。
 当然、迷惑に思っているに違いない。胸苦しさを感じながら、できるだけ早く水を飲み干した。
 「……ありがとう」
 礼に、こくりと頷きを返したのみで、尚隆はまたグラスを持って部屋を出ていく。台所へでも戻しに行くのだろう──気まずい。
 今が何時か確かめてはいないが、この暗さでは、夜が明けて電車が動くのはもうしばらく先だろう。けれどもう一度ここで眠り直す気にはなれないし、目が冴えて眠れそうにもない。尚隆が戻ってきたら、今すぐ帰ると言おう。大きい道に出てタクシーを捕まえれば一人で帰れる。カバンはどこだろう、カバンは──
 探そうと立ち上がった時、尚隆が再び部屋に入ってきた。あの、とみづほが口を開くとほぼ同時に、彼の方が先に早口で「じゃ俺、別の部屋で寝るから」と言った。そうして足元の布団、もしくは毛布を持ち上げたので、思わずそれをつかんでしまった。
 「何?」
 「え、……あ、その」
 問われて、自分の行動が謎だと思った。私は何をしたかったのだろう。
 そうだ、帰ると言おうとしてたんだった。思い出したにもかかわらず、何故か言葉を口に出せない。言うために引き止めたんじゃなかったのか。
 行ってしまったら言えないから、出ていってほしくなかったから──その思いが、頭の中でぐるぐる回り、どうしたわけか混乱してきた。訳がわからない。
 思考の停滞に焦っていると、尚隆が布団か毛布を床に放り出し、ベッドに、みづほの隣に無言で座る。え、と思いそちらを見た途端、肩をぐいと引き寄せられた。
 一瞬後、唇が重ねられる。
 (────え)
 数秒、頭が真っ白になり、我に返った後も、まだキスは続いていた。気づくと尚隆の手が肩から背中に回っている。
 反射的に身を引こうとした。けれどすかさず、今度は尚隆の腕に抱きすくめられてしまい、身動きが取れなくなった。
 体を固くして、とにかくキスが終わるのを待っていると、そうなるより前にベッドに横たえられる。抱きすくめられたまま。
 7年前の夜が、よみがえってくるようだった──夜の闇の中で見下ろしてくる尚隆がどんな表情をしているか、細かくは見えなくてもわかるような気がした。
 間違いなく今、あの夜と同じことが起きようとしている。そうならないようにと、ずっと注意して振る舞ってきたにもかかわらず、この状況を嫌だと思っていない自分にみづほは気づいた。
 窓の外を車が通り、ハイビームのライトが束の間、部屋の中を照らし出す。尚隆の痛いような視線を、受け止めながらみづほは思った。
 ……ああ、やっぱり。
 私はまだ、この人が好きなんだ、と。


 抱きしめた彼女は震えていた。
 ホテルに入る前から──いや校門前で会った時から、握った手はずっと、かすかに震えていたのだ。
 何故なのかは考えなくてもわかる。彼女、須田みづほは、こういう事柄に免疫がないのだ。ほぼ間違いなく初めてだろう。
 そう考えて、今の出来事は、夢に見ていることだと尚隆は気づいた。7年前の、あの夜だ。
 「本当にいいの?」
 問うと、みづほは腕の中でびくりと体をこわばらせた。ややあって、うなずく動きを胸に直接感じる。
 ここに来るまでずっとうつむいていた、彼女の表情はよくわからなかった。だが引き結んだ口元からは、悲壮な雰囲気の漂う決意が見て取れた。今もきっと同じ表情をしているのだろう。
 みづほが自分を想う気持ちを利用している。その事実を確認しながらも、尚隆は引き返そうとしなかった。言い訳でしかないけど、ここまで来てしまったら男としては止められない。
 それに、可愛いと思ったのだ。みづほの仕草を、ここに至るまでに保ってきたに違いない勇気を。
 少しだけ体を離し、みづほの顔を上向ける。重ねた唇もまた、細かく震えていて──思いがけない甘さを感じた。ただのキスを、一度目からこんなふうに感じたことは、なかったと思う。
 もっと味わいたくなって、舌を差し入れる。驚いて反射的に引こうとするみづほを再び引き寄せて、先ほどよりも力を込めて抱きしめる。
 みづほが体をよろめかせて、しがみついてきた。足の力が抜けそうになっているらしかった。引きずるように彼女を運び、ベッドに倒れ込んだ。
 ふわ、と尚隆を受け止めたのはベッドのクッションと、みづほの細い体。抱きしめてわかったが、彼女は見た目より凹凸がはっきりしたスタイルをしている。直に触れてみると、出るところは出て締まるところは締まっているのが、さらによくわかる。
 形の良い胸の柔らかさも。
 「…………っ」
 触れた手に軽く力を込めるたび、みづほは歯を食いしばって声を抑える。緊張で固くなった体の、弾むような反応に、じわじわと自分の奥が刺激されてゆくのを感じた。静かだけど確実に燃え広がっていく、熾火のような熱に。
 服の上からでもこうだったら、直接触ったらどんなふうに反応するのだろう。それを早く見たいと思った。
 ブラウスの裾をスカートのベルトから引っぱり出し、手を一息に差し入れる。はっ、とみづほが驚きの息を漏らした。
 驚いたのはこちらもだった。肌が、びっくりするほど手触りが良くて、綺麗だ。もっと触りたいと思う本能に任せて、手をあちこちに滑らせる。
 「っ、……は、っ……はあっ」
 みづほの息遣いに、徐々に声が混じってきた。我慢と、気持ち良さの間のような、男心を喚起される響き。この女は自分が初めての男なんだ、その思いが急激に強まった。もっと感じさせたいという欲望と、痛くないようにしてやらなければという戒めがせめぎ合う。
 愛撫しながら、みづほの服はほとんど脱がせてしまい、いつしかショーツだけになっていた。自分の服を全部脱ぎ捨ててから、彼女の最後の1枚をはぎ取った。
 その場所が濡れていることを、直接確かめる。
 「ひっ」
 おびえた声。当然だが誰にも触られたことがないはずの、その場所。どこよりも柔らかく、そして熱い。触るたびに中から、とろとろとこぼれてくる。
 舐めたい。
 衝動に従って顔を近づけ、細い足をぐっと開いた。
 「────!」
 声にならない声が、みづほの体からほとばしったように感じる。そのくらい激しい反応が伝わってきた。足を支える手にも、彼女の中心に触れた舌にも。
 「は……あ、や、……んあっ」
 頭の上から漏れてくる声は、何かを我慢しきれないような苦しさと、淫らな響きをともなっている。かなり強く、感じているに違いない。初めての女にこんな声を出させている、その事実が誇らしいと思った。
 びしょびしょになった場所を舌でひと通り舐め取った時にも、みづほは足を震わせて反応した。今がきっと一番敏感な時だ、と確信し、すでに待機状態だった自分のものの準備を済ませる。
 「入れるから、力抜いて」
 肩で息をつくみづほが小さくうなずいたのを見てから、姿勢を整え、腰を前へと進めた。
 「あ、あ……っ」
 中に入った瞬間、みづほが叫ぶように声を上げる。固くつむった目元、半開きの唇、自分の反応を恥じらって顔半分を手で隠す仕草。なんて可愛いのかと、心の底から思った。
 彼女がこんなに綺麗だと、誰も知らない。その女を今、自分が抱いている。男の征服感が満たされてゆくのを感じた。だけど、まだ足りない。
 「──っ! う、うぅっ……」
 さらに進んで奥に達した時、痛みを含んだ短い呻きが聞こえた。ゆっくり腰を引くと同時に、かすれた声と、内側の壁からの反応が返る。
 初めて男を受け入れた体が、震えて収縮し、締め付けてくる動きに、理性が飛びそうになる。一度息をついて、再び奥まで差し入れた。組み敷いた体が反り返る。
 「ああっ!」
 叫びとともに締め上げられる。今度こそ理性が吹き飛んだ。初めてだという現実も気遣いも忘れて、目の前の女をただ一心に抱いた。
 外側以上にみづほは内側の感度が良く、そしてサイズが自分に適していた。突き上げるたびに震える壁が締め上げる具合が、本当にちょうど良い具合でたまらなく気持ち良い──そして痛みと甘さの混じる声と、身をよじって喘ぐ表情が、さらに欲望を刺激する。
 「みづほ」
 自然に、名前が口から出た。一時的な征服欲と所有欲かもしれないが、今はとにかく、ただこの女を独り占めしていたい。
 みづほにも、そう思われたかった。もっと強く求められたかった。
 「みづほ──俺を呼んで」
 「……ひろの、く」
 「ちがう、名前」
 「──な、おたか……っ」
 「俺のこと好き?」
 「好、きっ……ああ、あんっ!」
 ひときわ高く大きな喘ぎとともに、みづほの内側が締め付ける強さと震えが、増した。そろそろいきそうになっているに違いない──そして尚隆自身も。
 ちゃんとゴムを付けておいて良かったと思う。この気持ち良さは絶対最後まで味わいたい。今さら外で出すなんてできない。
 「気持ち、いい? このまま、いくから」
 「いっ……あっ、あ────あああああっ!」
 叫んで跳ねる体を、力の限り抱きしめる。深く、奥底までつながった互いが、その瞬間ひとつになった。

 はっと目を開けた時、部屋の中は薄明るくなっていた。いつの間にか眠っていたらしい。
 ……7年前の夜、一度きりだったあの時を夢に見ていた。いや、今ではもう「一度きり」とは言えないが。
 隣では、こちらに体を傾ける格好で、みづほがまだ眠っている。すうすうと寝息を立てて、安らいだ表情で。
 その寝顔を見つめていると、ほんの何時間か前のことが、幻だったようにも思えてくる。それほど彼女の寝顔の穏やかさと、数時間前の情熱的な仕草にはギャップがあった。
 みづほと寝たのはまだ、2度目だ。しかも7年ものブランクがある。なのに、つい昨夜もそうしていたかのように、互いの体はあっという間に馴染んだ。
 それからのことは、半ば夢うつつのように感じながらも、鮮明に思い出せる。7年前の夜と同じく──他の誰とも過ごしたことのない、深く熱い時間だった。
 スマホの時計を見ると6時前だ。まだ早いが、二度寝すると寝過ごしてしまいそうな気もする。みづほを起こさないように慎重に体を起こし、尚隆はベッドから抜け出した。音を極力立てないように服をかき集め、風呂場へと向かう。
 ……昨夜、みづほが眠っているのを見た時、最初は当然ながら困った。そっと揺らしても、わりと大きな声で呼ばわっても起きず、だからと言ってそのまま放っておくわけにもいかないし、かなり弱った。
 みづほの家には一度行っているが、夜だったし、道順をよく覚えていない。タクシーで行こうにも正確な住所を知らない。となれば、自分の家に連れて帰るしか選択肢がなく……はっきり言って、耐えられるかどうかの自信がなかった。
 だから、帰ってすぐに彼女をベッドへ横たえた後も、しばらく迷ったのだ。酒を飲み過ぎたわけではないし、ただ単に疲れて眠っているだけだとは思ったものの、あまりに覚めない深い眠りが心配だったのも確かで、結局はベッドのすぐ横で待機する、イコール自分も眠ることにした。
 みづほが朝まで目覚めなければやり過ごせると思って。だがそれは淡い期待に終わった。
 最後の抵抗として、みづほに水を飲ませた後は、別の部屋で寝ようと思った。なのにどういうわけか、みづほの方から引き止められた。彼女自身、よくわからないといった顔をしていたが、その行為が引き金になったことは事実だった。
 それでも、拒まれたなら止めていただろう。けれどみづほは拒まなかった。あの夜──7年前と同じように、少し震えながらも、尚隆を受け入れた。
 昔と同じような物慣れない仕草、恥じらい痛がった様も、あの夜を呼び起こさせるようだった。……あるいはあの時以来、まともに経験してこなかったのか。そんなふうにも思わせるような。
 まさかな、と考えつつも、もしかしたら本当にそうかもしれない、という思いもあった。彼女の性格、気性ならおかしくはない。
 シャワーを終え、持ってきた下着とTシャツ、ジーンズを身につける。
 2DKのキッチンには湯沸かしポットとトースター、小型のオーブンレンジが並んでいる。湯の残り量を確認して、取り出したマグカップ2つに、それぞれスプーン1杯分の粉末コーヒーを入れた。彼女が砂糖を好むかどうかわからずにしばし迷ったが、要るなら後で入れればいいか、と結論づけて置いておくことにする。
 運良く2枚残っていた食パンを焼き、1枚ずつ皿に載せてテーブルに並べていたところで、寝室の方から気配がした。みづほだった。
 入口の柱に手をついて立つ彼女は、すでに服は着けていたが、ひどく身の置き所がなさそうな風情を醸し出していた。そんなところまで、7年前の彼女とそっくりで、今が今なのか昔なのか一瞬わからなくなる。
 しばしの後、みづほに集中していた五感のすべてが胸の奥にぎゅうっと凝縮し、ひとつの感情を作り上げた──いや、もともとそこに存在して眠らせていたものを、呼び覚ましたと言った方が正しいかもしれない。少なくとも7年前、一度はそれに気づきかけていたのだから。
 「おはよう、須田」
 「……おはよう」
 「コーヒー飲む? 砂糖とクリーム要るなら入れ」
 「ごめんなさい、帰るね」
 え、とつぶやいた時には、みづほはもう尚隆の脇をすり抜けていた。戸惑っているうちに彼女は慌ただしくヒールを履き、玄関の扉を開けて出ていく。
 ガチャン、と鉄製の扉が重みで閉まる音がして、それからも数分の間、尚隆はマグカップを持ったまま呆然と立ち尽くしていた。

 「おはようございます」
 「おう広野か、ちょうどよかった」
 2ヶ月後のある日の朝。出社した途端、挨拶した課長にそんなふうに言われた。
 何がちょうどよいのか、と思っていると「半井(なからい)専務がな、おまえが来たら個室に呼ぶようにと言ってる。すぐ行ってくれ」とのことである。
 「専務、ですか?」
 「そうだ。知ってるだろう、半井専務は」
 知ってるも何も、営業統括担当の重役であるから、営業部員なら知らないはずのない相手だ。だが、その重役に平社員が個人的に呼ばれることなど、通常はあり得ない。
 何かまずいことをしでかしただろうか? いや、心当たりはない。むしろ入社以来の半年間、成績は右肩上がりだし、この2ヶ月は課内トップが続いている。誉められこそすれ、叱られる材料はない……と思いたいが。
 ともあれ、来たらすぐと言うならば急ぎの用件なのであろう。わかりました今から行きます、と早口で課長に応じて、場所を確認してから向かう。
 個室とは言っても、ここは支社だから、重役用の部屋と言えば支社長室しかない。その支社長は今は、本社に呼ばれて留守のはずであるが、どうだったろうか。
 目的の部屋の前に立ち、2回ノックする。誰何の声に「営業2課の広野です」と答えると「入りなさい」と声がした。
 部屋の中、正面の大きなデスクの椅子は当然ながら支社長の席である。そこに今は、半井専務が座っていた。営業全体の上半期決算の会議で、テレビ通話で一度しか見てはいないが、その自信にあふれた威圧感、整った顔立ちはよく覚えている。テレビを通じてでなく直接に対面すると、相手の持つ雰囲気というか、オーラとでも呼ぶべきものがより強く、こちらに伝わってくるような気がする。
 もっとも、今は非常に緊張しているから、なおさらに威圧される空気を感じてしまうのかもしれないが。
 失礼します、とお辞儀をして部屋に足を踏み入れ、ドアを後ろ手に閉める。尚隆から見て右手の応接セットを専務は手で示して「そこに座って」と言った。
 言われた通りに座る。ドアを開けて目が合った時から、半井専務は今に至るまで、機嫌良さそうに微笑んでいる。とりあえず悪い用件、叱られるような問題ではないかな、と尚隆は心中でつぶやき、ほんの少しだけ心を落ち着けた。
 「すまなかったね、朝早くから呼びつけて」
 「──い、いいえ」
 「君のことは原口くんから聞いているよ。中途採用だが他の社員に引けを取らず、よく頑張っていると。先月と先々月、2課でトップの売り上げだったともね。
  実力者ぞろいの2課で素晴らしいと思うよ。さすがエルグレードで働いていただけのことはある」
 「……ありがとうございます」
 原口とは営業2課の課長で、エルグレードというのが尚隆が1年前まで働いていた、業界大手の総合商社だ。現在も、ブラックな社風は変わっていないとかつての同僚からは聞くが、業績での評価は相変わらず高いらしい。
 それはそれとして、確かに前職でもそこそこの成績を上げていた自負はあるものの、こんなふうに上役のさらに上役から手放しで誉められるのは、嬉しさはもちろんあれども面映ゆい。そして、わざわざ誉めるだけのために呼んだとも思いにくい。いったい何なのだろう。
 「ところで、話は変わるのだけどね」
 来た。先ほどまでの気安さが少し抑えられた口調に、思わず身構える。
 「広野くんは今、独身だね」
 「? そうですが」
 「交際している女性はいるのかな」
 そう問われて、反射的に浮かんだ相手。迷ったが、事実ではないと打ち消した。
 「……いいえ」
 そうか、と安心したような表情と声音。──この話の流れは、もしかして。
 「実はね、君に紹介したい人がいるんだよ。うちの娘なんだが」
 「お嬢さん、ですか」
 「親が言うのも何だけど、いい娘に育ってね。料理が得意でよく食事も作ってくれるんだ。顔もそこそこ見られると思うし、どうだろう」
 「どう……とおっしゃいますと」
 「会ってみないかということだよ。今年25歳だから、君とは年齢的にも釣り合いがとれるだろう」
 は、と相づちを打ちながら「若く見えるけど専務はうちの親とあまり年代変わらないんだな、まあ専務になるぐらいだからそりゃそうか」などと考えていた。
 自分に話が持ち込まれると思ったことはなかったが、これはいわゆる、見合いというやつか。しかも会社の重役の娘との。何かのドラマで見たような展開が、どうにも現実感をともなっては感じられない。
 そんな尚隆の目に映る半井専務は、どうやら娘を溺愛しているようで、楽しげに話を続ける。いわく、高校までは私立の女子校に通い、学年で五本の指に入る成績だった、大学では1年アメリカに留学したから卒業は遅れたけど、「大学に残らないか」と教授に言われるほど論文の成績は良かった、などなど。
 話半分に聞いたとしても、専務の娘はなかなかの才色兼備らしい。そんな女性が果たして、自分なんかを気に入るものだろうか。
 「そんな娘なんだが、どうも男性との付き合いには疎いようでね。年頃だというのにこれまで彼氏どころか、男友達も連れてきたことがない。それで、まあ親のお節介ではあるが、良い相手がいないか探したわけだ。君ならふさわしいのではないかと思ってね」
 「俺、いや、私がですか?」
 「失礼だが経歴は調べさせてもらった。それなりの大学を出て、エルグレードで恥ずかしくない実績を残している。ご家庭にも問題はないようだし、なんと言っても男気がある」
 「……男気?」
 「聞いているよ。ストーカーに絡まれていた女性を助けたそうじゃないか」
 と言われて、一瞬混乱したが、みづほの一件のことかと思い当たった。
 「見て見ぬ振りの人間が多いこのご時世、なかなかできることじゃない。私とて、身内が被害に遭っているならばともかく、そうでなければ君みたいに毅然と対応できるかどうか」
 「いえ、あれは」
 「わかってる、大学での知人らしいね。だとしても、尋常でない相手から庇うというのは勇気のいることだ。違うかい」
 「……ええ、まあ」
 例の件の後、みづほとの関係については、聞かれた相手には確かに「大学でサークルが一緒だった」と答えはした。しかしそんなに多くの人間に言った覚えはないし、わざわざ上司に報告したりもしていない。なのに、そんなことまでどこかから聞いているのか。半井専務の情報収集能力に舌を巻くとともに、この人が出世するのは当たり前だなと、尚隆は思った。
 「ともあれ、そういうことなんだ。娘にはまだ話していないんだが、君に会ってみる気があるのなら、と思ってね。どうかな」
 専務の笑顔を前に、尚隆は沈黙する。
 ──正直に言うなら、迷っていた。