昼休み。これまた当然ではあるが、食事に一緒に行かないかと同僚や後輩から誘いを受けた。今朝のことについて詳しく聞き出そうという魂胆に違いない。
 しかし説明する気にはなれなかった。みづほ自身が辟易しているのだ。今日のシステムチェックが終わっていないからと半分は本当の理由を盾に、誘いを断る。
 同僚の一人が担当だった電話番を代わり、部屋に一人きりになってから、おそらく今朝出社してから初めて、大きく深呼吸できた。ずっと、息を詰めて仕事している心地だった。周りの無言の視線をやり過ごすために。
 ……まったく、これまでなるべく控えめに振る舞ってきたのに、今朝の一件でそのささやかな願いにはかなりヒビが入った気がする。仕事以外ではあまり目立たないようにと、社内の男性と関わることも極力避けてきたのに。
 学生時代と髪型を変えたりコンタクトにしたのだって、単に就職を機会とした、心機一転のつもりだった。それがどうしたことか、入社したとたんに、同期や先輩社員から声をかけられることが立て続けにあった。大学時代までとのあまりの違いに、異性の目なんていいかげんなものだなと思いつつも、まったく浮き足立たなかったとは言わない。
 だから、声をかけてきた中でも比較的良い感じだった人とは、付き合ってみることもした。それが新たな面倒ごとの始まりだとは想像もせずに。
 ──尚隆との一件があってから、少なくとも大学を卒業するまでは、他の誰かと付き合うことなど考えもしなかった。毎日ではないにせよ、尚隆の姿を見たり声を聞いたりするとどうしても、あの夜のことを思い出してしまって落ち着かなかった。だからなるべく彼とは遭遇しないように、間違っても二人きりにはならないように注意することで精一杯で、他に目をやる余裕などはなかったのだ。そもそも声をかけられることが皆無に近かったから、当時はさほど悩む必要もなかった。
 だが就職してからは、見た目を変えたのが大きな理由なのかは正直よくわからないのだが、学生時代に比してずいぶんと、声をかけてくる男性が増えた。
 いわゆる「モテる」状態になると意外と面倒くさいのだなと考えつつも、当初は、心の底から嫌だったわけではない。そのあたりは自分も平均的女性と同じ程度には自尊心や虚栄心があったようで、断る行為には一定の面倒さを感じたものの、ある程度の嬉しさや誇らしさも感じていた。男性たちの中で、とりわけ真面目そうで誠実そうな人とは、告白されてしばらくしてから個人的な付き合いに発展させた。いつまでも大学時代の恋にとらわれていてはいけない、前に進んでいかなければ、そう思って。
 その時の相手とはそこそこうまくいっていた、と思う。
 最後のステップへ踏み出せなかったことを除けば。
 相手を、好きでなかったわけではない。こんな人と結婚したら穏やかに暮らせるだろうな、なんてことを考えもした。
 けれどどうしても、いくら迫られても、相手に抱かれる気にはなれなかった。
 自分が、男性と付き合っても一線を越えられない──「できない女」だなんて、思いもしなかった。
 みづほの状態をそんなふうに表現したのは、当時付き合っていた、件の相手だった。何ヶ月経っても「それ」に関しては遠ざけようとする、迫っても拒み続けたみづほに対して、言ってみれば逆ギレしたのだろう。侮蔑混じりの視線と声でそう評したのだ。そして去っていった。
 思ってもみなかったショックの強さで、しばらくは仕事に行くのも憂鬱だった。相手に会社で会ったらどんな顔をしていいのかわからなくて。勤務フロアが違ったから実際はめったに遭遇することはなかったけれど、エレベーターや仕事上で顔を合わせるとやはり気まずかった。
 それ以来、社内の男性とは一定の距離を置くことにした。どれだけ誘われても個人的な付き合いには踏み込まずにいようと。
 そう心に決めた頃、大学でわりと仲の良かった友人から、合コンの誘いを受けた。正直あまり気は進まなかったが、外の人で付き合える人が見つかれば変わるかもしれないと思って参加してみた。
 初めての合コンは思ったより楽しく過ごせて、その後も何度か、時には幹事役の友人に頼んで参加した。気の合いそうな男性と毎回出会えるわけではなかったが、合コンから遠ざかるまでに合計3人と、数ヶ月から半年ほどの交際をした。
 ……しかし、結果的には誰とも、親密な関係にはなり得なかった。実際に付き合ってみるとどの相手に対しても、一緒にいて楽しいと心からは思えなかったり、学生時代に経験したようなときめきを感じるには至らないままだった。
 それでもある程度付き合いが続くと迫られる時は当然あって、そのたび努力はしたものの、どう勇気を出そうとしても体がついていかなかった。業を煮やした相手が強引なやり方に訴えて、結局は触れられるのすら拒むようになったこともあった。
 そんな女にいつまでも付き合える男性がいるはずもなく、皆、愛想を尽かして自ら去っていった。申し訳ないとは思ったが、未練や後悔は不思議なほどに感じなかった。
 結局のところ自分は、とうに終わった恋の記憶に捕らわれ続けているのだ。そう思ったのは、最後に付き合った相手と別れた時だった。過去のことが、言ってみればトラウマになって、自分を縛っている。
 もう自分はまともな恋などできない、誰かと付き合おうとするべきではないのかもしれない。そんなふうにも考えた。
 ──そこに来た、尚隆との再会。