生きることは、難しい。

 桜帝の家に住まうようになり、およそ一週間が経ち、日増しに思う。

 今まで組織からは常に指令が出ていたけれど、この屋敷に来てからは自分で考えることの連続だった。任務も自分で見つけなくてはならない。

 そうして何か手伝えることがないか、日によって桜帝の気が変わるかと尋ねていれば、庭の掃き掃除が任されるようになった。

 ただ調理の準備には、参加できていない。お椀運びとお箸、箸置きを運ぶことだけ、渋々承諾されたかたちだ。

 私は石畳にはらはらと舞い散る桜の花びらを、竹箒ですくって一か所へと集めていく。

 どうしたものか考えあぐねていれば、後ろの障子がゆっくりと開き、羽望が軽快な足取りでかけてきた。

 この一週間、羽望は木に登ってみたり、屋根の上に登ったり、忙しい。体を動かしている暇なんてないほどに、動かしている。

「羽望、こんにちは」

「こんにちはっ!」

 すぐに挨拶を返された。彼は私の手元の竹箒を見て、「掃除ですかぁ?」と問いかけてくる。

「はい。花びらを集めています」

「待ってください、今、小さいのを取ってきます! しゅばばっ」

 とんとん、と規則正しい速度で羽望は廊下を歩き、すぐに戻ってきた。両手にそれぞれ小さな箒と塵取りを持ち、草履を履いてこちらへやってきた。

「僕が隅の花びらとりましょうっ!」

「ありがとうございます」

 羽望は、石畳の隙間を小さな箒でこそいでいく。動きは派手なのに、恐ろしいほどきちんと花びらをこそげていた。

「姫様は! 何か嫌になってここに来たんですか?」

 そうして彼は、大きく目を見開いて私を見た。

「嫌になる?」

「はい! 羽望も詩乃も、何かあってここに来たんです! だから、親交を深めるために、貴女に何があったのか、聞きたいなって! 何が嫌だったんですか?」

 私の嫌なこと、ここにきた、きっかけ、任務については言えないけれど、とりあえず婚姻のことだろう。

「御門との婚姻が破談になったことです」

「まぁ大変! 御門さんに、ふられたんだ!」

「ふられた……?」

「好きだったのに、ごめんねされちゃったってことですよ! かわいそう!」

 確かに、私はふられた。

 私は御門の跡取りのことが好きではなかった。御門の理由は、最もだ。私が御門を心から愛することが出来たのなら、ふられずに済んだ。

 頭の中に、颪と汎の姿が浮かぶ。彼らは今、どうしているのだろう。

「あれれ? でも静明様には好かれてるので、ふられたのは良かったのかもしれない……?」

 そう言って、羽望は「おめでとうございます!」と私の背中をばんばん叩いた。

「静明様は、ものすごくかっこいいし強いので、いいことですよきっと、それに、彩都は頑張りたい人向きの場所です! 慈告なんて彩都と合わなくてあんなになっちゃいましたし、姫様はのんびりした桜國向きですよ」

 彩都は確かに、忙しい場所と言われる。

 便利さや発展によって豊かになったが、この彩都は心を失せたと悲嘆するものも多い。そして、そんな彩都を平和に導くため、私は組織に入っていた。

「姫様も元気になるといいですね!」

 羽望の言葉に、私は驚いた。それだと、まるで私が病気のようだ。

「私は元気ですよ」

「それで!?」

 羽望は目を丸くした。私は怪我すらないというのに。しかし、「全然元気じゃないですよ、死んじゃってますよ!」と首をぶるぶる振る。

「元気っていうのは、もっと目が輝いている状態です!」

「では、私は今」

「死体です!」

 きっぱり断言されてしまった。これから先、もう少し──そうだ、汎のように振舞うかと考えていれば、彼は「安心してください!」と満面の笑みを浮かべる。

「規則正しく、ご飯を食べて、寝て、嫌なことはさっと忘れればすぐ元気になりますよ」

「そういうものですか?」

「はい! だって慈告がそうでしたから! 彼は彩都でものすごい人嫌いになったんですけど、この桜國に来て、そこまで人を滅ぼす必要もないと考えるまでに変わったのですよ」

 それは、危険思想ではないだろうか。しかし彼は、「幸せー!」と小躍りしている。

「世情が落ち着いたら、みんなで海島か星域に行きましょう! 海島は文字のごとく海が綺麗な楽園の島と聞きますし、星域は星が綺麗な場所らしいですよ! 占いが盛んらしいです!」

「はい」

 勢いに押され、返事をしてしまった。しかし、桜帝は彩都から東に大きく逸れたこの土地で、外から現れる怨魔を討伐する責務がある。そして、そんな桜帝に追随している羽望、慈告、そして詩乃もまた、その役目を追っているのだろう。

「はやく御門さんじゃなくて、静明さんを好きになれるといいですね!」

 羽望はわざわざ集めた桜の花びらを、ぱらぱらと降らせる。奇怪な行動を観察すれば、「ほら、綺麗!」と笑った。

 好き、その感情は学習したはずだった。好意を伝え、頬を染め、甘えて、媚びる。相手を讃える。完璧に出来ていたはずだった。御門家の家の者も、彼の知人も私が御門の跡取りを愛していると騙されていた。

 御門家の、あの跡取りだけが、「違う」と言った。真実を見通した。私が彼を愛していれば、私は彩都にいたのだろう。そして、組織で任務を遂行していた。

 私は迷いを振り切るように、羽望と掃除をしていたのだった。


 桜帝は、だいたいいつも広間にいる。桜帝の部屋もきちんとあるらしいが、彼は睡眠時にしかそこへ立ち寄らないようだった。

 なのに、掃除用具を片付けに行こうと部屋の前を通れば、桜帝の部屋の障子は少し開いていた。

「羽望とずいぶん話しとったみたいやなぁ。妬けてまうなぁ」

 りん、りんと風鈴の音色が響き、午後の日差しが畳を灼くその部屋は、じっとりと陰鬱な空気が広がっている。その中で桜帝は、座布団を丸め、それを枕にしてくつろいでいる。

「掃除をしていました」

「そか。ならご褒美あげなあかんな」

 桜帝は、そばにあった半紙をめくった。その瞬間、部屋に甘い香りがたちこめる。半紙の下に隠れていたのは、柔らかで澄んだ色をした鉱石だった。

「これは、なんていう鉱石ですか?」

「鉱石違うねん。琥珀糖て名前やで、綺麗やろ。お花ちゃん食べさせとうて、さっき作ってたん」

「琥珀糖……」

 硝子や鉱石を砕いたような欠片たちは、明るい陽射しを避けるよう、日陰へと身を潜めている。なのに、うっすらとした光によって、きらきらと反射していた。断面のグラデーションは、段階的に色味を深めあいながら、混ざっている。紫と水色、淡い桜色。こんなに宝石に近しい見目をしているのに、食べることもできるなんて信じられない。

「どうやって食べるものなんですか。これは、何から出来て……?」

「お砂糖と寒天やで。溶かした奴に色々、花びらとか入れて煮だして作んねん。それを口の中にいれてシャリシャリシャリ〜って食べるものなんよ。でもまだちゃんと乾いてないから、まだ待っとってな」

 もう、完成して見えるけれど、まだらしい。

 ここ最近、桜帝の食事の準備を盗み見て気付いたけれど、料理というものは、かなり手間がかかっている。誰かの研究を盗むように、奪って終わりじゃない。

 一つ一つ工程を経ているようだった。この琥珀糖も、形を作って終わりではない。きちんと形を作って、保管しなくてはならないのだろう。

「お花ちゃん皆とやっていけそう?」

 起き上がった桜帝は、俯きがちに視線だけをこちらに向ける。信心深いものが彫り上げた像に睨まれるような感覚に、肌がひりついた。

「分かりません」

「そうかぁ。まぁ、全員悪いやつやないけど、なんかあったら言ってなぁ」

 間延びした声に、ほっと安堵する。桜帝は正気と狂気が煙のように揺らめいていて、掴めない。

「どうして、私が好きなんですか」

「かわええから。一目見た時、この子のこと嫁にしたい思うたんよ。一目惚れっちゅうやつ? ほんで、こんな冷たそうに笑う女、どうやったら心から笑うんやろ〜って思うて、欲しいなぁ〜ってな」

「容姿が好ましいというだけで、飛び降りようとしたのですか?」

 問いかけると、桜帝は「もともと長生きする理由もないしな、俺が死んでも、まぁ別の奴らがうまくやるやろうし」とけらけら笑って答える。

「それになぁ、俺は、自分の気分で動く。お花ちゃんは可愛いから嫁に欲しいし、それをこっちがせっせ守ってやっとる御門に取られて悔しいから飛び降りなあかんと思う。でも、お花ちゃんが傷つけられたら腹立つし、幸せにしたいなぁと思う。ぜえんぶ俺の正直な気持ちやで」

 つん、と、桜帝は私の頬をつついた。

「でも、今は君の心にも興味ある。服脱ぎだしたりするんは焦ったけど、そのひやーっとしてる顔、乱してやりたいんよ。難攻不落な城のほうが落としがいあるしな」

「落としがい」

「まぁ、お花ちゃんはなあんもせんで、甘やかされたらええから。さっさと俺の愛に溺れてな」

 桜帝は、口角を上げ、「はよこの琥珀糖渇くとええなぁ!」と、陽気な雰囲気を纏い始める。

 彼のくるくると、万華鏡のように移ろう情緒に、惑う。

 桜帝は、今まで接した人間とは、どれも異なっている。説明書もなく、彼と接することはそれこそ薄氷を歩むようなものではないか。

 私は緊迫した気持ちで、虹色に煌めく琥珀糖を眺めたのだった。

◇◇◇

 戦いのない日々は、「退屈」に該当することなのかもしれない。

 よく尾行のときに、同じ任務にあたっていた颪が「このままだと暇すぎて死ぬ」などと言っていたし、汎に関しては「退屈な任務はなるべくしたくないよね!」なんて我儘を繰り返していた。

 二人の言う退屈な任務というのは、監視など動かないことだ。要するに、誰かを倒したりすることのない、平和なもの。

 となると、羽望や慈告と洗濯や掃除をする日々は、状況的に言えば退屈に該当する。なのに不思議と、満たされる思いがあった。

「よっし! 干し終わりですね! おつかれさまでーす!」

 紐や竿で吊るした洗濯物を前に、羽望が大きく伸びをする。すると、詩乃が「おつかれ」と、呟いた。

 桜國に来て、二週間。今日は詩乃とも、「洗濯物干し」をした。詩乃は私と接するときは、強張っている。かといって敵対するような空気もなければ、殺気も感じなかった。

 ただ、詩乃は私に言いたいことがあるようで、様子を窺われていることがありありとわかる。

「何か御用ですか」

 羽望が去っていく頃合いを見計らって問いかければ、「お前、ずっと彩都にいたのか」と、問いかけてくる。

「所用に応じて海島と星域にも行ったことがあります」

「へぇ。お前、人に言えねえ仕事とかしてねえだろうな」

「していましたが、それ以上は言えません」

 組織の仕事は、守秘義務がある。肯定すると、詩乃はぎょっとした後、「機械と話してるみてえ」と、疲労をにじませた。

「お前、慈告を攫ってこいって言われてねえか?」

「いえ、まったく」

 否定すると、詩乃はすんすん鼻を動かす。

「嘘はついてねえな」

「なぜ今匂いを嗅いだのですか」

「俺は生まれつき鼻がいいんだ。嘘の匂いが分かるんだよ」

 嘘の匂いが、わかる。

 他人の殺意を瞬時に感じ取ることと同じだろうか。「なるほど」と返事をすれば、詩乃は怪訝な顔をした。

「どうだ、俺にはすべてお見通しだぞ」

「そうですか」

 あまりにも長い静寂に、このまま去ることに躊躇いが生じた。

 どうしたものかと思っていれば、上から桜帝が降ってきて、そのまま詩乃めがけて落下した。

「あっぶねええええええええええ」

 詩乃が思い切りのけぞって、寸前で桜帝を躱しながら絶叫する。桜帝は「本当に悪いわ。お花ちゃんの匂い嗅いでると思ったら、悪意が出てしまって」と、涼しい顔で立ち上がった。

「悪いなぁ、嘘発見器かけるみたいな真似してしもうて、酷いことしたなぁ。傷ついたやろ」

「いえ」

 特に思うこともなかった。

 酷いこと、傷つくこと。それはいったいどんな言葉だろう。

「酷いこと、傷つく言葉とはどんなものですか」

「俺はお花ちゃんに嫌いって言われたら、泣いてまうかなぁ。人それぞれやけど……まぁ、臭い〜とか、死ね〜とか、つまらんとかはたぶん、どんな人間も平等に殺せる言葉や思うで」

 桜帝の答えを声に出さず復唱して、記憶に留める。その言葉は、口に出さない。やがて詩乃は立ち上がった。

「お前が降ってくるのは俺を傷つけることじゃねえのかよ。衝突で死ぬところだぞ」

「お前なら絶対避けれるやろ。桜國で一番俊敏やんか。それにお花ちゃんと仲良くせえ」

 二人は睨み合っている。誰か人を呼んだほうがいいのかと悩んでいれば、視界の隅に慈告が映った。彼はすいすいと手招きしている。

「桜帝様、少し席を外してもよろしいでしょうか」

「おん。僕も詩乃と話あるから、ああ、屋敷からは出たらあかんで」

 桜帝は詩乃を引きずり、庭を後にしていく。私は二人に背を向け、慈告のもとへ向かったのだった。


「どうしましたか」

 縁側に腰掛ける慈告に声をかけると、「お話があって」と、彼は悠然と微笑んだ。

 私が桜國に来て、慈告と話をしたのは初日だけだ。

 慈告はずっと部屋にいたり、かと思えばどこかで倒れていたりと、あまり会話をしなかった。

 そんな彼について桜帝は、「床にふせとるときは、そっとしたり。ただ風邪ひくから、寒そうやったらなんかかけたって」羽望に聞けば、「午前はそっとしておいてください! 夜は話をしてください!」と言うし、詩乃は、「あいつが自分から彩都について話さねえ限り聞くなよ」と三者三様の指南をもらっている。

 そして今は昼、直近の会話は食事の席で「醤油とってくれませんか?」「承知しました」だけだ。いったいどんな話をすればいいのだろう。

「彩都での話を、お聞きしたいと思って」

 そして、今まさに、詩乃の指南が潰えた。自分から慈告が彩都について語った時について問いかけた時、「そんなもんねえから」と、一刀両断されていたけれど、「そんなもん」が今まさに起きている。

 私は、自分から彩都の単語を出さなければいいだろうと、頷いて肯定だけを示した。

「では、人に言えない仕事をしていたというのは、本当ですか?」

「はい」

 私の返答に、慈告は僅かに安堵してみせる。何がそこまで喜ばしいのだろう。

 遠くでは、鹿威しが定期的に水を受け、区切りを打つように音を鳴らしていた。そのため静寂は避けられているといえど、奇妙な時間には違いない。

「きみは人が死ぬ薬を、持っていますか?」

 慈告の言葉の真意を探る。けれど彼の表情はだいぶ凪いでいて、よくわからない。水面や鏡面を覗くようだ。私は確かに今彼を探っているのに、探られてもいる。謀ることは、悪手だ。

「個人的には持っていません」

「手に入るんですね?」

「はい」

「私に、いただけますか?」

 それまで平坦だった慈告の声に、期待がのった。共鳴するように風が吹き、桜が舞って池の水面を崩している。

「薬は、私のものではなくて、借りてるだけです。そして恐らくですが、個人の自死に提供すると申し入れをしても、許可は下りません」

「服毒用ではないの?」

「国に仇なす者にしか、許されませんので」

 彼は「はぁ」と深く溜息を吐いた。はじめこそ慈告という人物は儚げであると印象づいていたけれど、気質は獲得した要素ではなく、今彼はたまたま声を発せるだけで、死に至ってないだけなのかもしれない。

 そう錯覚してしまうほど、彼からは生気を感じられなかった。

「彩都の人間からは、嫌われてるはずなんだ。それでは駄目かな? 私は、欠陥ばかりだから」

「大勢に嫌われていることは、世界を乱す要素にはなりえません」

 組織は、平和を目指していた。

 その為に一番汚れた者たちになれと私たちに命じた。

 よって、人を殺す機器や薬品の奪取、破壊は命じるが、それらを取り巻く人間は生かしておくよう定められている。祝言の日、私が忍び込んだ研究施設の人間たちも、倒しはしたが殺してはいなかった。

 粛清対象になるのは、別にいる。

「人間は、誰しも間違いながら、傷つけながら生きているそうです。だから、何か間違えたら、そのぶん善行をするか、誰かを助けて生きればいい……と、聞きました」

 前に、颪がそう言っていた。任務外に言っていたことだから、守秘義務ではないだろう。「人ってさ、みんな迷惑かけて生きてんの。助け合いなの。だから凪、お金貸してくんない?」と、彼は私に借金の申し入れをしてきた。だからこそ、悪意を持って間違いを犯し、人から搾取して他者から容認されようとする者と、自分たちは戦わなきゃいけないとも言っていた。

「お金貸してくんない?」の後に続いた言葉は、汎も同意したように思う。

 慈告は、俯きがちに「君もそう思う?」と問いかけてきた。

「はい、慈告は、死ぬ必要なんてどこにもないと思います。生死は慈告の自由ですが、死ぬべきではないでしょう。」

「本当に? 私のこと、何も知らないのに?」

「大丈夫でしょう」

 慈告の名は、組織が公開していた排除対象のリストにない。私は頷いた。慈告は、「そっか」と、縁側で足をぶらつかせたのだった。

◆◆◆

「はぁー綺麗やなぁ! ええ天気! お花ちゃんとのデート日和やわぁ」

 大きく伸びをしながら、桜帝が下駄を鳴らしていく。桜帝に連れられ、私と詩乃は桜國の中心街へ出ることとなった。

 昨日の夜まで雨が降っていたからか、広く伸びていく石畳には、空を写す水鏡がてんてんとしている。

「ほんまに、君は何着ても似合うしなぁ!」

 桜帝が口角を上げ、空から私に視線を向ける。

 髪の毛は、桜帝が望むまま梳かしてもらった。そして私は、ワンピースの上から、深海へと潜るような色のボレロを羽織っている。

 ほかは真っ白な靴下に、編み上げブーツだ。走りやすいし、殺しやすい。

 一方桜帝は着物の上から淡桃の羽織を着て、先程から嬉々として私の手を引いていた。後ろには、不満げな詩乃が腕を組んで気怠げに歩いている。

「どや、お花ちゃん彩都の街並みは! 桜がいっぱいあって綺麗やろ、」

 黒鳥居をいくつもくぐって現れた桜國の街並みは、建物や電灯が並ぶ彩都の街並みとは異なり、静かな色味の木造家屋が並んでいた。車通りは少ないまでも、鮮やかなのれんや、旗が揺れて活気を感じさせていた。

 中でも奇妙なのは、なんてこと無い木の壁に描かれた花や鶴が、動いて見えることだ。花びらの色すべてが異なる芍薬に、羽から粒子を吹かせる鶴。ふいに視線を逸らせば、細かな紙吹雪が桜とともに散っている。

 けれど石畳を撫でているのは桜の花びらだけで、紙吹雪は落ちていない。じっと眺めていると、ふいに石畳が透け、床の向こうに金魚や鯉が泳ぎ始めた。石畳のそこは、なぜか紺青色をして、さらに鏡面となって私を写している。

「ここぜえんぶに、僕が怨魔よけしとるんやで」

 桜帝はそう言ってつま先で石畳を叩いた。すると艶やかに色づけされた波紋が、石畳だけではなく木造の家々にも流れていく。

「この幻影、ですか?」

「おん。ただかけただけじゃつまらんからな。どこが守られとるか見えとるほうが安心やろ。それに、大通りの商いは派手なほうがええ。パーンと花火でもやってやりたいけどな、花火は海島の専売特許やから」

「すべて?」

「怨魔くるから札貼っとけやって渡しても、何か物騒で縁起悪いやろ。せやから、少しでも綺麗にしたろ〜って」

 綺麗。汎は皆綺麗な存在で、大好きだから女の子が泣かない世界を作りたいと言っていた。他にも、金貨が並ぶ光景も綺麗と言っていた。

 私は綺麗だと、何かを見て思ったことはない。

 なのに。

 なんとなく舞い散る彩りの紙吹雪や、空を飛び交う極彩色の魚たちを見ていると、心臓の奥が震えるような感覚に襲われた。

「き、れい?」

「お? お花ちゃん気にいったん? これからもっと綺麗なもの一杯見せたるからな」

「ありがとうございます」

「ええこ」

 桜帝に腕を引かれて、私は桜國の街並みを歩いていく。今まで色が沢山あろうと何とも思わなかったのに、不思議と浮き立つ気持ちがしていた。

◆◆◆

「ふーむ」

 桜帝が、どこから取り出したか分からない、鈴飾りのついた扇子片手に、私の腕を値踏みする瞳でじっくりと眺めていく。景色を眺めながら歩いて、化粧品や髪を洗うもの、石鹸を売る店に来たけれど、桜帝は私の腕に少しずつ試し塗りをして、反応が出るのをじっと待っていた。

「全部出えへんな。全部買お、日替わりにしたろ」

 そうして桜帝が店員を呼びつけようとした。しかしそれを詩乃が制止する。

「全部買ったら使い終わる前に悪くなるだろうが」

「なんやねん詩乃、お前には関係ないやろ」

「この女だけ使うにしたら、余計使いきれないだろ」

 詩乃の言うとおりだ。今朝桜帝が使っていた量と、今桜帝が買おうとしている総量を計算すると、消費に三年以上はかかってしまう。さらに品物の裏箱を見れば、使用期限は半年以内と記されていた。計算が合わない。

「じゃあ、お花ちゃん好きな匂い今決めれる?」

「はい。尽力します」

「仕事みたいな返事やなぁ」

 桜帝は肩を落とした。どんな香りがいいか選ぼうとして、試し用の匂いを嗅いでいくと、「俺はお花ちゃんに合うやつさがそ〜」と、桜帝も色々と匂いを嗅ぎはじめた。

「檜……緑茶に柚子に薔薇なんかもなんなぁ。どの匂いが好き? 今まで生きてて、なんかこの匂い好きってある? 雨上がりとか?、夕焼けとか、抽象的なんでもええよ」

「……朝食べた、卵焼きの匂い、好きです」

「それは〜……鰹……あと昆布やんな。あとは桜えびか。なにお花ちゃん、俺のご飯大好きになってもうたの?」

「はい」

 返事をすると、桜帝は途端に黙って俯いた。何か変な答え方をしたのかと様子を窺えば、耳を赤く染めている。

「持病ですか?」

「ちゃうし、お花ちゃんのせいやし。あー、苦し」

 そうやって口元を隠す彼に、店で買い物をする女性の客人たちは皆見惚れていた。桜帝が前を通るたび、ひそひそと声を潜めて会話をしている。

「あれ、あそこにいるのは桜國様だわ」

「素敵……隣を歩いているのは誰かしら」

「珍しい。女性と歩かれているなんて」

 思えば、海帝や星帝には婚約者がいるけれど、桜帝についてそういった話を聞くことは殆どなかった。

 桜帝は組織と繋がりがあるのかもしれない。組織はこの国の安寧を保つための組織であり、いわば怨魔から彩都を守る桜帝とは、志を同じくしているはずだ。

 もしかして、組織の人間は何らかの想いがあり、桜帝も何らかの目的があって私を保護している形なのだろうか。 ともすれば、あの破談の会場で桜帝が名乗りを上げたことに納得がいく。

「なあによそ見しとるん? お花ちゃん。僕妬いてしまうんやけど、ほかの男のこと考えとったら、その男の首、これではねるで」

 桜帝はさしていた刀に視線をやった。「こんな物騒なもんいらんよな!」と、雑に扱われていた因縁の代物だけれど、今は丁寧に桜帝を守っている。

「桜帝のことを考えていました」

「ほんとう? 嘘ついたら、僕泣いてしまうけど?」

「本当です」

 じい、と巣食わんばかりに見つめられる。そのまま見つめていると、詩乃が「さっさと選べよ」と、呆れた様子で溜息を吐いた。

「好きな匂い……詩乃は、好きな匂いありますか?」

「なんでこの流れで俺に聞くんだよ。俺のこと殺す気かよ」

 何か、最適な答えはないだろうかと意見を求めたつもりだったけど、駄目だったらしい。やがて私は桜帝にひとつひとつ確認される形で、品物を定めたのだった。

◇◇◇

「じゃあ、僕は金払ってくるから、お花ちゃんは詩乃と屋敷戻り」

 一通り品物を選び終えると、そういって桜帝はのんびりと手を振ってくる。

「荷物運びは得意です」

 申し出ると、桜帝は首を横にふる。

「あかんよ。お花ちゃんは堕落せなあかん。ひょろひょろやし、そのうち桜に攫われてしまいそうやもん。それに、屋敷に羽望と慈告の二人だけやから、戻っとき」

「承知しました」

 護衛は必要ないのだろうかと不安になるけれど、詩乃はさっさと行ってしまった。桜帝の命に従うべきかと、私は詩乃の後を付いて、桜の大通りを抜けていく。

 桜國の町は、不思議だ。桜帝の夢のようなまやかしもあれど、建物自体の明度が彩都とは異なって見える。

 彩都の街並みは、鉄やコンクリート、硝子の建物に囲まれ、景色全体が青みがかっている。一方の桜國は、彩都の同じ素材であるはずの木板すら、淡い桜色を帯びていた。さらに、汎が好んでいた「ビビッドピンク」なる蛍光色が、ところかしこに舞っている。

 桜帝の幻術のほかに、桜に囲まれた立地や天候もあるのだろうか。彩都は天候は雨や曇りが多く、「久遠の夜」なんて別名もあるくらいだ。

 そういえば、颪が「雪」についての言い伝えを、話していたような。天ノ国、彩都、桜國、海島、星域にわたる五つの境界のどこも持ちえない唯一の天候、そして、幻の理想郷。

 雪が降る場所が、その理想郷になると言われ、その主は人を浚うと──、

「お前さ」

 歩いていると、詩乃がこちらに振り返った。

「何でしょうか」

「やっぱ、堅気のもんじゃねえよな。もしかしたら軍の上のほうで、機密保持のためになんも言わねえとか、思ってたけど。動きが全然違う」

 私は、足を止めた。彼は鼻を動かさず、金の瞳でこちらを見据えていた。

「そんで、確かにお前の言う通り、お前が俺らを殺しにかかる機会はいつでもあるのに、お前はそれをしなかった。敵にも思えない。お前は桜國に、何しに来たんだ。お前は何者だ」

 組織を解任されてはいるものの、組織の内情について話をすべきではない。かといって組織を外れた私は、いったい何者なのだろうか。

「……よくわかりません」

「じゃあ、なんでここにいるんだよ。あいつが無理くり連れてきたってんなら、俺が出してやる」

「何故?」

「桜國の平和を守るのが、俺が生きてる理由だからだ。俺は静明の親父さんと、約束があんだよ」

 ひゅっと、詩乃と私の間に風が吹いた。それを合図にするかのように、桜の花びらが流れていく。

 私は一拍置いた後、詩乃の隣へと隠し持っていた針を投げた。詩乃が私の動きに反応し、腰に据えていた打刀に手をかけると同時に、彼の背後にいた刺客が倒れる。

「こいつっ……!」

 刺客を見た詩乃は驚き、愕然とした。私は刺客を押さえ、確認していく彼を淡々と見つめ、今までの自分の行動を思考の中で再現する。

 確かに、私は考えていなかった。

 私がいることで、桜帝やこの明媚な国の人々が危険に晒される可能性を。

「その通りです」

 倒れた刺客の顔を確認するものの、組織にいた人間ではない。

 もしかすると、御門家の手の者かもしれない。御門と無関係になりながらも、少なからずあの家を知る私の存在は、ひどく都合が悪い。

 秘密処理のため、不要になった書類はすぐに燃やすように、不要になった私を、消しに来たともとれる。。

「すみません。申し訳ないのですが、先ほどのご提案について、お願いしてもよろしいでしょうか?」

 ともすれば、すぐにこの桜國を発ったほうがいい。しかし、詩乃は刺客の顔を覗き込んで、動きを止めてしまっている。

「詩乃?」

「お前の力が必要になるかもしれない」

「はい?」

「こいつ、慈告を殺しにきてる」

 詩乃は手のひらを握りしめて、刺客の胸元にある刺青を私に見せる。そこには、奇怪な数字が描かれていた。

「なぜ慈告は狙われているのですか。大罪人なのですか?」

 問いかけると、詩乃は「直球すぎんだろ」と、眉間にしわを寄せた。

 私は、勝手にすたすた歩いていく詩乃を追いかけていく。桜帝が「詩乃と帰れ」と命じた以上、背くわけにはいかない。

「慈告は、いったい何なんですか」

「お前本当に直球で聞いてくんじゃねえよ、もっと色々、来て早々は踏み込みづらいことだろこういうの」

 直球すぎる。踏み込みづらいこと、今までの会話の注文で求められたことがないことだ。私は暫く黙った末に、「慈告が狙われているのに、そんなことを聞いている場合ですか」と問いかける。

「ほんっとに、機械と話してるみてえ」 

「それよりも、慈告についてです。なぜ狙われているのか、狙っているのは誰かお聞かせ願えますか。私の力が、必要なのでは?」

「……あいつは、天ノ国の結界に作用する力を持ってる」

 苦々しく、詩乃は拳を握り締める。

「あいつは元々、彩都の天送りだったんだよ」

 天送り──三つの境界の出身の中で秀でた人間は、天ノ国と彩都の連絡役になったり、その間を行き交う役目を与えられる。とても名誉のあることだ。力がなくてはできない。

「あいつ、結界が張れるんだ。天ノ国の末端にも届くんじゃないかってくらい。俺より妖力も、本当はある。でも、心がやられて、結界崩しになっちまって……」

「結界崩し?」

「結界を張るんじゃなくて、壊すようになっちまった。本人が望まないまま。静明ですら手こずるくらいだから、人間同士の──金とか保管してる結界なんかは、簡単に破れちまう」

 なるほど、つまり慈告がいれば、彩都どころかこの世界どこでも、好きなだけ私利私欲のまま盗みに入れるということだ。

「よくあるんですか、刺客に狙われることは」

「まぁな。ただいつもは怨魔を連れてやってくるから、居場所もすぐわかってたんだ。だが今回は、どこにも匂いがなくて……」

 私は、「なら、なおさら見つけやすいですね」と、倒れた刺客を引っ張り上げた。

「そんなこと出来るのかよ」

「出来ますよ。嗅覚に過敏な貴方がいれば、なおさら」

 そして私はそのまま刺客を詩乃に差し出したのだった。