組織で睡眠の訓練を受けたことがある。眠気をやり過ごし、丸四日、いっさい眠らない状態でそつなく任務をこなすための訓練だ。
自らを意識的に緊張状態へ追い込み、興奮させることで睡魔を削いでいく。しかし興奮状態で任務を成功させることなど不可能だから、今度はその興奮を沈めていくのだ。
心拍が落ち着いてくると、やはり眠気は襲ってくる。そこで必要なのは、痛みだ。
身体に針を付きたて、覚醒させる。やがて針の痛みは慣れるから、今度は別の道具を使う。私は自分の人生から、完璧に眠りを切り離した。
よって瞳を閉じて、桜帝の気配を探ったり、かすかに聞こえる風の音で屋敷の内部を把握しようとしたが、白檀や沈香の混ざりあった独特の匂いに、屋敷を囲む桜の香りが混ざって、情報は聴覚頼みだった。さらに、朝方まで障子の外では桜帝が座って寝ており、調査らしいこともままならなかった。
しかし、桜帝は日の出とともに一瞬だけ姿を消し、私の枕元に反物を置いてまたどこかへと向かった。
黒いワンピースタイプのドレスは、彩都の女性が皆焦がれるという、名の知れたデザイナーのワンピースだった。
私は着替え、屋敷の調査に出ることにした。部屋を出てすぐ、柱を頼りに屋根へ上る。
瓦の片側に重心を預けすぎないよう、自分を屋根の上に転がすように役瓦を伝っていき、あたりを見渡して周囲の状況を整理していく。
およそ、屋敷の広さは六百坪程度といったところだろうか。桜國の守護神は桜白狐とはよく言ったもので、役瓦の左右を守るように置かれた金の狐は、その背中に桜が掘られていた。
私は丁度いいと桜白狐に手をかけ周囲を見下ろすと、桜帝の装束とはまた違った風合いの装いをした二人の人間の姿があった。外側がはねた銀髪の少年と、紺髪の青年が、白砂に水面を描いている。
その逆方向には、正門らしき黒鳥居が連なる手前で、剣技の鍛錬をする男の姿があった。男は真紅の髪を後ろで束ね、一心に竹刀をふるっている。切りそろえた前髪からのぞく瞳は、まっすぐと目の前の大木に向けられていた。
浴衣の袖は幾何学文様に縁取られ、生地は段階的に色つけがされている。やや乱暴であるが太刀筋は真っ直ぐだ。踏み込みが強すぎるところを見るに、人を殺すというよりかは、倒す動きをしている。
しかし奇妙な違和感を覚え、不思議に思って近づこうとすると、男はなぜか天を仰ぎ、景色を辿るようにしてこちらへ振り返った。その瞬間、男の金の瞳がかっと見開かれる。
「お前! 何者だ! 一体誰だ! どっから入ってきやがった!」
男はすぐさまこちらに竹刀を構えた。覇気は凄まじく、彩都の軍人ですら敵わないような速さでこちらに飛び上がってくる。
私はすぐに後方の瓦屋根に飛び移ると、先程まで私が立っていたところに男は竹刀を振り下ろした。瓦が砕けている。竹刀の素材は特殊なのだろう。瓦を砕いたはずなのに、傷一つ着いていない。
「くそ……仕留め損ねたか!」
男は鋭い突きを繰り出しながらこちらへ飛んできた。
私は屋根から降り、先程少年たちが描いていた枯山水の下に着地しそうになって、身を翻して石灯籠に降り立つ。先程感じた違和感の正体が掴めた。男の剣さばきは、突くことに特化している。この動作は桜國ではなく──、
「血生臭え匂いさせやがって……どこの刺客だ! 誰を狙ってきやがった!」
「今はどこにも所属してません、それに、誰も狙ってません」
「ああ? ……まぁいい、どうせてめえはここで死ぬ!」
また男は剣を構え、突進してくる。私はやむなく、男へと向かって飛び上がり、顎を狙って蹴り上げた。
そのまま押し出すように回し蹴りをすると、男は壁に身体を打ち付ける。彩都の軍人であればこれで眠るはずなのに、男は腹を押さえながらこちらを睨みつけ、膝をつくだけだ。
「ってめぇ、やりやがったなあ!」
「枯山水が、あったので」
「ああ?」
「あと、私は桜帝に連れられここに入ったので、害をなしにきたわけではありません。殺せる機会は、ありました。それでも今、桜帝は死んでいない。それが証明になりませんか?」
「なるわけねえだろ! そんな血塗れで!」
血塗れ……? 腕や手のひらを確認しても、濡れている感じはしない。そもそも昨日のパーティーから、誰も始末していない。確認しているうちに接近を許してしまい、私は竹刀の切っ先を眼前でかわしながら、とっさに男の首を狙った。その瞬間、後ろから肩に手を置かれた。
「俺、部屋で寝てて〜ってお願いしたはずなんやけど、君、何しとんの?」
振り返ると、たすき掛けをした桜帝が、私の真後ろに立っていた。気配なんて、一切感じ取ることが出来なかった。愕然としていると、「湯沸かしたから、呼びに行ったろ思ったんやけど、なんで詩乃と遊んどるん?」と、私の腕を取った。
襲ってきた男は、詩乃というらしい。振り返ると、彼は桜帝を睨んでいた。
「詩乃、丁度ええから紹介したるわ。この子俺のお花ちゃん?。灯結って可愛い名前がついとるけど、呼んだらお前のことばらして井戸に流したるから絶対呼ばんといて。そんでなぁ、この子今日からここ住むから、覚えといてな」
「ああ? でも、こいつ血が……」
詩乃と呼ばれた男は驚愕しながら私を見て、私は「灯結と申します」と頭を下げた。
「さん付けも様付けも気持ち悪いから詩乃だけでいい。さっきは襲い掛かって悪かった」
「こちらこそ、殺しかけて申し訳ございませんでした」
本当に、殺さなくてよかった。桜帝の関係者ならば、国に対する反逆だ。謝罪すると、詩乃は桜帝に目を向けた。
「ああ。それでお前、ちょっとそこに立ってろ」
詩乃は桜帝の襟首を掴み、廊下の先で声を潜め会話を始める。
じっと唇の動きに集中すれば、どんな話をしているのかはっきり分かった。
「おい、桜國、お前ちゃんと説明しろ。なんなんだあの女。焼却炉の着物、もしかしてあの女のか? あいつ、もう二百人は軽く――」
「帝がいらんって言うたから、もろてきたんや、俺はこれからあの子のこと風呂に案内せなあかんから、行くで」
「おい静明――!」
桜帝は、こちらに戻ってきて、私の手を取った。そのまま私の手を引っ張り、屋敷へと戻すよう歩いていったのだった。
「いっつまでも君から彩都の匂いすんの嫌やねん。ぱっと入ってき、ぱっと朝飯にしよ」
屋敷に戻ると、桜帝はそう言って私を脱衣所につれてきた。
部屋は畳、廊下は木板が敷き詰められていたけど、ここはどうやら竹の造りらしい。
廊下と脱衣所をつなぐ扉の、その反対の窓はすり硝子になっていた。彩都のすり硝子は、普通の硝子より強い。だから人の頭を打ち付けた時、より損傷を与えることが出来る。
「お花ちゃん喜ぶかと思って、蓬湯にしたんやで〜。ここに着替え入れて、ここに代えがあんねん。そんでな、うちの風呂は露天風呂やから、雨ん時ちょっと寒いけど、まぁその分湯は熱くしたるから安心しぃ」
「よもぎゆ……」
「なに? 蓬湯知らんの? 彩都の風呂ってどないな感じ? あれやろ? どうせガスとかくっさい奴で炊いたりしとるんやろ?」
「水なので臭くないです」
「は?」
桜帝は唖然として、「はよこっち来い」と、私の腕を引く。
「きみ、風呂知ってる?」
「人間が入浴をするのですよね。知人が好きです」
「その知人とは入らんのか? 温泉行ったりはないんか」
「はい。知人が私と温泉に行こうと誘ってくれましたが、止められてなくなったので」
汎が「せっかくだし温泉行こうよ!」と私を誘ったことがあったけれど、組織の上層から止められていた。
でも、それはいつ頃の話だっただろうか……。
記憶を辿っていれば、桜帝は大きく溜息を吐いた。
「あんま、こんな時に一緒に入るん本意やないけど、お花ちゃんそのまま風呂行かせたら、水だけ浴びて蓬湯眺めて帰ってきそうやわ」
ぱっと入ってと言うから、さっと水で済ませようとしたのに。それでは駄目らしい。どうやら私は伝える言葉を間違えたようだ。
帝への返答は、組織から五百頁を超える書類が送られてきたし、それ以外の潜入調査でも、いつも問いかけに関する答えの資料を貰っていたけど、桜帝との対話はそれがないから難しい。
彼はさっと裸になり、腰に木綿の布を巻く。何をするのか様子をうかがっていれば、「見なや。俺も見んから」と、命じてきた。そして「服脱いで、これ身体に巻き」と、木綿の布を渡してくる。
「分かりました」
「いやそれサラシちゃうから! 折らずにそのまんま! 巻いて!」
桜帝は顔を赤らめ私から視線を逸らし、身体に布を巻き付けてくる。
「今度から一人ですんねんで。ちゃんと手順覚えとき。今日は僕ので我慢やけど」
そうやって通されたのは、石畳の露天風呂だった。石造りの風呂を囲むように竹垣が並んでいて、湯には蓬が浮かんでいる。桜帝の指差す場所には、硝子窓の棚が置かれている。中には瓶が並び、静明、羽望はもう、慈告よしつぐ、詩乃しのと文字が書かれていた。彼は静明の瓶を取り出すと、私に椅子を差し出してくる。
「ここ座り、俺が洗ったるわ」
「座らなくても大丈夫で――」
「座り!」
「はい」
私が椅子に座ると、桜帝は満足した様子で、横の蓬湯から手桶で湯をくんだ。
「ちゃんと目ぇ閉じて、俯き。湯、かけたるから」
有無を言わさない圧で、私は黙って俯いた。ざっと蓬の香りのするお湯をかけられたかと思えば、粉のような、かと思えばクリームのような、よく分からない感触のものが頭にすりつけられていく。
耳の近くでしゃわしゃわと奇妙な音が響いて、どうやら桜帝は私の髪を混ぜ合わせているようだった。
「頭洗うん、どんなんがええ? 椿? それとも百合か? 藤もあるよなぁ梅、菊はどうや? 何がいい? どんな匂いが好き?」
「何が……」
今まで、すべての物事を決めてもらっていたから、よく分からない。椿、百合、藤たちの香りを嗅いだことはあれど、今まで香りに好きと感じたことはない。どうしたものか考えて、答えを探していると、桜帝が「そんな悩むなら全部買うたるわ」と、私の頭をぽんぽん叩いた。
「その対価は、どのようにお支払いすればよろしいでしょうか」
「またその話か……対価、お花ちゃんから出てくる言葉で、一番嫌やわ。ありがとうでええって言ったやろ。同じこと何回も言わすな」
「ありがとうが、本当に対価になるのですか?」
「ありがとうの力、疑うなや、何千年も歴史続いとるもんやで」
「ありがとう、ございます。ワンピースも」
「おん」
ありがとう、と言うだけで本当にいいのだろうか? 疑問を覚える間に、ざぁっと頭からお湯をかけられ、髪を指でこねられていく。
不思議と痛くはない。蓬の香りに、朝の香りが混ざって、ほかに何の香りが混ざっているのか正体がつかめない。さっきも桜帝が近づいてきたことが分からなかったし、香りで正体や位置を誤魔化す対策が取られているのだろうか。
「ほうら、髪の毛すっかり彩都臭さ取れたな。身体はこの石鹸で自分で洗い」
「石鹸……」
「あああああ! 何で直に石鹸擦り付けるん!? ちゃんと泡立てぇ! 手で洗うんや! 肌痛めるやろ!」
石鹸を肌に擦り付けることは良くないらしい。「堪忍やわ……」と、桜帝はばつが悪そうに石鹸を自分の手に刷り込み、頬を赤くしながら私の手首に触れた。
「こうして、ちゃんと、手で、泡作って、それを身体にやる。分かった?」
「はい」
人を殺した返り血を浴びた服は、証拠を消すためにすべて燃やす決まりだった。同期曰く、人の肌についた血は落としやすいものの、服についた汚れは中々落ちないらしい。それなら、こうして洗えばわざわざ火を起こさなくても良かったのでは。
考えながら身体を洗って、桜帝の言う通り身体に湯をかける。すべて洗い終わり、もう終わりかと立ち上がれば、彼は私の手を取った。
「だから、湯入るんや。風呂入るんは、湯船ちゃんと浸かってまでが風呂! ほら、入り、滑って頭うったら死ぬで」
石畳を歩いて、見様見真似で湯船に入った。白濁した湯面には、蓬が浮いている。この湯の出どころはどこか探せば、枡を切り出したような穴から延々と湯が流れている。
「別に立って入らんでもええんやで」
「え?」
「……ほら、座り」
腕を引っ張られ、私は桜帝の隣にすとんと腰をおろした。
「ちゃんと風呂はいるときは腰おろして、肩が冷えへんように湯かけたりするんやで。明日からは、一人で出来るようにならなあかん」
「承知致しました」
いつまでこうしていればいいのだろうか。この場所の把握に努めていれば、湯が流れる音の間に、どくどくと速い心音が紛れていることに気づいた。
この音は桜帝のものだろう。随分速い動きをするものだ。妖術を用いると聞くし、実際災いに対抗出来る強さを持ち得ているのならば、身体の作りも異なるのだろう。
彩都を脅かす異形の化け物――場所によりと怨魔、悪魔、魔物、様々な呼び方をされているそれらを倒すことが出来るのは、天ノ国から神器を賜った三帝が司る領域の民たちのみだ。
天ノ国の者たちも怨魔を滅することが出来るが、彼らは彩都の結界を張ることを優先し、さらには国を揺るがすほどの怨魔にのみ干渉し、ほかは三帝が指揮する者たちにまかせている。
なにか、彩都の民と異なる血の巡りをしていても、おかしいことではない。
「もうこれで、温まったか? 分からんわぁ、湯当たりしてもあれやから、もう出とくか」
しばらくしてから、桜帝は私の首筋に手を当てると、素人の医者のような動作で脈を探り、立ち上がった。
そのまま脱衣所で私の服を丁寧に着せていると、棚から一枚神事に使う札を取り出して、私の背中に貼ってくる。
「風、ぶわぁってなるから、気ぃつけや」
「え」
四方を壁に囲まれているこの場所で、どんな風に気をつければいいのか。爆風かと思案していると、突然髪だけが暴風に襲われた。
「これは、一体……」
「僕の妖術込めた札や。ちゃんとこれで髪乾かしてから使い。自分の……顔とか、呼吸塞がんとこはっつければ、勝手に一番濡れとるとこで風起きるよう、作ったやつやから」
「これは、桜帝様がお作りになられたのですか?」
「せや。ドライヤーやったか? あんなんで乾かすん、邪魔くさいからな」
「そのままでも、髪は乾きますよ」
わざわざ乾かさずとも、置いておけば勝手に乾く。しかし桜帝の気に触ったらしく、「ちゃんと乾かし、風邪引くやろが」と、私は頬を引っ張られたのだった。
「さー、お花ちゃんとの朝ごはん! 何や詩乃お前そんな攫われた子供みたいな顔で」
桜帝が嬉々とした顔で笑う。あれから桜帝と共に台所へ向かい、大広間へ朝食を運んだ。気づけば詩乃がやってきて、座卓についていた。
「ただの朝飯で愉快な顔できるかよ」
詩乃は気怠そうに首を動かしながら、片手で瓦を上げ下げしている。絶え間なく訓練をしているようだ。私は彼から視線を移していく。
大広間は、だいたい五十畳くらいだろうか。
鴨居や欄間は桜の文様が彫られ、大きな床の間には刀が飾られていた。紫の柄に、黒の鞘。鞘には所々桜柄。ここでも験担ぎをしているのだろう。
天ノ国が三帝へと送ったのは、刀、槍、弓だ。桜國へは、刀を贈ったと聞く。
でも、じっと刀を見ていた私に、桜帝は「ここで朝ごはん食おうな。ん? あの刀嫌なんか? 確かに飯食うとる時にあんな物騒なもん見たないよな。しまうか」と言って刀を天袋にしまったから、あれは違うのだろう。
それにしても、この屋敷に女中は存在していないのだろうか。この屋敷からは、人の気配がしない。今わかっているのは、桜帝、詩乃、そして──、
「うわあああああ朝だ朝だ朝だぁあああ!! しらすの匂いがするううううう!」
「羽望、そんなに走っていたら転ぶよ」
「だって最近何一ついいことないじゃない! こんな時こそ! 空元気! なんとかなるなる! 僕はっ! 出来る子っ!」
ぼんっと跳ねるように飛び出してきたのは、紺髪の青年だ。彼は両腕を広げながら部屋へと入ってきて、軽やかな動きで和室の中を駆け回ったかと思えば、私の右斜め前にどすんと座った。そして、私を見て大きく目を見開き、歯を見せて笑う。
「まぁ可愛い女の子! 僕の名前は羽望と申します。あなたは誰ですか!?」
装束をまとった紺髪の青年──羽望はかっと目を見開きこちらを向く。私は頭を下げた。
「おはようございます。私の名前は灯結と申します」
「あ、せやな、羽望と慈告にもお花ちゃんの紹介せな。この最高にええ女は灯結ちゃん。ただ名前呼んだら焼却炉で弔わなあかんくなるから……せや、姫って呼んだってや」
桜帝は、私の肩を抱く。すると羽望は、からっと笑った。
「姫様ですねぇ! 承知しました! 俺のことは羽望でもはもくんでもはもーんでも好きに読んでください! 好きなものは世界です! あっちにいるのは慈告でっす! 二人ともとっても元気な男の子です!」
羽望に指された銀髪の少年は、「よろしくお願いします」と、穏やかな笑みを浮かべた。私もそれにならって挨拶をする。朝も思ったけれど、儚げな印象だ。腰までの長い髪は、肩のあたりを起点にしてただ束ねられ、揺らめくようになびいている。旧時代の書生のような装いをした彼の雄黄の瞳は、どこか虚ろにも感じた。
「わたしの名前は、慈告と申します。慈し告げると書きますが、本質は逆ですので、お忘れなきよう」
「承知しました」
会話は、これで合っているのだろうか。指南書がないから正しいかわからない。この屋敷にいるのは、桜帝、詩乃、羽望、慈告の四人しかいないのだろうか。
ならば屋敷の管理は四人だけで? ともすれば、掃除によって対価を支払うことが出来るかもしれない。任務遂行中に掃除婦をしたことがあるから、勝手はなんとなく分かる。
「ねえ詩乃さん! しらすだよ! 元気なしらす! きっと昨日まで生きてたんだよ! 窯に入れられるまでは!」
羽望の発言に、詩乃が「食い辛くなること言ってんじゃねえよ」と答える。羽望は十八歳、慈告は十四……十二歳ほどに思える。となると詩乃は十九歳ほどだろうか。
「羽望は、何歳ですか?」
「今年で十八歳です! この世に出て十八歳! ぴっちぴちぃ! 慈告は十二歳です! ヨッ長寿!」
すると桜帝が「こん中じゃ、俺がいっちばん年上やから」と、私の肩を叩く。
「俺が二十三で、そんで詩乃が十九やし。そういや君はいくつや」
「二十です」
二十。そう二十歳のはずだ。任務のたびに設定が変わるし、年齢について考えることもないせいで、忘れそうになる。誕生日もだ。颪や汎が「おめでとう」と言った回数は六回だから、六歳と答えそうになることもある。
「三才違いかぁ。お花ちゃん年上好き?」
桜帝に問われ、私は思考を重ねていく。年を重ねている者のほうが、動きが鈍くて殺しやすいが、鍛錬を重ねているなら逆だ。それ以外に年齢に対して、思うことがない。
「すみません。年齢に、好ましいという感情が、ありません」
答えれば、桜帝は「えぇ」と肩を落とした。
「すみません」
「別にええよ。俺のことずぅっと慰めてくれたら」
「はい」
頷くと、桜帝は「ええ返事やなぁ、いっつも」と私の肩から手を離す。
「さ、飯やで、ほら、みんな揃っていただきますしよ」
私は「いただきます」と、手を合わせる。
組織にいた頃、働きが認められるのは首を取ってくることだけだったけれど、桜帝はなぜか「ええこやな」と、私の頭を撫でた。
「たくさん食べて、元気なってな」
「承知しました」
私は、目の前にある膳へと視線を向ける。
水色の縦縞が描かれた茶碗が置いてあり、朝日に輝く白米がこんもりと盛られていた。隣には木のお椀の中で味噌汁が湯気を立てている。
桜帝は鰹と昆布の合わせ出汁で、葱とわかめ、豆腐を入れたと言っていた。明日は違う具材にするらしい。味噌汁の背後を陣取っているのは、昨日も働いていた七輪で焼いていた鮭だ。
真っ黒な陶器に、鮭と大根おろしが添えられ、隣の皿にはだしと桜えびを混ぜた卵焼きがあった。
さらにその隣にあるのは、羽望が「釜茹でしらすだ!」と言っていたから、窯でゆでられたのだろう。箸の近くには焼き海苔と梅干しがあって、切子細工の置物が箸の食い先を支えていた。
「ほら、食うてみ、鮭とご飯いっしょに」
「はい」
一口ほおばると、頭を撫でられた。温かくて、おいしい。別に任務を達成したわけじゃないのに満たされる心地で、桜帝はそんな私を見てけらけらと笑っていた。やがて羽望が私を指さす。
「その漬物、僕が漬けてるんですよ! おいしいですか? 食べてみてください! おいしいですかっ? ねえねえねえ!」
胡瓜、茄子の小鉢に、箸をつける。咀嚼すると、ぱりぱりと白米や卵焼きとは違った音がした。なんだか、お腹の空く音だ。塩みだけじゃなく、先程の味噌汁や卵焼きにもあったような、独特の香りがある。またご飯を食べてみると、漬物とご飯が合うことが分かった。
「食べる順番、そうやって自然に気ままにすればええねん。まぁ、昼も夜も違うの作ったるし」
桜帝は、まるで昨晩の狂気じみた表情が幻であったかのように笑っている。あたたかな食事を前に、私は一緒に働いていた颪と汎の姿を思い出した。
今頃、二人はどうしているのだろうか。颪は機器開発と運転手を任され、普通の人間とは会わない仕事が多い。汎は情報操作の一環として、歌姫の顔を持っていた。その活躍は彩都だけではなく、ほうぼうを渡ると聞いていたし、星域では舞を、海島では闘技場の中で歌をうたったと聞いている。
二人は、こういうおいしいものを食べているのだろうか。
出来れば食べていてほしい。そう願いながら、私は朝食を済ませたのだった。