桜帝と紡ぐ恋のいろは


(なぎ)、仕事の時間だ」

 私を呼ぶ声に、ふっと意識が覚醒する。近代都市と呼ばれるこの彩都(さいと)の上空を優雅に飛行する飛行船の中、私は摩天楼の群れを見下ろした。

 空へ手を伸ばすかのような建物たちからは、眩い光が点在し、煌々と輝いている。天を目指す豪風を受けながら、私は耳につけた通信機の位置を正した。

「お前婚前最後のパーティー当日まで働いて、休みてえとか思わねえの?」

 操縦席から軽い口調で声をかけられ、私は首を横に振る。

「仕事なので」

 所詮相手は人間だ。異形の化け物ではない。人を殺すことなど容易く、子供でも出来る。にも関わらず、この極彩世界で人間が減らないのは、秩序というものがあるからだそうだ。

 衆人環視の元、人の命を断ってしまえばすぐに捕縛される。

 たとえ対象が、この国をいずれ転覆させるような反乱分子としてもだ。かといって、反乱分子を野放しにすれば、あっという間に国は転覆するだろう。

 正攻法では、この国の安定は願えない。

 そう悟ったある組織は、内々に平和を脅かす反乱分子を調べ上げ、始末することにした。他ならぬ――この世界のために。

「? お前見慣れない顔だな。一体――うっ」

 飛行船から身を投げ、この極彩国で最も発展した都市──彩都で今一番勢いのある製薬財団のビルの屋上に降り立つ。空の監視を行っていた警備員をなぎ倒しながら、私は駆けた。

 人をたちまち溶かしてしまう、薬。その開発を行っているこの場所は、六十二階建てと彩都でもかなりの高さを誇っている。全面に張り巡らされた硝子は、銃も化け物の攻撃も防ぐ特殊仕様だ。

 当然通路は部外者の侵入も厳重な警備により防いでおり、内部の廊下に至るまで、監視の目が行き届いていないところがない。物音を立てれば、すぐに増援が来て取り押さえられてしまう。

 だから、外から硝子を伝い、屋上から侵入することにしたのだ。

 地上よりずっと近く感じる空は、夜明けが近いからか不気味な桃色をしている。春風は冷たく、月光はじょじょに薄れゆく。

 私がそばにあった配電盤を叩き壊し、建物全体の電力を落とした。予備の電源が入るまで、十五分。

 建物の中へ侵入すれば、意図せぬ停電に皆混乱状態で、退避を促す声や研究物を守ろうとする指示、怒声が飛び交っていた。

 私はすぐさま研究者に扮し、廊下を歩いていく。しばらくして「きみ! 何かもっとまともな光源になるものを持ってきてくれ」と、蝋燭を持った男が後ろから近づいてきた。私は「はい!」と切迫した様子で廊下を走り抜け――外鍵が何重にもつけられた扉の前に立つ。

 手早く道具で解錠して、中に置かれた資料を抜き取って、予め用意されていた爆弾を机の上に置いた。

 そのままの動作でこちらの様子を窺う男の首を締め上げる。

 部屋を出て、厳重な内鍵を解錠して窓を開けば、まるで春一番を体現するような風が吹いた。見下ろせば、薄明を知らせる光に照らされた建物が、何層にも影を重ねていた。

 特に気に留めることもなく、私は飛び降りる。背に爆風を受けながら向かいの建物の屋上へと移ると、先ほど飛行船を操縦していた男──(おろし)と、仕事終わりの(うらら)が並んで立っていた。

 (おろし)はふらふらと手を振って、「(なぎ)、おつかれ〜」とのんびりした声で私の横に立つ。

「研究成果は渡しておくから、さっさと御門の家に行ってきなー?」

 そして(うらら)は左に立った。二人と私は同期だ。機械改造と運転を専門にしている(おろし)と、組織の構成員の傍ら、人目に立つ仕事をする目立ちたがりの(うらら)

 複数で仕事をするときは、たいていこの三人が集まることになる。

「それにしても、凪が結婚かぁ! いいなぁ!」

 (うらら)は自分の指を顎にあて、物欲しそうな顔で私を見上げる。胸のあたりでざっくりと切られた紺髪の小柄で華奢な彼女は、組織の中でも戦いではなく、諜報活動を主な役割としている。その髪色をより透明化させた色の瞳は、いつも「新しいもの」「可愛いもの」を追って、周囲を和ませていた。

「本当だよなぁ。驚きだわ」

 そして、特に喜怒哀楽も必要ない、さらに言えば愛想も不要そうな運転係と技術開発を担う(おろし)も、(うらら)に負けず劣らず感情の出る人間だった。

 彼は肩にかかる髪を黒い紐で後ろに縛りながら、モッズコートをはためかせ歌を口ずさんでいた。二人とも和やかな様子だけれど、腰元には私と同じように武器を下げている。

 ただ、颪の二つの銃はわざわざグリップに紐をつけ繋げられていて、「このほうがかっこいい」という奇怪な理由で機能性を殺されていた。

 二人は、「せっかくの結婚なのになにその顔」と、声をそろえてくる。

 この彩都には、秘密裏に国家反逆を企てる反帝派の始末、それらの情報収集を行う組織がある。孤児として育った私は、その組織に拾われ道具として育った。二人も同じだ。

 組織の命令を受けて、言うとおりにする。子供でも出来ることだ。

 結婚も、普段の命令となにも変わりがない。

 私は空が白んでいくのを横目に、日から背けるようにその場を後にしたのだった。


 この国は、いくつもの境界が連なって国が形成されている。その中でも一番大きく、中央に位置するのがこの彩都(さいと)だ。

 科学的、技術的にも発展し、高層の建造物が立ち並ぶ。電気や電子回路を使って、通信技術や工学を持ってして各々が自分の価値を高める場所である。

 その彩都の上空には、「天ノ国(あまのくに)」と呼ばれる神様が集う領域がある。その場所の空は多様な極彩色をして、夢か現か定まらないほど美しいそうだ。

 夜は存在しえない。常に光に溢れ、万物の魂を癒す理想郷らしい。

 そこで暮らす人々は天ノ民(あまのたみ)と呼ばれる。そして彼らは慈悲深い。何の対価もなしに、方方を跋扈し人を喰らう異形の怪物──怨魔(えんま)から彩都の民を光の結界で守っているのだ。

 怨魔には、彩都の持つ工学の技術、兵器を持ってしても太刀打ち出来ないが、天ノ国の人々は妖術により奴らを容易く滅する。

 そして「天ノ国」を守るのが、彩都の東、西、南を守る三つの妖術境界だ。それらの民は幻のような妖術を用いて、天ノ国を守護している。

 我々彩都は、いつだってその妖術境界の民たちに生かされているのだ。彩都のいたるところには、それぞれその領域を象徴する紋――天に太陽、東に桜白狐(さくらびゃっこ)、南に深海亀(しんかいき)、西に星龍(せいりゅう)が描かれ、縁起物とされていた。

 そして本日開かれている、この彩都を司る(みかど)を継ぎ、自らの姓にも「みかど」の音を持つ御門(みかど)家の婚約披露パーティーの会場でも、いたるところにその紋は描かれている。

 めでたき紋に囲まれながら、人々は真っ赤な絨毯が敷かれた床を踏み、会食やダンスに興じていた。

 モダンなステンドグラスに見下される人間たちは、上質な反物を身にまとう人間もいれば、ふわりと揺れるドレスに身を包む者、頭に布を纏っている者と様々いる。

 三つの妖術境界の文化の終着点であり、起点である彩都では、それぞれの文化がないまぜになり展開されている。

 桜を独特に組み合わせた反物、海を想起させるモチーフと鮮やかな色を組み合わせた調度品、荘厳な色味と唯一無二の紅染を扱う天井細工などが点在している光景は、ほかの国から混沌と称されることもままあるらしい。

「見て、素敵な夫婦茶碗。澄んでいて、まるであたたかな日差しのよう」

 彩都で最も大きな舞踏会場にて、入場した来賓たちは揃えるように、次期帝への結婚祝いとして「天ノ国」から直々に賜った硝子の夫婦茶碗に見惚れていた。

 煌々とした光を受けるそれは、絢爛なホールの中で星のように輝いている。

 しかし私には、ただ飯が盛られるものにしか見えなかった。

 仕事のため、一応は目を輝かせて見る。しかし、隣で来賓に扮している(うらら)に「笑顔」と、手話で伝えられてしまった。

 そんな彼女は、目を輝かせながら、この日のためだけに用意された食事を平らげている。

「お姫様、軽食はお召し上がりになられないのですか?」

 気取った口調で声をかけてきたのは、護衛軍人に扮した(おろし)だった。軍服姿の彼はいたって真面目な顔をしているが、潜めた声は道化じみていた。

「特に、食べなくても目立つことはないので」

 食事は、面倒だ。味がたくさんあるから一体何だというのか。

 結局どんなに時間をかけたところで、胃酸によって分解され、排出されていくというのに。

 あれこれ凝ったところで意味がない。

「どうして、人は食べ物まで、見目よくしようとするのでしょう」

「美味しいもんが、たくさんありすぎるからじゃねえの?」

 (おろし)は「大漁大漁〜」と、焼き菓子をくすねては、特殊な袋にしまいこんでいる。

「なるほど」

「まぁ、どんな見た目でも、結局は一緒に食うやつ次第だろうけどな。お前も、仕事といえど、まともな家族ができれば、飯にも興味出てくんじゃねえの? なんかセットじゃん。そういうの」

 (おろし)は投げやり気味に、あたりを見渡す。

 家族。

 興味がない。

 元からいなかったせいだろうか。夫婦は、家族に該当する。結婚すれば、私はこの夫婦茶碗に興味を抱くようになるのだろうか。

 しかし、仕事中は夫婦茶碗を喜び、家族や幸せな花嫁に焦がれ、夫を愛する妻にならなくてはいけない。

 なにせ相手は、この彩都を司り、政の中心となる家──御門家の跡取りだ。

 何故御門家と組織の人間である私が契るのかは知らない。

 組織からそういう命令がおりたから、私はそれに従っただけだ。私は命じられた仕事を、ただこなすだけ。

 よって存在しないはずの私の戸籍は、組織の手によってみるみるうちに出来上がり、御門家の跡取りと偶然を装って出会い、恋愛の真似事をした。

 その間に私は次期帝に反逆する者たちを何人も倒してきたが、虫も殺せない設定で御門家の跡取りと話をしていた。そして今日はとうとう結納の儀だ。

 しかし、来賓が一通り揃ってもなお、御門家の跡取りが姿を現す気配がない。

 誰かに殺されているか、拉致でもされたかと会場を一度抜け出し様子を見に行ったけれど、どうやら控室で窓の外を眺めているようだった。

 あれからしばらく経つ。来賓も心なしか、ざわめいている様子だ。瞳を閉じて神経を研ぎ澄ませれば、微かな足音が聞こえてくる。

 やがて予想通りのタイミングで、ホールの扉が大きな音を立てて開いた。

「しばしの間、僕の一世(ひとよ)について考えていたせいで遅れてしまった!」

 今日の主役である御門家の跡取りは、颯爽と入場しながら、私の隣に立った。そして、まっすぐな瞳で私を見つめる。

「すまない。昨晩から悩んだのだが、この婚姻は取り消しだ!」

「え……」

「僕は、僕が好きだ。愛している。けれどお前は、僕を愛していない、そして自分すら愛していない。この彩都の母には向いていない。もっと広い世界を見て、僕以外の愛を知れ! そうすれば幸せな道があるだろう!」

 一瞬停止した会場が、御門家の跡取りによってざわついていく。しかし、彼は静かに手を挙げた。

「静まれ、皆の者。僕は国のためにこの婚約を解消するというのだ。いわば僕、彼女、そして皆の幸せの為だ。祝い事だ。悲しい顔をするな。民の悲しみは、僕の悲しみだ」

 私は、完璧に演じていたはずだ。御門家の跡取りを愛する女を。彼の両親も、側近も、侍従も、誰もが私を、彼を愛していると、騙されていたはずなのに。

「僕はこの彩都の民全員の幸せを望む。それは、今回縁がなく婚約を解消したお前に対しても当然同じだ。僕はお前自身を否定しない。ただ、この彩都の母に向いてないというだけだ。だから、これから一緒に、互いの新しい婚約者を見つけよう!」

 そう言われても、困る。

 組織からの命令は絶対だ。

 私は御門家の跡取りとの婚姻を命じられている。解消になれば、任務を失敗したのと同じこと。そして任務の失敗は──、

「私は――」

「確かに、そこの女は俺の運命の女やから、御門のことは好きやないやろなぁ。あはは」

 (なま)り混じりの、軽快な声が凛として響いた。神楽鈴(かぐらすず)とも異なる怜悧な音が規則的に鳴り響き、会場のざわめきが一瞬にして静まりかえる。

「ずっと前から、俺のこと好きやもんな、君は」

 人々の合間から湧くように現れたのは、肩にかかりそうなくらい、紫がかった黒髪を伸ばした男だった。

 桜色をした切れ長の瞳を彷徨わせるだけで、周囲のざわめきを黙らせ、一歩一歩こちらに近づいてくる。

 上質な着物の上から、紺地に桜や椿、菊に牡丹と蛍光色の花々が咲き乱れる羽織を纏った彼は、挑発的な笑みで私に近づき、御門家の跡取りを見やったあと、舞台劇のように周囲へ振り向いた。

「彩都の皆様、御機嫌よう。僕の名前は桜國静明(おうこくせいめい)……まぁ、桜國言うたら俺が何者かすーぐ分かるよなぁ? 今日からこの女は僕──桜帝(おうてい)様のもんや、少しでも変な気起こしたら呪ったるから気ぃつけや」

 桜國。その名前を聞いて、ハッとする。

 桜國は、彩都を守る三つの国のうちの一つ――桜白狐を紋とする桜國の――当主にしか、与えられない名だ。


 天ノ国を守る三つの境界は、桜國(おうこく)海島(メアリゾート)星域(シンイー)があり、その国を司る者は、桜帝、海帝、星帝と呼ばれている。

 彼らは天ノ国が災厄と称されるほどの怨魔に立ち向かう力を温存するため、三つの境界をそれぞれ率いて、外からやってくる怨魔と戦っているのだ。

 総じて三帝と呼ばれる彼らは、彩都の民を導く立場にある御門家の者たちより地位が高い。

 当然、有事でなければ彩都に降り立つこともない。特に桜帝は三帝の中でも最も力が強いとされながら、その姿を見た者は殆どいないと聞いていた。

 実際、彩都の神事の場で海帝、星帝を見かけたことはあったが、桜帝は見たこともなければ、声を交わしたことだってない。

 だからこそこの桜帝が私を助けた理由は人違いか、はたまた親切心を発揮した結果だろう。 どちらにせよこの桜帝とは、突然の婚約解消により騒乱となったパーティー会場を出てしまえば、すぐに別れ組織と連絡を取るつもりだった。

 なのに――、

「めっちゃ嬉しいわぁ。はぁ、夢見心地や。僕なぁ、君が御門の嫁さんって聞いて、諦めようと思うて今日会場来てたんよぉ。せやけど、君が御門の嫁さんなるとこなんか見たないから死んだろ〜思ってな〜? 祝言の日に式場の屋根から飛び降りて、君の真っ白な花嫁衣装、俺の血で真っ赤に染めたるって決めとったんよ。そしたら、まっさか、婚約解消なんてなぁ! あいつ気でも狂ったんかな? あっははは!」

 気が狂っているのは、貴方のほうでは。

 冷静に指摘してしまいたくなる口を噤む。桜帝によってパーティー会場を出された私は、そのまま馬車へと乗せられていた。

 桜帝が統べる桜國へは、彩都からかなりの距離がある。

 到底馬では、彩都から出ることすら叶わぬはずだが、車窓を眺めてみれば、景色が移り変わる速度が普通の馬のそれとはまるで違っていた。

 どうやら、妖術により生み出された馬で移動しているらしい。

 夜にしては鮮やかすぎる空を駆けている。馬車の内部は桜文様の紫地の絨毯が敷かれ、手すりに至るまで豪華な金細工が施されているが、御者の気配は感じない。

「はぁ……人生最高の日やんな……彩都の下品にチカチカする電灯も綺麗に見えるわ」

 彩都の夜景を見下ろして、桜帝は私の手を握り、嬉しそうに撫でていた。組織から始末せよと命じられていない以上、何も出来ない。

 ただでさえ相手は桜帝だ。組織の目的は世界の平和。彼に危害を加えることは、組織の意に反してしまう。

 ひとまず彼の目から離れて、組織と連絡を取らなければ。

「なあに考えとんの? さっきからずぅっと外見てるけど……あの男のとこ戻りたいんか? こっから落ちたら、死んでぐっちゃぐちゃなるで?」

 その通りだ。地面から馬車まで、彩都で最も高いとされている建物より高さがある。ドレスでは、このまま馬車から降りることもままならない。

 今日は風も強く、落下速度が和らげられても、位置が調整出来ない。落ちたら最後、頭を庇っても手足の骨は砕かれる、失血により死ぬほかない。

 桜帝は、私の意を問うように見つめている。かと思えば、「おっ見えてきたで〜ここが俺の国や!」と、私の肩を抱いてさらに窓へ近づいた。

 他に見る場所もなく視線を向けると、地上には花篝に照らされた桃色の綿毛――桜並木が見える。冷たい夜の空気を温めるように、提灯が並び場を賑やかにしていた。

「もう、今日からずっとここで――俺たちは夫婦として暮らせるんやで? お前は今日から彩都のもんやのうて、俺の花嫁――俺のお花ちゃんや」

 私の肩を叩く手は、酷く馴れ馴れしい手つきだ。

 しかし声色は常にこちらを試すもので、着物からは甘い死の香り――白檀が燻っていた。

◆◆◆

 桜帝は、馬車を降りても私から手を離すことはなかった。いくつもの鳥居を抜け、竹藪を進んだ先にあったのは、発展した彩都の中心を外れた、農村部ですらあまり見ない、城にも見える平屋の屋敷だった。

 瓦は上質で、人の頭をかち割ったところで砕けることはないだろう。

 しかしその荘厳な門とは対照的に門番はおらず、気味が悪かった。

「悪いけど、今君が見つかったら、騒ぎになるんよ。せやから、ちょっとばっかし、静かにしとってな?」

 周囲の篝火によって照らされた門の裏手に回り、鯉が泳ぐ池にかかる橋を渡って、桜帝の後を追う。

 池の周りを囲う藤の花は、蛍の光のように煌々としていた。まるで自ら、発光しているみたいだ。

 身を潜めて砂利道を抜けると、彼は私をそばの座敷へと入れた。ふわりと立ち込める畳の香りの中、月の光にあてられた障子が格子を作り出していることで、檻にも見える。

「ごめんなぁお花ちゃん。俺今日まさかお花ちゃん連れて帰れるなんてゆめゆめ思わんかって、しんどいなぁ思って適当に屋敷出たんよ。せやから、ちょーっと待っといてなぁ。本当に悪いわぁ、初めての場所で心細いやろうけど、すぐに戻ってくるから、待っとって?」

 そう言って、桜帝はすぐさま部屋の障子を閉め、足早にその場を去っていく。私は桜帝の足音が消えたことを確認して、静寂な暗闇の中、懐から通信機を取り出した。手のひらほどの小さなそれは、主に組織への連絡に使うものだ。

 組織の身に危険が迫った時、もしくは自分が死ぬ時、使うもの。そして最後に――、

「っ」

 私は障子を開き、通信機を飛ばそうとして目を見開いた。通信機は、障子の枠を超えた瞬間、すぐさま青く燃え上がり、塵となってしまった。


 この光景は見覚えがある。組織が能力不足と判断したものに下すものだ。

 私は、解任された。

 あまりの出来事に、愕然とした。目の前の状況が、何一つ理解できない。機器が先程まで乗っていた手のひらを見つめていると、「なんで障子あけとんの?」と、無邪気な声がふってきた。

 廊下の木板を軋ませる音すら、させずに。

「あ……」

「どないしたんお花ちゃん。まさか、逃げようとしたん?」

「いや……」

「本当? でもお花ちゃん、今まさにこの部屋から出ようとしてたところやんかぁ、俺それ見てもうてるんやけど……」

 桜帝は私の前にしゃがみこみ、じっと私の顔を覗き込む。そこでようやく、ぎし、と板の軋む音が響いた。

 朧月に照らされたその瞳は、篝火に照らされた桜と同じ色をして、それより妖しく揺らいでいる。

「……こ、これから、どうやって生きていこうか悩みまして」

「どーいう意味?」

「仕事を、解任されたので」

 任務が、ない。行くところがない。未来もない。

 寝る場所も何もかも、全て組織がその時その時で用意していた。

 だから私は組織の仕事を請け負っていた。でも、もう私は解任された。

 これから先、どうしたらいいのか知らない。組織に用済みと判断された以上、死んだほうが良いのだろうか。

 それなら、今すぐこの首を――、

「ほー。まぁ、俺と生きればええよ。君はそれだけでええんやで。夫婦として仲良く生きてこうな。今日から君は、俺に永久就職やから、な。俺らは今日から夫婦や」

 ぽん、と、桜帝様は私の肩を叩いた。夫婦、妻と、夫。夫は桜帝様のことだろうか。となると、妻は私。私は、桜帝に就職をした……?

「分かりました」

 だとすれば、することはひとつだ。

 実際にしたことはないが、任務の途中で見たことはある。

 私はすぐさま胸元のリボンをほどき、背中の結び目をほどいた。後少しで上半身が露わになるところで、桜帝が「あほか!」と私の腕を握る。

「お花ちゃん! きみ、な、なにしとんの?」

「対価をお支払いしようと」

「そないなこと求めてないわ! いや求めてるけども……そういうのは! 違うやろ! なに今、淡々と服脱ごうとしてん、はよ服着ぃ!」

「でも」

「でもやない! それにこの傷なんや!」

 桜帝が私の腕の付け根に触れた。この傷は腕を切り落とされかけた時のものだ。でも、位置が微妙にずれている気がするから、腕本体にある火傷の跡のことかもしれない。

 どれも幼少の訓練の傷で、仕事で出来たものではない。御門家と相まみえるときは化粧で隠していた。上手くやっていたはずなのに、まさか見抜かれるとは。

「訓練の傷です」

「はぁ?」

「それより、身体を求めていないのであれば、私はどのような対価をお支払いすればよろしいでしょうか」

 問いかけると、桜帝様はなぜか手のひらを握りしめて、顔を歪めた。そして「そんなことせんでええから」と、首を横に振った。

「もう二度と、そんな対価とか馬鹿なこと言うて服脱ぐな。お花ちゃんは、僕に幸せにされたらええねん。ほら、こっち来い。腹減ったやろ。茶漬けくらいならあるから、腹いっぱいにしてから寝え」

 そう言って手を引かれ、通されたのは台所で、すぐに台に置かれた包丁に視線がいった。

 よく研がれていて、切れ味はとてもいいように思う。

 かまどに、冷蔵庫、流し台、棚には食器が並んでおり、庶民的な雰囲気の台所だった。彩都のものより年代が何段階か古く思う。

 桜帝はなにかの作業を始めようとしていて、「お手伝いは……」と問いかけると、「いい、俺が作るん見とって」と、食器棚から丼を取り出し始めた。

 観察していると座っているよう命じられ、近くにあった椅子に座り、気配を殺すよう努める。

「俺なぁ、君のことじーっと見ててん。きみ、会場でなあんも食ってへんかったやろ。腹空かせとるから変なことしだすんやで、ちゃんとご飯喰わな」

 おひつを手に取った桜帝は振り返った。しゃもじでご飯を丼によそったかと思えば、かつおと昆布を煮出している。今度は七輪で魚の切り身を焼き、刻んで丼にふりかけた。

「お花ちゃん、ほら、お茶漬けやで」

 どん、と、テーブルに出された器を、じっくりと眺める。ふっくらとした白米に、きつね色の出汁がかけられ、海苔がかかった魚の焼き身が、出汁をまとってつやつやと輝いていた。

「これからお花ちゃんのご飯全部俺が作ったるから、もう二度と彩都の飯なんて喰らわんとってな? まぁもう彩都の土なんて絶対踏まさへんけど。ほら、いただきますしよ」
「いただきます」

 目の前に出された丼に手を付けようとすると、桜帝は嬉しそうに笑う。何がそんなにうれしいのだろうか。

「お花ちゃん。今まで御門のあほんだらとどれぐらい飯食った? 彩都で一番上手かったもんってなに? 絶対上書きしたるわ」
「御門家の者は毒殺を防ぐため、他人と食事をすることはありません。なので私も、一緒に食事をしたことはございません」

 帝と直系の血がつながっており、さらには長子が次期帝となる御門家の者たちは、自分たちに戒律を設けて血筋を守っている。

 他人と食事をしないこと、他人を家にあげないこと、他人へ施しをしないこと。約五十を超える戒律であり、家に関わる他人にも守らせることを強要していたけれど、私は特に苦もなかった。

 別に私は御門家に遊びに行くことはしたくないし、食事も、興味がない。手を繋ぐことも、口づけをすることも禁じられていたけど、なんとも思わなかった。

「めちゃくちゃ癪やけどきみは御門家の嫁やったやろ、他人やのうて」
「結納が済むまでは、他人なのでお会いする際は食後か食前でした」
「そっかそっか。じゃあ。これからたらふく上手いもん食わしたるから、楽しみにしとき。俺だけやのうて、俺の飯なしに生きられんようにしたるからな。ほら、そこの、海苔とか胡麻かかってるところとかを食うんやで、あ、胡麻って分かる?」
「以前、女給として一日だけ働いたことがあるので、食材の名前は一通り記憶しています。これが、海苔で、これが、ご飯ですよね?」
「合ってるわ。なんか切なくなる質問やわ。お出汁と一緒に食べるんやで」

 粛清対象者の屋敷に潜むため、料理人の補助として一通り食材の名前は覚えた。今目の前にある丼は、ご飯の上に、鯛の焼き身がのっていて、その上には胡麻やあられ、のりがかかっていた。



「ああ、もう焦れったいわぁ。ほら、一口食うてみ。口あけぇ」

 言われたとおり口を開くと、桜帝はれんげでお茶漬けをすくい、私の口の中に放り込んだ。咀嚼すると、いつも食べている訓練用の毒物と異なり、ピリピリしたものは一切感じない。どこか、お腹の奥が熱くなるような、奇妙な感覚がする。もう一度、口に入れてみたい、ような……。

「美味しい?」

「もう一度、口に入れたいという感覚は、美味しいで合っていますか?」

「せやで! それが上手いって感覚や! よう覚えとき、これからなんべんも味合わさせたるから、ほらもっと食え! ほら!」

 勧められるがまま、私は今度は自分でお茶漬けを口に運んだ。同じものを食べているはずなのに、食感も、鼻先に抜ける香りも、先ほどとは異なっている。

「美味しい……」

「美味いか! もっとうまいもん、これから沢山食わせたるわ!」

「あ……」

「ん?」

「対価は、どうすれば」

 美味しいものを、食べさせてもらった。何か対価を支払わなければ。しかし、それまで笑顔だった桜帝は、口を引き結んでこちらに鋭い眼差しを送った。

「あんな、お花ちゃん、そういうときはありがとうでええんやで。対価なんか、なんもいらん。俺は可愛い君が隣にいてくれるだけで幸せや」

「あ、ありがとう、ございます」

「おん」

 桜帝は私の頭をくしゃりと触れた。頭を、触る。急所に触れられているはずなのに、殺される緊迫感は不思議と抱けない。

「そのうち鴨捕まえて来たるから、一緒に食べような?」

「鴨も、食べられるのですか」

「ちゃんと処理して、鍋にしたり焼き肉にしたり、色々な。牛と同じ」

「牛……」

「これから先、お花ちゃんのことこの桜國から出さへんから、そんくらいはなぁ」

 確かに、私は行く場所がない。御門家に婚約を解消された以上、彩都にいることは不可能だ。

 終わりの楽園、すべてを受け入れ、咎人すら包み込むとされる海島へは、船がいる。細かな戒律が張り巡らされ、風光明媚な後宮が設けられている星域の領域内に入るには、厳重な、それこそ彩都より厳しい審査がある。

「服はあんねん。お花ちゃん用の。お花ちゃんの体つきで目ばかりやけど。でも、何が肌に合うか分からへんから、身体洗うやつはないねん。家突き止めたら攫えたのになぁ、お花ちゃんずっと神出鬼没やったし」

 神出鬼没。確かに私は組織の管理下にいた。居場所を突き止められていたら、組織の存続に関わってしまう。

「今度、買いいこ。一応むりやり攫った形やし、彩都が何するか分からん間は、屋敷の中で過ごしてもらうけど──。なるべくはよ買うたるから。お揃いにしよ。椿油もええな。このつるっとした髪につけたらもっとええ女なるで。化粧だけじゃなく……ダイヤも着物も、お花ちゃんの為に買うて贈れんかったやつで部屋いっぱいなっとるから、落ち着いたら見せて着せたるから」

「いいです。服も、ダイヤも、私に必要とは思えません」

「いやや、そのお願いは聞かれへんよ。お嫁さんのことちゃーんと守って、養って、甲斐性あることするんが夫の役目やからなぁ。もうお花ちゃんのことどろっどろに甘やかして、我儘言って俺のこと困らすくらいにさせたるから、覚悟しときや」

 桜帝は、桜色の瞳をこちらに向け、口角をあげる。その瞳は確かに人間のもののはずなのに、どこかゆらゆらと、底知れない炎のようなものを感じた。

◆◆◆

「きみ危なっかしいから、一人にしたないけど、あんま知らんやつ隣におったら寝られんやろうし、今日はここで寝てな」

 あれからお茶漬けを食べ終わった私は、桜帝によりまた座敷へと戻された。彼は部屋の奥にある襖を開くと、布団を取り出し敷き始める。慌てて代わろうとするが、「座り」と言われ、腰を下ろした。

「やめえ、お花ちゃんにそんな軍人みたいに跪かれんの嫌やわ。ほら、今日は寝ぇ」

「でも」

「寝ぇ。そんで、僕は君しかいらんから、将来的には貰うけどな、次に対価言うて服脱いだら怖い目あわすからな。お花ちゃんは、僕に幸せにされたらええねん。変なこと考えんのやめえや。分かったか」

「……」

「分かったな?」

「はい」

 幸せに、される? 今まで命じられたことのない言葉に戸惑いを覚えると、桜帝は私の頭に触れた。

「ええこや。僕はちょっと用事できたたけど、怖いことあったらすぐに呼び。ほなまた朝」

 さっと、桜帝はそのまま襖を閉じてしまった。

 気配を探ればどうやら厠との反対方向に向かっているらしい。布団で寝る。もうここ十年はしていないことだ。しかし、夫の命には従わなくてはいけない。今は、桜帝が私を雇う「組織」にあたるのだから。

 それにしても、この先の身の振り方を考えなくては。

 私が桜帝にしてもらっていることは、ありがとうで到底足りると思えない。桜帝には、排除したい人間はいないのだろうか。私が得意なことは、人を倒すことと何かを盗んでくることだ。

 自分で、任務を探さなければ。

 今までは、組織に相手の情報を調べてもらい、最適な返答の書類を読み、命令されるまま動いていた。

 その当たり前が、これからはないのだ。

 武器は持っている。ナイフも毒針も、鉄線も。素手でだって人を殺せる。でも桜帝に、対価が渡せない。そのことに、言いようのない不安を覚える。

 ――ここで寝え。

「そうだ、寝なければ」

 桜帝の言葉を思い出し、私は布団にもぐりこむと、目を閉じた。



 組織で睡眠の訓練を受けたことがある。眠気をやり過ごし、丸四日、いっさい眠らない状態でそつなく任務をこなすための訓練だ。

 自らを意識的に緊張状態へ追い込み、興奮させることで睡魔を削いでいく。しかし興奮状態で任務を成功させることなど不可能だから、今度はその興奮を沈めていくのだ。

 心拍が落ち着いてくると、やはり眠気は襲ってくる。そこで必要なのは、痛みだ。

 身体に針を付きたて、覚醒させる。やがて針の痛みは慣れるから、今度は別の道具を使う。私は自分の人生から、完璧に眠りを切り離した。

 よって瞳を閉じて、桜帝の気配を探ったり、かすかに聞こえる風の音で屋敷の内部を把握しようとしたが、白檀や沈香の混ざりあった独特の匂いに、屋敷を囲む桜の香りが混ざって、情報は聴覚頼みだった。さらに、朝方まで障子の外では桜帝が座って寝ており、調査らしいこともままならなかった。

 しかし、桜帝は日の出とともに一瞬だけ姿を消し、私の枕元に反物を置いてまたどこかへと向かった。

 黒いワンピースタイプのドレスは、彩都の女性が皆焦がれるという、名の知れたデザイナーのワンピースだった。

 私は着替え、屋敷の調査に出ることにした。部屋を出てすぐ、柱を頼りに屋根へ上る。

 瓦の片側に重心を預けすぎないよう、自分を屋根の上に転がすように役瓦を伝っていき、あたりを見渡して周囲の状況を整理していく。

 およそ、屋敷の広さは六百坪程度といったところだろうか。桜國の守護神は桜白狐とはよく言ったもので、役瓦の左右を守るように置かれた金の狐は、その背中に桜が掘られていた。

 私は丁度いいと桜白狐に手をかけ周囲を見下ろすと、桜帝の装束とはまた違った風合いの装いをした二人の人間の姿があった。外側がはねた銀髪の少年と、紺髪の青年が、白砂に水面を描いている。

 その逆方向には、正門らしき黒鳥居が連なる手前で、剣技の鍛錬をする男の姿があった。男は真紅の髪を後ろで束ね、一心に竹刀をふるっている。切りそろえた前髪からのぞく瞳は、まっすぐと目の前の大木に向けられていた。

 浴衣の袖は幾何学文様に縁取られ、生地は段階的に色つけがされている。やや乱暴であるが太刀筋は真っ直ぐだ。踏み込みが強すぎるところを見るに、人を殺すというよりかは、倒す動きをしている。

 しかし奇妙な違和感を覚え、不思議に思って近づこうとすると、男はなぜか天を仰ぎ、景色を辿るようにしてこちらへ振り返った。その瞬間、男の金の瞳がかっと見開かれる。

「お前! 何者だ! 一体誰だ! どっから入ってきやがった!」

 男はすぐさまこちらに竹刀を構えた。覇気は凄まじく、彩都の軍人ですら敵わないような速さでこちらに飛び上がってくる。

 私はすぐに後方の瓦屋根に飛び移ると、先程まで私が立っていたところに男は竹刀を振り下ろした。瓦が砕けている。竹刀の素材は特殊なのだろう。瓦を砕いたはずなのに、傷一つ着いていない。

「くそ……仕留め損ねたか!」

 男は鋭い突きを繰り出しながらこちらへ飛んできた。

 私は屋根から降り、先程少年たちが描いていた枯山水の下に着地しそうになって、身を翻して石灯籠に降り立つ。先程感じた違和感の正体が掴めた。男の剣さばきは、突くことに特化している。この動作は桜國ではなく──、

「血生臭え匂いさせやがって……どこの刺客だ! 誰を狙ってきやがった!」

「今はどこにも所属してません、それに、誰も狙ってません」

「ああ? ……まぁいい、どうせてめえはここで死ぬ!」

 また男は剣を構え、突進してくる。私はやむなく、男へと向かって飛び上がり、顎を狙って蹴り上げた。

 そのまま押し出すように回し蹴りをすると、男は壁に身体を打ち付ける。彩都の軍人であればこれで眠るはずなのに、男は腹を押さえながらこちらを睨みつけ、膝をつくだけだ。

「ってめぇ、やりやがったなあ!」

「枯山水が、あったので」

「ああ?」

「あと、私は桜帝に連れられここに入ったので、害をなしにきたわけではありません。殺せる機会は、ありました。それでも今、桜帝は死んでいない。それが証明になりませんか?」

「なるわけねえだろ! そんな血塗れで!」

 血塗れ……? 腕や手のひらを確認しても、濡れている感じはしない。そもそも昨日のパーティーから、誰も始末していない。確認しているうちに接近を許してしまい、私は竹刀の切っ先を眼前でかわしながら、とっさに男の首を狙った。その瞬間、後ろから肩に手を置かれた。

「俺、部屋で寝てて〜ってお願いしたはずなんやけど、君、何しとんの?」

 振り返ると、たすき掛けをした桜帝が、私の真後ろに立っていた。気配なんて、一切感じ取ることが出来なかった。愕然としていると、「湯沸かしたから、呼びに行ったろ思ったんやけど、なんで詩乃(しの)と遊んどるん?」と、私の腕を取った。

 襲ってきた男は、詩乃というらしい。振り返ると、彼は桜帝を睨んでいた。

「詩乃、丁度ええから紹介したるわ。この子俺のお花ちゃん?。灯結って可愛い名前がついとるけど、呼んだらお前のことばらして井戸に流したるから絶対呼ばんといて。そんでなぁ、この子今日からここ住むから、覚えといてな」

「ああ? でも、こいつ血が……」

 詩乃と呼ばれた男は驚愕しながら私を見て、私は「灯結と申します」と頭を下げた。

「さん付けも様付けも気持ち悪いから詩乃だけでいい。さっきは襲い掛かって悪かった」

「こちらこそ、殺しかけて申し訳ございませんでした」

 本当に、殺さなくてよかった。桜帝の関係者ならば、国に対する反逆だ。謝罪すると、詩乃は桜帝に目を向けた。

「ああ。それでお前、ちょっとそこに立ってろ」

 詩乃は桜帝の襟首を掴み、廊下の先で声を潜め会話を始める。

 じっと唇の動きに集中すれば、どんな話をしているのかはっきり分かった。

「おい、桜國、お前ちゃんと説明しろ。なんなんだあの女。焼却炉の着物、もしかしてあの女のか? あいつ、もう二百人は軽く――」

「帝がいらんって言うたから、もろてきたんや、俺はこれからあの子のこと風呂に案内せなあかんから、行くで」

「おい静明――!」

 桜帝は、こちらに戻ってきて、私の手を取った。そのまま私の手を引っ張り、屋敷へと戻すよう歩いていったのだった。


「いっつまでも君から彩都の匂いすんの嫌やねん。ぱっと入ってき、ぱっと朝飯にしよ」

 屋敷に戻ると、桜帝はそう言って私を脱衣所につれてきた。

 部屋は畳、廊下は木板が敷き詰められていたけど、ここはどうやら竹の造りらしい。

 廊下と脱衣所をつなぐ扉の、その反対の窓はすり硝子になっていた。彩都のすり硝子は、普通の硝子より強い。だから人の頭を打ち付けた時、より損傷を与えることが出来る。

「お花ちゃん喜ぶかと思って、蓬湯にしたんやで〜。ここに着替え入れて、ここに代えがあんねん。そんでな、うちの風呂は露天風呂やから、雨ん時ちょっと寒いけど、まぁその分湯は熱くしたるから安心しぃ」

「よもぎゆ……」

「なに? 蓬湯知らんの? 彩都の風呂ってどないな感じ? あれやろ? どうせガスとかくっさい奴で炊いたりしとるんやろ?」

「水なので臭くないです」

「は?」

 桜帝は唖然として、「はよこっち来い」と、私の腕を引く。

「きみ、風呂知ってる?」

「人間が入浴をするのですよね。知人が好きです」

「その知人とは入らんのか? 温泉行ったりはないんか」

「はい。知人が私と温泉に行こうと誘ってくれましたが、止められてなくなったので」

 汎が「せっかくだし温泉行こうよ!」と私を誘ったことがあったけれど、組織の上層から止められていた。

 でも、それはいつ頃の話だっただろうか……。

 記憶を辿っていれば、桜帝は大きく溜息を吐いた。

「あんま、こんな時に一緒に入るん本意やないけど、お花ちゃんそのまま風呂行かせたら、水だけ浴びて蓬湯眺めて帰ってきそうやわ」

 ぱっと入ってと言うから、さっと水で済ませようとしたのに。それでは駄目らしい。どうやら私は伝える言葉を間違えたようだ。

 帝への返答は、組織から五百頁を超える書類が送られてきたし、それ以外の潜入調査でも、いつも問いかけに関する答えの資料を貰っていたけど、桜帝との対話はそれがないから難しい。

 彼はさっと裸になり、腰に木綿の布を巻く。何をするのか様子をうかがっていれば、「見なや。俺も見んから」と、命じてきた。そして「服脱いで、これ身体に巻き」と、木綿の布を渡してくる。

「分かりました」

「いやそれサラシちゃうから! 折らずにそのまんま! 巻いて!」

 桜帝は顔を赤らめ私から視線を逸らし、身体に布を巻き付けてくる。

「今度から一人ですんねんで。ちゃんと手順覚えとき。今日は僕ので我慢やけど」

 そうやって通されたのは、石畳の露天風呂だった。石造りの風呂を囲むように竹垣が並んでいて、湯には蓬が浮かんでいる。桜帝の指差す場所には、硝子窓の棚が置かれている。中には瓶が並び、静明、羽望はもう、慈告よしつぐ、詩乃しのと文字が書かれていた。彼は静明の瓶を取り出すと、私に椅子を差し出してくる。

「ここ座り、俺が洗ったるわ」

「座らなくても大丈夫で――」

「座り!」

「はい」

 私が椅子に座ると、桜帝は満足した様子で、横の蓬湯から手桶で湯をくんだ。

「ちゃんと目ぇ閉じて、俯き。湯、かけたるから」

 有無を言わさない圧で、私は黙って俯いた。ざっと蓬の香りのするお湯をかけられたかと思えば、粉のような、かと思えばクリームのような、よく分からない感触のものが頭にすりつけられていく。

 耳の近くでしゃわしゃわと奇妙な音が響いて、どうやら桜帝は私の髪を混ぜ合わせているようだった。

「頭洗うん、どんなんがええ? 椿? それとも百合か? 藤もあるよなぁ梅、菊はどうや? 何がいい? どんな匂いが好き?」

「何が……」

 今まで、すべての物事を決めてもらっていたから、よく分からない。椿、百合、藤たちの香りを嗅いだことはあれど、今まで香りに好きと感じたことはない。どうしたものか考えて、答えを探していると、桜帝が「そんな悩むなら全部買うたるわ」と、私の頭をぽんぽん叩いた。

「その対価は、どのようにお支払いすればよろしいでしょうか」

「またその話か……対価、お花ちゃんから出てくる言葉で、一番嫌やわ。ありがとうでええって言ったやろ。同じこと何回も言わすな」

「ありがとうが、本当に対価になるのですか?」

「ありがとうの力、疑うなや、何千年も歴史続いとるもんやで」

「ありがとう、ございます。ワンピースも」

「おん」

 ありがとう、と言うだけで本当にいいのだろうか? 疑問を覚える間に、ざぁっと頭からお湯をかけられ、髪を指でこねられていく。

 不思議と痛くはない。蓬の香りに、朝の香りが混ざって、ほかに何の香りが混ざっているのか正体がつかめない。さっきも桜帝が近づいてきたことが分からなかったし、香りで正体や位置を誤魔化す対策が取られているのだろうか。

「ほうら、髪の毛すっかり彩都臭さ取れたな。身体はこの石鹸で自分で洗い」

「石鹸……」

「あああああ! 何で直に石鹸擦り付けるん!? ちゃんと泡立てぇ! 手で洗うんや! 肌痛めるやろ!」

 石鹸を肌に擦り付けることは良くないらしい。「堪忍やわ……」と、桜帝はばつが悪そうに石鹸を自分の手に刷り込み、頬を赤くしながら私の手首に触れた。

「こうして、ちゃんと、手で、泡作って、それを身体にやる。分かった?」

「はい」

 人を殺した返り血を浴びた服は、証拠を消すためにすべて燃やす決まりだった。同期曰く、人の肌についた血は落としやすいものの、服についた汚れは中々落ちないらしい。それなら、こうして洗えばわざわざ火を起こさなくても良かったのでは。

 考えながら身体を洗って、桜帝の言う通り身体に湯をかける。すべて洗い終わり、もう終わりかと立ち上がれば、彼は私の手を取った。

「だから、湯入るんや。風呂入るんは、湯船ちゃんと浸かってまでが風呂! ほら、入り、滑って頭うったら死ぬで」

 石畳を歩いて、見様見真似で湯船に入った。白濁した湯面には、蓬が浮いている。この湯の出どころはどこか探せば、枡を切り出したような穴から延々と湯が流れている。

「別に立って入らんでもええんやで」

「え?」

「……ほら、座り」

 腕を引っ張られ、私は桜帝の隣にすとんと腰をおろした。

「ちゃんと風呂はいるときは腰おろして、肩が冷えへんように湯かけたりするんやで。明日からは、一人で出来るようにならなあかん」

「承知致しました」

 いつまでこうしていればいいのだろうか。この場所の把握に努めていれば、湯が流れる音の間に、どくどくと速い心音が紛れていることに気づいた。

 この音は桜帝のものだろう。随分速い動きをするものだ。妖術を用いると聞くし、実際災いに対抗出来る強さを持ち得ているのならば、身体の作りも異なるのだろう。

 彩都を脅かす異形の化け物――場所によりと怨魔、悪魔、魔物、様々な呼び方をされているそれらを倒すことが出来るのは、天ノ国から神器を賜った三帝が司る領域の民たちのみだ。

 天ノ国の者たちも怨魔を滅することが出来るが、彼らは彩都の結界を張ることを優先し、さらには国を揺るがすほどの怨魔にのみ干渉し、ほかは三帝が指揮する者たちにまかせている。

 なにか、彩都の民と異なる血の巡りをしていても、おかしいことではない。

「もうこれで、温まったか? 分からんわぁ、湯当たりしてもあれやから、もう出とくか」

 しばらくしてから、桜帝は私の首筋に手を当てると、素人の医者のような動作で脈を探り、立ち上がった。

 そのまま脱衣所で私の服を丁寧に着せていると、棚から一枚神事に使う札を取り出して、私の背中に貼ってくる。

「風、ぶわぁってなるから、気ぃつけや」

「え」

 四方を壁に囲まれているこの場所で、どんな風に気をつければいいのか。爆風かと思案していると、突然髪だけが暴風に襲われた。

「これは、一体……」

「僕の妖術込めた札や。ちゃんとこれで髪乾かしてから使い。自分の……顔とか、呼吸塞がんとこはっつければ、勝手に一番濡れとるとこで風起きるよう、作ったやつやから」

「これは、桜帝様がお作りになられたのですか?」

「せや。ドライヤーやったか? あんなんで乾かすん、邪魔くさいからな」

「そのままでも、髪は乾きますよ」

 わざわざ乾かさずとも、置いておけば勝手に乾く。しかし桜帝の気に触ったらしく、「ちゃんと乾かし、風邪引くやろが」と、私は頬を引っ張られたのだった。


「さー、お花ちゃんとの朝ごはん! 何や詩乃お前そんな攫われた子供みたいな顔で」

 桜帝が嬉々とした顔で笑う。あれから桜帝と共に台所へ向かい、大広間へ朝食を運んだ。気づけば詩乃がやってきて、座卓についていた。

「ただの朝飯で愉快な顔できるかよ」

 詩乃は気怠そうに首を動かしながら、片手で瓦を上げ下げしている。絶え間なく訓練をしているようだ。私は彼から視線を移していく。

 大広間は、だいたい五十畳くらいだろうか。

 鴨居や欄間は桜の文様が彫られ、大きな床の間には刀が飾られていた。紫の柄に、黒の鞘。鞘には所々桜柄。ここでも験担ぎをしているのだろう。

 天ノ国が三帝へと送ったのは、刀、槍、弓だ。桜國へは、刀を贈ったと聞く。

 でも、じっと刀を見ていた私に、桜帝は「ここで朝ごはん食おうな。ん? あの刀嫌なんか? 確かに飯食うとる時にあんな物騒なもん見たないよな。しまうか」と言って刀を天袋にしまったから、あれは違うのだろう。

 それにしても、この屋敷に女中は存在していないのだろうか。この屋敷からは、人の気配がしない。今わかっているのは、桜帝、詩乃、そして──、

「うわあああああ朝だ朝だ朝だぁあああ!! しらすの匂いがするううううう!」

羽望(はもう)、そんなに走っていたら転ぶよ」

「だって最近何一ついいことないじゃない! こんな時こそ! 空元気! なんとかなるなる! 僕はっ! 出来る子っ!」

 ぼんっと跳ねるように飛び出してきたのは、紺髪の青年だ。彼は両腕を広げながら部屋へと入ってきて、軽やかな動きで和室の中を駆け回ったかと思えば、私の右斜め前にどすんと座った。そして、私を見て大きく目を見開き、歯を見せて笑う。

「まぁ可愛い女の子! 僕の名前は羽望と申します。あなたは誰ですか!?」

 装束をまとった紺髪の青年──羽望はかっと目を見開きこちらを向く。私は頭を下げた。

「おはようございます。私の名前は灯結と申します」

「あ、せやな、羽望と慈告(よしつぐ)にもお花ちゃんの紹介せな。この最高にええ女は灯結ちゃん。ただ名前呼んだら焼却炉で弔わなあかんくなるから……せや、姫って呼んだってや」

 桜帝は、私の肩を抱く。すると羽望は、からっと笑った。

「姫様ですねぇ! 承知しました! 俺のことは羽望でもはもくんでもはもーんでも好きに読んでください! 好きなものは世界です! あっちにいるのは慈告でっす! 二人ともとっても元気な男の子です!」

 羽望に指された銀髪の少年は、「よろしくお願いします」と、穏やかな笑みを浮かべた。私もそれにならって挨拶をする。朝も思ったけれど、儚げな印象だ。腰までの長い髪は、肩のあたりを起点にしてただ束ねられ、揺らめくようになびいている。旧時代の書生のような装いをした彼の雄黄の瞳は、どこか虚ろにも感じた。

「わたしの名前は、慈告と申します。慈し告げると書きますが、本質は逆ですので、お忘れなきよう」

「承知しました」

 会話は、これで合っているのだろうか。指南書がないから正しいかわからない。この屋敷にいるのは、桜帝、詩乃、羽望、慈告の四人しかいないのだろうか。

 ならば屋敷の管理は四人だけで? ともすれば、掃除によって対価を支払うことが出来るかもしれない。任務遂行中に掃除婦をしたことがあるから、勝手はなんとなく分かる。

「ねえ詩乃さん! しらすだよ! 元気なしらす! きっと昨日まで生きてたんだよ! 窯に入れられるまでは!」

 羽望の発言に、詩乃が「食い辛くなること言ってんじゃねえよ」と答える。羽望は十八歳、慈告は十四……十二歳ほどに思える。となると詩乃は十九歳ほどだろうか。

「羽望は、何歳ですか?」

「今年で十八歳です! この世に出て十八歳! ぴっちぴちぃ! 慈告は十二歳です! ヨッ長寿!」

 すると桜帝が「こん中じゃ、俺がいっちばん年上やから」と、私の肩を叩く。

「俺が二十三で、そんで詩乃が十九やし。そういや君はいくつや」

「二十です」

 二十。そう二十歳のはずだ。任務のたびに設定が変わるし、年齢について考えることもないせいで、忘れそうになる。誕生日もだ。颪や汎が「おめでとう」と言った回数は六回だから、六歳と答えそうになることもある。

「三才違いかぁ。お花ちゃん年上好き?」

 桜帝に問われ、私は思考を重ねていく。年を重ねている者のほうが、動きが鈍くて殺しやすいが、鍛錬を重ねているなら逆だ。それ以外に年齢に対して、思うことがない。

「すみません。年齢に、好ましいという感情が、ありません」

 答えれば、桜帝は「えぇ」と肩を落とした。

「すみません」

「別にええよ。俺のことずぅっと慰めてくれたら」

「はい」

 頷くと、桜帝は「ええ返事やなぁ、いっつも」と私の肩から手を離す。

「さ、飯やで、ほら、みんな揃っていただきますしよ」

 私は「いただきます」と、手を合わせる。

 組織にいた頃、働きが認められるのは首を取ってくることだけだったけれど、桜帝はなぜか「ええこやな」と、私の頭を撫でた。

「たくさん食べて、元気なってな」

「承知しました」

 私は、目の前にある膳へと視線を向ける。

 水色の縦縞が描かれた茶碗が置いてあり、朝日に輝く白米がこんもりと盛られていた。隣には木のお椀の中で味噌汁が湯気を立てている。

 桜帝は鰹と昆布の合わせ出汁で、葱とわかめ、豆腐を入れたと言っていた。明日は違う具材にするらしい。味噌汁の背後を陣取っているのは、昨日も働いていた七輪で焼いていた鮭だ。

 真っ黒な陶器に、鮭と大根おろしが添えられ、隣の皿にはだしと桜えびを混ぜた卵焼きがあった。

 さらにその隣にあるのは、羽望が「釜茹でしらすだ!」と言っていたから、窯でゆでられたのだろう。箸の近くには焼き海苔と梅干しがあって、切子細工の置物が箸の食い先を支えていた。

「ほら、食うてみ、鮭とご飯いっしょに」
「はい」

 一口ほおばると、頭を撫でられた。温かくて、おいしい。別に任務を達成したわけじゃないのに満たされる心地で、桜帝はそんな私を見てけらけらと笑っていた。やがて羽望が私を指さす。

「その漬物、僕が漬けてるんですよ! おいしいですか? 食べてみてください! おいしいですかっ? ねえねえねえ!」

 胡瓜、茄子の小鉢に、箸をつける。咀嚼すると、ぱりぱりと白米や卵焼きとは違った音がした。なんだか、お腹の空く音だ。塩みだけじゃなく、先程の味噌汁や卵焼きにもあったような、独特の香りがある。またご飯を食べてみると、漬物とご飯が合うことが分かった。

「食べる順番、そうやって自然に気ままにすればええねん。まぁ、昼も夜も違うの作ったるし」

 桜帝は、まるで昨晩の狂気じみた表情が幻であったかのように笑っている。あたたかな食事を前に、私は一緒に働いていた颪と汎の姿を思い出した。

 今頃、二人はどうしているのだろうか。颪は機器開発と運転手を任され、普通の人間とは会わない仕事が多い。汎は情報操作の一環として、歌姫の顔を持っていた。その活躍は彩都だけではなく、ほうぼうを渡ると聞いていたし、星域では舞を、海島では闘技場の中で歌をうたったと聞いている。

 二人は、こういうおいしいものを食べているのだろうか。

 出来れば食べていてほしい。そう願いながら、私は朝食を済ませたのだった。


 生きることは、難しい。

 桜帝の家に住まうようになり、およそ一週間が経ち、日増しに思う。

 今まで組織からは常に指令が出ていたけれど、この屋敷に来てからは自分で考えることの連続だった。任務も自分で見つけなくてはならない。

 そうして何か手伝えることがないか、日によって桜帝の気が変わるかと尋ねていれば、庭の掃き掃除が任されるようになった。

 ただ調理の準備には、参加できていない。お椀運びとお箸、箸置きを運ぶことだけ、渋々承諾されたかたちだ。

 私は石畳にはらはらと舞い散る桜の花びらを、竹箒ですくって一か所へと集めていく。

 どうしたものか考えあぐねていれば、後ろの障子がゆっくりと開き、羽望が軽快な足取りでかけてきた。

 この一週間、羽望は木に登ってみたり、屋根の上に登ったり、忙しい。体を動かしている暇なんてないほどに、動かしている。

「羽望、こんにちは」

「こんにちはっ!」

 すぐに挨拶を返された。彼は私の手元の竹箒を見て、「掃除ですかぁ?」と問いかけてくる。

「はい。花びらを集めています」

「待ってください、今、小さいのを取ってきます! しゅばばっ」

 とんとん、と規則正しい速度で羽望は廊下を歩き、すぐに戻ってきた。両手にそれぞれ小さな箒と塵取りを持ち、草履を履いてこちらへやってきた。

「僕が隅の花びらとりましょうっ!」

「ありがとうございます」

 羽望は、石畳の隙間を小さな箒でこそいでいく。動きは派手なのに、恐ろしいほどきちんと花びらをこそげていた。

「姫様は! 何か嫌になってここに来たんですか?」

 そうして彼は、大きく目を見開いて私を見た。

「嫌になる?」

「はい! 羽望も詩乃も、何かあってここに来たんです! だから、親交を深めるために、貴女に何があったのか、聞きたいなって! 何が嫌だったんですか?」

 私の嫌なこと、ここにきた、きっかけ、任務については言えないけれど、とりあえず婚姻のことだろう。

「御門との婚姻が破談になったことです」

「まぁ大変! 御門さんに、ふられたんだ!」

「ふられた……?」

「好きだったのに、ごめんねされちゃったってことですよ! かわいそう!」

 確かに、私はふられた。

 私は御門の跡取りのことが好きではなかった。御門の理由は、最もだ。私が御門を心から愛することが出来たのなら、ふられずに済んだ。

 頭の中に、颪と汎の姿が浮かぶ。彼らは今、どうしているのだろう。

「あれれ? でも静明様には好かれてるので、ふられたのは良かったのかもしれない……?」

 そう言って、羽望は「おめでとうございます!」と私の背中をばんばん叩いた。

「静明様は、ものすごくかっこいいし強いので、いいことですよきっと、それに、彩都は頑張りたい人向きの場所です! 慈告なんて彩都と合わなくてあんなになっちゃいましたし、姫様はのんびりした桜國向きですよ」

 彩都は確かに、忙しい場所と言われる。

 便利さや発展によって豊かになったが、この彩都は心を失せたと悲嘆するものも多い。そして、そんな彩都を平和に導くため、私は組織に入っていた。

「姫様も元気になるといいですね!」

 羽望の言葉に、私は驚いた。それだと、まるで私が病気のようだ。

「私は元気ですよ」

「それで!?」

 羽望は目を丸くした。私は怪我すらないというのに。しかし、「全然元気じゃないですよ、死んじゃってますよ!」と首をぶるぶる振る。

「元気っていうのは、もっと目が輝いている状態です!」

「では、私は今」

「死体です!」

 きっぱり断言されてしまった。これから先、もう少し──そうだ、汎のように振舞うかと考えていれば、彼は「安心してください!」と満面の笑みを浮かべる。

「規則正しく、ご飯を食べて、寝て、嫌なことはさっと忘れればすぐ元気になりますよ」

「そういうものですか?」

「はい! だって慈告がそうでしたから! 彼は彩都でものすごい人嫌いになったんですけど、この桜國に来て、そこまで人を滅ぼす必要もないと考えるまでに変わったのですよ」

 それは、危険思想ではないだろうか。しかし彼は、「幸せー!」と小躍りしている。

「世情が落ち着いたら、みんなで海島か星域に行きましょう! 海島は文字のごとく海が綺麗な楽園の島と聞きますし、星域は星が綺麗な場所らしいですよ! 占いが盛んらしいです!」

「はい」

 勢いに押され、返事をしてしまった。しかし、桜帝は彩都から東に大きく逸れたこの土地で、外から現れる怨魔を討伐する責務がある。そして、そんな桜帝に追随している羽望、慈告、そして詩乃もまた、その役目を追っているのだろう。

「はやく御門さんじゃなくて、静明さんを好きになれるといいですね!」

 羽望はわざわざ集めた桜の花びらを、ぱらぱらと降らせる。奇怪な行動を観察すれば、「ほら、綺麗!」と笑った。

 好き、その感情は学習したはずだった。好意を伝え、頬を染め、甘えて、媚びる。相手を讃える。完璧に出来ていたはずだった。御門家の家の者も、彼の知人も私が御門の跡取りを愛していると騙されていた。

 御門家の、あの跡取りだけが、「違う」と言った。真実を見通した。私が彼を愛していれば、私は彩都にいたのだろう。そして、組織で任務を遂行していた。

 私は迷いを振り切るように、羽望と掃除をしていたのだった。


 桜帝は、だいたいいつも広間にいる。桜帝の部屋もきちんとあるらしいが、彼は睡眠時にしかそこへ立ち寄らないようだった。

 なのに、掃除用具を片付けに行こうと部屋の前を通れば、桜帝の部屋の障子は少し開いていた。

「羽望とずいぶん話しとったみたいやなぁ。妬けてまうなぁ」

 りん、りんと風鈴の音色が響き、午後の日差しが畳を灼くその部屋は、じっとりと陰鬱な空気が広がっている。その中で桜帝は、座布団を丸め、それを枕にしてくつろいでいる。

「掃除をしていました」

「そか。ならご褒美あげなあかんな」

 桜帝は、そばにあった半紙をめくった。その瞬間、部屋に甘い香りがたちこめる。半紙の下に隠れていたのは、柔らかで澄んだ色をした鉱石だった。

「これは、なんていう鉱石ですか?」

「鉱石違うねん。琥珀糖て名前やで、綺麗やろ。お花ちゃん食べさせとうて、さっき作ってたん」

「琥珀糖……」

 硝子や鉱石を砕いたような欠片たちは、明るい陽射しを避けるよう、日陰へと身を潜めている。なのに、うっすらとした光によって、きらきらと反射していた。断面のグラデーションは、段階的に色味を深めあいながら、混ざっている。紫と水色、淡い桜色。こんなに宝石に近しい見目をしているのに、食べることもできるなんて信じられない。

「どうやって食べるものなんですか。これは、何から出来て……?」

「お砂糖と寒天やで。溶かした奴に色々、花びらとか入れて煮だして作んねん。それを口の中にいれてシャリシャリシャリ〜って食べるものなんよ。でもまだちゃんと乾いてないから、まだ待っとってな」

 もう、完成して見えるけれど、まだらしい。

 ここ最近、桜帝の食事の準備を盗み見て気付いたけれど、料理というものは、かなり手間がかかっている。誰かの研究を盗むように、奪って終わりじゃない。

 一つ一つ工程を経ているようだった。この琥珀糖も、形を作って終わりではない。きちんと形を作って、保管しなくてはならないのだろう。

「お花ちゃん皆とやっていけそう?」

 起き上がった桜帝は、俯きがちに視線だけをこちらに向ける。信心深いものが彫り上げた像に睨まれるような感覚に、肌がひりついた。

「分かりません」

「そうかぁ。まぁ、全員悪いやつやないけど、なんかあったら言ってなぁ」

 間延びした声に、ほっと安堵する。桜帝は正気と狂気が煙のように揺らめいていて、掴めない。

「どうして、私が好きなんですか」

「かわええから。一目見た時、この子のこと嫁にしたい思うたんよ。一目惚れっちゅうやつ? ほんで、こんな冷たそうに笑う女、どうやったら心から笑うんやろ〜って思うて、欲しいなぁ〜ってな」

「容姿が好ましいというだけで、飛び降りようとしたのですか?」

 問いかけると、桜帝は「もともと長生きする理由もないしな、俺が死んでも、まぁ別の奴らがうまくやるやろうし」とけらけら笑って答える。

「それになぁ、俺は、自分の気分で動く。お花ちゃんは可愛いから嫁に欲しいし、それをこっちがせっせ守ってやっとる御門に取られて悔しいから飛び降りなあかんと思う。でも、お花ちゃんが傷つけられたら腹立つし、幸せにしたいなぁと思う。ぜえんぶ俺の正直な気持ちやで」

 つん、と、桜帝は私の頬をつついた。

「でも、今は君の心にも興味ある。服脱ぎだしたりするんは焦ったけど、そのひやーっとしてる顔、乱してやりたいんよ。難攻不落な城のほうが落としがいあるしな」

「落としがい」

「まぁ、お花ちゃんはなあんもせんで、甘やかされたらええから。さっさと俺の愛に溺れてな」

 桜帝は、口角を上げ、「はよこの琥珀糖渇くとええなぁ!」と、陽気な雰囲気を纏い始める。

 彼のくるくると、万華鏡のように移ろう情緒に、惑う。

 桜帝は、今まで接した人間とは、どれも異なっている。説明書もなく、彼と接することはそれこそ薄氷を歩むようなものではないか。

 私は緊迫した気持ちで、虹色に煌めく琥珀糖を眺めたのだった。

◇◇◇

 戦いのない日々は、「退屈」に該当することなのかもしれない。

 よく尾行のときに、同じ任務にあたっていた颪が「このままだと暇すぎて死ぬ」などと言っていたし、汎に関しては「退屈な任務はなるべくしたくないよね!」なんて我儘を繰り返していた。

 二人の言う退屈な任務というのは、監視など動かないことだ。要するに、誰かを倒したりすることのない、平和なもの。

 となると、羽望や慈告と洗濯や掃除をする日々は、状況的に言えば退屈に該当する。なのに不思議と、満たされる思いがあった。

「よっし! 干し終わりですね! おつかれさまでーす!」

 紐や竿で吊るした洗濯物を前に、羽望が大きく伸びをする。すると、詩乃が「おつかれ」と、呟いた。

 桜國に来て、二週間。今日は詩乃とも、「洗濯物干し」をした。詩乃は私と接するときは、強張っている。かといって敵対するような空気もなければ、殺気も感じなかった。

 ただ、詩乃は私に言いたいことがあるようで、様子を窺われていることがありありとわかる。

「何か御用ですか」

 羽望が去っていく頃合いを見計らって問いかければ、「お前、ずっと彩都にいたのか」と、問いかけてくる。

「所用に応じて海島と星域にも行ったことがあります」

「へぇ。お前、人に言えねえ仕事とかしてねえだろうな」

「していましたが、それ以上は言えません」

 組織の仕事は、守秘義務がある。肯定すると、詩乃はぎょっとした後、「機械と話してるみてえ」と、疲労をにじませた。

「お前、慈告を攫ってこいって言われてねえか?」

「いえ、まったく」

 否定すると、詩乃はすんすん鼻を動かす。

「嘘はついてねえな」

「なぜ今匂いを嗅いだのですか」

「俺は生まれつき鼻がいいんだ。嘘の匂いが分かるんだよ」

 嘘の匂いが、わかる。

 他人の殺意を瞬時に感じ取ることと同じだろうか。「なるほど」と返事をすれば、詩乃は怪訝な顔をした。

「どうだ、俺にはすべてお見通しだぞ」

「そうですか」

 あまりにも長い静寂に、このまま去ることに躊躇いが生じた。

 どうしたものかと思っていれば、上から桜帝が降ってきて、そのまま詩乃めがけて落下した。

「あっぶねええええええええええ」

 詩乃が思い切りのけぞって、寸前で桜帝を躱しながら絶叫する。桜帝は「本当に悪いわ。お花ちゃんの匂い嗅いでると思ったら、悪意が出てしまって」と、涼しい顔で立ち上がった。

「悪いなぁ、嘘発見器かけるみたいな真似してしもうて、酷いことしたなぁ。傷ついたやろ」

「いえ」

 特に思うこともなかった。

 酷いこと、傷つくこと。それはいったいどんな言葉だろう。

「酷いこと、傷つく言葉とはどんなものですか」

「俺はお花ちゃんに嫌いって言われたら、泣いてまうかなぁ。人それぞれやけど……まぁ、臭い〜とか、死ね〜とか、つまらんとかはたぶん、どんな人間も平等に殺せる言葉や思うで」

 桜帝の答えを声に出さず復唱して、記憶に留める。その言葉は、口に出さない。やがて詩乃は立ち上がった。

「お前が降ってくるのは俺を傷つけることじゃねえのかよ。衝突で死ぬところだぞ」

「お前なら絶対避けれるやろ。桜國で一番俊敏やんか。それにお花ちゃんと仲良くせえ」

 二人は睨み合っている。誰か人を呼んだほうがいいのかと悩んでいれば、視界の隅に慈告が映った。彼はすいすいと手招きしている。

「桜帝様、少し席を外してもよろしいでしょうか」

「おん。僕も詩乃と話あるから、ああ、屋敷からは出たらあかんで」

 桜帝は詩乃を引きずり、庭を後にしていく。私は二人に背を向け、慈告のもとへ向かったのだった。


「どうしましたか」

 縁側に腰掛ける慈告に声をかけると、「お話があって」と、彼は悠然と微笑んだ。

 私が桜國に来て、慈告と話をしたのは初日だけだ。

 慈告はずっと部屋にいたり、かと思えばどこかで倒れていたりと、あまり会話をしなかった。

 そんな彼について桜帝は、「床にふせとるときは、そっとしたり。ただ風邪ひくから、寒そうやったらなんかかけたって」羽望に聞けば、「午前はそっとしておいてください! 夜は話をしてください!」と言うし、詩乃は、「あいつが自分から彩都について話さねえ限り聞くなよ」と三者三様の指南をもらっている。

 そして今は昼、直近の会話は食事の席で「醤油とってくれませんか?」「承知しました」だけだ。いったいどんな話をすればいいのだろう。

「彩都での話を、お聞きしたいと思って」

 そして、今まさに、詩乃の指南が潰えた。自分から慈告が彩都について語った時について問いかけた時、「そんなもんねえから」と、一刀両断されていたけれど、「そんなもん」が今まさに起きている。

 私は、自分から彩都の単語を出さなければいいだろうと、頷いて肯定だけを示した。

「では、人に言えない仕事をしていたというのは、本当ですか?」

「はい」

 私の返答に、慈告は僅かに安堵してみせる。何がそこまで喜ばしいのだろう。

 遠くでは、鹿威しが定期的に水を受け、区切りを打つように音を鳴らしていた。そのため静寂は避けられているといえど、奇妙な時間には違いない。

「きみは人が死ぬ薬を、持っていますか?」

 慈告の言葉の真意を探る。けれど彼の表情はだいぶ凪いでいて、よくわからない。水面や鏡面を覗くようだ。私は確かに今彼を探っているのに、探られてもいる。謀ることは、悪手だ。

「個人的には持っていません」

「手に入るんですね?」

「はい」

「私に、いただけますか?」

 それまで平坦だった慈告の声に、期待がのった。共鳴するように風が吹き、桜が舞って池の水面を崩している。

「薬は、私のものではなくて、借りてるだけです。そして恐らくですが、個人の自死に提供すると申し入れをしても、許可は下りません」

「服毒用ではないの?」

「国に仇なす者にしか、許されませんので」

 彼は「はぁ」と深く溜息を吐いた。はじめこそ慈告という人物は儚げであると印象づいていたけれど、気質は獲得した要素ではなく、今彼はたまたま声を発せるだけで、死に至ってないだけなのかもしれない。

 そう錯覚してしまうほど、彼からは生気を感じられなかった。

「彩都の人間からは、嫌われてるはずなんだ。それでは駄目かな? 私は、欠陥ばかりだから」

「大勢に嫌われていることは、世界を乱す要素にはなりえません」

 組織は、平和を目指していた。

 その為に一番汚れた者たちになれと私たちに命じた。

 よって、人を殺す機器や薬品の奪取、破壊は命じるが、それらを取り巻く人間は生かしておくよう定められている。祝言の日、私が忍び込んだ研究施設の人間たちも、倒しはしたが殺してはいなかった。

 粛清対象になるのは、別にいる。

「人間は、誰しも間違いながら、傷つけながら生きているそうです。だから、何か間違えたら、そのぶん善行をするか、誰かを助けて生きればいい……と、聞きました」

 前に、颪がそう言っていた。任務外に言っていたことだから、守秘義務ではないだろう。「人ってさ、みんな迷惑かけて生きてんの。助け合いなの。だから凪、お金貸してくんない?」と、彼は私に借金の申し入れをしてきた。だからこそ、悪意を持って間違いを犯し、人から搾取して他者から容認されようとする者と、自分たちは戦わなきゃいけないとも言っていた。

「お金貸してくんない?」の後に続いた言葉は、汎も同意したように思う。

 慈告は、俯きがちに「君もそう思う?」と問いかけてきた。

「はい、慈告は、死ぬ必要なんてどこにもないと思います。生死は慈告の自由ですが、死ぬべきではないでしょう。」

「本当に? 私のこと、何も知らないのに?」

「大丈夫でしょう」

 慈告の名は、組織が公開していた排除対象のリストにない。私は頷いた。慈告は、「そっか」と、縁側で足をぶらつかせたのだった。

◆◆◆

「はぁー綺麗やなぁ! ええ天気! お花ちゃんとのデート日和やわぁ」

 大きく伸びをしながら、桜帝が下駄を鳴らしていく。桜帝に連れられ、私と詩乃は桜國の中心街へ出ることとなった。

 昨日の夜まで雨が降っていたからか、広く伸びていく石畳には、空を写す水鏡がてんてんとしている。

「ほんまに、君は何着ても似合うしなぁ!」

 桜帝が口角を上げ、空から私に視線を向ける。

 髪の毛は、桜帝が望むまま梳かしてもらった。そして私は、ワンピースの上から、深海へと潜るような色のボレロを羽織っている。

 ほかは真っ白な靴下に、編み上げブーツだ。走りやすいし、殺しやすい。

 一方桜帝は着物の上から淡桃の羽織を着て、先程から嬉々として私の手を引いていた。後ろには、不満げな詩乃が腕を組んで気怠げに歩いている。

「どや、お花ちゃん彩都の街並みは! 桜がいっぱいあって綺麗やろ、」

 黒鳥居をいくつもくぐって現れた桜國の街並みは、建物や電灯が並ぶ彩都の街並みとは異なり、静かな色味の木造家屋が並んでいた。車通りは少ないまでも、鮮やかなのれんや、旗が揺れて活気を感じさせていた。

 中でも奇妙なのは、なんてこと無い木の壁に描かれた花や鶴が、動いて見えることだ。花びらの色すべてが異なる芍薬に、羽から粒子を吹かせる鶴。ふいに視線を逸らせば、細かな紙吹雪が桜とともに散っている。

 けれど石畳を撫でているのは桜の花びらだけで、紙吹雪は落ちていない。じっと眺めていると、ふいに石畳が透け、床の向こうに金魚や鯉が泳ぎ始めた。石畳のそこは、なぜか紺青色をして、さらに鏡面となって私を写している。

「ここぜえんぶに、僕が怨魔よけしとるんやで」

 桜帝はそう言ってつま先で石畳を叩いた。すると艶やかに色づけされた波紋が、石畳だけではなく木造の家々にも流れていく。

「この幻影、ですか?」

「おん。ただかけただけじゃつまらんからな。どこが守られとるか見えとるほうが安心やろ。それに、大通りの商いは派手なほうがええ。パーンと花火でもやってやりたいけどな、花火は海島の専売特許やから」

「すべて?」

「怨魔くるから札貼っとけやって渡しても、何か物騒で縁起悪いやろ。せやから、少しでも綺麗にしたろ〜って」

 綺麗。汎は皆綺麗な存在で、大好きだから女の子が泣かない世界を作りたいと言っていた。他にも、金貨が並ぶ光景も綺麗と言っていた。

 私は綺麗だと、何かを見て思ったことはない。

 なのに。

 なんとなく舞い散る彩りの紙吹雪や、空を飛び交う極彩色の魚たちを見ていると、心臓の奥が震えるような感覚に襲われた。

「き、れい?」

「お? お花ちゃん気にいったん? これからもっと綺麗なもの一杯見せたるからな」

「ありがとうございます」

「ええこ」

 桜帝に腕を引かれて、私は桜國の街並みを歩いていく。今まで色が沢山あろうと何とも思わなかったのに、不思議と浮き立つ気持ちがしていた。

◆◆◆

「ふーむ」

 桜帝が、どこから取り出したか分からない、鈴飾りのついた扇子片手に、私の腕を値踏みする瞳でじっくりと眺めていく。景色を眺めながら歩いて、化粧品や髪を洗うもの、石鹸を売る店に来たけれど、桜帝は私の腕に少しずつ試し塗りをして、反応が出るのをじっと待っていた。

「全部出えへんな。全部買お、日替わりにしたろ」

 そうして桜帝が店員を呼びつけようとした。しかしそれを詩乃が制止する。

「全部買ったら使い終わる前に悪くなるだろうが」

「なんやねん詩乃、お前には関係ないやろ」

「この女だけ使うにしたら、余計使いきれないだろ」

 詩乃の言うとおりだ。今朝桜帝が使っていた量と、今桜帝が買おうとしている総量を計算すると、消費に三年以上はかかってしまう。さらに品物の裏箱を見れば、使用期限は半年以内と記されていた。計算が合わない。

「じゃあ、お花ちゃん好きな匂い今決めれる?」

「はい。尽力します」

「仕事みたいな返事やなぁ」

 桜帝は肩を落とした。どんな香りがいいか選ぼうとして、試し用の匂いを嗅いでいくと、「俺はお花ちゃんに合うやつさがそ〜」と、桜帝も色々と匂いを嗅ぎはじめた。

「檜……緑茶に柚子に薔薇なんかもなんなぁ。どの匂いが好き? 今まで生きてて、なんかこの匂い好きってある? 雨上がりとか?、夕焼けとか、抽象的なんでもええよ」

「……朝食べた、卵焼きの匂い、好きです」

「それは〜……鰹……あと昆布やんな。あとは桜えびか。なにお花ちゃん、俺のご飯大好きになってもうたの?」

「はい」

 返事をすると、桜帝は途端に黙って俯いた。何か変な答え方をしたのかと様子を窺えば、耳を赤く染めている。

「持病ですか?」

「ちゃうし、お花ちゃんのせいやし。あー、苦し」

 そうやって口元を隠す彼に、店で買い物をする女性の客人たちは皆見惚れていた。桜帝が前を通るたび、ひそひそと声を潜めて会話をしている。

「あれ、あそこにいるのは桜國様だわ」

「素敵……隣を歩いているのは誰かしら」

「珍しい。女性と歩かれているなんて」

 思えば、海帝や星帝には婚約者がいるけれど、桜帝についてそういった話を聞くことは殆どなかった。

 桜帝は組織と繋がりがあるのかもしれない。組織はこの国の安寧を保つための組織であり、いわば怨魔から彩都を守る桜帝とは、志を同じくしているはずだ。

 もしかして、組織の人間は何らかの想いがあり、桜帝も何らかの目的があって私を保護している形なのだろうか。 ともすれば、あの破談の会場で桜帝が名乗りを上げたことに納得がいく。

「なあによそ見しとるん? お花ちゃん。僕妬いてしまうんやけど、ほかの男のこと考えとったら、その男の首、これではねるで」

 桜帝はさしていた刀に視線をやった。「こんな物騒なもんいらんよな!」と、雑に扱われていた因縁の代物だけれど、今は丁寧に桜帝を守っている。

「桜帝のことを考えていました」

「ほんとう? 嘘ついたら、僕泣いてしまうけど?」

「本当です」

 じい、と巣食わんばかりに見つめられる。そのまま見つめていると、詩乃が「さっさと選べよ」と、呆れた様子で溜息を吐いた。

「好きな匂い……詩乃は、好きな匂いありますか?」

「なんでこの流れで俺に聞くんだよ。俺のこと殺す気かよ」

 何か、最適な答えはないだろうかと意見を求めたつもりだったけど、駄目だったらしい。やがて私は桜帝にひとつひとつ確認される形で、品物を定めたのだった。

◇◇◇

「じゃあ、僕は金払ってくるから、お花ちゃんは詩乃と屋敷戻り」

 一通り品物を選び終えると、そういって桜帝はのんびりと手を振ってくる。

「荷物運びは得意です」

 申し出ると、桜帝は首を横にふる。

「あかんよ。お花ちゃんは堕落せなあかん。ひょろひょろやし、そのうち桜に攫われてしまいそうやもん。それに、屋敷に羽望と慈告の二人だけやから、戻っとき」

「承知しました」

 護衛は必要ないのだろうかと不安になるけれど、詩乃はさっさと行ってしまった。桜帝の命に従うべきかと、私は詩乃の後を付いて、桜の大通りを抜けていく。

 桜國の町は、不思議だ。桜帝の夢のようなまやかしもあれど、建物自体の明度が彩都とは異なって見える。

 彩都の街並みは、鉄やコンクリート、硝子の建物に囲まれ、景色全体が青みがかっている。一方の桜國は、彩都の同じ素材であるはずの木板すら、淡い桜色を帯びていた。さらに、汎が好んでいた「ビビッドピンク」なる蛍光色が、ところかしこに舞っている。

 桜帝の幻術のほかに、桜に囲まれた立地や天候もあるのだろうか。彩都は天候は雨や曇りが多く、「久遠の夜」なんて別名もあるくらいだ。

 そういえば、颪が「雪」についての言い伝えを、話していたような。天ノ国、彩都、桜國、海島、星域にわたる五つの境界のどこも持ちえない唯一の天候、そして、幻の理想郷。

 雪が降る場所が、その理想郷になると言われ、その主は人を浚うと──、

「お前さ」

 歩いていると、詩乃がこちらに振り返った。

「何でしょうか」

「やっぱ、堅気のもんじゃねえよな。もしかしたら軍の上のほうで、機密保持のためになんも言わねえとか、思ってたけど。動きが全然違う」

 私は、足を止めた。彼は鼻を動かさず、金の瞳でこちらを見据えていた。

「そんで、確かにお前の言う通り、お前が俺らを殺しにかかる機会はいつでもあるのに、お前はそれをしなかった。敵にも思えない。お前は桜國に、何しに来たんだ。お前は何者だ」

 組織を解任されてはいるものの、組織の内情について話をすべきではない。かといって組織を外れた私は、いったい何者なのだろうか。

「……よくわかりません」

「じゃあ、なんでここにいるんだよ。あいつが無理くり連れてきたってんなら、俺が出してやる」

「何故?」

「桜國の平和を守るのが、俺が生きてる理由だからだ。俺は静明の親父さんと、約束があんだよ」

 ひゅっと、詩乃と私の間に風が吹いた。それを合図にするかのように、桜の花びらが流れていく。

 私は一拍置いた後、詩乃の隣へと隠し持っていた針を投げた。詩乃が私の動きに反応し、腰に据えていた打刀に手をかけると同時に、彼の背後にいた刺客が倒れる。

「こいつっ……!」

 刺客を見た詩乃は驚き、愕然とした。私は刺客を押さえ、確認していく彼を淡々と見つめ、今までの自分の行動を思考の中で再現する。

 確かに、私は考えていなかった。

 私がいることで、桜帝やこの明媚な国の人々が危険に晒される可能性を。

「その通りです」

 倒れた刺客の顔を確認するものの、組織にいた人間ではない。

 もしかすると、御門家の手の者かもしれない。御門と無関係になりながらも、少なからずあの家を知る私の存在は、ひどく都合が悪い。

 秘密処理のため、不要になった書類はすぐに燃やすように、不要になった私を、消しに来たともとれる。。

「すみません。申し訳ないのですが、先ほどのご提案について、お願いしてもよろしいでしょうか?」

 ともすれば、すぐにこの桜國を発ったほうがいい。しかし、詩乃は刺客の顔を覗き込んで、動きを止めてしまっている。

「詩乃?」

「お前の力が必要になるかもしれない」

「はい?」

「こいつ、慈告を殺しにきてる」

 詩乃は手のひらを握りしめて、刺客の胸元にある刺青を私に見せる。そこには、奇怪な数字が描かれていた。

「なぜ慈告は狙われているのですか。大罪人なのですか?」

 問いかけると、詩乃は「直球すぎんだろ」と、眉間にしわを寄せた。

 私は、勝手にすたすた歩いていく詩乃を追いかけていく。桜帝が「詩乃と帰れ」と命じた以上、背くわけにはいかない。

「慈告は、いったい何なんですか」

「お前本当に直球で聞いてくんじゃねえよ、もっと色々、来て早々は踏み込みづらいことだろこういうの」

 直球すぎる。踏み込みづらいこと、今までの会話の注文で求められたことがないことだ。私は暫く黙った末に、「慈告が狙われているのに、そんなことを聞いている場合ですか」と問いかける。

「ほんっとに、機械と話してるみてえ」 

「それよりも、慈告についてです。なぜ狙われているのか、狙っているのは誰かお聞かせ願えますか。私の力が、必要なのでは?」

「……あいつは、天ノ国の結界に作用する力を持ってる」

 苦々しく、詩乃は拳を握り締める。

「あいつは元々、彩都の天送りだったんだよ」

 天送り──三つの境界の出身の中で秀でた人間は、天ノ国と彩都の連絡役になったり、その間を行き交う役目を与えられる。とても名誉のあることだ。力がなくてはできない。

「あいつ、結界が張れるんだ。天ノ国の末端にも届くんじゃないかってくらい。俺より妖力も、本当はある。でも、心がやられて、結界崩しになっちまって……」

「結界崩し?」

「結界を張るんじゃなくて、壊すようになっちまった。本人が望まないまま。静明ですら手こずるくらいだから、人間同士の──金とか保管してる結界なんかは、簡単に破れちまう」

 なるほど、つまり慈告がいれば、彩都どころかこの世界どこでも、好きなだけ私利私欲のまま盗みに入れるということだ。

「よくあるんですか、刺客に狙われることは」

「まぁな。ただいつもは怨魔を連れてやってくるから、居場所もすぐわかってたんだ。だが今回は、どこにも匂いがなくて……」

 私は、「なら、なおさら見つけやすいですね」と、倒れた刺客を引っ張り上げた。

「そんなこと出来るのかよ」

「出来ますよ。嗅覚に過敏な貴方がいれば、なおさら」

 そして私はそのまま刺客を詩乃に差し出したのだった。

「秘密裏に人を狙う任務の時は、たいてい現場に痕跡を残さぬよう努めるものです」

 私は刺客を自警団に引き渡した後、詩乃と桜國の町を駆けていた。詩乃は「当たり前だろ、だから、追えなかったんだ」と顔を歪めた。

「こういう人間は、匂いを消すよう努めている。さらに効き目はそう長くない。よって、刺客が待機する場所、もしくは集合場所となっているところは定期的に匂いを消さなくてはならないのです」

「じゃあ、俺じゃ分からねえじゃねえか!」

 詩乃は、「ふざけんじゃねえ」と怒り出す。私は彼の鼻を指さした。

「よって、最も香りのしない場所こそが、この刺客を送り込む、貴方の言う悪い組織ということですよ。あとは、この桜國中を虱潰しに探していくことにはなりますが、どう考えても慈告を狙った刺客は稚拙です。大規模な組織によるものではない。むしろ、委託されたように思います。おそらく、この近くに拠点を構え、長期戦を見込んでいるのでしょう。さっきのあれは、様子見だったんだと思います」

「確かに、妖力がねえせえで、気配がまったく分からなかったな」

 詩乃はすんすんと鼻を動かす。

「妖力がないと、気配が分からないのですか」

 桜帝は、私の居場所を分かっているようだった。それは、彩都の人間ではなしえない幻術の能力によるものかと思ったけれど、違う……?

「当たり前だろ。俺たちは怨魔に神経を研ぎ澄ましてる。ありんこの扱いの人間の殺気なんて分からねえよ」

「ではなぜ私の嘘の匂いは分かったのですか」

「ガキの頃は無差別に嗅いじまってたけど、こんだけ匂いが溢れかえった世界で生きるのは無理があるだろ。気が狂う前に、俺は静明の親父様に訓練してもらって、制御できるようにしたんだ」

 桜帝の、父。思えば桜帝の両親はどうしているのだろう。あの屋敷には、桜帝、詩乃、羽望、慈告の香りしかしない。

「今、桜帝のご家族は、生きていますか」

「死んでる。怨魔の襲撃にあって」

「では、屋敷には桜帝、詩乃、羽望、慈告の四人だけが?」

「ああ。兵は別に置いてる。静明は、誰も信じないから」

 桜帝は、誰も信じない。だから信頼のおける三人をそばに置き、兵を遠ざけている?

 前に桜帝は、詩乃が羽望と慈告に世話をされたと言っていた。しかし、詩乃は桜帝の父親を知っている。となると年代に矛盾が生じる気がしてならない。


「詩乃は、この桜國から一度出たことがあるんですね」

「まあな」

「ごめんなさい。私はてっきり──」

 そう言いかけて口をつぐむ。詩乃が、不自然に足を止めた。

「どうしました」

「あそこだ。なんも匂いがしねえ場所は」

 詩乃はそっと、季節外れの椿が囲う霊園を示した。そこには霊園を管理するための小屋がある。

「あそこを待機場所か何かにしているようですね。では」

 私が向かおうとすると、詩乃が眉間にしわを寄せた。

「はぁっ!? なんだよではって、正気かお前」

「はい」

 詩乃は、桜帝を呼ぶ素振りはまるでなかった。大事にしたくないから、もしくは報告に値するものではないと思っていたが、そうではないらしい。「のこのこ行って捕まったらどうするんだよ! あぶねえだろ!」と、私を制止する。

「それも手としてありますね。本来敵の手に渡ってはならないのは慈告でしょう。しかしここには、私と貴方がいます。貴方は怨魔を滅ぼし桜帝を守る役目がありますが、私は本来この桜國の平和に不要な存在ですから」

「お前それ本気で言ってんのかよ」

「はい」

 もう詩乃に案内される必要はない。私はそばにあった木に登り、木を伝って霊園の小屋へと向かう。

 窓から様子を伺えば、やはり慈告を拉致することについての相談をしていた。

「じゃあ、今夜、桜國に火をつけ、騒ぎを起こして屋敷に入るって算段でいいか」

「ああ。今は出かけてるみたいで、散り散りになってる。狙い時だが街中は避けたい」

 今、羽望も慈告も、屋敷にいることを知らないのだろう。つまり、屋敷の中は探られていないということだ。

 屋敷を少数のみで運営することに、勝手に懸念を覚えていたけれど、こういう時に役立つのか。

 そして火で街が焼かれるということは、死人が出るということだ。組織を抜けてもなお、私は平和に貢献できている。安堵を覚えて、ふいになぜ自分が平和のために活動をしているのか、疑問がわいた。

 そうだ。私は、組織に命じられて平和を守ろうとしたんだった。

 しかし今、私は組織を抜けている。それでもなお、こうして行動しているのはなぜだろうと考えて、桜帝の顔が思い浮かぶ。

『全部俺の気分や、俺はしたいかしたくないかで動くんや』

 つまり、私はいま、助けたいと思っているのだろう。

 そう考えると、不思議と腕に力がこもった。

「それにしても、あいつら遅えなぁ」

 そう言って、中の男が窓に最大限近づくのを待ってから、私は雨どいに手をかけ窓を蹴破りながら男を倒し、室内に入った。中にいたのは、八名、全員男だ。彩都製の銃を構えているが、実際に撃ったことはないのだろう。

「誰だお前は!」

「桜國の手下か?」

「そんなところです」

 答えながら、私は銃を叩き落す。手が震えているし、構え方があやふやだ。

 暴発されたら危険だと、手前の男たちから順に打ち倒していく。

 驚き隙ができた隣の男の首を突いて、勢いをつけながら後ろにいた男の膝を折る。

 最も近くにいた男を無視をして、そばにいた男の腕をとり、二人まとめて壁へと叩きつけた。

「こいつなんなんだよ! おい、とにかく撃て!」

「でも! 流れ弾が!」

「全部こいつに当たればいい話だろ!」

 男たちは惑い、天井や床、壁にむやみに撃ちながら襲い掛かってくる。

 一週間、いや二週間は戦いから身を離してしまっていたけれど、まだまだ身体は訛っていない。

「おい! 大丈夫か! 勝手に突っ走って行きやがって!」

 そのまま残り四人も打ち倒そうとするも、詩乃が正面扉を開き入ってきてしまった。

 人を守る戦い方は、したことがない。

 そして敵の銃も素人の域を出ていないとはいえ、体格も大きい詩乃は、撃ちどころが多い。私は詩乃の盾代わりに男を放り投げるも、詩乃はきちんと弾丸をかわしていた。

「何驚いてんだよ」

「すみません。基準が自分より強いか弱いかしかないので」

「てめえ俺が雑魚って言いたいのか!」

「いえ」

 そんなことは言っていない。ただ、詩乃の剣さばきは、無理やり桜國の流派に合わせているから、人間相手の実戦を懸念しただけだ。

 次々現れる男たちを倒していると、ふいに一人妙な動きをしている人間を見つけた。その男は自分の口に銃口を咥える。「てめえ何してんだ!」

 詩乃の怒鳴り声をもろともせず、男は自分を撃った。すると不思議なことに、人型だったはずのそれは、黒いヘドロ状の大きな物体に姿を変え、かと思えば犬に似た巨獣へと姿を変える。

 これが、怨魔の姿……。怨魔はやがて小屋の屋根すら簡単に貫いて、大地を揺るがすほどの咆哮を上げ始めた。

 自分の力ではとうてい勝てないと、瞬時に悟る。すると詩乃は「クソっ」と、打刀の構えを変えた。

「俺が押さえる。お前は静明呼んで来い!」

「はいっ」

 私は後ろに大きく飛び、桜帝を呼ぼうとする。しかしそれより先に、詩乃が吹き飛ばされた。

「クソが! なんだこいつ! いつもの感じじゃねえぞ」

「いつもは倒せているのですか。かなり苦戦してるようですが」

「当たり前だろ!」

 詩乃は打刀を構え、斬撃を浴びせるけれど、効いてはいるものの致命傷は与えきれていない。挙句無理な切り込みによって、壁へと吹き飛ばされた。巨獣は周りに倒れていた人間を喰らい始め、その身をさらに大きくさせていく。


「人間を喰らい、強くなっている……」

 私は壁伝いに、瓦礫に飲み込まれた詩乃の救出へ向かった。

 彼は木の板や屋根の瓦に腕を巻き込まれている。私を見た詩乃は、怒鳴りつけてきた。

「馬鹿逃げろよ! いいからお前は桜帝を呼びに行け!」

「呼びに行くとしても、これを外さないとあなたは死ぬでしょう」

 命の優先順位は、詩乃のほうが高い。

 瓦礫を外しながら振り返ると、怨魔はすぐそこまで迫っていた。私は怨魔に背を向けているけれど、詩乃は怨魔を正面に見ている形だからか、「逃げろって言ってんだろ!」と、声を荒げっぱなしだ。

「お前も死ぬぞ!」

「食べられないように死にますよ。あの化け物は、人を喰らって力を得ているようなので」

「そういうんじゃなくて!」

「それに、あそこまで大きい怨魔ならば、桜帝もすぐに気づいてやってくるはずです」

 私は、最後の瓦礫を崩しにかかった。

 しかし、怨魔はすぐ迫ってきている。どうにか詩乃を助け出そうとしていると、リン……と神楽鈴が響いた。

「確かに、気付くけどなぁ、危ない思ったら逃げてほしいんよ」

 桜吹雪を伴った豪風とともに、迫りくる怨魔の腕が一太刀で切り落とされる。あまりに華麗なその動きに目を奪われていると、艶やかな極彩色の花びらを纏い私の目の前に立った桜帝は、目の前の惨状とは裏腹に悲しげだった。「はぁ、中々切りごたえあるわぁ。もう六人くらい喰ろうたんか」

 桜帝は気だるげに持っている刀を払う。返り血にも似た黒い液体は、桜の花びらへと姿を変えた。その様子をじっと見つめていると、桜帝は「見たことないんか?」と、目を細める。

「あんなぁ、天ノ国からのもらいもんの武器で切ったもんは、切る時なんかに変わるんよ。海島の槍で突き殺せば水に還る。星域の弓で射れば星の瞬きになって終われるんや。そんで、桜國の刀は──今から見せたるわ」

 そう言って、桜帝は怨魔よりもずっと高く飛び上がった。怨魔は背中からいくつもの手をはやして、桜帝に襲い掛かるが、桜帝の刀さばきによって全てを花びらへ変えてしまう。

「食われたもんも、この桜國の一部になって、安らかにねんねしぃ」

 桜帝は怨魔の頭部へと、思い切り刀を突き刺した。そのまま地面へと縫い付けるように勢いをつけ、おどろおどろしかった怨魔は一瞬にして花びらへと姿を変える。

 先ほどまで、人を喰らっていた化け物が、花びらになった。残酷なはずの景色なのに、一面に桜の絨毯が広がり、真っ赤な夕焼けの中、花びらが静かに舞降る光景から目が離せない。一方桜帝は、刀を払いながら、鞘へと収め、詩乃を見やった。

「はーぁ、詩乃お前、お花ちゃんと戦って弱なったんやない?」

「違う! お前も切ってみて分かっただろ。こいつ、いつもの怨魔じゃない。それに、人間が自分のこと撃って変わった怨魔なんだよ」

「ほあ。人が怨魔なぁ……人に化ける怨魔は聞いたことあるけど、人が死んで怨魔なるんは聞いたことないわ」

 そう言って、桜帝は花びらの山を見やる。

「まるで、雪みたいやなぁ」

 雪……。空から冷たい、「雪」と呼ばれるものが降る場所があるらしい。凍った雨であるそれが、しんしんと降って積もる場所、雪郷と呼ばれる、夢の理想郷。

 言い伝えのようなもので、汎は「浪漫がある」と言っていた。

 日々移ろい、場所を変えていく雪郷は、雪とともにその訪れを報せる。さらに、雪を伴い銀髪で、軍服を身にまとったそれはそれは美しい男が現れ、雪が見えたものに「お前は私の妹か」と問うて、否定されれば姿を眩ますそうだ。

 肯定すればどうなるか、それは誰にも分からない。汎は「連れていかれる」「神隠しにあう」と言っていた。

 桜帝は、雪を知っている? 注意深く次の言葉を待っていれば、彼はこちらへ振り返り、顔を歪めた。

「お花ちゃん、なんかあったらすぐ大きい声出せ言うたやんか。詩乃んこと助けてくれてありがとうやけど、お花ちゃん自身も『助けて』をちゃんと覚えなあかんよ」

「承知しました」

「おん。あと承知しましたもなんか他人行儀で嫌やから、次からなしな」

「……はい」

 返事をすると、桜帝は今度は私の腕や足を見始めた。

「で、どっか怪我ない? お花ちゃんなんか怪我の程度がおかしくても言わなそうで怖いわ。医者行こか?」

「いえ、その必要はありません。攻撃はすべて受け流しましたので」

「受け流すほど戦い慣れとるのも嫌やな。それまで傷ついてきたってことやろ」

 桜帝は、とても不機嫌な様子だ。良くしてもらったのに、どうしたらいいか分からない。

「僕、お花ちゃん強いの、嫌やわ。すっごい嫌」

 桜帝も、強いと聞く。ということは彼もそれだけ訓練をこなしてきたということだ。それに私は人間しか倒せないけど、桜帝は化け物を相手にしている。人間との戦闘より、損傷はずっと深くなるだろう。

「桜帝様も、怨魔との闘いで傷ついているのでは」

「僕めっちゃ強いから、無傷やで。僕は子供のころから強いんや。いつだって、いっとうな」

 彼は暗い声色で、ぼそりと呟いた。桜帝の幼少期について、聞いたことがない。尋ねようとする前に、彼は「せや、こいつらなんやねん」と、残った人間を指し、私はそれ以上深く尋ねることができぬまま、状況説明を始めたのだった。

 桜帝に事情を説明し、詩乃とともに三人で屋敷へ戻ることとなった。すると──、

「ご迷惑をおかけして、すみません」

 慈告は今にも切腹しそうな顔で、玄関に立っていた。羽望は「大丈夫だって! 狙われてるのはみんな一緒! 人は! いつか! 死ぬ!」と、明るくふるまっている。

「羽望、お前黙っとけって言っただろ」
「どうしてですか? だって、後から知ったほうが悲しくなりませんか?」 

 詩乃と羽望の問答の意味が分からないでいると、桜帝が「羽望はなぁ、視野が広いんよ。外のことやったらぜえんぶ見れるねん」と私に耳打ちした。

「外が、見れる?」

「彩都にあれあるやろ、監視するカメラ、あれと同じや。ただ機械やのうて見るんは羽望やから、見続けたら脳がな、許容範囲超えて潰れんねん。局所やし、怨魔がらみやないと見れんようなっとるけどな」

 つまり、詩乃は、嗅覚が、羽望は視覚が人と異なってるということだ。となると、桜帝は私の気配をすぐ察知していたし、聴覚が──?

 私は桜帝を見ると、「そんなんないで」と心を読むように否定された。

「そんな特殊な能力が桜國だけ集中してたらえらいことなるやろ? 詩乃は例外として、天絡みでこっち住め言われとんのは羽望だけや。聴覚が優れとるのは海帝に仕えとるし。ほんとは後宮もちの星域におったほうがええ気もするけど」

 海帝──見おぼえがある。誰よりも明るいオレンジの髪に、エメラルドグリーンの瞳に日焼けした肌を持ち、島ほどの神亀を従えるという、海島の王……。

 そして星帝は、赤褐色の髪をした怜悧な美丈夫で、三帝のうち最も知略に長け、眼鏡ごしの金の心眼により、万物を見通すと聞いた。

「このたびは、僕のためにすみません……姫様にも、ご迷惑をおかけしてしまい」

 慈告は死にそうな顔で頭を下げる。私は首を横に振った。

「いえ、私は戦うことが得意だと再認識しました。ありがとうございます」

 私は、この桜國に来て分かったことがある。それは、この手はどうあったって、人を倒すものであるということだ。

 家事や人らしき暮らしを学んでみて、苦手ではないが得意ではないと感じた。しかし、慈告を狙う者たちを打倒している瞬間は、確かに人の役に立てていると思えた。私は肩を落とす慈告にそっと触れる。

「もし死にたい理由が、自分を襲ってくる人間にあるのなら安心してください。私は人間相手ならそこそこ戦えるので、慈告を殺しに来る人間を、ねじ伏せることができます」

 私が打ち倒そうとしていた人間は、そもそも自らが人を捕らえようとしているのに、私に向かって怯えていた。いつもそうだ。私を前にする人間たちは怯える。まれに好戦的な者もいるけれど、颪いわくそういう者は「変わっている」らしいから、きっと多い考え方ではないのだろう。

 だから多分、慈告は怖いのだと思う。自分を狙う人間が多いことに怯え、その恐怖から逃れようと死にたいのかもしれない。

「慈告は、人間が怖いかもしれませんが、貴方の前にいる人間は、心臓を突くか、首を切れば死にますよ」

 そう言うと、慈告は顔を上げた。目を丸くしている。一方桜帝と詩乃は顔を見合わせ、慈告と異なる反応を示していた。

「銃で撃っても死にます。機械と異なり、修理もろくに出来ません。もとから欠陥だらけです」

 慈告は前に、自分を完璧ではないと言った。けれどそもそも、人間はみな等しく完璧ではない。当然の事実だ。そんなことをなぜ慈告が理由にしたか、きっとそれは、自分が狙われていることを死の理由にすると、桜帝や詩乃、羽望が心配するからだろう。

「欠陥の無い人間を、殺せない人間を私は見たことがありません。欠陥なき人間は、珍しいものとして回収処理がされるはずです」

 汎は、「私は完璧可愛いだから、百年後の博物館で銅像になってるかも」と言っていた。なぜ可愛いと博物館で銅像にされるのか聞けば、彼女曰く、珍しいものは銅像になったり、貴重な品として博物館に収蔵されるらしい。

 欠陥なき人間。殺せぬ人間。

 それは組織が求めるものだ。殺せぬ人間ならば、刺客として有用なのだから。実際、機械人間の研究を組織はしていた様子だった。

「今、国は大規模な人間の回収を行っていません。つまり、今ここにいる人間は必ず何かしらの欠陥を抱えているということです。集める必要ない、展示や保存が不要な人々であふれているということです」

 戦うとき最も大切なことは、生への執着を断ち切り、勝利へ手を伸ばすことだ。組織に入っているわけでもないのに、それが出来ているということは、強さへの伸びしろも感じる。

 死ぬべきではないと繰り返すと、慈告ははらりと涙を流した。

「ごめんなさい、わたしは、本当は死にたくない。でも、死にたいんだ。皆に忘れられたいのに、気付いていてほしいって、思ってしまう。助けてと、思ってしまう」

 慈告の死にたくない気持ちは分かった。けれど、忘れられたいのに気づいてという気持ちは、理解できない。

「すみません。その意味はよく分かりませ──」
「おい」

 詩乃に制され、私は言葉を止めた。慈告は「生きてて、平気?」と、また同じ質問を投げかけてきた。

「はい」
「そっか。そっか……桜帝様、羽望、詩乃、そして、姫様、ありがとうございます」

 今度は、慈告はうつむくことなく私たちを見た。その表情はどこかすっきりとしていて、先ほどの躊躇いは見えなかった。


 私たちが出かけている間に、慈告と羽望は、料理や飾り付けをしていたらしい。

 玄関で立ち往生をしたあと、私達は慈告と羽望によって広間に通された。食卓には天ぷら、いなり寿司、刺し身に具沢山の煮しめ、海産物を焼いて豪快に盛り付けたものなど、およそ祝いとしか思えない品々がのっていた。

「僕たちが! 姫様の歓迎のために作ったんです!! ぜひ食べてください! お祝い! お祝い!」

 羽望が私を押して座らせる。ひし形で作られた、ご飯を型抜きしたであろうお寿司には、「ようこそ」と切り抜いたのりで飾られていた。

「彩都じゃどうか知らんけど、桜國ではなぁ、こんなふうに祝うんよ。もうお花ちゃん桜國の一員やから、彩都には帰られへんし、仲ようやろうなぁ」

 私の隣に座った桜帝は、食卓にあった小皿を取り、少しずつ食べ物をよそっていって渡してくる。

 赤々とした海老に羽衣を纏わせたような天ぷらに、ふっくらとした焼きほたてに、あわび、小さなグラスに入った茶碗蒸しには、しいたけや銀杏がうっすらと浮かんでいた。

「松風焼きもあるで。良かったなぁ」
「ああ、それ私が作って」
「慈告が……」

 組織にでも入っていない限り、子供が料理をすることは少ないと聞く。十二歳の慈告はてっきり羽望の補助をしていたとばかり思っていた。

「慈告は幼いのに立派ですね」
「そんなことないですよ」

 声をかけると、慈告は首を横に振った。松風焼きは、鳥のひき肉を葱やしいたけなど、野菜や茸の類と練り上げる、手間のかかる料理だ。

 それに、今食卓に並んでいるのは、色のついた胡麻で柄までつけられている。それに、箸休めであろう漬物ですら、串に刺さって飾られていた。普通、こんな料理はただの人間の出入り程度では作られるものではない。

「立派なことです」

 いなり寿司の上には、いくらや錦糸卵、野菜の切り細工で飾られている。そこまでの手間をかけられるべき存在ではない。本来の私には、不必要なものだ。今日桜帝が私に買った綺羅びやかな反物も、身体を清める品物の数々も、人を倒すことには使わないのだから。

 ただ不思議と、私が生きていく上で、これらのものが不要だと伝えることは憚られる気がした。享受すべきではない、無駄になってしまうというのに、受け入れようと感じている。それが脳からの思考なのか、判断が出来ない。

「ありがとう、ございます」

 声に出してから、自分の言葉が自信なく震えていることに気づいた。人を倒す時、どうすればいいかわかる。だいたい相手がどんな手を繰り出してくるのか、感覚的に見える。一撃を繰り出すときに、躊躇いもない。けれど、桜國で紡ぐ言葉は、難しい。私はいつだって迷ってばかりだ。ままならない。御門の跡取りが言ったことは、こういうことなのかもしれない。

「これから、よろしくお願い申し上げます」

 桜帝、詩乃、羽望、慈告の顔を順番に見る。すると彼らは、それぞれ異なった調子で、「よろしく」と返事をしたのだった。



作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:69

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

この恋を殺しても、君だけは守りたかった。
  • 書籍化作品

総文字数/120,752

青春・恋愛51ページ

本棚に入れる
表紙を見る
君が生きていれば、それだけで良かった。

総文字数/116,974

青春・恋愛52ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア