(なぎ)、仕事の時間だ」

 私を呼ぶ声に、ふっと意識が覚醒する。近代都市と呼ばれるこの彩都(さいと)の上空を優雅に飛行する飛行船の中、私は摩天楼の群れを見下ろした。

 空へ手を伸ばすかのような建物たちからは、眩い光が点在し、煌々と輝いている。天を目指す豪風を受けながら、私は耳につけた通信機の位置を正した。

「お前婚前最後のパーティー当日まで働いて、休みてえとか思わねえの?」

 操縦席から軽い口調で声をかけられ、私は首を横に振る。

「仕事なので」

 所詮相手は人間だ。異形の化け物ではない。人を殺すことなど容易く、子供でも出来る。にも関わらず、この極彩世界で人間が減らないのは、秩序というものがあるからだそうだ。

 衆人環視の元、人の命を断ってしまえばすぐに捕縛される。

 たとえ対象が、この国をいずれ転覆させるような反乱分子としてもだ。かといって、反乱分子を野放しにすれば、あっという間に国は転覆するだろう。

 正攻法では、この国の安定は願えない。

 そう悟ったある組織は、内々に平和を脅かす反乱分子を調べ上げ、始末することにした。他ならぬ――この世界のために。

「? お前見慣れない顔だな。一体――うっ」

 飛行船から身を投げ、この極彩国で最も発展した都市──彩都で今一番勢いのある製薬財団のビルの屋上に降り立つ。空の監視を行っていた警備員をなぎ倒しながら、私は駆けた。

 人をたちまち溶かしてしまう、薬。その開発を行っているこの場所は、六十二階建てと彩都でもかなりの高さを誇っている。全面に張り巡らされた硝子は、銃も化け物の攻撃も防ぐ特殊仕様だ。

 当然通路は部外者の侵入も厳重な警備により防いでおり、内部の廊下に至るまで、監視の目が行き届いていないところがない。物音を立てれば、すぐに増援が来て取り押さえられてしまう。

 だから、外から硝子を伝い、屋上から侵入することにしたのだ。

 地上よりずっと近く感じる空は、夜明けが近いからか不気味な桃色をしている。春風は冷たく、月光はじょじょに薄れゆく。

 私がそばにあった配電盤を叩き壊し、建物全体の電力を落とした。予備の電源が入るまで、十五分。

 建物の中へ侵入すれば、意図せぬ停電に皆混乱状態で、退避を促す声や研究物を守ろうとする指示、怒声が飛び交っていた。

 私はすぐさま研究者に扮し、廊下を歩いていく。しばらくして「きみ! 何かもっとまともな光源になるものを持ってきてくれ」と、蝋燭を持った男が後ろから近づいてきた。私は「はい!」と切迫した様子で廊下を走り抜け――外鍵が何重にもつけられた扉の前に立つ。

 手早く道具で解錠して、中に置かれた資料を抜き取って、予め用意されていた爆弾を机の上に置いた。

 そのままの動作でこちらの様子を窺う男の首を締め上げる。

 部屋を出て、厳重な内鍵を解錠して窓を開けば、まるで春一番を体現するような風が吹いた。見下ろせば、薄明を知らせる光に照らされた建物が、何層にも影を重ねていた。

 特に気に留めることもなく、私は飛び降りる。背に爆風を受けながら向かいの建物の屋上へと移ると、先ほど飛行船を操縦していた男──(おろし)と、仕事終わりの(うらら)が並んで立っていた。

 (おろし)はふらふらと手を振って、「(なぎ)、おつかれ〜」とのんびりした声で私の横に立つ。

「研究成果は渡しておくから、さっさと御門の家に行ってきなー?」

 そして(うらら)は左に立った。二人と私は同期だ。機械改造と運転を専門にしている(おろし)と、組織の構成員の傍ら、人目に立つ仕事をする目立ちたがりの(うらら)

 複数で仕事をするときは、たいていこの三人が集まることになる。

「それにしても、凪が結婚かぁ! いいなぁ!」

 (うらら)は自分の指を顎にあて、物欲しそうな顔で私を見上げる。胸のあたりでざっくりと切られた紺髪の小柄で華奢な彼女は、組織の中でも戦いではなく、諜報活動を主な役割としている。その髪色をより透明化させた色の瞳は、いつも「新しいもの」「可愛いもの」を追って、周囲を和ませていた。

「本当だよなぁ。驚きだわ」

 そして、特に喜怒哀楽も必要ない、さらに言えば愛想も不要そうな運転係と技術開発を担う(おろし)も、(うらら)に負けず劣らず感情の出る人間だった。

 彼は肩にかかる髪を黒い紐で後ろに縛りながら、モッズコートをはためかせ歌を口ずさんでいた。二人とも和やかな様子だけれど、腰元には私と同じように武器を下げている。

 ただ、颪の二つの銃はわざわざグリップに紐をつけ繋げられていて、「このほうがかっこいい」という奇怪な理由で機能性を殺されていた。

 二人は、「せっかくの結婚なのになにその顔」と、声をそろえてくる。

 この彩都には、秘密裏に国家反逆を企てる反帝派の始末、それらの情報収集を行う組織がある。孤児として育った私は、その組織に拾われ道具として育った。二人も同じだ。

 組織の命令を受けて、言うとおりにする。子供でも出来ることだ。

 結婚も、普段の命令となにも変わりがない。

 私は空が白んでいくのを横目に、日から背けるようにその場を後にしたのだった。


 この国は、いくつもの境界が連なって国が形成されている。その中でも一番大きく、中央に位置するのがこの彩都(さいと)だ。

 科学的、技術的にも発展し、高層の建造物が立ち並ぶ。電気や電子回路を使って、通信技術や工学を持ってして各々が自分の価値を高める場所である。

 その彩都の上空には、「天ノ国(あまのくに)」と呼ばれる神様が集う領域がある。その場所の空は多様な極彩色をして、夢か現か定まらないほど美しいそうだ。

 夜は存在しえない。常に光に溢れ、万物の魂を癒す理想郷らしい。

 そこで暮らす人々は天ノ民(あまのたみ)と呼ばれる。そして彼らは慈悲深い。何の対価もなしに、方方を跋扈し人を喰らう異形の怪物──怨魔(えんま)から彩都の民を光の結界で守っているのだ。

 怨魔には、彩都の持つ工学の技術、兵器を持ってしても太刀打ち出来ないが、天ノ国の人々は妖術により奴らを容易く滅する。

 そして「天ノ国」を守るのが、彩都の東、西、南を守る三つの妖術境界だ。それらの民は幻のような妖術を用いて、天ノ国を守護している。

 我々彩都は、いつだってその妖術境界の民たちに生かされているのだ。彩都のいたるところには、それぞれその領域を象徴する紋――天に太陽、東に桜白狐(さくらびゃっこ)、南に深海亀(しんかいき)、西に星龍(せいりゅう)が描かれ、縁起物とされていた。

 そして本日開かれている、この彩都を司る(みかど)を継ぎ、自らの姓にも「みかど」の音を持つ御門(みかど)家の婚約披露パーティーの会場でも、いたるところにその紋は描かれている。

 めでたき紋に囲まれながら、人々は真っ赤な絨毯が敷かれた床を踏み、会食やダンスに興じていた。

 モダンなステンドグラスに見下される人間たちは、上質な反物を身にまとう人間もいれば、ふわりと揺れるドレスに身を包む者、頭に布を纏っている者と様々いる。

 三つの妖術境界の文化の終着点であり、起点である彩都では、それぞれの文化がないまぜになり展開されている。

 桜を独特に組み合わせた反物、海を想起させるモチーフと鮮やかな色を組み合わせた調度品、荘厳な色味と唯一無二の紅染を扱う天井細工などが点在している光景は、ほかの国から混沌と称されることもままあるらしい。

「見て、素敵な夫婦茶碗。澄んでいて、まるであたたかな日差しのよう」

 彩都で最も大きな舞踏会場にて、入場した来賓たちは揃えるように、次期帝への結婚祝いとして「天ノ国」から直々に賜った硝子の夫婦茶碗に見惚れていた。

 煌々とした光を受けるそれは、絢爛なホールの中で星のように輝いている。

 しかし私には、ただ飯が盛られるものにしか見えなかった。

 仕事のため、一応は目を輝かせて見る。しかし、隣で来賓に扮している(うらら)に「笑顔」と、手話で伝えられてしまった。

 そんな彼女は、目を輝かせながら、この日のためだけに用意された食事を平らげている。

「お姫様、軽食はお召し上がりになられないのですか?」

 気取った口調で声をかけてきたのは、護衛軍人に扮した(おろし)だった。軍服姿の彼はいたって真面目な顔をしているが、潜めた声は道化じみていた。

「特に、食べなくても目立つことはないので」

 食事は、面倒だ。味がたくさんあるから一体何だというのか。

 結局どんなに時間をかけたところで、胃酸によって分解され、排出されていくというのに。

 あれこれ凝ったところで意味がない。

「どうして、人は食べ物まで、見目よくしようとするのでしょう」

「美味しいもんが、たくさんありすぎるからじゃねえの?」

 (おろし)は「大漁大漁〜」と、焼き菓子をくすねては、特殊な袋にしまいこんでいる。

「なるほど」

「まぁ、どんな見た目でも、結局は一緒に食うやつ次第だろうけどな。お前も、仕事といえど、まともな家族ができれば、飯にも興味出てくんじゃねえの? なんかセットじゃん。そういうの」

 (おろし)は投げやり気味に、あたりを見渡す。

 家族。

 興味がない。

 元からいなかったせいだろうか。夫婦は、家族に該当する。結婚すれば、私はこの夫婦茶碗に興味を抱くようになるのだろうか。

 しかし、仕事中は夫婦茶碗を喜び、家族や幸せな花嫁に焦がれ、夫を愛する妻にならなくてはいけない。

 なにせ相手は、この彩都を司り、政の中心となる家──御門家の跡取りだ。

 何故御門家と組織の人間である私が契るのかは知らない。

 組織からそういう命令がおりたから、私はそれに従っただけだ。私は命じられた仕事を、ただこなすだけ。

 よって存在しないはずの私の戸籍は、組織の手によってみるみるうちに出来上がり、御門家の跡取りと偶然を装って出会い、恋愛の真似事をした。

 その間に私は次期帝に反逆する者たちを何人も倒してきたが、虫も殺せない設定で御門家の跡取りと話をしていた。そして今日はとうとう結納の儀だ。

 しかし、来賓が一通り揃ってもなお、御門家の跡取りが姿を現す気配がない。

 誰かに殺されているか、拉致でもされたかと会場を一度抜け出し様子を見に行ったけれど、どうやら控室で窓の外を眺めているようだった。

 あれからしばらく経つ。来賓も心なしか、ざわめいている様子だ。瞳を閉じて神経を研ぎ澄ませれば、微かな足音が聞こえてくる。

 やがて予想通りのタイミングで、ホールの扉が大きな音を立てて開いた。

「しばしの間、僕の一世(ひとよ)について考えていたせいで遅れてしまった!」

 今日の主役である御門家の跡取りは、颯爽と入場しながら、私の隣に立った。そして、まっすぐな瞳で私を見つめる。

「すまない。昨晩から悩んだのだが、この婚姻は取り消しだ!」

「え……」

「僕は、僕が好きだ。愛している。けれどお前は、僕を愛していない、そして自分すら愛していない。この彩都の母には向いていない。もっと広い世界を見て、僕以外の愛を知れ! そうすれば幸せな道があるだろう!」

 一瞬停止した会場が、御門家の跡取りによってざわついていく。しかし、彼は静かに手を挙げた。

「静まれ、皆の者。僕は国のためにこの婚約を解消するというのだ。いわば僕、彼女、そして皆の幸せの為だ。祝い事だ。悲しい顔をするな。民の悲しみは、僕の悲しみだ」

 私は、完璧に演じていたはずだ。御門家の跡取りを愛する女を。彼の両親も、側近も、侍従も、誰もが私を、彼を愛していると、騙されていたはずなのに。

「僕はこの彩都の民全員の幸せを望む。それは、今回縁がなく婚約を解消したお前に対しても当然同じだ。僕はお前自身を否定しない。ただ、この彩都の母に向いてないというだけだ。だから、これから一緒に、互いの新しい婚約者を見つけよう!」

 そう言われても、困る。

 組織からの命令は絶対だ。

 私は御門家の跡取りとの婚姻を命じられている。解消になれば、任務を失敗したのと同じこと。そして任務の失敗は──、

「私は――」

「確かに、そこの女は俺の運命の女やから、御門のことは好きやないやろなぁ。あはは」

 (なま)り混じりの、軽快な声が凛として響いた。神楽鈴(かぐらすず)とも異なる怜悧な音が規則的に鳴り響き、会場のざわめきが一瞬にして静まりかえる。

「ずっと前から、俺のこと好きやもんな、君は」

 人々の合間から湧くように現れたのは、肩にかかりそうなくらい、紫がかった黒髪を伸ばした男だった。

 桜色をした切れ長の瞳を彷徨わせるだけで、周囲のざわめきを黙らせ、一歩一歩こちらに近づいてくる。

 上質な着物の上から、紺地に桜や椿、菊に牡丹と蛍光色の花々が咲き乱れる羽織を纏った彼は、挑発的な笑みで私に近づき、御門家の跡取りを見やったあと、舞台劇のように周囲へ振り向いた。

「彩都の皆様、御機嫌よう。僕の名前は桜國静明(おうこくせいめい)……まぁ、桜國言うたら俺が何者かすーぐ分かるよなぁ? 今日からこの女は僕──桜帝(おうてい)様のもんや、少しでも変な気起こしたら呪ったるから気ぃつけや」

 桜國。その名前を聞いて、ハッとする。

 桜國は、彩都を守る三つの国のうちの一つ――桜白狐を紋とする桜國の――当主にしか、与えられない名だ。


 天ノ国を守る三つの境界は、桜國(おうこく)海島(メアリゾート)星域(シンイー)があり、その国を司る者は、桜帝、海帝、星帝と呼ばれている。

 彼らは天ノ国が災厄と称されるほどの怨魔に立ち向かう力を温存するため、三つの境界をそれぞれ率いて、外からやってくる怨魔と戦っているのだ。

 総じて三帝と呼ばれる彼らは、彩都の民を導く立場にある御門家の者たちより地位が高い。

 当然、有事でなければ彩都に降り立つこともない。特に桜帝は三帝の中でも最も力が強いとされながら、その姿を見た者は殆どいないと聞いていた。

 実際、彩都の神事の場で海帝、星帝を見かけたことはあったが、桜帝は見たこともなければ、声を交わしたことだってない。

 だからこそこの桜帝が私を助けた理由は人違いか、はたまた親切心を発揮した結果だろう。 どちらにせよこの桜帝とは、突然の婚約解消により騒乱となったパーティー会場を出てしまえば、すぐに別れ組織と連絡を取るつもりだった。

 なのに――、

「めっちゃ嬉しいわぁ。はぁ、夢見心地や。僕なぁ、君が御門の嫁さんって聞いて、諦めようと思うて今日会場来てたんよぉ。せやけど、君が御門の嫁さんなるとこなんか見たないから死んだろ〜思ってな〜? 祝言の日に式場の屋根から飛び降りて、君の真っ白な花嫁衣装、俺の血で真っ赤に染めたるって決めとったんよ。そしたら、まっさか、婚約解消なんてなぁ! あいつ気でも狂ったんかな? あっははは!」

 気が狂っているのは、貴方のほうでは。

 冷静に指摘してしまいたくなる口を噤む。桜帝によってパーティー会場を出された私は、そのまま馬車へと乗せられていた。

 桜帝が統べる桜國へは、彩都からかなりの距離がある。

 到底馬では、彩都から出ることすら叶わぬはずだが、車窓を眺めてみれば、景色が移り変わる速度が普通の馬のそれとはまるで違っていた。

 どうやら、妖術により生み出された馬で移動しているらしい。

 夜にしては鮮やかすぎる空を駆けている。馬車の内部は桜文様の紫地の絨毯が敷かれ、手すりに至るまで豪華な金細工が施されているが、御者の気配は感じない。

「はぁ……人生最高の日やんな……彩都の下品にチカチカする電灯も綺麗に見えるわ」

 彩都の夜景を見下ろして、桜帝は私の手を握り、嬉しそうに撫でていた。組織から始末せよと命じられていない以上、何も出来ない。

 ただでさえ相手は桜帝だ。組織の目的は世界の平和。彼に危害を加えることは、組織の意に反してしまう。

 ひとまず彼の目から離れて、組織と連絡を取らなければ。

「なあに考えとんの? さっきからずぅっと外見てるけど……あの男のとこ戻りたいんか? こっから落ちたら、死んでぐっちゃぐちゃなるで?」

 その通りだ。地面から馬車まで、彩都で最も高いとされている建物より高さがある。ドレスでは、このまま馬車から降りることもままならない。

 今日は風も強く、落下速度が和らげられても、位置が調整出来ない。落ちたら最後、頭を庇っても手足の骨は砕かれる、失血により死ぬほかない。

 桜帝は、私の意を問うように見つめている。かと思えば、「おっ見えてきたで〜ここが俺の国や!」と、私の肩を抱いてさらに窓へ近づいた。

 他に見る場所もなく視線を向けると、地上には花篝に照らされた桃色の綿毛――桜並木が見える。冷たい夜の空気を温めるように、提灯が並び場を賑やかにしていた。

「もう、今日からずっとここで――俺たちは夫婦として暮らせるんやで? お前は今日から彩都のもんやのうて、俺の花嫁――俺のお花ちゃんや」

 私の肩を叩く手は、酷く馴れ馴れしい手つきだ。

 しかし声色は常にこちらを試すもので、着物からは甘い死の香り――白檀が燻っていた。

◆◆◆

 桜帝は、馬車を降りても私から手を離すことはなかった。いくつもの鳥居を抜け、竹藪を進んだ先にあったのは、発展した彩都の中心を外れた、農村部ですらあまり見ない、城にも見える平屋の屋敷だった。

 瓦は上質で、人の頭をかち割ったところで砕けることはないだろう。

 しかしその荘厳な門とは対照的に門番はおらず、気味が悪かった。

「悪いけど、今君が見つかったら、騒ぎになるんよ。せやから、ちょっとばっかし、静かにしとってな?」

 周囲の篝火によって照らされた門の裏手に回り、鯉が泳ぐ池にかかる橋を渡って、桜帝の後を追う。

 池の周りを囲う藤の花は、蛍の光のように煌々としていた。まるで自ら、発光しているみたいだ。

 身を潜めて砂利道を抜けると、彼は私をそばの座敷へと入れた。ふわりと立ち込める畳の香りの中、月の光にあてられた障子が格子を作り出していることで、檻にも見える。

「ごめんなぁお花ちゃん。俺今日まさかお花ちゃん連れて帰れるなんてゆめゆめ思わんかって、しんどいなぁ思って適当に屋敷出たんよ。せやから、ちょーっと待っといてなぁ。本当に悪いわぁ、初めての場所で心細いやろうけど、すぐに戻ってくるから、待っとって?」

 そう言って、桜帝はすぐさま部屋の障子を閉め、足早にその場を去っていく。私は桜帝の足音が消えたことを確認して、静寂な暗闇の中、懐から通信機を取り出した。手のひらほどの小さなそれは、主に組織への連絡に使うものだ。

 組織の身に危険が迫った時、もしくは自分が死ぬ時、使うもの。そして最後に――、

「っ」

 私は障子を開き、通信機を飛ばそうとして目を見開いた。通信機は、障子の枠を超えた瞬間、すぐさま青く燃え上がり、塵となってしまった。


 この光景は見覚えがある。組織が能力不足と判断したものに下すものだ。

 私は、解任された。

 あまりの出来事に、愕然とした。目の前の状況が、何一つ理解できない。機器が先程まで乗っていた手のひらを見つめていると、「なんで障子あけとんの?」と、無邪気な声がふってきた。

 廊下の木板を軋ませる音すら、させずに。

「あ……」

「どないしたんお花ちゃん。まさか、逃げようとしたん?」

「いや……」

「本当? でもお花ちゃん、今まさにこの部屋から出ようとしてたところやんかぁ、俺それ見てもうてるんやけど……」

 桜帝は私の前にしゃがみこみ、じっと私の顔を覗き込む。そこでようやく、ぎし、と板の軋む音が響いた。

 朧月に照らされたその瞳は、篝火に照らされた桜と同じ色をして、それより妖しく揺らいでいる。

「……こ、これから、どうやって生きていこうか悩みまして」

「どーいう意味?」

「仕事を、解任されたので」

 任務が、ない。行くところがない。未来もない。

 寝る場所も何もかも、全て組織がその時その時で用意していた。

 だから私は組織の仕事を請け負っていた。でも、もう私は解任された。

 これから先、どうしたらいいのか知らない。組織に用済みと判断された以上、死んだほうが良いのだろうか。

 それなら、今すぐこの首を――、

「ほー。まぁ、俺と生きればええよ。君はそれだけでええんやで。夫婦として仲良く生きてこうな。今日から君は、俺に永久就職やから、な。俺らは今日から夫婦や」

 ぽん、と、桜帝様は私の肩を叩いた。夫婦、妻と、夫。夫は桜帝様のことだろうか。となると、妻は私。私は、桜帝に就職をした……?

「分かりました」

 だとすれば、することはひとつだ。

 実際にしたことはないが、任務の途中で見たことはある。

 私はすぐさま胸元のリボンをほどき、背中の結び目をほどいた。後少しで上半身が露わになるところで、桜帝が「あほか!」と私の腕を握る。

「お花ちゃん! きみ、な、なにしとんの?」

「対価をお支払いしようと」

「そないなこと求めてないわ! いや求めてるけども……そういうのは! 違うやろ! なに今、淡々と服脱ごうとしてん、はよ服着ぃ!」

「でも」

「でもやない! それにこの傷なんや!」

 桜帝が私の腕の付け根に触れた。この傷は腕を切り落とされかけた時のものだ。でも、位置が微妙にずれている気がするから、腕本体にある火傷の跡のことかもしれない。

 どれも幼少の訓練の傷で、仕事で出来たものではない。御門家と相まみえるときは化粧で隠していた。上手くやっていたはずなのに、まさか見抜かれるとは。

「訓練の傷です」

「はぁ?」

「それより、身体を求めていないのであれば、私はどのような対価をお支払いすればよろしいでしょうか」

 問いかけると、桜帝様はなぜか手のひらを握りしめて、顔を歪めた。そして「そんなことせんでええから」と、首を横に振った。

「もう二度と、そんな対価とか馬鹿なこと言うて服脱ぐな。お花ちゃんは、僕に幸せにされたらええねん。ほら、こっち来い。腹減ったやろ。茶漬けくらいならあるから、腹いっぱいにしてから寝え」

 そう言って手を引かれ、通されたのは台所で、すぐに台に置かれた包丁に視線がいった。

 よく研がれていて、切れ味はとてもいいように思う。

 かまどに、冷蔵庫、流し台、棚には食器が並んでおり、庶民的な雰囲気の台所だった。彩都のものより年代が何段階か古く思う。

 桜帝はなにかの作業を始めようとしていて、「お手伝いは……」と問いかけると、「いい、俺が作るん見とって」と、食器棚から丼を取り出し始めた。

 観察していると座っているよう命じられ、近くにあった椅子に座り、気配を殺すよう努める。

「俺なぁ、君のことじーっと見ててん。きみ、会場でなあんも食ってへんかったやろ。腹空かせとるから変なことしだすんやで、ちゃんとご飯喰わな」

 おひつを手に取った桜帝は振り返った。しゃもじでご飯を丼によそったかと思えば、かつおと昆布を煮出している。今度は七輪で魚の切り身を焼き、刻んで丼にふりかけた。

「お花ちゃん、ほら、お茶漬けやで」

 どん、と、テーブルに出された器を、じっくりと眺める。ふっくらとした白米に、きつね色の出汁がかけられ、海苔がかかった魚の焼き身が、出汁をまとってつやつやと輝いていた。

「これからお花ちゃんのご飯全部俺が作ったるから、もう二度と彩都の飯なんて喰らわんとってな? まぁもう彩都の土なんて絶対踏まさへんけど。ほら、いただきますしよ」
「いただきます」

 目の前に出された丼に手を付けようとすると、桜帝は嬉しそうに笑う。何がそんなにうれしいのだろうか。

「お花ちゃん。今まで御門のあほんだらとどれぐらい飯食った? 彩都で一番上手かったもんってなに? 絶対上書きしたるわ」
「御門家の者は毒殺を防ぐため、他人と食事をすることはありません。なので私も、一緒に食事をしたことはございません」

 帝と直系の血がつながっており、さらには長子が次期帝となる御門家の者たちは、自分たちに戒律を設けて血筋を守っている。

 他人と食事をしないこと、他人を家にあげないこと、他人へ施しをしないこと。約五十を超える戒律であり、家に関わる他人にも守らせることを強要していたけれど、私は特に苦もなかった。

 別に私は御門家に遊びに行くことはしたくないし、食事も、興味がない。手を繋ぐことも、口づけをすることも禁じられていたけど、なんとも思わなかった。

「めちゃくちゃ癪やけどきみは御門家の嫁やったやろ、他人やのうて」
「結納が済むまでは、他人なのでお会いする際は食後か食前でした」
「そっかそっか。じゃあ。これからたらふく上手いもん食わしたるから、楽しみにしとき。俺だけやのうて、俺の飯なしに生きられんようにしたるからな。ほら、そこの、海苔とか胡麻かかってるところとかを食うんやで、あ、胡麻って分かる?」
「以前、女給として一日だけ働いたことがあるので、食材の名前は一通り記憶しています。これが、海苔で、これが、ご飯ですよね?」
「合ってるわ。なんか切なくなる質問やわ。お出汁と一緒に食べるんやで」

 粛清対象者の屋敷に潜むため、料理人の補助として一通り食材の名前は覚えた。今目の前にある丼は、ご飯の上に、鯛の焼き身がのっていて、その上には胡麻やあられ、のりがかかっていた。



「ああ、もう焦れったいわぁ。ほら、一口食うてみ。口あけぇ」

 言われたとおり口を開くと、桜帝はれんげでお茶漬けをすくい、私の口の中に放り込んだ。咀嚼すると、いつも食べている訓練用の毒物と異なり、ピリピリしたものは一切感じない。どこか、お腹の奥が熱くなるような、奇妙な感覚がする。もう一度、口に入れてみたい、ような……。

「美味しい?」

「もう一度、口に入れたいという感覚は、美味しいで合っていますか?」

「せやで! それが上手いって感覚や! よう覚えとき、これからなんべんも味合わさせたるから、ほらもっと食え! ほら!」

 勧められるがまま、私は今度は自分でお茶漬けを口に運んだ。同じものを食べているはずなのに、食感も、鼻先に抜ける香りも、先ほどとは異なっている。

「美味しい……」

「美味いか! もっとうまいもん、これから沢山食わせたるわ!」

「あ……」

「ん?」

「対価は、どうすれば」

 美味しいものを、食べさせてもらった。何か対価を支払わなければ。しかし、それまで笑顔だった桜帝は、口を引き結んでこちらに鋭い眼差しを送った。

「あんな、お花ちゃん、そういうときはありがとうでええんやで。対価なんか、なんもいらん。俺は可愛い君が隣にいてくれるだけで幸せや」

「あ、ありがとう、ございます」

「おん」

 桜帝は私の頭をくしゃりと触れた。頭を、触る。急所に触れられているはずなのに、殺される緊迫感は不思議と抱けない。

「そのうち鴨捕まえて来たるから、一緒に食べような?」

「鴨も、食べられるのですか」

「ちゃんと処理して、鍋にしたり焼き肉にしたり、色々な。牛と同じ」

「牛……」

「これから先、お花ちゃんのことこの桜國から出さへんから、そんくらいはなぁ」

 確かに、私は行く場所がない。御門家に婚約を解消された以上、彩都にいることは不可能だ。

 終わりの楽園、すべてを受け入れ、咎人すら包み込むとされる海島へは、船がいる。細かな戒律が張り巡らされ、風光明媚な後宮が設けられている星域の領域内に入るには、厳重な、それこそ彩都より厳しい審査がある。

「服はあんねん。お花ちゃん用の。お花ちゃんの体つきで目ばかりやけど。でも、何が肌に合うか分からへんから、身体洗うやつはないねん。家突き止めたら攫えたのになぁ、お花ちゃんずっと神出鬼没やったし」

 神出鬼没。確かに私は組織の管理下にいた。居場所を突き止められていたら、組織の存続に関わってしまう。

「今度、買いいこ。一応むりやり攫った形やし、彩都が何するか分からん間は、屋敷の中で過ごしてもらうけど──。なるべくはよ買うたるから。お揃いにしよ。椿油もええな。このつるっとした髪につけたらもっとええ女なるで。化粧だけじゃなく……ダイヤも着物も、お花ちゃんの為に買うて贈れんかったやつで部屋いっぱいなっとるから、落ち着いたら見せて着せたるから」

「いいです。服も、ダイヤも、私に必要とは思えません」

「いやや、そのお願いは聞かれへんよ。お嫁さんのことちゃーんと守って、養って、甲斐性あることするんが夫の役目やからなぁ。もうお花ちゃんのことどろっどろに甘やかして、我儘言って俺のこと困らすくらいにさせたるから、覚悟しときや」

 桜帝は、桜色の瞳をこちらに向け、口角をあげる。その瞳は確かに人間のもののはずなのに、どこかゆらゆらと、底知れない炎のようなものを感じた。

◆◆◆

「きみ危なっかしいから、一人にしたないけど、あんま知らんやつ隣におったら寝られんやろうし、今日はここで寝てな」

 あれからお茶漬けを食べ終わった私は、桜帝によりまた座敷へと戻された。彼は部屋の奥にある襖を開くと、布団を取り出し敷き始める。慌てて代わろうとするが、「座り」と言われ、腰を下ろした。

「やめえ、お花ちゃんにそんな軍人みたいに跪かれんの嫌やわ。ほら、今日は寝ぇ」

「でも」

「寝ぇ。そんで、僕は君しかいらんから、将来的には貰うけどな、次に対価言うて服脱いだら怖い目あわすからな。お花ちゃんは、僕に幸せにされたらええねん。変なこと考えんのやめえや。分かったか」

「……」

「分かったな?」

「はい」

 幸せに、される? 今まで命じられたことのない言葉に戸惑いを覚えると、桜帝は私の頭に触れた。

「ええこや。僕はちょっと用事できたたけど、怖いことあったらすぐに呼び。ほなまた朝」

 さっと、桜帝はそのまま襖を閉じてしまった。

 気配を探ればどうやら厠との反対方向に向かっているらしい。布団で寝る。もうここ十年はしていないことだ。しかし、夫の命には従わなくてはいけない。今は、桜帝が私を雇う「組織」にあたるのだから。

 それにしても、この先の身の振り方を考えなくては。

 私が桜帝にしてもらっていることは、ありがとうで到底足りると思えない。桜帝には、排除したい人間はいないのだろうか。私が得意なことは、人を倒すことと何かを盗んでくることだ。

 自分で、任務を探さなければ。

 今までは、組織に相手の情報を調べてもらい、最適な返答の書類を読み、命令されるまま動いていた。

 その当たり前が、これからはないのだ。

 武器は持っている。ナイフも毒針も、鉄線も。素手でだって人を殺せる。でも桜帝に、対価が渡せない。そのことに、言いようのない不安を覚える。

 ――ここで寝え。

「そうだ、寝なければ」

 桜帝の言葉を思い出し、私は布団にもぐりこむと、目を閉じた。