夏野が出ていって、少ししてからわたしも出ていった。何も知らずに呑気なあの夏のわたしを、私はただ眺めることしかできない。
私の姿は、夏野だけじゃなくわたしにも届いていなかった。もし見えていたら、「今すぐ追いかけて告白して!」と伝えられたのに。
これは夢か記憶か。どちらにせよ、タイムスリップしたわけではない。やり直すことはできないのだ。
「あんた、誰?」
呆然とする私の耳に、低めの声が貫いた。
振り向くと、男子が壁にもたれて座っている。夜闇に潜むように気配を消して。
その顔に見覚えがある。というか、知らないと言ったら失礼極まりない。クラスメイトの月瀬。
中性的な見た目で柔らかい雰囲気があるけど、その目に宿る色はいつだって冷たい。常に友達に囲まれている夏野が太陽なら、月瀬は目立たずひっそりと存在する月のよう。
太陽の光に反射して月は輝くけれど、月瀬は太陽の前でも輝かない。夜が似合う。今も昔もそんな印象だ。
……いや、一度だけ彼を「夕日」だと思ったことがある。正しく表現するなら「夕日に照らされた彼を美しいと思ったことがある」だけど、この際どうでもいい。
九月くらいだったか、ほとんど話したことがなかった月瀬から一緒に勉強しないかと誘われた。なぜかわからなかったし、なんで私がその誘いに乗ったかもわからない。
図書室の壁際の席に向かい合わせで座って、静かに勉強をした。
だけど、つい眠ってしまったらしく私が目を覚ましたとき、落ちつつある橙色の日が窓から差し込んでいて。月瀬を照らしていた。
それは、シャッターを切りたい衝動に駆られるほど洗練された美を放つ光景で、しばしうっとりしたのを憶えている。
彼との思い出と言えば、それくらい。印象もどこか抽象的なものしかない。