フィジビリティスタディ

という母の口癖があったと思う。母がそういい続けたのは、母の目には父の生き方がそう見えたからだろうと思う。父は会社の景気が良かったとき、仕事が終ると飲み歩き、週末には近所の商店街の店主たちとマージャンに打ち興じたり競輪や競馬や競艇に賭け興じた。
 余命数週間を医者から告げられた頃、病室に父を見舞うと、
「おれは自分の生きたいように生きた。自分のためにだけ生きた。おまえも自分の生きたいように生きろ」
と枕元の土岐に遺言のように言ったのが最後だった。
 授業料をすこしでも捻出するため、工場兼自宅だった百坪足らずの土地を不動産バブル崩壊後の冷え切った地価で売却し、現在の借家に移った。母の体調が思わしくなくなって、パートをやめたのは大学院の博士課程後期課程に入った頃だった。そのときもすぐ一般企業に就職することを考えたが、社会科学系の大学院卒には、めぼしい就職先はなかった。言い訳になるが、さまざまなアルバイトに手を出し、物理的にいい論文を書く時間がなかった。そのせいもあって、教員公募に積極的に応募はしてみたものの、ことごとく不合格となった。指導教授の岩槻は、同情とも侮蔑ともつかない調子で、
「論文業績が少ないからなあ」
と嘆息してくれた。大学院修了後には貸与された奨学金が一千万円近くになり、返済を迫られていた。この返済も教職につけば、免除される。研究には興味があっても、教育にはあまり興味も自信もないが、奨学金返済免除のためには、どうしても教職かシンクタンクなどの研究職につく必要があった。教職か研究職につきさえすれば、借金の重圧から開放される。

 週明けの朝、いつもは七時過ぎには家を出ていたのに、八時を過ぎても家にいる息子に母は不安を抱いたようだった。白内障で見づらくなった眼で、テレビにかじりつくようにして番組を見ている。画面に目を近付ければ見えるというものではないはずだが、少しでも良く見ようとする心がそうさせているようだった。
「おまえ、まだ行かなくても大丈夫なのかい?」
「今日は、市役所に戸籍抄本を取りに行く。いま行っても窓口が開いていないでしょ」
と母の心配には感謝しつつも、どうしても返答がぞんざいになる。そういう親不孝も大学専任教員の就職の吉報で解消されると勝手に思い込んでいた。