父と母は五十年ほど前に集団就職で北陸の片田舎から別々に上京し、その後職場結婚してから独立し、八王子郊外で工業用ミシン糸の加工で生計を立てた。原糸のかせを発注元から預かり、それを染色し、天日に干してからゼンマイで木枠に巻き取ったり蝋を引いたりして、その木枠からワインダーで円錐形のコーンに巻き取ったり、ボール紙のカードに巻きつけたりする賃仕事だった。繊維関係の国際競争力が低下し始めた四十年ほど前から仕事は真綿で首を絞めるように徐々に減り始め、高齢出産で土岐が生まれた頃には最盛期十人近くいた社員も創業以来から従業してきて職場結婚した一組の夫婦だけになっていた。
土岐は家業を継ぐ気はまったくなかったが、わずかばかりの賃仕事を量でこなし、納期を守るために、ときどき徹夜する母を見かねて、小学校高学年から自転車やバスに乗って小口の配達の仕事を手伝っていた。それでも家業がまだ順調だった高校入学時は、大学進学を当然のことと考えて、私立の進学校に入学した。しかし、大学に入学する頃から仕事がほとんどなくなり、廃業同然となった。高校三年生の夏休みに、十八歳になると同時に普通自動車運転免許を取得したが、家業に役立つことはあまりなかった。
その頃、叔母と結婚した義理の叔父は建設器機のリース会社を経営していた。その叔父が不渡り手形を掴まされて借金の肩代わりを父にお願いしに自宅に来たとき、
「糸ヘンはもう駄目だってね」
と同情してくれたのが記憶に残っている。
土岐は家業を継ぐ気はまったくなかったが、わずかばかりの賃仕事を量でこなし、納期を守るために、ときどき徹夜する母を見かねて、小学校高学年から自転車やバスに乗って小口の配達の仕事を手伝っていた。それでも家業がまだ順調だった高校入学時は、大学進学を当然のことと考えて、私立の進学校に入学した。しかし、大学に入学する頃から仕事がほとんどなくなり、廃業同然となった。高校三年生の夏休みに、十八歳になると同時に普通自動車運転免許を取得したが、家業に役立つことはあまりなかった。
その頃、叔母と結婚した義理の叔父は建設器機のリース会社を経営していた。その叔父が不渡り手形を掴まされて借金の肩代わりを父にお願いしに自宅に来たとき、
「糸ヘンはもう駄目だってね」
と同情してくれたのが記憶に残っている。


