「失礼しました」
と言い残して、事務所との間の壁に掛けられているラーマヤーナの一場面を染め付けた濃紺のバテックを見ながら、土岐は足早に理事長室から出た。金井はそのあとしばらく立ったまま雑談をしていたようで、五、六分して出てきた。それを待ち受けて、土岐は金井に契約書の持ち運びを申し出た。
「もし、よろしいようでしたら、帰りがけに扶桑総研に立ち寄って、鈴村さんに契約書を手渡そうかと思うんですが・・・」
金井は、土岐の顔をちらっと見て、すこし考える間があった。椅子に座り込みながら、土岐の本意を忖度しているように見えた。土岐に他意がないと判断したようで、
「そうね、宅急便より安全で安心かもしれないね。・・・じゃ、そうしてもらえますか。君も、打ち合わせがあるだろうから、・・・理事長が署名捺印したら、そのまま直帰でいいですから・・・」
「ありがとうございます」
本当にそうできることは、土岐にとってありがたかった。この事務所ではとくに仕事らしい仕事のないことが多く、しかたなく、学術論文を読んでいることが多かったが、そうしていることは他の職員の手前、心苦しくもあった。誰がどう見ても、論文を読むことが東亜クラブの仕事であるわけがなかった。福原は、土岐の机の傍らを通るときに、とげとげしい視線を落として行くのが常だった。
それから三十分もしないうちに長身で銀髪の理事長の篠塚が現れた。さらに、十数分して萩本が金井のところに契約書を持って、理事長室から出てきた。土岐は早速、扶桑総合研究所の鈴村に電話を入れ、その契約書を柄の擦り切れた自分の鞄に入れて、四時過ぎに事務所をあとにした。福原の、
(もう帰るの?)
と言いたげな視線を盆の窪あたりに感じた。
扶桑総合研究所には五時前に着いた。一応、受付で昨日の女子事務員に会釈して、直接鈴村のデスクに直行した。鈴村のデスクはそのフロアの一番奥の壁と窓で挟まれたコーナーにある。そこにたどり着くには、四、五名の研究員の机の間をすり抜けていかなければならなかった。書架や机の上に置ききれない文書や書籍が浅黄のリノリウムの床の上に山積みになっていた。鈴村の席の窓からは、車が数珠つなぎで流れる晴海通りが見渡せた。窓に額を押し付けて、北の方向を見れば、内堀の並木がかすかにうかがえた。
鈴村は、壁に立てかけてあった茶色の折りたたみの椅子を出してくれた。
と言い残して、事務所との間の壁に掛けられているラーマヤーナの一場面を染め付けた濃紺のバテックを見ながら、土岐は足早に理事長室から出た。金井はそのあとしばらく立ったまま雑談をしていたようで、五、六分して出てきた。それを待ち受けて、土岐は金井に契約書の持ち運びを申し出た。
「もし、よろしいようでしたら、帰りがけに扶桑総研に立ち寄って、鈴村さんに契約書を手渡そうかと思うんですが・・・」
金井は、土岐の顔をちらっと見て、すこし考える間があった。椅子に座り込みながら、土岐の本意を忖度しているように見えた。土岐に他意がないと判断したようで、
「そうね、宅急便より安全で安心かもしれないね。・・・じゃ、そうしてもらえますか。君も、打ち合わせがあるだろうから、・・・理事長が署名捺印したら、そのまま直帰でいいですから・・・」
「ありがとうございます」
本当にそうできることは、土岐にとってありがたかった。この事務所ではとくに仕事らしい仕事のないことが多く、しかたなく、学術論文を読んでいることが多かったが、そうしていることは他の職員の手前、心苦しくもあった。誰がどう見ても、論文を読むことが東亜クラブの仕事であるわけがなかった。福原は、土岐の机の傍らを通るときに、とげとげしい視線を落として行くのが常だった。
それから三十分もしないうちに長身で銀髪の理事長の篠塚が現れた。さらに、十数分して萩本が金井のところに契約書を持って、理事長室から出てきた。土岐は早速、扶桑総合研究所の鈴村に電話を入れ、その契約書を柄の擦り切れた自分の鞄に入れて、四時過ぎに事務所をあとにした。福原の、
(もう帰るの?)
と言いたげな視線を盆の窪あたりに感じた。
扶桑総合研究所には五時前に着いた。一応、受付で昨日の女子事務員に会釈して、直接鈴村のデスクに直行した。鈴村のデスクはそのフロアの一番奥の壁と窓で挟まれたコーナーにある。そこにたどり着くには、四、五名の研究員の机の間をすり抜けていかなければならなかった。書架や机の上に置ききれない文書や書籍が浅黄のリノリウムの床の上に山積みになっていた。鈴村の席の窓からは、車が数珠つなぎで流れる晴海通りが見渡せた。窓に額を押し付けて、北の方向を見れば、内堀の並木がかすかにうかがえた。
鈴村は、壁に立てかけてあった茶色の折りたたみの椅子を出してくれた。