「考えられることは現在進行中の巨額プロジェクトを一人で遣り繰りすることだろう。所長はもうすぐ定年だ。本社から嘱託として巨額プロジェクトの推進を打診されてる。しかし所長はこのプロジェクトを取締役に昇格して担当したいと思ってる。嘱託と取締役とでは月収が五倍ほども違う。接待交際費はそれ以上だ。本社は所長が嘱託を固辞したら、引継ぎを所長代理のおれにやらせようと考えているにちがいない。所長代理が抹殺されれば本社は巨額プロジェクトの経緯を熟知している人材として所長に頼らざるをえなくなる。そこで、所長は本社と有利な交渉ができる」
「しかし、だからといって部下を脅迫するか?」
という土岐の問いに長谷川は答えない。
「この国の警察力は、わが国の二百年ほど以前の水準だ。目撃者や明白な証拠さえ残さなければ、逮捕されることもないし、かりに逮捕されても、賄賂次第で有罪になることは滅多にない。テロ以外の殺人事件自体が少ない国ではあるが、検挙率は十パーセントにも満たない。二年前にもここで邦人旅行者の保険金殺人があったが、現地警察は事故死で処理していた。それを事件化したのは現地から一万キロも離れた日本の警察だった。それに、所長が社長賞をもらった案件を仲介した中近東の駐在武官が最近失脚した。そういう意味でも、会社は所長を必要としなくなった」
 土岐と長谷川は事務室に戻った。薄暗い廊下で長谷川が言った。
「ヘンサチの話を聞いてからでないと、作業にとりかかれないと思うんで、昼食まで所長のお相手をしていてもらえるか?」
 土岐は無言で承諾した。
 川野は身内の話を切り出して来た。その間、川野が視線を土岐にむける度に土岐は機械的に軽く頷いた。話が終わるのをじっと待った。興味がないという思いを目や口やボールペンを持つ指に託した。伝わりそうになかった。
「早く話を切り上げてくれ」
という思いを込めて、ボールペンの尻で親指の爪を強く叩き続けた。
 川野の話が途切れた。未だ話し足りなそうだ。上唇が言葉を求めて不規則に震えている。パイプの先からよろめくように立ち上る紫煙や机の上のペーパーナイフを話題の穂を探すような目付きで眺めている。
 川野が気づくように土岐は左手を大きくあげてアナログの腕時計を見た。眼の端で川野の態度を確認する。土岐がうんざりしていることに気づいていない。また、話し始めようとする気配がある。