暫くして川野が長谷川に言う。
「多分だなぁ、先刻の一等書記官からの電話だけど」
とパイプの煙を分厚い口の端から思い出した様に噴き出した。
「来週ここにくる外務大臣の件だと推察するがぁ。取り敢えず、今日の昼飯の領収書は保管しておくように」
と指示した。言われなくても、どのような領収書であってもとりあえず取っておくのは商社マンの習性だ。そう言いたげに長谷川は、「はい、そういたします」
と従順そうに小声で答えた。
 一筋の暗い煙が川野の頬の深い縦皺に沿って昇って行く。一本だけ長く伸びている眉毛に潜り込むようにして絡んだ。
「ところでだなぁ、所長代理さんよ。閑話休題」
と川野は何かを話すことが義務でもあるかのように土岐をちらりと見て話題を変える。
「外務大臣が帰国したら早々におれは本社からの嘱託の依頼を断る心算だが、あんたはどうする?」
と土気色の眉間に深い縦皺を作る。長谷川の決断を催促するように訊いてくる。
「海外駐在で三年経てば、規程で転勤願いを提出できる。この国は、出世街道から除外されてるから、早く転勤した方が、将来的に有利だよ。繰言のようだけど。いずれにしても、もう時間がないから、早急に旗幟鮮明にしないと」
と川野は慈しみ深く諭すように言う。幾度も聞いた事ばかりだというような、うんざりしたような顔つきで長谷川は、
「ええまあ。たぶん。そのうちなんとか」
と曖昧な返事をした。川野が、
「幾度も転勤願いの提出を促す理由が良くわからない」
と言いたげに長谷川は首を振る。本当に長谷川の身になって言ってくれているとは言葉の抑揚から土岐にも思えない。豪放磊落のような性格にも見受けられる。冷酷無比に人を殺すような人物に見えなくもない。
 土岐は尿意を感じていた。
 貧乏ゆすりをしている土岐に、長谷川が誘いの手を伸べた。
「そうだ、土岐。トイレに行くか?場所教えとくよ」
 土岐は長谷川にしたがった。
 トイレは事務室の北側の裏庭が見渡せる日陰にあった。陶製の白い小便器と洋式便座が一つずつ。アンモニアの強烈な悪臭が土岐の鼻腔を急襲した。黄ばんだ小便器を土岐が使用した。
 長谷川は洋式便器の亀裂が走る便座を上げた。
 放尿の音を立てながら、土岐が聞いた。
「あの川野所長が殺人予告のメールを送信する動機はあるか?」
 しばらくして長谷川が慎重な口調で答えた。