「自前で自国通貨の用紙を製造し、印刷する技術すらない。それほどにこの国は痛々しいほど貧しいのだと前任者は嘆息をもらしてた。またこの国の人は財布を持たない。ごっそり掏り取られるからだ。前任者が言うには、財布は小さな金庫のようなものだ。金庫を持ち歩くバカがいるか?そこに手持ちのカネのすべてがあるので掏ってくださいとスリにわざわざ教唆しているようなもんだということだ。説教じみた注意もあった。カネは分散して持たなければいけない。左右のポケットや胸や尻のポケット。両手をひとのポケットに突っ込んでくるスリはいないから、掏り取られても全額にはならない。また財布にしても札束にしても公衆の面前で広げてはいけない。公衆の面前で多額のカネを見せることは、この国では喜捨を意味する。人が群がり、喧嘩腰で奪い取ってゆく。知らなかったでは済まされない。とる方もとられる方も不幸だとさ。注意してくれ」


偏差値至上主義の驕慢(金曜日昼食)

 ホンコンの玄関の石段に足をかけていた東洋人が横長の目を細めて長谷川に小さく手を挙げた。国防色のサファリジャケットをラフに着こんでいる。イタリア製の革靴を履いている。
 長谷川が彼に近づこうとした。門柱の影から痩せこけた少女が飛びだしてきた。裾の綻びた埃にまみれた布を纏っている。
 土岐の往く手を遮る。手のひらを上にむけて突きだした。手相に垢が溜まっている。運命線と生命線がくっきりと浮かび上がっている。少女の斜め後ろに顔中に深い皺のある老婆がしゃがみ込んでいた。赤みがかった斜視だ。こちらを窺っている。体型も身に付けている物も少女によく似ている。老婆のように見えるが少女の母親なのかも知れない。少女は右に避けようとするとごわごわに固まった髪を振り乱して右に出た。上目遣いの白濁した瞳に、汗と埃に塗れた前髪がべっとりと垂れている。
 不快な体臭が土岐の鼻を鋭角に突いた。彼女を左に避けて擦り抜けようとする。老婆がしわがれた声で何かを鋭く叫んだ。
(I kill you)
と言ったような気がした。
 少女は裸足の足を止めた。差しだしていた手をだらりと下ろす。恨めしそうな目だけを老婆にむけた。首筋にべったりと垢が張り付いていた。
 先刻の東洋人は長細い目でヘラヘラ笑っている。その目の先の入り口の小さな黒板に白いチョークで、
〈ここでお待ちください〉