錆だらけの自転車のベルの音、ドアや窓硝子のない車やバイクの警笛、牛、山羊、驢馬、鶏や家鴨の鳴き声、人々の叫び声、駅舎のアナウンスがむせ返るような排気の中を熱膨張して飛び交っている。黒色の肌からの汗、陽光を含んだ藁、家畜の干からびた糞尿、犇めき合う露店の香辛料、太刀でカットされたドリアン、垂れ流され極彩色で漂うガソリン、煤けた排気ガス、太陽に焼かれたコールタールの臭いが喧騒と混ざり合い、灼熱の坩堝の中で渦巻いている。 
 三輪タクシーの速度が雑踏で落ちた。急に空気が澱み始めた。騒音と悪臭が一斉に堰を切ったように幌の中に侵入してくる。幌の上に叩きつけられた天日が頭上で音と臭いの汚物を煮えたぎらせている。思わず軽い眩暈と吐き気に襲われた。
 駅前を通り過ぎると、ゆるやかな上り坂が伸びやかに続く。スピードが出なくなった。アスファルトの照り返しが外気と一緒に借金取りのように追い駆けてくる。
 脳漿が煮沸された。頭皮が膨張してきた。体中の毛穴から一斉に汗が滲み始める。下着が粘り気のある汗で背中と尻に糊付けされている。太腿の汗はグリースになった。わずかな揺れでも下半身がぬるぬると滑る。顎の汗が喉元に滑り落ちる。途中の雫と合流して胸元に女の細い指のように垂れ落ちる。
 頭の中が黄白色になった。灼熱の外気が顔全体を覆う。顔面を圧迫し続けた。相変らず長谷川の太ももの汗ばんだ感触を不快に感じていた。
 なだらかな上り坂が終わった。地元の紅茶の看板があった。男の顔と女の顔とその間にある紅茶の缶。下の方に破れかけた選挙ポスター。紅茶がなければ隣の映画館の看板と同じ画風。
 その看板を長谷川がまぶしそうに指さす。
「有名な映画俳優なんだよ。よく見かける映画俳優の似顔絵だ」
 ゆるやかな下り坂になった。
 悲鳴のようなエンジン音が、車軸の回転に追いつかない。
 熱い強風が首の周りのべとつく不快感にぶつかる。こすり取ってゆく。いくぶん息が楽になった。
 空を見上げる。白い太陽の輪郭が熔けて乳白の大気に滲んでいた。ホテルのモーニングサービスの目玉焼きのようだ。
 少し傾いたコンクリートの丸い門柱の上にホンコンという枠が赤、地が青、文字が黄のけばけばしい看板が見えてきた。 
 長谷川が鍍金の剥がれたタクシーのメーターを覗き込む。
 傍らを白いドイツ車が追い越して門柱の中に消えた。