タクシーは三ヤードほど前を通り過ぎて止まった。鋭い金属性のブレーキ音が鼓膜を刺す。
 運転手が少し欠けたサイドミラーを覗き込んでいる。黒い漆を塗りつけたような髪の下からこちらをうかがっていた。
 長谷川と一緒にタクシーに近づく。脇を簾のようなぼろぼろの開襟シャツを羽織った老人が通りかかった。骨ばった腰に黄ばんだ白布を捲いている。洗濯板のような鎖骨と肋骨を浮き上がらせていた。傷だらけの木製のカラの荷車の柄を灰色のあごひげに絡めていた。息苦しそうに引きずりながら三輪タクシーを追い越そうとしていた。
 運転手はハンドルに両手を乗せている。薄いあごを突きだしている。五百ヤード先の国道の方角を鼻先で眺めていた。
「十一時半まであと十分。ちょうどいい時間だ」
と長谷川が土岐に先に乗り込むように促す。
 運転手は荷車を引く老人を胡散臭そうに眼で舐め回した。エンジンを二三度ふかして老人を威嚇する。
 三輪自動車に土岐が片足を踏み入れる。車体は大きく傾いた。ついで長谷川が後部座席に座りかける。車はいきなり走りだした。
 老人が牽引する荷車を蹴散らすように追い抜いた。
 土岐は急発進の際に背中を硬いシートにしたたかに打ち付けた。のけぞった姿勢を直す。ギアがローからセカンドに素早くはいった。と思うまもなく、せわしなくトップギアにはいった。
 運転手が行き先を訊いてきた。長谷川が、
「ホンコン」
と伝える。意味のわかっていないような酷く抑揚のない声をだした。
「ホンコン?」
とふてくされた態度で、
「そんな近場か」
と言いたげに投げやりに聞き返してきた。
「チャイニーズ・レストラン」
と長谷川が大声で言い直した。あわてて右の人差し指を前に突きだして、
「メーター!」
と声高に叫んだ。運転手は青黒い頬をこずるそうに痙攣させた。
「ホヮット?」
ととぼけたように訊き返してきた。
 長谷川はゆっくりと大声でもう一度、
「バイ・メーター!」
と繰り返した。運転手は空車表示のレバーを左横に倒した。引き攣っている首筋と下頬が不服そうだ。
「さっきから、もう100ヤードは走っているぜ、旦那」
とぼやく。バックミラーでこちらの表情を探ってきた。
 長谷川は黄身がかった不快な視線を睨み返した。すぐ無視した。
 片側二車線の国道が見えてきた。