アイキルユウ

 それを聞いて不快な想いが土岐の胸の底のほうから緩やかにこみ上げてきた。自分の女でもないのにジャナイデスカ夫人は自分に気があると思っていたからかも知れない。彼女は頭のよくない男は嫌いではなかったのか。彼女に対するイメージが揺らいできた。そんな権利が自分のどこにあるのか説明できない。その衝撃は余震のようにしばらく続いた。
「一等書記官の奥さん、あの方は綺麗な人ですね。お元気ですか?」
「あなたがこの国に来たときにはいなかったんじゃないですか」
「いえ、ビザの延長の件で大使館に相談に行ったとき、たまたま廊下で出会って、一等書記官の加藤さんに紹介されたんです」
「彼女にもちらっとお会いしただけですが、お元気みたいですよ」
と土岐は話を合わせた。
「まあ、わたしとはまったく縁もゆかりもない人たちですが、こういう国にくると出会ってしまうんですね」
 それからまた、沈黙が続いた。派遣員が慶子をきれいだと感じたということは、そう感じさせる表情が慶子にあったということだ。所詮、慶子は数少ない同国人の中から長谷川のような手近な間男を調達したということなのかも知れない。本国で会っていれば、慶子は長谷川を歯牙にもかけなかったに違いない。
 漫然と星空を見上げていて、首が徐々にだるくなってきた。
「疲れているので、お先に失礼します。おやすみなさい」
と土岐は就寝の挨拶をした。
 雑草の夜露を踏みしめた。闇の中を手探りで自室に戻った。そのままベッドに倒れ込んだ。すぐには寝付かれなかった。ビールを呑みすぎたせいか、星空を見たせいか、少し気が高ぶっていた。快い疲労に体がベッドに沈み込んだ。うとうとしかけたとき、尿意にせかされてトイレに立った。
 蚊の羽音、扇風機の回る音、ベッドの軋みが気になって輾展とした。ショルダーバッグの中の耕運機のファイルが気になった。どうしても読む気にはなれなかった。B5のノートパソコンを開けて、メールを読もうかと思った。無線LANが有効なのか、LANケーブルが使えるのか確認しなければならない。とてつもなく面倒なことのように思えた。