男は名刺を受け取ってから一度立ち止まる。顎をいったん下げてから振り返る。土岐が付いてくるのを確認する。再び先に歩いて行った。
廊下の突きあたりに建付けの悪いドアがある。そこを押し開く。ドアのきしむ音の向こうにイカ墨のように真っ暗な中庭があった。パティオのような庭の中央に寂しげな、しかしよく見ると羽のある虫達が屯して飛び交う集虫灯がぽつんと立っていた。そのあたりだけ密林のように見えた。眼を凝らした。足元が覚束なかった。
男は中庭のアプローチを足早に進む。突き当りの部屋のドアのシリンダー錠に鍵を差し込んだ。男がドアを開ける。部屋の電気を灯す。
土岐は部屋の入口にたどりついた。疲れた頭には排尿のことしかなかった。
「夕食は七時でいいですか?もっと早くもできますが」
と派遣員は入口の右脇にある天井の扇風機のスイッチを入れた。
「ええ、七時で結構です。ありがとうございます」
と土岐は股間を極度に緊張させた。手短に済まなそうに答えた。
「七時に呼びに来ますから、それまでゆっくりしてください」
と派遣員は言い残す。ドアをおもむろに閉める。中庭の漆黒に消えた。
ゲストルームは、床がコンクリートであることを除けば、安ホテルの下宿に造りがよく似ていた。部屋の隅にビニールカーテンをL字に引いただけのシャワーとトイレがあった。
ショルダーバッグをベッドに投げつけた。トイレに飛び込んだ。黄ばんだ陶器製の便器に複数の罅が走っていた。放尿の最中、ジャナイデスカの底抜けの哄笑と歌唱がなんの脈絡もなく脳裏をよぎった。
シングルベッドは小さめだった。部屋の中央に据えられていた。その真上で浅黄色の扇風機がカラカラと乾いた音を立てている。気だるそうに回転していた。生温い風がふわふわと天井から降りて来た。
ドアの上の小窓を開けようとした。やめた。無数の蚊や蛾や羽蟻が硝子に蝟集している。へばりついていた。
裸になってHの蛇口を捻った。シャワーを浴びた。水量が少ない。最後までお湯は出なかった。シャワーを止める。扇風機の回転音以外には何の音も聞こえなくなった。
窓硝子は宵闇のコールタールで塗りつぶされている。中庭の集虫灯も輪郭のぼやけた丸い蛾のように見える。今朝までの首都での生活が遠い国のように思えた。
廊下の突きあたりに建付けの悪いドアがある。そこを押し開く。ドアのきしむ音の向こうにイカ墨のように真っ暗な中庭があった。パティオのような庭の中央に寂しげな、しかしよく見ると羽のある虫達が屯して飛び交う集虫灯がぽつんと立っていた。そのあたりだけ密林のように見えた。眼を凝らした。足元が覚束なかった。
男は中庭のアプローチを足早に進む。突き当りの部屋のドアのシリンダー錠に鍵を差し込んだ。男がドアを開ける。部屋の電気を灯す。
土岐は部屋の入口にたどりついた。疲れた頭には排尿のことしかなかった。
「夕食は七時でいいですか?もっと早くもできますが」
と派遣員は入口の右脇にある天井の扇風機のスイッチを入れた。
「ええ、七時で結構です。ありがとうございます」
と土岐は股間を極度に緊張させた。手短に済まなそうに答えた。
「七時に呼びに来ますから、それまでゆっくりしてください」
と派遣員は言い残す。ドアをおもむろに閉める。中庭の漆黒に消えた。
ゲストルームは、床がコンクリートであることを除けば、安ホテルの下宿に造りがよく似ていた。部屋の隅にビニールカーテンをL字に引いただけのシャワーとトイレがあった。
ショルダーバッグをベッドに投げつけた。トイレに飛び込んだ。黄ばんだ陶器製の便器に複数の罅が走っていた。放尿の最中、ジャナイデスカの底抜けの哄笑と歌唱がなんの脈絡もなく脳裏をよぎった。
シングルベッドは小さめだった。部屋の中央に据えられていた。その真上で浅黄色の扇風機がカラカラと乾いた音を立てている。気だるそうに回転していた。生温い風がふわふわと天井から降りて来た。
ドアの上の小窓を開けようとした。やめた。無数の蚊や蛾や羽蟻が硝子に蝟集している。へばりついていた。
裸になってHの蛇口を捻った。シャワーを浴びた。水量が少ない。最後までお湯は出なかった。シャワーを止める。扇風機の回転音以外には何の音も聞こえなくなった。
窓硝子は宵闇のコールタールで塗りつぶされている。中庭の集虫灯も輪郭のぼやけた丸い蛾のように見える。今朝までの首都での生活が遠い国のように思えた。


