「ところで、さっきのコックのキスケンシュノショの癖は意味もなくニヤニヤ笑うことだ。それが癖だとわかるまで何か知ってるんじゃないかと不気味に思えた。素行不良の身の上としては知られて困ることがあまりにも多いからな。それに彼は知っていても不思議ではない立場にある。それが癖だとわかってからは大分不気味さは失せたが、それでもこっちは現地語をまったく理解してないんで、掃除婦のゴンゲイガウとなにやらひそひそと立ち話しているとぞっとすることがある。それに彼は男女関係には潔癖だ。宗教の影響かも知れないが、掃除婦のゴンゲイガウとおれがじゃれあっていると鋭い目付きで睨み付けてくる。それが殺したいほどであるとしても彼がI kill youの送信者だとは思えない。パソコンの操作をしているところを一度も見たこともないし、携帯電話も持っていないからだ。しかし、家族にパソコンのできる人間がいて、メール送信を依頼したとすれば話は別だ」
 台所から食堂に戻る。長テーブルの下に掃除婦がいた。
 長谷川が土岐を紹介する。名前はゴンゲイガウ。ごみを拾っている。屈めた丸いグラマラスな体が重そうだ。伸び上がるとテーブルの上の雑巾に肉厚の手を置いた。指の根元に笑窪が見える。テーブルを拭いている。白い爪の先に力が入っていない。
「ノウランチ?」
と掃除婦はうれしそうに笑う。キスケンシュノショとのキッチンでのやりとりを聴いていたようだ。
 土岐が話しかけようとすると慌てて目線を雑巾の上に落とした。頭の上で束ねた漆黒の長い髪が右肩に流れる。食堂の高窓から差し込む陽光が彼女の髪の上を滑り落ちる。エナメルのような黒い髪が乾いた雑巾とともに左右に揺れた。なだれ落ちた髪をかき上げて暗いガラス窓を見つめている。
土岐もガラス窓の向こうの日陰を伺う。漆黒の土しか見えない。長谷川もガラス窓の表面に視点を据えている。長谷川とゴンゲイ
ガウが土岐を間に挟んで暗いガラス窓に映るお互いの視線でコンタクトを取っている。
 食堂を出るときゴンゲイガウが長谷川に熱い視線を送った。
 食堂から裏庭に出た。表通りを歩く。
 長谷川はタクシーを探している。タクシーが通りかからない。
 長谷川は国道の方に歩き始めた。土岐はその後にしたがった。
 事務所の敷地の外を十ヤードも歩くと熱気で息苦しくなった。
 摂氏三十度は超えている。