アイキルユウ

「雨が降ったらどうするんだ。濡れ鼠じゃないか」
と傍らの慶子に話しかけた。
 男に聞こえるように舌打ちをした。
「雨が降ったら座席の左に寄ればいい」
と男は平然と言う。
 長谷川が再びドアをあける。
 後部座席は黒いビニール張りで縦皺に沿った裂け目が二本、黒いビニールテープで修繕されていた。ビニールテープの端が少し捲れ上がりシートの中のスカスカのスポンジがはみだしていた。スプリングは弾力性を失い痛々しいほど疲労し切っていた。
 その様子を慶子は車外から心配そうに見ている。車のポンコツぶりを長谷川は嘆息混じりに点検している。そうしながら長谷川が何を考えているのか慶子にはわかっているようだ。
「そろそろ上りの列車がくる頃だと思うのでお見送りしなくて申し訳ありませんが、早く行かないと到着が夜遅くなるので、これで失礼します。切符はラウンド・トリップですか?」
「いいえ。あなたが付いてくるようにって言ってたから、一緒に行くつもりだったから」
と慶子は子供のようなことをいう。
「農業試験場へ?まさか」
と長谷川は深くは追求しない。車を待たせて、出札口に向かう。
 土岐は建物の角から二人を伺った。
 長谷川は切符を買い、慶子に渡している。
「ありがとう」
と慶子は手のひらのおもちゃのような切符に眼を落とす。
「いやあ、こちらこそありがとう。楽しい列車の旅でした。これからきっといいことがありますよ」
と長谷川が告げる。
 慶子は黒い大きな瞳を潤ませる。ポシェットからレースのハンカチを取り出して拭っている。
「それでは、お気を付けて。帰りの列車の中でわたしがどうなろうとも、お気になさらないでね」
と微笑みながら言う。それには、長谷川も苦笑せざるを得なかった。車に乗り込む前に、右手で彼女の帽子をとる。左手で彼女を抱き寄せる。衝動的に接吻したように見えた。そうしたかったという思いも感じられた。そうしなければならないという義務のようなものも感じられた。慶子の抵抗は微塵もなかった。強く抱きしめ返すということもなかった。穏やかな抱擁が数十秒続いた。
 先刻の少年が通りの向こうに佇んでいた。小さな手で拍手するのが聞こえた。