アイキルユウ

 白い暑気だけが陽炎のように残った。
「わたし、加藤と別れようと思うの。どう思う?」
と唐突に慶子が聞くともなく呟く。自問自答しているような抑揚だ。答えていいものか、長谷川は咄嗟に判断がつきかねている。
「話し合ったんですか?」
という言葉が無意識のように出た。
「いいえ。話すだけ無駄でしょ。離婚ともなれば彼のキャリアに傷がつくし、彼にとってわたしは、いればいいだけの存在。実家が倒産したこともあるし、一緒にいるだけでありがたいと思えというような態度。所詮、女と男は一緒に生活していてもわかり合えないものなのかも。なにか、精神的に疲れてしまって。このまま、人生が無駄に過ぎて行っていいんだろうかと不安になるの」
「どこの夫婦も似たり寄ったりじゃないんですかね。比較するのは難しいけれど」
「あなたはそうやって、いつもあたりさわりのないことばかりを、おっしゃって。それは、商社マンとして言ってるの。それとも浮気手として?」
「浮気相手というのは穏便ではないですね。過ちがあったのはたった一度で、しかもそのときは二人ともかなりの酩酊状態だった」
「おんなは一回で十分よ。頭では忘れていても膣が覚えているの。酔っていようといまいと、そんなことは関係ないわ」
「まあ、たった一度というのは、たった一度の機会しかなかったからなのかも知れないですね。旦那は海外出張のときは必ずあなたを同伴していたし、数は少ないけど、邦人の目もあるし、現地人の目もあるんで、二人だけで行動することは目立ちすぎて危険だったということもあるかも知れない」
 話題のせいか、土岐の眠気はとうに抜けていた。固い座席のせいで腰と尾てい骨が痛くなってきた。時々慶子の気配を伺いながら少し腰を浮かせる。腰を伸ばした。その折に、右隣のボックスの軍人の所作をうかがった。彼は相変わらず色どりの不鮮明な薄っぺらな雑誌を広げていた。時々、こちらに視線を流している気配を土岐は感じていた。雑誌を読み耽っているのか、眠りこけているのか判然としない。
「結婚するときは、加藤を愛していると思っていたけど、それはどうも錯覚だったみたい。わたしが愛していたのはキャリアの外務官僚という肩書きだったみたい。でも、そういうものでも愛せるものなのね。不思議ね」