「ううん、慶子って呼び捨てにして。わたし、呼び捨てにされると陵辱されたみたいで、少し興奮するの。マゾヒスティックかしら。あら、ごめんなさい。少しお下品だったわね」
と右肩を動かしている。
「くすぐったい」
と長谷川が笑う。
(長谷川の体のどこかに人差し指の先を立てて、円でも描いているのか?)
慶子の右肩が座席の背もたれに隠れる。右足の先が通路に斜めに投げ出される。
「なんか、とても幸せ。つかのまだけどほっとするような感じ。あなたは気づいていないかも知れないけれど、あなたは癒し系なのよ。しばらく逢わないで、逢いたくなる人はみんな癒し系だし、逢うことに抵抗がないのも癒し系なのよ」
と慶子が席を立った。通路を進行方向に歩いてゆく。
土岐は慶子が車両から消えたのを確認する。声だけで長谷川に話しかけた。
「彼女、トイレか?」
「たぶんな」
それからしばらく沈黙が続いた。
「さきのメールはジャナイデスカ夫人からだ。返信メールを打たなきゃならんという強迫観念に囚われてる。でもヘンサチ夫人が興味深げに覗き込んできそうでメールを返信できそうにない。交替でトイレに行って独りになったらすぐ返信することにした。だからというわけではないが、この国に来てから知らず識らずのうちに何でも先送りする習慣が身についてきた。今日できる仕事は明日にする。明日できる仕事は明後日にする。明後日できる仕事は明々後日にする。明日できない仕事だけを今日やるというのが習い性になった。形状を記憶できないバネが延び切って、だらしなく弛緩した状態だ」
慶子が戻って来た。長谷川が話し終えた瞬間のタイミングだ。
交替で長谷川が席を立った。
それからしばらくして列車は鄙びた駅に停車した。
昼近くになっていた。
停車した駅で包装のない剥きだしの菓子パンを売っていた。
土岐は少し空腹を覚えていた。
銀色にピカピカ光る蠅が二、三十匹ほどたかっていた、買う気にはなれなかった。そのうちの一匹が通路に伸びた慶子の右腕に着地した。慶子はゆっくりと左手の指先で払った。
隣のボックスの軍人が駅の売り子からパンを二つ買って食べていた。パンを裂いても香ばしい匂いがして来なかった。食べ終わる。ローカル・マガジンの上にこぼれたパン屑をいとおしむように指先で摘まんで口に運んでいた。
と右肩を動かしている。
「くすぐったい」
と長谷川が笑う。
(長谷川の体のどこかに人差し指の先を立てて、円でも描いているのか?)
慶子の右肩が座席の背もたれに隠れる。右足の先が通路に斜めに投げ出される。
「なんか、とても幸せ。つかのまだけどほっとするような感じ。あなたは気づいていないかも知れないけれど、あなたは癒し系なのよ。しばらく逢わないで、逢いたくなる人はみんな癒し系だし、逢うことに抵抗がないのも癒し系なのよ」
と慶子が席を立った。通路を進行方向に歩いてゆく。
土岐は慶子が車両から消えたのを確認する。声だけで長谷川に話しかけた。
「彼女、トイレか?」
「たぶんな」
それからしばらく沈黙が続いた。
「さきのメールはジャナイデスカ夫人からだ。返信メールを打たなきゃならんという強迫観念に囚われてる。でもヘンサチ夫人が興味深げに覗き込んできそうでメールを返信できそうにない。交替でトイレに行って独りになったらすぐ返信することにした。だからというわけではないが、この国に来てから知らず識らずのうちに何でも先送りする習慣が身についてきた。今日できる仕事は明日にする。明日できる仕事は明後日にする。明後日できる仕事は明々後日にする。明日できない仕事だけを今日やるというのが習い性になった。形状を記憶できないバネが延び切って、だらしなく弛緩した状態だ」
慶子が戻って来た。長谷川が話し終えた瞬間のタイミングだ。
交替で長谷川が席を立った。
それからしばらくして列車は鄙びた駅に停車した。
昼近くになっていた。
停車した駅で包装のない剥きだしの菓子パンを売っていた。
土岐は少し空腹を覚えていた。
銀色にピカピカ光る蠅が二、三十匹ほどたかっていた、買う気にはなれなかった。そのうちの一匹が通路に伸びた慶子の右腕に着地した。慶子はゆっくりと左手の指先で払った。
隣のボックスの軍人が駅の売り子からパンを二つ買って食べていた。パンを裂いても香ばしい匂いがして来なかった。食べ終わる。ローカル・マガジンの上にこぼれたパン屑をいとおしむように指先で摘まんで口に運んでいた。


