メールの処理を終えた長谷川が我慢しきれなくなった。プリントアウトしたメールの束を川野の机の上にドサッと置いた。それから慌てて軽く会釈する。飛び上がるようにして土岐について来るようにと指先で合図する。
 二人が退室しようとする背後から川野の声が追い駆けて来た。
「加藤さんによろしく。近いうちに、また呑もうと伝えてくれ」
と嗄れた声が土岐の背中に粘菌のようにへばりついた。得体の知れない苛立ちに、土岐は思わず円筒形の真鍮のドアノブに掛けた手を強く握り締めた。
 長谷川は土岐の背中を押す。上体を弓なりに反らした。川野と目線があわない程度に少し振り返った。
「はい、そうお伝えしておきます」
と感情を押し殺して小声で答えた。川野に聞こえたかどうかわからない。
 土岐はドアを閉める間際に部屋の奥に眼をやった。
 川野はeメールのプリントアウトに見入っていた。右耳の上にパイプの紫煙が揺らめいていた。その奥の窓際でショスタロカヤがコピーを取っていた。複合複写機のドラムの回転音とエアコンのモーターの唸り声が事務所内に静かに響いていた。
 外に出た。昼近くの高温多湿のむっとする外気が土岐に朝方の眠気を呼び覚ました。腕時計を見た。十一時十分過ぎ。
 長谷川が遠方の国道を走る車を見ながら、
「三輪キャブでホンコンまでは十分程度だ。ヘンサチは待ち合わせには必ず遅れてくる。このまま行くと少し早い」
と舌打ちをした。
「コックに昼食不要を伝えなければならないことを思いだした」
と言いながら事務所の裏手に回る。土岐は黙ってついて行った。
 長谷川は事務所のドアの脇の芝生の庭を右手に迂回して勝手口に入った。
 空気が少しひんやりとする。
 食堂を抜けた薄暗い台所でコックが項垂れた鶏の羽根を毟っていた。コンクリートの土間に座り込んであぐらをかいている。鼻歌を歌っている。長谷川が背後に立つと気恥ずかしそうに歌うのをやめた。不揃いな真黄色の前歯を剥きだしにして不愉快そうに笑う。なんとなく薄気味の悪さを感じる。言葉の障壁で、腹のうちが分らない。胸に一物ありそうな表情が気になる。
 長谷川がそのコックに土岐を紹介した。休めていた手を甲斐甲斐しく再び動かし始めた。
「これから外食するので、きょうのランチは、いらないから」