法蔵飛魂

 土岐は薄ら寒い戸口で、四、五分待たされた。耳の奥が痛くなるような静寂が漂っていた。社務所の隣には手洗い所があり、アンモニア臭が土岐の鼻腔を刺した。社務所との間には樹齢百年は超えていそうな椋の木があり、鳥居の反対側の大楠と対になっていた。その大楠の隣には手水舎がぼんやりと見えた。
 しばらくして黄昏の社務所の奥から宮司が目じりを下げて、にこやかに出てきた。
「敦賀のお寺じゃないかと言ってました。祖父が係累だった法蔵寺じゃないかと」
 法蔵寺と聞いて、薄暗闇の中で眼の焦点が合って来た。簡単な礼を述べて、帰りしなに七段の石段を上り、拝殿に向かって手を合わせた。拝殿の奥に、入母屋造りの本殿の藁葺きの屋根の一部が、黒い塊となってかろうじて見えた。
 
相馬御風(十月四日 月曜日)

 翌朝、土岐は干物と海苔と卵とたくあんの朝食後に、番茶をすすりながら前日の日誌をつけた。午前十一時半の特急〈はくたか〉で富山まで行き、富山で三十分余りの待ち合わせで、特急〈しらさぎ〉に乗り継いで、敦賀まで行くことにした。
 時間が余っていたので糸魚川駅前の観光案内看板を見て、とぼしい観光資源の中から駅に近い一の宮にある〈相馬御風記念館〉で時間をつぶすことにした。駅を背になだらかな坂を上って行くと左手に糸魚川市役所があり、その奥に歴史民俗資料館があり、その二階に、〈相馬御風記念館〉があった。表の固定看板に月曜日休館とあったが、その日は別の日の振り替えでたまたま開いていた。
 時間をつぶしながら土岐は自分の無知を知らされた。早稲田大学校歌『都の西北』や日本初の流行歌『カチューシャの唄』や童謡『春よこい』の作詞者が相馬御風であることを初めて知った。土岐自身、『都の西北』は早慶戦でも同級生の結婚式でもコンパでも、何回となく歌っている。
 さらに、戦前の新潟県を中心とした二百校あまりの小中高等学校の校歌を作詞していることに仰天した。作詞した校歌の校名一覧には圧倒された。そればかりではない。七十を超える流行歌や百を超える童謡や四十あまりの社歌・団歌など、おびただしい数にのぼる。土岐が生まれるはるか前、昭和二十五年に亡くなっていることを知って、土岐は自らの無知を慰めた。