なだらかな坂の右手の行きつけの飲み屋のあるペンシルビルに入ると、エレベーターのボタンを押した。隣に、学生風の茶の長袖Tシャツに赤いチョッキを羽織った男がいた。二人並ぶとエレベーターの入り口はいっぱいになる。六人乗りのエレベーターの扉が開いて二人が乗り込み、土岐がビルの入り口を振り返ると、尾行の男が入り口の前をこちらに流し目を送りながらゆっくりと通り過ぎていった。
 学生風の男は、五階のボタンを押した。土岐は二階のボタンを押した。二階に止まると、土岐はエレベーターを降り、降り際に閉のボタンを押した。すぐ、非常階段脇のトイレに入った。大便用の個室に入ると鍵を掛け、便座の上に足をかけて、小さな窓を押し開けた。窓の扉は隣のビルの壁に当たって、それ以上開かない。
 土岐は、その窓の僅かな隙間から、通りの方に眼を凝らした。十センチほどの隙間から道玄坂の通りを見やると、若い男女がひっきりなしに通り過ぎる。誰もビルの隙間の二階のトイレの窓から土岐が眼を凝らしていることに気づかない。ビルの谷間に眼を向ける者は一人もいなかった。
 土岐は顔を固定したまま、濃いブルーのジャケットを脱いで裏返した。裏はリバーシブルの明るいグリーンのジャケットになっている。ジャケットに腕を通しながら四、五分の間、ビルの間隙を流れる人ごみを注視していると、尾行してきた男の横顔が渋谷駅方向に通り過ぎたように見えた。
 土岐は便座から降りると、トイレを出て、非常階段から一階に駆け下り、男を追った。小走りに人ごみを掻き分けて進むと、二、三十メートル先に薄い猫毛が頭頂で微風にそよいでいるのが見えた。尾行していた男に間違いなかった。
 土岐はポケットから度のはいっていないロイド眼鏡を取り出してかけた。歩きながら綺麗に七三にセットしてある頭髪をばらして、額に垂らし、洗いざらしのようなヘアスタイルにした。
 男は渋谷駅のコーンコースに入ると、JRの改札に吸い込まれた。土岐が小走りに追いかけると、男は山の手線内回りの階段を上って行くところだった。
 土岐は二、三十メートルの距離をとって尾行した。階段を上り始めると電車が入線してきた。土岐は残りの階段を一段おきに駆け上がった。ホームに辿り着いて左右を見渡すと、階段の上り口から一両先の車両に男が乗り込んでいた。