老婆は、ぼけているようには見えなかった。土岐は黒いショルダーバッグから廣川弘毅のパスポートを取りだした。
「この写真は、五十代のものですが、清和家の書生のときは二十歳前ですけど」
老婆は茶箪笥の引き出しから、底の厚い老眼鏡を取り出した。パスポートを両掌で押し頂くように受け取った。顔中の皺を深く刻んでパスポートの写真に見入った。
「・・・うーん。・・・松村はんの面影があるような気ぃが・・・」
「その松村さんというのは、戦後どうなりました?」
「・・・とっても良く奉公してくれはったので、ご当主はんが、親切心から、『いまは就職難だから、就職の世話をしてやろう』ゆうのを振り切って、出て行かはれました。よく奉公してくれはったゆうのは、たぶん戦時中、幾度も東京にご当主はんの御使いでゆかれたことなのだろう思います。・・・その後、京都駅で一度だけ見かけたことがおました。『松村はん、松村はん』って、何度も呼びかけても振り返らはらないので、追いかけて行って、国民服の袖を引っ張ったら、ニヤニヤ笑って、『いま、担ぎ屋している』ゆわはって、『これから夜行で東京や』ゆうてました。それ以来、一度もおうとりまへん」
「東京のどちらへ行かれたんですか?久邇家ではないですか?」
「どうでっしゃろ。久邇家はんとはとても懇ろやったので。電話はようしてはりましたが」
土岐の憶測がヒットした。清和家が東京で昵懇にしていたのは久邇家だった。茶の間はいつの間にか黄昏に染まっていた。老婆が空になった湯のみを持って膝を立てた時、土岐は立ち上がった。玄関の板の間が激しく軋んだ。その土岐の足を老婆が引きとめた。
「・・・そうゆえば一度だけ、お屋敷の廊下を歩いていたときに、立ち聞きしたんどすが、ご当主はんが東京へ出かけようとしている松村はんに、『久邇さんによろしゅう』ゆわはってたのを思い出しました。・・・そんとき、たしか、三田はんもご一緒だったような・・・」
「三田さん?どうゆう人ですか?」
「・・・松村はんの御友達のようなお人で、ほんま眉目秀麗な賢そうな顔した人どした。別嬪の御嬢はんの家庭教師やらはっていて・・・でも、戦後になって、『特攻でなくならはった』って、さっきの京都駅で、松村はんに聞きました」
「この写真は、五十代のものですが、清和家の書生のときは二十歳前ですけど」
老婆は茶箪笥の引き出しから、底の厚い老眼鏡を取り出した。パスポートを両掌で押し頂くように受け取った。顔中の皺を深く刻んでパスポートの写真に見入った。
「・・・うーん。・・・松村はんの面影があるような気ぃが・・・」
「その松村さんというのは、戦後どうなりました?」
「・・・とっても良く奉公してくれはったので、ご当主はんが、親切心から、『いまは就職難だから、就職の世話をしてやろう』ゆうのを振り切って、出て行かはれました。よく奉公してくれはったゆうのは、たぶん戦時中、幾度も東京にご当主はんの御使いでゆかれたことなのだろう思います。・・・その後、京都駅で一度だけ見かけたことがおました。『松村はん、松村はん』って、何度も呼びかけても振り返らはらないので、追いかけて行って、国民服の袖を引っ張ったら、ニヤニヤ笑って、『いま、担ぎ屋している』ゆわはって、『これから夜行で東京や』ゆうてました。それ以来、一度もおうとりまへん」
「東京のどちらへ行かれたんですか?久邇家ではないですか?」
「どうでっしゃろ。久邇家はんとはとても懇ろやったので。電話はようしてはりましたが」
土岐の憶測がヒットした。清和家が東京で昵懇にしていたのは久邇家だった。茶の間はいつの間にか黄昏に染まっていた。老婆が空になった湯のみを持って膝を立てた時、土岐は立ち上がった。玄関の板の間が激しく軋んだ。その土岐の足を老婆が引きとめた。
「・・・そうゆえば一度だけ、お屋敷の廊下を歩いていたときに、立ち聞きしたんどすが、ご当主はんが東京へ出かけようとしている松村はんに、『久邇さんによろしゅう』ゆわはってたのを思い出しました。・・・そんとき、たしか、三田はんもご一緒だったような・・・」
「三田さん?どうゆう人ですか?」
「・・・松村はんの御友達のようなお人で、ほんま眉目秀麗な賢そうな顔した人どした。別嬪の御嬢はんの家庭教師やらはっていて・・・でも、戦後になって、『特攻でなくならはった』って、さっきの京都駅で、松村はんに聞きました」


