父の死後、家計は長兄の肩に依存することになった。最大の働き手を失い、父が手がけていた家畜牛のせりの仲買からの現金収入がなくなり、家計は苦しくなった。
長女の姉は、西頚城郡糸魚川町糸魚川尋常高等小学校を終えると担任が勧めたのにもかかわらず、高等科に進まず、毎朝、酒屋で一升瓶を仕入れ、港の魚市場で、あらくれの漁師相手に酒の茶碗売りを始めた。
次男と三男の兄達も尋常科を終えると家業を手伝うようになったが、田畑も狭く、漁船も手漕ぎの小さな船だったので、生活は一向に楽にならなかった。
折から、昭和恐慌が農村や漁村にも広がり、冷害に見舞われたこともあって、家族は生きてゆくのがやっとだった。
そういう家計状況ということもあって昭夫はよく母の手伝いをした。学校を終えると級友たちに「遊ぼう」と誘われても断り、裏山の猫の額ほどの田畑に母の姿を探し、野良仕事を手伝った。とにかく母を少しでも楽にさせてあげることが昭夫の喜びだった。
新潟県西頚城郡糸魚川町糸魚川尋常高等小学校を卒業しようとしていた昭和十三年の暮れ、近所に住む天津神社の宮司から知り合いの敦賀の寺で小僧を探しているという話が持ち込まれた。父の死後、その宮司は何かと世話を焼いてくれてはいた。
昭夫は宮司の紹介で敦賀の浄土宗の古刹の小僧となることになった。六年生の三学期の始業式に間に合うように敦賀に向けて北陸本線に乗り込んだ。
敦賀の蔵妙寺では先輩の小僧、一歳年上の網田雄蔵と同じ部屋で寝ることになった。四月から福井県立敦賀商業学校に進み、学年で一番になって糸魚川に里帰りすることだけを夢見る生活が始まった。
寺には二歳年上の住職の長男の長蔵、一歳年下の次男の次蔵、二歳年下の長女の恵美、和尚と大黒さんがいた。
着いた日の翌日から早朝の炊事と洗濯と掃除、朝の勤行、夕刻の勤行、夕食後の風呂焚き、夜中の浄土三部経の写経という生活が始まった。
中学校に進学して、網田雄蔵と同じ校舎に通うようになると、雄蔵が開学以来の秀才であることを知るようになる。
お寺の生活は過酷をきわめた。慢性的な寝不足で、登校中に歩きながら眠りこけ田んぼに転落することもあった。
長女の姉は、西頚城郡糸魚川町糸魚川尋常高等小学校を終えると担任が勧めたのにもかかわらず、高等科に進まず、毎朝、酒屋で一升瓶を仕入れ、港の魚市場で、あらくれの漁師相手に酒の茶碗売りを始めた。
次男と三男の兄達も尋常科を終えると家業を手伝うようになったが、田畑も狭く、漁船も手漕ぎの小さな船だったので、生活は一向に楽にならなかった。
折から、昭和恐慌が農村や漁村にも広がり、冷害に見舞われたこともあって、家族は生きてゆくのがやっとだった。
そういう家計状況ということもあって昭夫はよく母の手伝いをした。学校を終えると級友たちに「遊ぼう」と誘われても断り、裏山の猫の額ほどの田畑に母の姿を探し、野良仕事を手伝った。とにかく母を少しでも楽にさせてあげることが昭夫の喜びだった。
新潟県西頚城郡糸魚川町糸魚川尋常高等小学校を卒業しようとしていた昭和十三年の暮れ、近所に住む天津神社の宮司から知り合いの敦賀の寺で小僧を探しているという話が持ち込まれた。父の死後、その宮司は何かと世話を焼いてくれてはいた。
昭夫は宮司の紹介で敦賀の浄土宗の古刹の小僧となることになった。六年生の三学期の始業式に間に合うように敦賀に向けて北陸本線に乗り込んだ。
敦賀の蔵妙寺では先輩の小僧、一歳年上の網田雄蔵と同じ部屋で寝ることになった。四月から福井県立敦賀商業学校に進み、学年で一番になって糸魚川に里帰りすることだけを夢見る生活が始まった。
寺には二歳年上の住職の長男の長蔵、一歳年下の次男の次蔵、二歳年下の長女の恵美、和尚と大黒さんがいた。
着いた日の翌日から早朝の炊事と洗濯と掃除、朝の勤行、夕刻の勤行、夕食後の風呂焚き、夜中の浄土三部経の写経という生活が始まった。
中学校に進学して、網田雄蔵と同じ校舎に通うようになると、雄蔵が開学以来の秀才であることを知るようになる。
お寺の生活は過酷をきわめた。慢性的な寝不足で、登校中に歩きながら眠りこけ田んぼに転落することもあった。


